
MOMENT Contemporary Art Center
2025年12月12日、メディアアーティストの落合陽一と、世界の万博跡地の撮影を行っている、カナダ出身の写真家、エヴ・カデューの展覧会「J’AI VU LE FUTUR / 私は未来を見た」に合わせて、MOMENT Contemporary Art Centerでトークイベントを開催した。
その際に交わした落合との対話をもとに、落合がプロデューサーとなった大阪・関西万博のシグネチャー・パビリオン《null²》について、さらに考察を深めたい。落合は2020年のプロデューサー就任以来、大阪・関西万博に多くの労力を割いてきた。その経緯は、落合のSNSやnoteに詳細に発信されているが、今年38歳となる落合が、自身が30代の多くの時間をつぎ込んだと語るように、30代という重要なキャリアを万博に賭けたといってもよいだろう。
さて、落合が提唱する「デジタルネイチャー」には大きく3つの側面があると考えている。一つ目は、未来学者、レイ・カールツワイルが提唱する「シンギュラリティ(技術的特異点)」のように未来予測の側面。二つ目は、未来予測の中で、より健全で豊かな社会を目指す思想的側面。三つ目は、その社会に向けて実践する側面である。実践というのは、研究者としての実践もあるし、アーティストとしての実践もある。落合自身は、研究者としては過去から未来を見つめ、アーティストとしては未来から過去を見つめていると述べていた。
落合は自身のことをどこかで「スクリーン屋」と言っていたが、基本的にコンピュータにおける入出力デバイスの研究者といってよいだろう。音や光の「波動制御」をコア技術に、多くの技術開発を行っている。ただし、基礎研究の場合は、応用技術として特定の目的のために使用できるわけではない。そもそも基礎研究は、すぐに役に立つということではなく、様々な不特定多数の応用分野の可能性を秘めているということに価値がある。逆に応用研究は、現実社会の中での特定の分野でどのように役に立つか研究するもので価値の方向性が真逆であると言ってよい。落合がアートとして表現しているのは、具体的な応用分野というわけではなく、基礎研究の中で得た技術を、一つの応用可能性、サンプルとして表現しているといえるだろう。間違えてはならないのは、それは将来的に多くの応用の可能性の一つに過ぎないということだ。
しかしそれで一度、社会に見せ、可能性を拓くためには、あるアイディアや美学をもとにしたアートとして出力した方が伝わりやすいということだろう。言わばある種の「デモ」なのだが、それを限定的な会期とはいえ、見るに耐えうる状態に持っていくのは難しい。それは単なるデモではない。「デジタルネイチャー」に向かう社会の一端を示し、同時に、より豊かな「デジタルネイチャー」の生態系の一部になる技術でなくてはならない。落合は、そのように未来予測、思想的探究、技術開発のすべてを実践し、さらにそれをアートして表現するという、非常に複雑で高度なことをやっていることになる。
「デジタルネイチャー」とは、コンピュータ(計算機)の増加によって生まれる現象全体のことを言う。もともと大学院時代に「コンピューティショナル・フィールド」をテーマに研究し、それが取り巻く環境全体に拡張された状態として、コンピューティショナル・ネイチャーを言い換えた「デジタルネイチャー」と命名された。
その前段階として、アメリカの数学者であり哲学者・工学者でもあった ノーバート・ウィーナー が提唱したサイバネティクス、ゼロックスPARC(Palo Alto Research Center)のコンピュータ科学者・研究ディレクター のマーク・ワイザー が提唱したユビキタス・コンピューティング、マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボ教授であり、ヒューマン・コンピュータ・インタラクション(HCI)研究の第一人者 石井裕 が1997年に提唱したタンジブル・ビット、イギリス出身のテクノロジー起業家であり、当時P&Gに在籍していた技術者・マーケターの ケビン・アシュトン が1999年に提唱したIoT(Internet of Things)、さらにアメリカの多国籍IT企業、IBM の研究部門が2001年に提唱したオートノミック・コンピューティングなどがある。
落合の言うように、すでに生命体よりもコンピュータの質量の方が重い状況が現実のものとなっている。それらはインターネットを介してつながり、現実の情報を即時的に取り込んで、大量にそして高速に計算してその結果を出力する。そこで現れる現象は、すでにどこまで自然のものか、コンピュータによる自然かわからない。それらは無限のフィードバックにより融合して現実のものとして現れるからだ。
そのような「デジタルネイチャー」はすでに部分的に現れているが、計算速度が上がり、現象が「自然」に感じられるほど、デジタルや人工を意識することはない。実現すればするほど違和感がなくて気付かない世界なのだ。落合は、著書『デジタルネイチャー』[1]のまえがきで、車の運転のナビゲーションを比喩にしていたが、すでに1960年代の車と現在の車では、操作と出力の因果関係がわからない。まさに落合のいう「魔法」の領域が各段に増えているのだ。しかし多くのセンサーとGPSを駆使したナビゲーションなどよって、破綻なく運転することが可能になっている。
この「デジタルネイチャー」の世界観を、高密度に圧縮し、万博会場に実現したのが《null²》だったといえる。落合は「デジタルネイチャー」の世界観を、『華厳経』の世界観や荘子の「胡蝶の夢」などに例えている。《null²》という言葉も、プログラミング言語でnull(実体がない)という言葉を乗じたものだ。それは『般若心経』の一節、「色即是空・空即是色」にも由来している。高度な情報技術的世界のイメージを、東洋思想を比喩に語っており、両方とも知識がない人々が多いので、さらに難解なものとなる。

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驚くべきことは、難解な世界を最大規模の国際イベントである万博会場で提示し、もっとも人気を得たパビリオンになったことである。落合は、万博会場でしか体験できない展示となると、必然的にイマーシブルなものになる。その中でも、意味はわからずとも、体験によって感動ができる形式として、上下の面をLEDで挟み光量を最大限にして、ハーフミラールームで囲む案を考えたという。それは以前、日下部民藝館で発表した作品をモデルとしていた。それは天井と床に両界曼荼羅を展示し、ハーフミラー越しに見る作品《帰納曼荼羅考》(2023)[2]だった。
ただし、予算がなく大きなサイズの部屋をつくれなかったため、当初は誰か一人が代表して体験し、それをハーフミラー越しに観客が舞台のように見えるという方法であったという。しかし、実際の空間を見たとき、ある程度中にも入れるということがわかった。そこでダイアローグモードでは、最初に内部に入り、その後、ハーフミラールームの外側から、遅延した自分たちの姿を見るような演出になったという。内部と外側を遅延して見るという動線は、当初意図してなかったことかもしれないが、まさに輪廻のチェーンから解脱するような体験となった。
通常、金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅で対となる両界曼荼羅は、左右に並べて展示される。そして中央に本尊である大日如来を祀るという形式になる。あるいは、羯磨曼荼羅、立体曼荼羅と言われる形式では、東寺のように仏像を曼荼羅の配置に沿って置くケースもある。ただし、『大日経』に基づく胎蔵曼荼羅(7世紀頃)と、『金剛頂経』に基づく金剛界曼荼羅(7世紀末〜8世紀初頭)は、もともと別系統であった。それを、「金胎不二」として統合したのが空海の師にあたる恵果である。空海はそれを理論化した。
金剛界曼荼羅は、大日如来の「智恵(知)」の側面、悟りを開くための実践的な方法を図解したものであり、胎蔵曼荼羅は、大日如来の「慈悲(理)」の側面、悟りの真理そのもの世界を図解したもの言われている。これらが対となったのは、おそらく中国に伝播して、道教思想と結びついたこともあるだろう。つまり陰と陽の合体である。そもそも、胎蔵とは「胎児を宿す母の胎内(子宮)」を意味する「胎蔵」(たいぞう、サンスクリット語のガルバ)に由来する。逆に、「金剛(こんごう)」とは、「ヴァジラ (Vajra)」の訳であり、ダイヤモンド(金剛石)や、インド神話における雷神インドラが持つ雷、金剛杵などに由来する。つまり、大日如来の智恵は、何物にも壊されないほどに堅固 (ダイヤモンド)で、そして、その智恵が、すべての煩悩を 打ち砕く力を持っていることを表している。言わば男性原理と女性原理が対となっている状態である。
中央の大日如来を中心に、如来部、菩薩部、明王部、天部と階層的になっており、インド社会を投影した階層的ものと、中国社会を投影した相対的なものが、統合されているといってもいいかもしれない。さらに、「身・口・意」の三密によって、生きたまま成仏できるという「即身成仏」の理論は空海が発展させた。つまり、神道などに息づく日本社会の現世肯定の思想が投影されたものといってよいだろう。そもそも仏教はそのはじまりにおいて、現世否定の宗教なので、日本で大転換が図られたといってもよい。
岡本太郎も、《太陽の塔》を含むテーマ館は、マンダラであると述べている。岡本は、日本の仏教美術には概ね否定的な見解だったが、密教だけは評価している。だから、東寺や神護寺、高野山をおもむき、自分なりに曼荼羅を解釈し、《太陽の塔》を制作している。テーマ館では、空中展示が未来、地上展示が現在、地下展示が過去に当てはめられていた。岡本は「祭神である《太陽の塔》を核として、過去・現在・未来の3つの層が重なり合って構成する空間であり、それぞれ完結しながら、渾然として一体となす、閉ざされると同時に開かれている、3つの時間と空間は互いに響き合い、一つの内に他の二者を踏まえた宇宙の環、瞬間瞬間に輪廻している、マンダラである」と解説している[3]。
伝統的な曼荼羅に沿って解説すると、過去・現在・未来によって階層性を入れ、金剛界曼荼羅を表す彫刻としての「太陽の塔」、胎蔵曼荼羅を表す内部にある原生生物からクロマニョン人に至る「生命の樹」によって内外が金胎、陰陽、となっているということになる。そして、岡本は「万国博は世界の祭りである。世界のあらゆる地域から人々が集まり、この広場で、生身でぶつかりあい、互いの文化、生き方の独自性と根源的な共通性を確かめ合う。そして<人間であること><生きていること>の意味を誇らかにつかみとるのだ。祭りは生きがいだ。社会の進歩とともに、そのあまりに機械的なシステムな中で、とかく空しくなって行き人間が未来の存在の幅をとりもどし、全体的にひらききるチャンスなのだ。」[4]と述べている。これはまさに即身成仏的な現世肯定の思想だろう。筆者は、「太陽の塔」は実際に空間を周遊できることからも、羯磨曼荼羅、立体曼荼羅に一次元加えた、四次元曼荼羅であると指摘している[5]。
落合の《null²》の場合はどうだろうか?岡本の場合は、両界曼荼羅を《太陽の塔》の内外で表した。落合の場合は、上下の面で両界曼荼羅を表し、階層性は壁面のミラールームによる無限反復によって表したといってよいだろう。つまり遠くなればなるほど小さくなればなるほど下の階層になる。そして上下のLEDディスプレイで上映される人工生命(Artificial Life, ALife)などの映像によって、これもまた別のアプローチによる四次元曼荼羅となっている。一番大きな図像は、ミラールームにいる自分なわけだから、まさに一番頂点であり、大日如来と一体の位置にあることになる。
異なるのは、1970年当時、岡本が懸念していたように、科学技術の進歩の中でがんじがらめになった人間性や全体性を取り戻す機会になっているかどうか、という点だろう。むしろその状況は加速し、コンピュータによって現実のすべてが覆われるようになっている。もはやそれは避けることができないが、より豊かに、人間的にすることは可能である。落合の試みは、原始的な生物としての人間と、人工的な機械という対立ではなく、むしろそれらの区分けがなくなった世界における人間の在り方を問うているといってよい。
落合の世界観では、生きている情報がすべて即時的にコンピュータに取り込まれ、フィードバックされると同時に、蓄積され、デジタルネイチャーの中に偏在することになる。つまり、SNSでの情報発信、メール通信、電話、写真、映像、移動記録、AIとの対話記録などのすべての情報がデータに転移し、死んだ後もある意味で生き続けることになる。ある意味で輪廻のチェーンから解脱するわけではなく、究極の「永劫回帰」と言ってもいいかもしれない。もちろんそこには、一部のプラットフォーマーやグローバル企業、あるいは専制国家によるデータ管理という暗部もあるだろう。
そしてAI(人工知能)の急速な発展である。2010年代のディープラーニング(深層学習)やChatGPTに代表される対話ロボットの発展によって、その能力は加速度的に進化している。2045年に人間の知能を凌駕すると言われたAIも、現時点でもIQ140程度あると言われ、たいていの人間よりも能力が高い。となると考えることの価値は、相対的に低くなる。落合は《null²》のナレーションの中で、人間はかつて森から出てきて、少しの間だけかしこかった生物と規定しているが、まさに人間の知能的優位性は、宇宙の歴史の中でみたら一瞬ということになるかもしれない。
さらに、「記号」を手放すというナレーションがなされる。ここで言う記号とは、言語と言ってもいいのかもしれないが、将来的にはシニフィアン(意味するもの・文字など)・シニフィエ(意味されるもの・内容)といった記号を介したコミュニケーションではなく、記号を介さず、そのままの状況を記述せずに伝達可能になるという世界観である。例えば、自分が体験した出来事を相手に伝えるのに、出来事のデータをそのまま伝送することが可能になる。現在でもSNSでポストをシェアすることはそれに近いともいえるが、経験の塊をそのまま受け渡すことは容易になるだろう。その場合、仲介していた記号は不要だ。
もちろん記号や言語がなくなることはないだろう。しかし、現在でも自然言語に対してコンピュータと対話する言語であるプログラミング言語が不要になってきているし、異なる言語の翻訳もリアルタイムに処理できるようになってきている。そもそも状況の伝達となったとき、言語を介さない方が正確に伝わる場合もある。つまり、《null²》は、知能や肉体、言語といった人間に不可欠とされていたものが不要になる世界が訪れる状況をシミュレートした空間といってよいだろう。
そのことを、落合は「色即是空・空即是色」や「華厳経」でいう「四法界(しほっかい)」の無礙法界(じじむげほっかい)に例えて説明する。事法界(じほっかい)とは、個々の現象(実)や具体的な事実、差別の相の世界である。理法界(りほっかい)は、普遍的な真理(理)、本質の世界である。理事無礙法界(りじむげほっかい)とは、普遍的な真理(理)と個々の現象(事)が、完全に一体となって存在し、互いに妨げ合うことがない世界である。そして、最後の段階として、事事無礙法界がある。事事無礙法界は、すべての個々の現象(事)が、他のすべての現象(事)が完全に融け合い、相互に浸透し合い、一つの全体を構成している世界のことである。またそこにおいて個別の事と理も不可分である。

落合陽一 シグネチャー・パビリオン《null²》内部
つまり、《null²》のミラールーム内で起きている現象(事)は、コンピュータが生成した情報と、私たちの情報を取り込んだ情報が互いにフィードバックされることで溶け合っていて、相互に浸透して、一つの全体を構成している。それは刻刻に変遷し、過去も未来もなく、今しかない。鑑賞者個人個人にとっては、今生きている生だけが、それらの世界を統合しているのである。それは即身成仏的といえるかもしれない。しかし、ミラールームが壊れれば、あるいはLEDディスプレイが壊れれば、それらの像は実体のないものであるということはわかる。また、落合は『荘子』の「斉物論」に収められている「胡蝶の夢」にも例えているが、ミラールーム内では自分が見た夢(現象)か、胡蝶(デジタル)が見た夢(現象)か判別がつかなくなる。
しかし、「デジタルネイチャー」という未来社会のコンセプトモデルとしての《null²》には、少なからず日本に住んでいる落合の自然観が投影されているはずである。落合は「デジタルネイチャー」は、道具をすぐに取り出せるリッチな自然のようなものである、と述べていたが、日本の場合はたしかにリッチな自然を容易に想像できる。ただ、それが僻地であったり砂漠地帯に生活していたりしたら、「自然」の想像は全く違ったものになるだろう。
あるいは、キリスト教文化圏では、「Nature」は、「人為(art / Kunst)」と明確に対立し、峻別され、人間によって手が加えられていない、未開の、野生の領域を指してきた。自然は対立し、人間に管理されるものであった。また、森は狼や盗賊がいる危険なところとされ、中心に教会を立て、周辺に城壁を囲って、自然と区別し、防衛してきた歴史がある。緑色が『シュレック』のように、モンスターの色として現在でも使用されるのは、緑が森を連想し、不気味であるからでもある。『赤ずきん』にせよ、『ヘンデルとグレーテル』にせよ、『ハリー・ポッター』にせよ、森がいかに不気味で危険か童話の中に色濃く残っていることからもわかるだろう。
現在、熊が出没するようになって、日本でも森が危険であるという認識が広まってきているが、それ以上に、森は豊かな恵みをもたらしたり、山岳信仰が盛んで、神仏のいる場所であったりする日本の自然観とは根本的に違うといってよいだろう。その意味では、落合の概念は日本語で言っているように「計算機自然」の方が正しく表しているのかもしれない。もしかして一番近いモデルは、里山になるのかもしれない。つまり自然と人間が共存する形で維持されている場所であり、そこでは人工と自然は溶け合っていて判別がつかない。「計算機自然」の先行モデルとして、「里山」を考えてみるということは無駄ではないだろう。
また、物質、質感ということの感性も日本と西洋を含めた別の文化圏では異なる。例えば、西洋は立体的で、東洋は平面的と言われる描写の方法も、自然環境、特に気候と大きく関係している。立体的な遠近法が確立された地中海性気候のイタリアでは、夏に乾燥し、強い日差しが降り注ぐため、陰影がクリアになり、現実の見え方も立体的になる。一方、東洋のモンスーン気候では、湿度が高く、太陽光が散乱するため、光が回り込み陰影がクリアにならずに平面的な見え方になる。つまり、絵画の描法は優劣ではなく、それらの照明光の環境によって視覚脳が形成され、反映されたと考えられている[6]。
特に日本の場合は、海に囲まれているため多雨、多湿であり、モノの質感、素材感は把握しにくいことが多い。それは逆説的に、質感を重視する感性が育んだともいえるのではないか。例えば、色覚は質感認知の一部の機能と言われている[7]。相手の顔色やモノの鮮度、硬さなどを光の状態で把握する視覚における質感認知は、生存にとって必要不可欠な能力であり、色もその一部である。光がクリアな場合は、素材の上から色を塗装するなどしても問題ないだろう。しかし、光が散乱し、素材の質感がわかりにくい場合、素材と色が切り離されたら致命傷になることもある。だから、日本では、寺社の極彩色も仏像も塗り直しせず、剥げて素材の質感が見えてきた状態に安心感を覚え、侘び寂びとして愛でてきたともいえる。
落合が、イメージと物質の間の表現を行いたいというのも、そもそも日本で多く見られる霧のような存在が、イメージと物質の間にあるものだからとはいえまいか。それは超音波や高周波、プラズマ、磁力といった見えない力で実装しているのではないだろうか。
そのような地域で育まれた文化、世界観、宇宙観による技術を、香港出身の哲学者ユク・ホイはコスモテクニクス(宇宙技芸)と呼んでいる。テクノロジーは、ヨーロッパが生み出したものだが、東洋においても、固有の技術の体系があるのではないか。そのような問いからユク・ホイは思索を重ねているが、それは仮説の段階といえる。
個人的には、西洋におけるテクノロジーは、キリスト教的な宇宙観を破壊したものと考えている。コペルニクスの「地動説」にせよ、ニュートンの「光学・力学」にせよ、ダーウィンの「進化論」にせよ、キリスト教的世界観は科学技術の発展によって、脅かされてきた。特に、原罪と審判によって挟み込まれた「生」は、それらが外されたことで、宙に浮いてしまい、生や存在そのものを考えざるを得なくなった。それが西洋において哲学、特に生の哲学が必要とされる要因だろう。「生の哲学」の発展において、日本の思想が影響を与えた部分もある。日本にはそもそも原罪と審判、歴史という概念がないからだ。
また、日本では新しく取り入れたテクノロジーは、必ずしも日本の宇宙観、コスモロジーを破壊するとは限らない。自然の中に神性を見出す感性は、科学技術によって観察範囲が宇宙に広がっても、コスモロジーを壊すわけではなく、新たに神性を見出したりしている。その意味では、落合の思索は、日本のコスモテクニクス(宇宙技芸)として、新たな可能性を秘めているし、落合が仏教や神道、あるいは工藝に関心を持つのも、ある意味で「自然」なことかもしれない。
ユク・ホイは、「テクノロジーの問いを開き直すという試みは、根本的に脱植民地化のプロジェクトだといえる」[8]と述べている。現代アートにおいても、ポストコロニアリズムの試みが多数なされているが、それだけでは、西洋のコスモロジーを絶え間なく解体していくだけになる。むしろ様々な地域のコスモテクニクス(宇宙技芸)を体系化し、技術を新たなコスモロジーそれぞれが再構築する必要があるだろう。
その意味で、今日、テクノロジーの最先端に立ち、自身の宇宙観の中でそれを体系づけて、作品を発表しているアーティストは、日本では落合以外ほとんどいない。落合が開発する技術、表現は、まさに日本のコスモテクニクス(宇宙技芸)の可能性を拓くものだろう。特に、イメージと物質の間の多様な表現を開拓する落合の思想と試みは、日本の気候風土と無関係ではない。その表現は、日本のコスモテクニクス(宇宙技芸)として、特定地域だけで通じる場合もあると思うが、高度に技術化する中で、アートとテクノロジーが融合したメディアアートとして世界に拓き、多元化する鍵となるのではないか。最大規模の人が集まる万博での展示は、そのような可能性を多くの人に拓く機会になったのかもしれない。
[1] 落合陽一『デジタルネイチャー:生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂 』PLANETS/第二次惑星開発委員会 、2018年、pp.10-31
[2] 落合陽一『落合陽一×日下部民藝館 作品集2021–2025 ヌルに帰納する物語:遍在する民藝、交錯する計算機自然』扶桑社、2025年、p.108
[3] 『日本万国博覧会 テーマ館ガイド』日本万国博覧会、1970年、p.3
[4]同書、p.3
[5] 三木学「「太陽の塔」の図像学 試論 」『10+1』(万博の遠近法、No.36)、INAX出版、pp.145-154
[6] 本吉勇「絵画様式の生態光学的起源」小松英彦編『質感の科学:知覚・認知メカニズムと分析・表現の技術』pp.191-193
[7] 小松英彦「色と質感を認識する脳と心の働き」近藤寿人編『芸術と脳:絵画と文学、時間と空間の脳科学』大阪大学出版会、2012年、p.212
[8]ユク・ホイ『中国における技術への問い:宇宙技芸試論』ゲンロン、2022年、 p.17

