原田先生は、私たち関西の近現代美術史研究者にとって、故・木村重信先生、故・乾由明先生と並ぶ大きな存在であった。原田先生も亡くなり、若いころから仰ぎ見ていた先生方がついにどなたもおられなくなって、ひとつの時代が完全に幕を閉じた感を深くする。
原田先生は先の両先生と同じく近現代美術史の研究者であり、美術評論家であっただけでなく、優れたキュレイターであり編集者でもあった。先生は1962年から25年の長きにわたって京都市美術館の学芸員を務められ、この間、竹内栖鳳、上村松園、浅井忠、須田国太郎など主に京都の近代日本画家・洋画家の基礎的な資料収集と調査研究、それらにもとづく展覧会で成果を上げられた。私が学芸員になった1988年には、原田先生はすでに大阪大学に転出されていたが、京都の美術を調べると、そこに必ずなにがしか先生の足跡が残されていたものである。
こうした原田先生の日本画・洋画を横断する多方面への関心は、愛媛県美術館長時代の1999年に設立された醍醐書房の活動へと引き継がれた。とりわけ最新の話題、観点を特集テーマにした京都発の本格的な学術誌『美術フォーラム21』は、創刊当初の周囲の冷ややかな目をはねのけ定評を得て、20数年を経た現在も刊行が続いている。数年前その編集委員に加えていただき、初めて編集会議に出席した私は、まもなく90歳になろうという原田先生が、全国の美術館の若手学芸員を中心に次号の執筆者候補を次から次に挙げられるのを目の当たりにし、驚愕した。どんな展覧会のオープニングにいっても原田先生がおられることの意味を、この時ようやく理解したのである。
晩年は須田国太郎のご遺族の求めに応じ、須田の遺産をもとにきょうと視覚文化振興財団を立ち上げられ、その豊富な情報と見識を生かし、講座やワークショップ、展覧会支援、若手美術家の育成にも力を注がれた。財団の役員会ではいつもかくしゃくとされていて、衰えなどみじんも感じられなかったので、本年6月にお会いしたおり体調がお悪いと伺ったものの、まさかそれが最後になるとは思いもしなかった。いまはただ関西の美術の発展に尽力された原田先生のご遺志を引き継ぐことをお誓いし、ご冥福をお祈りするばかりである。合掌。