論考「陸軍『秋丸機関』による経済研究の学問的意義」秋丸知貴

「秋丸機関」英米班 正面に座っている人物の右から2番目が有沢広巳主査、右から3番目が秋丸次朗班長

秋丸知貴「陸軍『秋丸機関』による経済研究の学問的意義」

本稿は、太平洋戦争開戦前に陸軍省戦争経済研究班(通称「秋丸機関」)が行った日本最初の近代的な国力の比較調査が、戦後復興政策における「傾斜生産方式」にどのように生かされたのかについて考察する。

 

1 「秋丸機関」設立の経緯

1939(昭和14)年9月、関東軍参謀部付の経済将校として満州国の経済建設の主任を担当していた秋丸次朗(あきまるじろう:1898-1992)陸軍主計中佐は、急きょ陸軍省経理局課員及び軍務局課員へ転任を命ぜられ帰国する。

東京到着の翌日、秋丸中佐はまず軍務局軍事課長の岩畔豪雄(いわくろひでお:1897-1970)大佐に着任の挨拶をする。岩畔大佐は、「軍政(軍事組織の管理運営)の家元」と呼ばれる陸軍有数の実力者で、同じく経済参謀として著名な先輩であった。その岩畔大佐より、秋丸中佐は総力戦準備のために陸軍省に新たに創設される経済戦研究班の主任者を命ぜられる。

わが陸軍は先のノモンハンの敗戦に鑑み、対ソ作戦準備に全力を傾けつつあるが、世界の情勢は対ソだけでなく、既に欧州では英仏の対独戦争が勃発している。ドイツと近い関係にあるわが国は、一歩を誤れば英米を向こうに廻して大戦に突入する危惧が大である。大戦となれば、国家総力戦となることは必至である。然るに、わが国の総力戦準備の現状は、第一次世界大戦を経験した列強のそれに比し寒心に堪えない。企画院が出来、国家総動員法は施行されたが総力戦準備の態勢は未だ低調である。そこで陸軍としては、独自の立場で秘密戦の防諜、諜報活動をはじめ、思想戦、政略戦方策を進めている。しかし、肝心の経済戦に就いて何の施策もない。貴公がこの度本省に呼ばれたのも、実は経理局を中心として経済戦の調査研究に着手したいからである。既に活動している軍医部の石井細菌部隊に匹敵する経済謀略機関を創設して欲しい[1]

これは、秋丸中佐にとって「全く意外の大任[2]」であり、「事の意外と責任の重大さに戸惑[3]」うことになる。内命は受けたが、全ては秘密裏に行わなければならない。後の回想によれば、当初は予算も人員も相談相手もなく、暗中模索して途方に暮れ、やむなく経理局の片隅に一脚の机と椅子を借り、独りで方策を講ずるほかないという有様であった。なぜなら、この当時の戦争は「武力戦」が主であり、「経済戦」という概念自体がまだ確立されていなかったので、軍の特務機関を一から新設するという実務上の困難はもちろん、経済戦とは何かというコンセプト自体から考えなければならなかったからである。

 

2 「秋丸機関」のコンセプト

秋丸中佐は、経済戦の真髄も武力戦と同様に、孫子の兵法「敵を知り、己れを知れば百戦殆(あやう)からず」にあると考えた。「仮想敵国の経済戦力を詳細に分析・総合して、最弱点を把握すると共に、わが方の経済戦力の持久度を見極め、攻防の策を講ずることが肝要であった」[4]

今では考えにくいことだが、当時はまだ個別戦闘の経費計算はともかく、総力戦における国家全体の経済、つまり「戦争経済」概念は確立されていなかった。日本国内の国力の科学的調査が殆ど存在しないことはもちろん、仮想敵国との国力の比較調査は皆無という状態であった。西洋諸国は、既に20年以上前に最初の総力戦である第一次世界大戦(1914(大正3)年‐1918(大正7)年)を経験しており、着々と国家総力戦体制を確立しつつあった。当時においては、何よりもまず日本も戦争経済を学問的に確立するための基礎調査を行うことが肝心であったといえる。

当時のことを、秋丸中佐は次のように回想している。「基礎調査のためには、欧米諸国の経済学界で進められている巨視的動態論の分野における計量経済学的研究方法を導入する必要がある、とおぼろげに考えた。それには統計学者の確保が何より急務であった[5]」。

真っ先に白羽の矢が立ったのは、当時東京帝国大学経済学部助教授を休職していた有沢広巳(ありさわひろみ:1896-1988)である。有沢は、東大の法学部から独立したばかりの経済学部の第一期生で、在学中は統計学やマルクス経済学を学んでいた。1922(大正11)年に同大学を卒業後、助手を経て、1924(大正13)年には同大学経済学部統計学講座の助教授に就任している。1930年代には『産業動員計画』[6]、『日本工業統制論』[7]、『経済統制下の日本』[8]を出版する等、実証的な統計学及び統制経済の専門家として声望の高い気鋭の経済学者であった。

なお、有沢は1935年に『改造』で発表した「戦争と経済」で、「戦争経済のもとでは縮小再生産の過程とインフレとがともに進行し、そのため戦争経済は必然的に崩壊する」ので「経済力の弱い国は必ず負けるのだ、ということをマルクスの再生産表式をつかって説明しようとした」。これは、満州事変後の「燃えあがる戦争熱に水をぶっかけようとしたものだが、それこそ焼け石に水だった」と回想している[9]

ちなみに、秋丸中佐は陸軍経理学校を卒業した1932(昭和7)年から1935(昭和10)年まで3年間、陸軍から東京帝大経済学部へ員外学生として派遣されている。そして、この時有沢の講義を受講している。

ただし、この1939(昭和14)年当時の有沢は人民戦線事件で検挙され保釈中の身であった。人民戦線事件とは、1937(昭和12)年にコミンテルンの呼びかけに応じて日本国内で人民戦線の結成を企てたとして、労農派系のマルクス主義者達が治安維持法違反で一斉に検挙された事件である。1938(昭和13)年の第二次検挙で起訴された有沢は、翌年に保釈されたものの東京帝大経済学部は休職処分となっていた(ちなみに、後に第二審で無罪が確定している)[10]

後の回想によれば、有沢は秋丸中佐より直接「とくにこの調査は軍が世界情勢を判断する基礎資料とするためのものだから、科学的な客観的な調査結果が必要なので、学者たちの参加をもとめその自由な調査研究にまつことになった。そのため経済調査班も軍の機構の外におくことになっている[11]」と説明される。

また、秋丸中佐はこの時のことを後に次のように記述している。「この調査は、軍が世界情勢を判断する基礎資料とするもので、科学的客観的な調査結果が必要なので、学者達の参加を求め、その自由な調査研究にまつことになりました。是非とも先生のご協力をお願いしますと述べた。これに対し、有沢氏は答えて曰く、私は今思想問題で係争中の身分である。しかし、マルクス経済学については、私は経済分析の科学的手段くらいに考えているので、いわば産業技師と同様である。だが、いま起訴保釈中の身である。それをご承知の上なら、ひとつやりましょう、との返事であった[12]」。

 

3 「秋丸機関」の活動

こうして有沢は、秋丸中佐の率いる陸軍省戦争経済研究班の英米班の主査となり、1940年2月頃から調査活動を開始する。またこの頃、秋丸中佐は、日本班に中山伊知郎(東京商科大学教授)、独伊班に武村忠雄(慶応大学教授)、ソ連班に宮川実(立教大学教授)、南方班に名和統一(元サイゴン駐在の正金銀行員)をそれぞれ主査として委嘱している。さらに国際政治班には、蝋山政道(東京大学教授)と木下半治(東京教育大学教授)を起用している。

さらに、これらの各班ごとに主査を中心とする研究グループが結成される。これらの学者達は、当時の学界において最も進歩的と目されるメンバーであった。そして、これらの研究班と併行して、戦略的個別調査のため、各省の少壮官僚、満鉄調査部の精鋭分子をはじめ、各界にわたるトップレベルの知能が集められている。

こうして活動を本格化した陸軍省戦争経済研究班であったが、二つ大きな問題が生じる。

一つは、研究班の体制が整い活動が緒についた頃、どこからともなく情報が嗅ぎ付けられ、一般政財界からの注目が強くなったことである。つまり、満州国における関東軍と同様に、日本国内でも陸軍が経済界を牛耳り、統制経済体制に移行するのではないかという疑念が起こったのである。このような詮索を避けるため、秋丸中佐はそれまでの正式名称である「陸軍省戦争経済研究班」を「陸軍省主計課別班」と変名したり、部外には単に「秋丸機関」と称するなど様々に苦心している。

ところが、更に厄介なもう一つの問題が起こる。それは、秋丸中佐が「最有力メンバー」と見なす有沢が例の第二次人民戦線事件で起訴保釈中の身分であることが問題になったのである。既に述べたように、秋丸中佐は最初からそれを承知の上で依頼していたのだが、検察当局から苦情がでる。右翼関係からも抗議がくる。世間一般からも「陸軍の赤化」と騒がれる。当然、「喧し屋」と言われていた東條英機陸軍大臣が黙っておらず、経理局長を通じて再三注意されることになる。

秋丸中佐は、一度は東条陸相に直接呼び出され、馘を覚悟でいったが、森田親経理局主計課長の配慮で室外で待機し、森田課長が一人入室して釈明に当たったので事なきを得たこともあったという。その後も憲兵隊がほとんど毎日のように偵察に来て、世間からもうるさく言われるので、秋丸中佐は仕方なく苦肉の策をめぐらし、表向きは有沢を解嘱した形をとり、蔭の人として密かに研究を続けてもらうことにした。また、部外に煙幕を張るために、事務所を青山の陸軍需品廠構内に移し、地下に潜って任務の遂行に邁進した。

当時のことを、有沢は次のように証言している。「ほかの班も同様であったが、英米班の調査もはじめのうちは遅々として進まなかった。その間、ぼくはぼくが軍の経済調査の仕事を手伝っているというので、そのために検事局に呼びだされて取調べられたこともあった。また秋丸中佐のところへは、軍の内部からも、外の右翼団体からも、なんどかぼくがその機関で働いているのがけしからんという抗議がきたらしい。ぼくには知らさずに、そのつど秋丸中佐はそれを拒否して、ぼくらの班がそういうことにかかずらうことなく調査研究をすすめることができるよう配慮してくれた[13]」。

 

4 「秋丸機関」の研究報告

この年1940(昭和15)年の年末か翌年の初め、日本班主査の中山の証言によれば、一度秋丸機関の報告会が開かれている。

秋丸機関というのは当時の陸軍省経理局の中に設けられた秋丸中佐を長とする特別の研究班で、私の記憶では昭和十五年ごろから活発な活動を始めていた。それはたしか昭和十六年の初め、各班の研究をひとまとめにして九段の偕行社で報告会が開かれたときのことである。問題は、支那事変の規模に重ねて、二倍の戦争ができるか、ということであった。私たちは当時の経理局長遠藤中将の前で、人力や物的生産力や輸送力の諸点から、二倍の戦争は不可能だという結論を説明した。それは十二月八日の対英米宣戦布告からおよそ一年前のことで、その時点でそうした議論がいかにデリケートなものであったかは、軍事色にぬりつぶされた当時の空気から、容易に推察されるところであろう。討論は、それでも大きく荒れることもなく終わった。印象に残ったのは、そのあとの会食である。陸軍側の一人が、雑談をしめくくるようにいった。「戦さは四分六で四分の見込みがあれば、やるものだよ」。万全の計算はない、という意味だったが、私はこの瞬間、危ないと思った。あるいはその時点ではすでに肚はきまっていたのかもしれないが、結局破局への進行は阻止する間もなかった[14]

 有沢の回想によれば、この年の春になると「それまでゆっくりかまえていた秋丸中佐にも多少あせりがみえて、結論をせきたてるようにな」り、「いいにくそうに夏休中にだいたいの結論を出してもらえまいかと催促をうけた」という[15]

こうして、1941(昭和16)年7月に秋丸機関の軍首脳部への説明会が行われる。この時のことを、秋丸中佐は次の様に回想している。

茨の道を歩きつつも、一九四一年七月に一応の基礎調査が出来上がったので省部首脳者に対する説明会を開くこととなった。当時欧州で英仏を撃破して破竹の勢であった独伊の抗戦力判断を武村教授(当時、召集主計中尉として勤務中)が担当し、次いで私が英米の総合武力判断を蔭の人有沢教授に代わって説明した。説明の内容は、「対英米戦の場合経済戦力の比は、二十対一程度と判断するが、開戦後二ヵ年間は貯備戦力に依って抗戦可能、それ以降はわが経済戦力は下降を辿り、彼は上昇し始めるので、彼我戦力の格差が大となり、持久戦には耐え難い、と云う結論であった。既に開戦不可避と考えている軍部にとっては、都合の悪い結論であり、消極的和平論には耳を貸す様子もなく、大勢は無謀な戦争へと傾斜したが、実情を知る者にとっては、薄氷を踏む思いであった[16]

また、この説明会について有沢は次のように述べている。なお、このとき有沢は母親の葬儀のため直接出席しておらず、ここでは日付は「九月」とされているが、これは最近見つかった研究報告書の日付より7月であることが確認されている。

日本班の中間報告では、日本の生産力はもうこれ以上増加する可能性はないということだった。軍の動員と労働力とのあいだの矛盾がはっきり出てきていた。ドイツ班の中間報告もドイツの戦力は今が峠であるということだった。ぼくたちの英米班の暫定報告は九月下旬にできあがった。日本が約五十パーセントの国民消費の切下げに対し、アメリカは十五~二十パーセントの切下げで、その当時の連合国に対する物資補給を除いて、約三百五十億ドルの実質戦費をまかなうことができ、それは日本の七・五倍にあたること、そしてそれでもってアメリカの戦争経済の構造にはさしたる欠陥はみられないし、英米間の輸送の問題についても、アメリカの造船能力はUボートによる商船の撃沈トン数をはるかに上回るだけの増加が十分可能である……といった内容のものであった。それを数字を入れて図表の形で説明できるようあらわした。秋丸中佐はわれわれの説明をきいて、たいへんよくできたと喜んでくれた。九月末に秋丸中佐はこの中間報告を陸軍部内の会議で発表した。これには杉山参謀総長以下、陸軍省の各局課長が列席していたらしい。むろんぼくたちシヴィリアン(民間人)は出席できなかった。秋丸中佐は多少得意になって、報告会議にのぞんだようだったが、杉山元帥が最後に講評を行ったとき、中佐は愕然色を失った。元帥は、本報告の調査およびその推論の方法はおおむね完璧で間然するところがない。しかしその結論は国策に反する、したがって、本報告の謄写本は全部ただちにこれを焼却せよ、と述べたという。会議から帰ってきた中佐は悄然としていたそうだ[17]

このことについて、立花隆は『天皇と東大』(2005年)で次のように評している。「このエピソードが意味するところは、戦争遂行能力の観点からいって、日本がアメリカと戦争をしても絶対に勝てっこないことを、陸軍の幹部たちは全員開戦前から知っていたということなのだ[18]」。

丁度この翌月8月15日に、野村吉三郎駐米大使とコーデル・ハル米国国務長官の日米交渉を補佐するために同年4月末から渡米していた岩畔大佐が帰国する。この時、岩畔大佐は、直接ニューヨークでアメリカの国力・戦力調査をしていた新庄健吉陸軍中佐の調査報告書を持ち帰る。帰国した岩畔大佐と秋丸中佐がその調査報告書を分析したところ、日米経済戦力の総合判断を1対10ないし20程度と断定していて、秋丸機関の調査結果と符合することが明らかとなった。そこで、岩畔大佐は8月中下旬にかけて、政府及び軍首脳に対し委細説明して開戦に対して慎重なる考慮を促した。しかし、遂に9月6日の御前会議において第一次帝国国策遂行要領が決定され、開戦への道を進むことになる。

岩畔大佐は、このときの参謀本部への報告を次のように回想している。

参謀本部に於ては総長以下ほとんど全部の参謀を前にして講演した後、主要課長等にも私の所見を開陳したが、私の直観によれば、「参謀本部全体は今や対米交渉よりも対南方作戦に熱中していた」ようである。第二部のある課長は私に対し「今や日米戦争は必至である」と述べた。そこで私が「勝つ見込はあるのか」と反問すると、「最早勝つ負けの問題ではない」と云った。

また、岩畔大佐は大本営政府連絡会議における報告を次のように記録している。

連絡会議は当時の日本に於ける最高政策決定の機関であったから、私は主戦論を日米交渉論に転回し得る最後の機会であることを自分自身にいい聞かせながら、異常な決意をもってこの会場に臨んだ。そして約一時間半にわたって、日米戦力の比較を数字をあげて説明した後、今日の日本として選ぶべき三つの案の利害得失を解明し、さらに進んで日米交渉の見透しと日米交渉を成立せしめるための条件緩和等について述べた。ところが先日私の話を聞こうともしなかった東条陸相が最も熱心に私の話を聴いて、幾つかの点について質問した上、私に「本日の説明を筆記して提出せよ」と命じた。そこで翌日そのことについて東条陸相を訪ねると「お前は近衛歩兵第五聯隊長に転出することになったから昨日命じた筆記の提出はしなくともよい」と申渡され、一切の努力が水泡に帰したことをしみじみ思い知らされた[19]

こうして、岩畔大佐はその報告の4日後の1941年8月28日に南方プノンペンに向けて出征している。

実はこの頃、もう一つ日本の敗北を予言していた組織がある。それは、内閣総理大臣管轄の総力戦研究所であり、1941年8月27日・28日に行った第一回総力戦机上演習総合研究会では、対アメリカ戦の場合「日本必敗」という結論を出していた。しかしながら、この演習に列席していた東条陸相は最後に次のように講評したという。

諸君の研究の勞を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、實際の戰争といふものは、君達が考へているやうな物では無いのであります。日露戰争で、わが大日本帝國は勝てるとは思はなかつた。然し勝つたのであります。あの當時も列强による三國干渉で、やむにやまれず帝國は立ち上がつたのでありまして、勝てる戰争だからと思つてやつたのではなかつた。戰といふものは、計畫通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がつていく。したがつて、諸君の考へている事は机上の空論とまでは言はないとしても、あくまでも、その意外裡の要素といふものをば、考慮したものではないのであります。なほ、この机上演習の經緯を、諸君は輕はずみに口外してはならぬといふことであります[20]

なお、この総力戦研究所では秋丸中佐も研究員を兼務していた。

そして、よく知られているように、続く1941年11月26日にいわゆる「ハル・ノート」が提出されたことにより日米交渉は決裂する。そして、12月8日に真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が勃発することになる。秋丸機関はやがて解散し、秋丸中佐は1942(昭和17)年12月に比島派遣第十六師団経理部長に転出を命ぜられ、南方戦線に出征している。

結果的に、太平洋戦争における日本側の死者数は約310万人、アメリカ側の死者数は約40万人と言われている。さらに、心身の被害や経済的損害を受けた人達の数はそれをはるかに上回るだろう。

ちなみに、有沢は秋丸機関の基礎調査報告会の後にすぐに本格的に辞めさせられ、憲兵の監視下に置かれている。

母の葬式をすませて帰京して、ぼくははじめて秋丸中佐から事の次第をきかされた。ぼくは別に驚かなかったが、また中佐を慰める言葉もなかった。陸軍首脳部ではすでにルビコン河を渡る決意をきめていた。決意ができているところに、河を渡ることの危険を論証する報告書などは、それこそ百害あって一利もないというのだろう。謄写本を全部焼却せよという厳命はそういう意味だったのだろう。これで秋丸機関としての経済調査班の活動はいっぺんに支離滅裂となった。ぼくはまもなく秋丸さんによばれて、至急にぼくをやめさせなければならなくなった旨をきかされた。東条大将の厳命だといって副官の赤松大佐がきたので、もう自分としてはいかんとも致し方がないという。ぼくは中佐にたいへんな迷惑をかけてまで残っていたいなどという気持ははじめからないから、その場ですぐやめてしまった。経済調査班はその後二、三カ月は存続していたが、そのうち廃止になった。もう太平洋戦争がはじまって、秋丸中佐も第一線の経理部隊長としてハルマヘラあたりにとばされたという話だった。〔…〕まさか東条大将の命ではなかろうが、ぼくが秋丸機関をやめてから、月に一、二回、憲兵伍長がぼくの宅に見まわりにくるようになった[21]

 

5 戦後復興と傾斜生産方式

1945(昭和20)年8月15日の敗戦後まもなく、11月に有沢は東大経済学部に教授として復職する。また有沢は、終戦直前に設けられ、終戦とともに本格的な調査を始めた外務省調査局第二課の戦後経済調査会に、既に第1回から参加していた秋丸機関の元日本班主査の中山と共に、第4回会合から出席している。この調査委員会は、次第に有沢を中心に展開するようになり、この年の暮れまでに計40回の会合を開いている。

翌1946年(昭和21)年3月には、有沢を中心に報告書「日本経済再建の基本問題」がまとめられる。一般にこの報告書は、終戦以来虚脱状態に陥っていた政財官界の指導的立場にある人々に明快な指針を示すグランド・デザインの書として高い評価を受けたと言われている。

また同年5月22日に第一次吉田茂内閣ができると、有沢は吉田首相から新設の経済安定本部の長官就任を何度も要請されている。有沢は、これを復帰後間もない大学での業務を重視したため断っているが、同年秋に吉田首相を中心として外務大臣室で月数回開かれる昼食会には中山と共に出席するようになる。

ある時、この昼食会で吉田首相よりアメリカから緊急輸入を許された物資の選択について意見を求められた際に、有沢は重油と鉄鋼を強く主張する。これは、まず重油を製鉄用に回し、できた鋼鉄を炭鉱に投入し、採掘された石炭を再び製鉄に投入するという循環を通じて、まず最初に当時の基幹産業である鉄鋼と石炭を増産し、その両部門の拡大再生産を通じて国内産業全体を復興させようというアイデアであった。この限られた資金・資材を鉄鋼と石炭の増産に集中的・傾斜的に投入するいわゆる「傾斜生産方式」を、吉田内閣は1946年12月27日に閣議決定し、続く片山哲内閣と芦田均内閣でも正式に政策採用されたことで日本の戦後復興は次第に軌道に乗ることになる。

有沢は、この傾斜生産方式の発案に秋丸機関での経済研究が反映したと回想している。

陸軍のことをやっているときに、アメリカのインプット、アウトプットのレオンチエフの報告書をアメリカから取り寄せてくれたんだ。あれが非常に参考になった。それで、つまり、傾斜生産的な考え方が出てきたんです[22]

また、有沢は次のように記述している。

戦争中に軍部が調査をやれというので、英米の戦力の評価と日本のこともあわせてやるつもりで、経済の再生産構造というか、再生産表式を使って物資の調達限度を測ろうとした。その考えが残っていたので、日本経済の再建の場合にもその再生産表式の議論で進むべきだ。そうすると再生産ですから、再生産過程で、だんだん生産再開というのも展開される。何もかも一斉に再開をするわけにはいかない。つまり傾斜的な考え方が初めからあったんだ[23]

これらのことから、マルクス経済学の再生産表式やワシリー・レオンチェフの産業連関表等を参考にして、産業全体を連関的に総覧しつつ部門別に投入と産出を関係づけていくという国力調査研究が、限られた資源の重点的配分による産業全体の成長促進という「傾斜生産方式」の発案に結びついたと指摘できる。

 

秋丸次朗中佐は、反戦活動家ではなく職業軍人である。職業軍人は、戦うならば勝たなければならないし、勝てない戦いならば絶対に避けなければならない。「秋丸機関」は、そうした秋丸中佐の職業軍人としての責務を果たそうとした学問的実践であったといえる。

「秋丸機関」の教訓は、価値ある学問的真理も責任ある者達が黙殺すれば台無しになるということである。そして、価値ある学問的真理はたとえ無責任に黙殺されても必ず世の中の役に立つと歴史は証明している。

 

[1] 秋丸次朗『朗風自伝』私家版、1988年、18‐19頁。

[2] 秋丸次朗『朗風自伝』私家版、1988年、14頁。

[3] 秋丸次朗『朗風自伝』私家版、1988年、19頁。

[4] 秋丸次朗『朗風自伝』私家版、1988年、19頁。

[5] 秋丸次朗「経済戦研究班後日譚」『えびの』第34号、2000年、53頁。

[6] 有沢広巳『産業動員計画』改造社、1934年。

[7] 有沢広巳『日本工業統制論』有斐閣、1937年。

[8] 有沢広巳『経済統制下の日本』改造社、1937年。

[9] 有沢広巳『学問と思想と人間と――忘れ得ぬ人々の思い出』毎日新聞社、1957年、162頁。

[10] 1941(昭和16)年7月の第一審の判決で禁固2年執行猶予3年となったが、控訴して1944年9月の二審で無罪になっている。

[11] 有沢広巳『学問と思想と人間と――忘れ得ぬ人々の思い出』毎日新聞社、1957年、187‐188頁。

[12] 秋丸次朗「経済戦研究班後日譚」『えびの』第34号、2000年、54頁。

[13] 有沢広巳『学問と思想と人間と――忘れ得ぬ人々の思い出』毎日新聞社、1957年、188‐189頁。

[14] 中山伊知郎『中山伊知郎全集(第十集) 戦争経済の理論』講談社、1973年、x頁。

[15] 有沢広巳『学問と思想と人間と――忘れ得ぬ人々の思い出』毎日新聞社、1957年、189‐190頁。

[16] 秋丸次朗『朗風自伝』私家版、1988年、21頁。

[17] 有沢広巳『学問と思想と人間と――忘れ得ぬ人々の思い出』毎日新聞社、1957年、191‐192頁。

[18] 立花隆『天皇と東大(下)』文藝春秋、2005年、704頁。

[19] 岩畔豪雄『昭和陸軍謀略秘史』日本経済出版社、2015年、336頁。

[20] 猪瀬直樹『猪瀬直樹著作集(八) 日本人はなぜ戦争をしたか――昭和一六年夏の敗戦』小学館、2002年、163頁。

[21] 有沢広巳『学問と思想と人間と――忘れ得ぬ人々の思い出』毎日新聞社、1957年、190‐192頁。

[22] 経済企画庁編『戦後経済復興と経済安定本部』大蔵省印刷局、1988年、95頁。

[23] 有沢広巳『有沢広巳 戦後経済を語る』東京大学出版会、1989年、13頁。

 

本稿は、2015年11月8日に東京理科大学において開催された、比較文明学会第33回大会で口頭発表した「陸軍『秋丸機関』による経済研究の学問的意義――学問研究におけるイノベーションの歴史的一事例として」の発表原稿である。なお、筆者は秋丸次朗の孫に当たる。

著者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美術史家・美学者・キュレーター。
1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。
2013年に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。2023年に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)出版。
主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日-2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto〔虚白院 内〕、会期:2015年3月7日-2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院〔建仁寺塔頭〕、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日-2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:高台寺掌美術館、会期:2022年3月3日-2022年5月6日)、「水津達大展 蹤跡」(会場:圓徳院〔高台寺塔頭〕、会期:2025年3月14日-2025年5月6日)等。

2010年4月-2012年3月: 京都大学こころの未来研究センター連携研究員
2011年4月-2013年3月: 京都大学地域研究統合情報センター共同研究員
2011年4月-2016年3月: 京都大学こころの未来研究センター共同研究員
2016年4月-: 滋賀医科大学非常勤講師
2017年4月-2024年3月: 上智大学グリーフケア研究所非常勤講師
2020年4月-2023年3月: 上智大学グリーフケア研究所特別研究員
2021年4月-2024年3月: 京都ノートルダム女子大学非常勤講師
2022年4月-: 京都芸術大学非常勤講師

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