1 はじめに
私は、これまで「本阿弥清」が筆名であり、別に本名があることを公表することがなかった。
その理由は、実家の菩提寺住職から法要の席でいつも聞かされていたのが、「本阿弥家と関係のある家柄」だということからだった。
そして、私の家系は、現実的には本阿弥家と血縁関係にあることはほぼないと思われるが、過去の言い伝えが嘘だとも思いたくなかった自分があったからだ。(本名についてはこのエッセイの中で公表したいと思う)
今回、私は、近年に執筆された刀関係研究者の近藤邦治氏の論文『蒲生助長刀と附(つけたり)書状に見る本阿弥家の確執について』(刀剣美術(第625号)2009年2月発行)に出会ったことで、私の家系と本阿弥家(加賀本阿弥家)の関係の可能性が見えてきたこともあり、公表することにしたものだ。(私の家系と本阿弥家の系譜との接点がある可能性については、あくまでも推論にすぎないが、この機会に語ってみたいと思ったのだ)
2 「本阿弥光悦」と本阿弥清(筆名)のファミリーストーリー
本阿弥家は、刀剣鑑定などを生業(刀剣のとぎ、ぬぐい、めきき)とする家系で、特に芸術(美術)に興味のある人には、江戸時代初期に活躍した「本阿弥光悦」の名を知らない人はいないだろう。
本阿弥光悦(1558~1637)は、本阿弥家の分家に生まれ、西洋美術に例えると「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と称される芸術家(陶芸、漆芸、書など)で、過去500年の日本美術史の中でも、マルチアーティストとしての活躍と評価は極めて高いといえる。
本阿弥光悦は、「ほんあみ こうえつ」と呼ぶ。 しかしながら、刀剣鑑定を家業とする本阿弥家では、今でも「ほんなみ」と呼ぶことがある。
このため、昭和時代(1980年代まで)の「広辞苑(第三版)」では、「本阿弥=ほんなみ」に分類されて掲載されていた。(近年は、本阿弥光悦が特に有名なせいか「本阿弥=ほんあみ」に記載が変わってきた) 特に、国内の陶芸系の公立美術館や日本美術史(辞典)では、今も「ほんなみ」と呼び、記載でもルビに使われている。
私は、これまで「芸術(アート)」の活動では、本名ではなく筆名の「本阿弥清(ほんなみ きよし)」を名乗ってきた。
今回、本名ではなく筆名を使うようになった理由を、「ファミリーストーリー」を交えて少し語ろうと思う。

「広辞苑」(第三版)での本阿弥(ほんなみ)や本阿弥光悦の記載を一部抜粋

美術出版社『日本美術史』2013年改訂版 ※本阿弥光悦(ほんなみこう えつ)の記載を一部抜粋
3 「清貧の思想」と本阿弥光悦の家族
本阿弥光悦は、光二(父)と妙秀(母)の嫡男として京都に生まれた。
また、光悦は、江戸時代初期に活躍した傑出したマルチアーティストとして、陶芸(茶碗)では《不二山》、漆芸(硯箱)では《舟橋蒔絵硯箱》がそれぞれ「国宝」に、書跡(光悦書、俵屋宗達下絵)や陶器など12点が国の「重要文化財」に指定されている。
父の光二は片岡家からの養子で、光悦の家族が「清貧の思想」で語られるようになったのは、母の妙秀(本阿弥光心の娘)の生きざまにあったとされる。
本阿弥光甫(光悦から三代後)が語った、妙秀と光悦の家族について書かれた『本阿弥行状記』(光甫の孫娘の聞き取りによるもの)には、生活は質素倹約に努め、精神的な豊かさを追い求めた妙秀の強い信念が、子の光悦、孫の光瑳、そして光甫へと受け継がれた様子が伝わってくる。
そして、妙秀の影響を受けた光悦は、「一生金銭などに関わらぬ利害得失などに心をわずらわせたことのない人」であり、「身上に奇特なる事多けれども、学びがたきことは二十歳ばかりより、八十歳にて相果て候まで、小者一人、飯たき一人にて暮らし、住宅は小さく粗末なのを好んだ」(『清貧の思想』中野孝次著より)とされ、自由と創造の世界に生き、唯一無二の作品群が生まれる環境に自らを置いた生涯だったと私は思う。
『本阿弥行状記』の中では、一貫して「欲深こそは本阿弥の家の最もいましめるところであった」とされ、妙秀の人柄や物の考え方が伝わる文章の抜粋を以下に書いておこうと思う。 ※『本阿弥行状記』(中野孝次著)より
①妙秀は、自分の息子(次男の本阿弥宗智)を勘当しており、その理由は常識をこえるきびしさからのおこないだった。
「某男が侍の娘を嫁に取り、三人の娘が生まれたが疱瘡にかかって見目悪くなると、それを理由に離縁した。 宗智が某男とときどき付き合っていたことを聞きつけた妙秀は、「世に隠れもない畜生と付き合うような者は、その者も畜生である。そんな子はわが子ではない」と言って即座に勘当してしまった。宗智は、これ以降二度と一族に戻ることがなかった」とされる。
②「妙秀は90歳で死んだが、死んだ後を見ると、唐島の単物1ツ、かたびらの袷二ツ、浴衣、手ぬぐい、紙子の夜着、木綿のふとん、布の枕ばかりで、このほかには何も残っていなかった」とされる。
私は、『本阿弥行状』にある以下の本阿弥光甫の言葉から伝わる「清貧」という生き方を、少しでも見習いながら生きていきたいと思っている。
「本阿弥の家の者が今の心掛けを失わぬかぎり、たとえ零落いたそうともこの家の前途は安泰でありましょう。大事なのは人間として尊敬される人であるということだけです」

「本阿弥光悦の大宇宙」(東京国立博物館))2024..1.16~3.10 ※チラシ

『本阿弥行状記』中野孝次著 ※表紙

『清貧の思想』中野孝次著 ※表紙
4 私の本名は「本波潔(ほんなみ きよし)」
私は「芸術(美術)」の活動では、これまで本名「本波潔」を名乗ることを避けてきた。 その理由は、私がサラリーマンとして企業(東京大学大学院丹下健三研究室で丹下自邸などの設計に参画した山梨清松が主宰し、丹下健三(建築家)が一時期顧問をしていた設計事務所)に勤務する人間だったことにあった。
私が「現代美術」に出会ったのは、「建築」を専攻する大学4年生のときで、それ以来、「現代アート」の虜になっていった。
大学卒業後に勤めた株式会社綜合設計事務所は、都市計画・建築設計・環境(公園)設計という領域を広範に手掛ける技術者集団で、小規模ながら当時としては国内でもめずらしい設計事務所だった。 私は、平日は都市環境デザインの仕事に従事していたが、それ以外の時間を「現代アート」を知るための時間に費やしていた。
その結果、好きが高じて、少額の値段でも買える版画のコレクションからスタートして、その後は少しずつ収集する作家も増え、作品も水彩画、油絵、立体、陶器、書などと広げていった。 さらに、故尾崎正教氏が提唱していた「わたくし美術館」運動に共鳴していた私は、私設美術館の建設と、活動母体となるNPO法人の設立を模索するようになった。
そして、西暦2000年に実現したのが、「NPO法人環境芸術ネットワーク」の設立と現代美術系「虹の美術館」のオープンだった。(私設美術館のオープンが、私が40代で実現できたのは、NPO法人メンバーに多目的ビルの所有者K氏がおり、初期投資が建物の内外装のリニューアル費で済んだことにあった)
そのころ、私にとっての大きな難題は、サラリーマン(組織人間)としての立場との共存だった。 当時、非営利のNPO法人だったにしろ、企業では副業が禁じられており、私も悩んだ末に考えたのが、「筆名(ペンネーム)」を使っての活動だった。(筆名を使ったのは、勤務する会社や所員からの不満や誤解を避けるためだった)
そして、誕生したのが、本名と呼び方が同じになる筆名「本阿弥清(ほんなみ きよし)」だった。
また、美術館名を「虹の美術館」に、組織名を「NPO法人環境芸術ネットワーク」にした理由については、【本阿弥清Facebook】(2025年4月22日)】の展覧会「太田三郎展」太田三郎×本阿弥清トークショー(動画配信)の中で、私が詳しく語っているので興味のある方は覗いて見てほしい。

「虹の美術館」の外観 ※2000年9月にオープン

「虹の美術館」の入口ピロティ天井画 ※靉嘔(現代美術家)のデザインによる天井画

「虹の美術館」内部 ※背後にある作品はアンディ・ウォーホルのマリリン・モンローと毛沢東
5 「本阿弥久右衛門」と「本波久右エ門」のこと
本阿弥光悦の弟(本阿弥宗智)が、妙秀(母)の怒りをかい「勘当」されたように、本阿弥家とは品格を保つためには身内の「勘当」も辞さず、名跡を守ろうとする意識が非常に高かった一族だった。
本阿弥光悦が、江戸時代初期、徳川家康の庇護を受けて京都の鷹ヶ峰に土地を拝領し、「琳派(りんぱ)萌芽の地」ともいわれている芸術村「光悦村」をつくったことは、日本美術史上でもよく知られていることだ。
一方、本阿弥光悦の父(光二)は、駿河の国(今の静岡市一帯)の今川義元の館の刀剣の目利役として仕えたことから、人質として今川家にいた竹千代(後の徳川家康)とも親交があり、さらに前田利家(加賀藩)との親交により、光悦の3代後の本阿弥光山の時代には、本阿弥家の分家「加賀本阿弥家」が金沢に誕生したことは、一般的にはそれほど知られていないことだ。
その「加賀本阿弥家」の家督名が、「久右衛門」とされ「本阿弥久右衛門」が名乗られるはずだった。
しかしながら、本阿弥光山の子で嫡男(本阿弥光貞)は、本阿弥家(宗家)の怒りをかい、廃摘されたという。(跡目相続がゆるされず本阿弥家から抹消されている。その後、親族の努力で宗家の怒りが解け、光顕(光貞の息子)の代から「嫡孫継承」ということで光山の跡を継ぐことが許されている)
それからの加賀本阿弥家では、光貞はもとより、その後に生まれた嫡男の家系でも「本阿弥久右衛門」という家督名を名乗ることはなかったようだ。
「久右衛門」という家督名は、その後どうなったのだろうか?
実は、加賀藩(能登・加賀・越中)の東端に位置する越中(現在の富山県)に、同時代に家督名「久右エ門」を名乗り始めて今日まで続いている一族がある。
代々、嫡男は「久右エ門」といい、明治になってからは、「本波久右エ門(ほんなみ きゅうえもん)」を名乗るなど、今日まで続いている家系だ。 その一族とは、実は私の家族(兄弟)であり13代目にあたる。
「本波家」の菩提寺(善巧寺)の過去帳によれば、久右エ門(一代目)が没したのは、元禄10年(1698年)のことだった。 それに対して、加賀本阿弥家の家督名「久右衛門」をかたることが許されなかった本阿弥光貞が没したのが、宝永7年(1711年)のことだったと、本阿弥家関係の家系図資料では伝えられている。

本阿弥家と光悦について ※インターネット上の「武家家伝・本阿弥氏」より一部抜粋

【刀剣美術(第625号)2009年2月発行】論文「蒲生助長刀と附(つけたり)書状に見る本阿弥家の確執について」近藤邦治氏の論考より抜粋

本波家「本波久右エ門」の墓 2022.8.27 撮影 ※善巧寺本堂裏にある

本波家「本波久右エ門」の墓 揮毫 2022.8.27撮影

「本阿弥家の人々」福永酔剣著 2009年 ※一部抜粋

「日本刀大百科事典」福永酔剣著 1993年 ※「加賀本阿弥家」 一部抜粋
6 「本阿弥清」を名乗るきっかけとなった二人の人物
私が、「本阿弥」を名乗るきっかけをつくってくれた人物と応援してくれた人物について、少し書いておこうと思う。
一人目は、善巧寺(菩提寺)の第20代住職の雪山俊之氏(1911~96)で、「本波家は、本阿弥家と関係がある家柄だと聞いている」と、私がいつも法事の法話で聞かされていたことが大きかった。
ちなみに雪山さんは、戦後「最後の無頼派」といわれた檀一雄(小説家)と旧制福岡高等学校の同級生で一緒に停学処分を受けたり、檀一雄らと文芸誌「季刊文藝<鷭>」(執筆者には室生犀星、太宰治、坂口安吾、伊藤整、谷川徹三、中原中也らがいた)を発行したり、後に立命館大学哲学科の教授などを務めた方で、檀一雄は善巧寺に遊びに来ることもあったらしい。 また、雪山俊之さんの弟の息子(甥)には、和歌山県立美術館や富山県立美術館の館長を務めた雪山行二氏がいる。
二人目は、筆名「本阿弥清」を本格的に使うことを後押ししてくれた建築評論家の浜口隆一氏(1916~95)だ。
浜口さんは、「評論活動をするときは本阿弥清の名前でやってみなさい」と応援してくれた方で、筆名を使う自信にもなった恩人の一人でもある。 浜口さんは、戦後の建築ジャーナリズムをけん引してきた人物で、東京大学(建築科)では丹下健三と同級生で、立原道造(詩人・建築家)とも親しかったことが知られており、卒業後は東大などで教鞭をとったり大阪万博(1970年)の日本(政府)館の展示監修にかかわり、その関係で大阪・京都に滞在したことで、京都の鷹ヶ峰の「光悦村」のことも詳しかった。
それから、私が本名の「潔」を「清」に変えて使っている理由は、私が長らく清水市(現静岡市清水区)で暮らしていることから、「清水のホンナミ」から取ったものだった。 そして、私が「本阿弥清」という筆名を最初に使ったのは、第11回「芸術評論募集」(美術出版社/美術手帖主催)に応募(1992年8月31日)した「磯辺行久論」(落選)を書いたときで、本格的に筆名を使いだしたのが、「虹の美術館」をオープンさせた2000年のことだった。

白雪山善巧寺の本堂 ※ご住職の雪山俊隆さんより提供
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浜口隆一さんよりのFAX ※1994年2月2日に受け取る
7 「清貧」の思想と本阿弥清という名称
本阿弥光悦の母(妙秀)は、息子(宗智)を勘当するくらいの豪傑な人だったが、もらった品々を身近な人たちに分け与えることを欠かさなかった人だったともいわれている。
90歳で亡くなった妙秀が残したものは、先にも書かせてもらったが「唐島の単物1ツ、かたびらの袷二ツ、浴衣、手ぬぐい、紙子の夜着、木綿のふとん、布の枕ばかり」だったと伝えられ、母の妙秀と同様に光悦も、質素な生活環境に身を置く生涯だったと、『本阿弥行状記』には書かれてある。
近年、「清貧」という言葉は、聞くことも少なくなったが、光悦一族のように、物質的な豊かさではなく精神的な豊かさを追求する姿勢は、特に今の時代には必要だろうと思う。
私は、数年前から、収集してきたコレクション(美術)を、某公立美術館に寄贈するようになった。 寄贈する理由の一つには、収集する過程で、作家や作品から多くのことを学ばせてもらい、人生の中でも充実した時間を与えてくれたお返しに、作品が私の手元にあるよりは、後世に伝えることができる場所にあった方がいいとの考えからだった。
今年も、作品を寄贈する予定でおり、光悦一族のように、本阿弥(清)の筆名に恥じないように、「清貧」という生き方に少しでも近づけたらと思っている。
実は、「本阿弥清」の筆名を使い始めた後にわかったことだが、驚いたことに本阿弥光悦の末裔(直系)に、「本阿弥清(ほんあみ きよし)」という人物がいたのだ。
光悦の直系の本阿弥清氏(1923~2005)は、読売新聞社で運動部長をされた方で、養子だったせいか光悦の名跡を継ぐことはなく2005年に亡くなられている。(ちなみに本阿弥清氏の息子の本阿弥光隆氏(1947~2009)は、第16代を継ぎ陶芸家として生きたが2009年に死去され、現在は、ガラス工芸作家の本阿弥匠氏(1966~)が第17代を継承している)
私自身、実在した本阿弥清氏と混同されることを避けるため、筆名から本名に戻すことも考えたが、これまでに発表してきた論稿や著書のこともあり、美術活動の場合には、筆名であることを公表しながら、これからも「本阿弥清(ほんなみ きよし)」を名乗っていこうと思っている。

静岡県立美術館「虹の美術館の軌跡(収蔵品展)」2007年5月23日~7月8日 ※チラシ表紙

本阿弥清『もの派の起源』水声社2016年 ※ブックカバーの装丁
※今回、白雪山善巧寺(菩提寺)の第22代住職の雪山俊隆さんのご厚意で、美しい本堂写真の使用許可をいただきました。 住職の祖父にあたる第20代住職の雪山俊之さんが、私が十代だったころの法要でいつも語ってくれた「本波家は本阿弥家と関係があると伝えられている」の法話での出来事がなければ、現在に生きる私たち一族が調査に動くこともなかったと思います。 そして、今、思い返せば、俊之さんの生前に、檀一雄らの「無頼派」の人たちとの交流の話ができなかったことが悔やまれます。