枠こそ全て 市原尚士評

絵画も枠だ

昭和期の映画監督、愛称「ハムさん」こと吉村公三郎(1911~2000年)のインタビュー取材をしに、横浜市都筑区のご自宅にうかがったことがある。1999年のことだ。

ヘビースモーカーの監督であることは事前に知っていたが、銀色に光るステンレス製の大きなバケツを部屋の一角に置き、灰皿代わりにしているのにたまげたことを今でも覚えている。水を張ったバケツの中には、吸い殻やたばこの灰がてんこ盛りになっていたのだ!

「安城家の舞踏会」(1947年)、「わが生涯のかがやける日」(1948年)、「夜の河」(1956年)など多くの名作を手掛けた監督に創造の秘密を尋ねようと訪れたのだが、お話の中で最も重要なポイントだったくだりは今でもはっきり覚えている。

「映画は枠だ。演劇も舞台芸能も絵画もみんな枠だ」

芸術行為においては、「枠(わく)」があるからこそ、表現になる。その真理は、ハムさんのオリジナルではなかった。彼の師匠であった、やはり偉大な映画監督、島津保次郎(1897~1945年)からハムさんが独り立ちする際に、「映画芸術の奥義を教えよう」と前置きして師が伝えた言葉、それが「映画は枠」だったのだ。

ハムさんは、私が映画好きであるのを知ると、様々な思い出をまじえて、色々な話をしてくれた。当初、「1時間」という約束でお目にかかったのだが、終わってみれば「3時間」も話していたのにはびっくりした。話があまりにも面白くて、あっという間に時間が過ぎていた。取材でお目にかかってから1年もしないうちにお亡くなりになったので、まさに最晩年のハムさんだったわけだが、非常に頭脳明晰だったことに驚かされた。

読者の皆さんの中で、ハムさんに興味を持たれた方に一読をお勧めしたいのが、「映像の演出」(岩波新書黄版)だ。同書の中でも、「映画=枠」については、かなりのページを割いて説明されていますよ。

ハムさんから伝授してもらった芸術の奥義「枠」は、その後、私の美術鑑賞でも生かされた。画家が描こうとする対象をどう切り取っているのか、つまり、どんな枠の中に入れているのかを意識することで絵画を始めとする芸術作品の読解力が上がったと確信しているのだ。

田中秀介(1986年生まれ)の個展「とどまれよ風の花」を鑑賞している際、ハムさんの言葉が脳裏をよぎった。田中は日常のありふれた光景をテーマにして絵を描いているのだが、問題はその「枠」とスケール感だ。対象となる画題の全体をある時は虫眼鏡で、ある時は顕微鏡で拡大したかのような大きさで捉えている。

大阪・四天王寺の骨董市に出店されるところてん屋が大好きな田中は、そのところてんを巨大な画面で描く。作品名は「内輪で日泳ぎ」。縦が96.8センチメートル、横が116.6センチメートルもある。しかも、枠(画面)いっぱいに容器の円形が描かれているため、パッと見たときに、ところてんには見えない点も興味深い。絵画好きなら、最初に想起するのはエドガー・ドガ(1834~1917年)がヌード女性を収めた円形の浴槽ではないか?

だが、ここで田中が描いているのは、浴女ではなく、ところてんだ。よくある風景だが、サイズが極めて大きく、しかもかなり対象に寄って描いている感じが漂うため、ところてんには見えないのが重要なポイントだ。かなりアップ目の枠に収められているために“異化効果”が出て、妙な風合い、ユーモアが漂ってくる点が特筆すべき個性だ。

歌人・風間博夫(1949年生まれ)の歌集「動かぬ画鋲」(2005年)から。

虫メガネで拡大したら「人」の字の接触箇所がむずむずとせり

風間の「接触箇所がむずむず」には、思わず微苦笑してしまうが、田中作品にも、このむずむず感が確かにある。

やはり、大阪・四天王寺の骨董市に材を取った作品「詰まり具合」の場合、箱の中にきっちり詰めた、色付きの分厚いガラスの器が描かれている。しかし、元々、きっちり詰まっていたものをさらにアップめに捉えているため、ところてん同様、パッと見たとき、何が描かれているのかが判然としない面白さがある。「これ、何だろ」「何を描いているんだろ」と画面とにらめっこする時間が妙に楽しい田中作品でした。

タイトルのつけ方も、どこか飄々としており、とにかく面白い。ある意味、ありふれた光景を題材にしているのに、絵は全くありふれていない点が素晴らしいと思った次第です。

身体化されたキャンバス

5人の作家が参加した企画展「Provenance→Reflection」に私が昔から大注目しているアハメッド・マナン(2000年生まれ)が参加していました。

キャンバスの裏側にある木枠が折れて、絵の表側から見える作品が一番、分かりやすいのですが、マナンは絵画表面の身体化に励み続けてきたようにも思えます。身体化とは、言い換えるなら、柔らかい皮膚のような表面に絵を描くということを意味しています。本展にもラグマットと絵画を組み合わせた作品を披露してくれました。

「立ち上がってるラグの風景と適当に描いた肖像」(縦194×横263センチメートル、2024年)をご覧ください。向かって左側が、タフティングクロスに毛糸でタフティングして“描画”した作品。ぴったりとくっついた状態の向かって右側は、キャンバスにアクリル絵の具で描いた肖像画です。

アクリル絵の具には、ジェルメディウムが混ぜられているため、絵画の表面には厚みや盛り上がった感じが漂っています。この右側の絵、折れた木枠が骨のように飛び出しているわけではありません。しかし、赤い色面は血を想起させるため、絵が大けがして出血しているように見えるのが興味深いです。マナン作品は、傷ついた心を持つ群像が描かれていながら、決してメソメソしていない点にいつも好感を持っています。

鏡像段階の絵画

2023年に多摩美術大学絵画学科日本画専攻を卒業したアーティスト、我(われ)の「MIRROR STAGE」(縦194×横145センチメートル)をグループ展「Glint」で拝見しました。この作品はもしかして、あの精神分析家の影響を受けているのでは?と思ったら、まったくその通りでした。

フランスの精神分析家、ジャック・ラカン(1901~1981年)の「鏡像段階」を踏まえているそうなのです。この概念、結構難解なので、精神病理学の専門家・松本卓也が著した「ジャック・ラカンーフロイトへの回帰」(岩波新書新赤版)の用語解説を引用することにします。同書265~266ページより。

鏡像段階:ラカンが一九三六年に口頭発表し、一九四九年の論文のなかで提示した概念。いまだ自らの身体のまとまったイメージをもてていない幼児は、鏡に映った自らのイメージを見ることによって、身体の全体性を先取り的に獲得する。それは歓喜に満ちた体験である。しかし、自らが同一化する(自分が何者であるかを教えてくれる)イメージは、同時に自分にとっての他者であり、自分を疎外するものでもある。それゆえ、獲得されたイメージはきわめて不安定でもあり、そこは終わりなき攻撃性が展開される舞台ともなる。なお、ここでいう「鏡」は一種の説明のための比喩であり、鏡がなくとも、自分が何者であるかを教えてくれる他者との関係にはつねに同様の事態が生じうる。

どうでしょうか?

読者の皆さん、この解説を読んで、意味がすっと頭に入ってきましたか。なかなかラカンの鏡像段階、理解するのが難しいですよね。まぁ、絵の方は、直観的に面白さが伝わってきますね。鏡の恐ろしさと同時に豊かさも感じられますが、自己同一性と他者性が同居することによって、自分が自分を攻撃するような危うさがあるという世界観のようです。それにしても、この絵、じーっと見ていると怖くなってきます。

作者の名前が「我」というのも意味深です。一文字だけというのが潔く、かっこいいですね。今後が楽しみな作家さんになりそうです。(2026年3月23日21時41分脱稿)

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。