建畠晢「もの派――近代のアポリア」

切花的芸術

もの派は、第二次大戦後の日本のアヴァンギャルド・アートの系譜の中で、日本的な(あるいは東アジア的なというべきかもしれないが)固有性を鮮明に掲げた例外的な運動であった。しかしその固有性の主張が、常に反近代主義の意識と一対になっていたという意味では、明治以降の「日本近代のアポリア」を継承している、もしくはその延長上に出現した問題を抱えているように思われる。

この古くて新しいアポリアを典型的に示しているのは、たとえば画家、須田国太郎(一八九一年‐一九六一年)の「切花的芸術」への批判である。美術史家でもあった須田は、「我油絵はいずこに往くか」と題されたテキスト[1]の中で、近代日本の油絵は西洋で展開された「送迎はてしない新様式」の移入に終始してきたに過ぎないと断罪している。それは文化的風土とは無縁の切花的芸術であって、日本の土壌に根付くはずもなく、すぐにしおれてしまう。故に画家たちは花を咲かせ続けるべく、自らの内に何の必然性もない新様式を次々に西洋から受け入れ続けるしかないというわけである。

こうした主張は、今日的な言葉にすれば、いかにも初発的な文化的コロニアリズム(とその受容)への批判ということになろう。テキストが書かれたのは敗戦後間もない一九四七年で、日本はGHQの統治下におかれていた。敗北の問題に直接触れているわけではないが、近代洋画を代表する画家の一人である彼にとって、当時の状況は、西洋の模倣ではなく日本的な油絵の可能性を希求せざるをえないことの切実なモチベーションをなしていたに違いない。

しかしここで問題にされるべきなのは、切花を排して日本の画家としての文化的必然性に根差した花を咲かせようとする、その土壌とはなにかということである。文化的必然性をいうならば、それは近代以前への短絡的な回帰ではありえないだろう。また日本の近代から、西洋からの受容を引き算した、その残りの部分ということも出来ないはずである。なぜならそのような「純粋な文化」は現実にはどこにも存在していなかったのだから。

花が根差すべき土壌とは、実は引き剥がすことも出来なければ一体化することもかなわない西洋の影に覆われた土壌であった。それこそが確執に満ちた日本の近代の文化的必然性なのである。切花的芸術を否定したところで、日本の近代から西洋の近代を拭いさられるべくもない。もし純然たる日本的な油絵を求めるとしたら、それは空想の土壌に咲いた幻の花でしかありえない。須田国太郎が、模倣を批判するばかりで、その先の道筋を示すことなく筆をおいているのは、日本的な油絵とは、つまるところ反切花的芸術としか形容しえない、つまりそれ自体の内実において語ることができないというジレンマに、暗黙の内に気づいていたからだといえよう。

即物的な反造形主義

日本的、東アジア的な美術が、対立項なく存在しうるというのは、本来的に語義矛盾である。日本的、東アジア的という認識そのものが、それを侵してきたより強力な存在を前提としているのだ。この認識は、一つの抵抗として成立しているといってもよい。

もの派が出発点において強烈な反近代主義の主張を掲げざるをえなかったのは、そのためである。彼らもまた一種の文化的コロニアリズム批判の立場に身を置いていたのだ。もの派がもし新しかったとすれば、そのことによって不可避的に招来されるジレンマ(西洋を引き算したところで、回帰すべき理想郷が現れるわけではない)を、克服すべき自らの内なる課題として見据え得たというところにあるだろう。つまり批判の先の道筋を、思想的な内実において示すという可能性に彼らは賭けたのである。

もの派はいわゆる結社ではなく、東京を中心とした一群の作家たちの七〇年前後の活動に漠然とかぶせられた名称であって、命名の由来も定かではないために、厳密な定義をすることが困難な運動である。私がインタビューした作家たちや関係のあった美術評論家たちは、いずれも命名者であることを否定しているが、たとえばダダの場合には作家たちの間で名称の「著作権争い」が起きたことなどに比して、興味深い事実である。少なくとも当初においては一つの運動体としての自覚は希薄であり、名称が定着して後も、もの派として一括されることが嫌われていたふしすらある[2]。事実、当事者たちの手によってもの派の名のもとに組織された展覧会は一つもないのである。

しかしそうした事情は、何らもの派自体を疑わしめるものではない。たとえ事後的な規定であるにせよ、もの派と呼ばれるべき運動の実体は明らかに存在していたし、その出発点や中核をなす作家たちの名前を特定することも可能なのだ。

たしかに“厳密な定義”は困難であるにしても、一般的にいえば、もの派とは六〇年代末の状況の中で、ミニマリズムなどの動向を間接的な背景としつつ、即物的な反造形主義に向かった運動であり、「もの」が示す様相ないし状態を、一種のインスタレーションとして提示することを共通の方法としていた。(「もの」という言葉はきわめて多義的であり、英語には翻訳しにくいのだが、とりあえずここではthing、matter、material、objectなどの意味の合わさった言葉としておく。)

 

図1‐1 関根伸夫《位相-大地》

 

位相‐大地

さてもの派の事実上の出発点とみなせるのは、一九六八年一〇月の第一回須磨離宮公園現代彫刻展(神戸)に出品された関根伸夫の《位相‐大地》と題された作品である(図1‐1)。より正確にいうならば、この作品の制作過程で立ち現れた土の存在の圧倒的迫力が、事前の構想をしのいでしまったことを実感した時ということになろう。

《位相‐大地》は、公園の地面に深さ二メートル六〇センチ、直径二メートル二〇センチの円筒形の穴を掘り、その傍らに掘り出した土を同じ大きさの円筒形に積み上げてみせた作品である。単純な造作だが、難問は土の固定の仕方で、最後は東大の地質学研究室にまで相談し、型枠の中に土とセメントを交互に入れて踏み固めながら重ねていくという方法が取られた。

当時、彼にはアースワークの知識はほとんどなかったという。何も野外の環境を積極的に意識したわけではなく、出品を依頼されたのがたまたま野外彫刻展であったというに過ぎない。関根の本来の関心事はトポロジックな空間の問題であった。制作を手伝った吉田克朗は、堀った土は、そのまま盛り上げておけばいいのではないかと提案したが[3]、関根の意図にはそぐわなかった。彼はこの機会に、身体を越えるスケールの空間を厳密な幾何学的形態として出現させようと考えていたのである。

見方次第ではこの作品はミニマル・アート的であり(その遠い影響があったことを作家自身も認めている)、またあたかも大地からそのまま抜きとったかのようにネガとポジの空間を対立させるというトリッキーな造作でもある。また平地に池を掘り、その同じ土で築山を造るという中国の伝統的な作庭技法も、どこかで意識されていたらしい。

しかし結果として彼を驚かしたのは、当初の構想を押し潰す、予想もしなかった「もの」自体の迫力であった。それは彼(と彼を手伝った、吉田克朗や小清水漸ら後のもの派の作家たち)にとって、一週間の現場の作業の中で立ち会ってしまった「事故」のようなものであったとさえ関根は語っている[4]

もっとも制作時の段階では、彼は自らのこうした実感を批評言語によってつかむことが出来ないでいた。別の問題が発生したことを認識しながらも、トポロジックな空間はいぜんとして彼の関心事であり続けていたのである。《位相‐大地》を論じた批評家たちのテキストも、総じてネガとポジの対比といった解釈の域を出るものではなかった。その彼にとって大きかったのは、程なく東京で出会った李禹煥の存在である。

あるがままの世界

作品を見てきた李の言葉は、当時の批評の文脈からすれば、まったく意外なものであった。翌年(一九六九年)に発表された関根伸夫論[5]の中に、その李の解釈は端的に示されている。彼は記す。

太初より、世界はいつもそのままあるがままに充ちている。だが人間は、世界を前にして立つという意識の独自の働きの高揚のためにか、あるがままをあるがままにみることはできない。自然の風光のなかですらアイディアマンたちは、自然を作り変え飾りをつけ加えようと、そこらじゅうの公園で騒ぎたてている実情をみるがいい。(……)だのにそれは(……)そのままの世界のあざやかさ、とでもいうべき感動的な表情を見せ伝える一つの物体と化しているのである。

トリッキーな操作の典型であるはずの「全く可笑しな姿形」をあるがままの世界のあざやかな現前へと読み替えてみせたこの李の解釈は、関根らが事故のようにして立ち会ってしまった事態に思わぬ照明を与えるものであった。名称を付される以前のもの派は、この時点で思想的な根拠を得たといってよい。

引用に明らかなように、李もまた《位相‐大地》の意味を説き起こすための前提として、当時の美術の状況を情け容赦なく批判しなければならなかった。だがここで注目すべきなのは、須田国太郎が断罪の対象を単なる西洋の模倣(切花的芸術)と見なしてしまったのに対し、李のテキストには西洋(やアメリカ)という言葉は一語も用いられていないという点であろう。李が批判するのは紛れもなく西洋の近代主義の系譜を引く状況には違いないが、それはもはや外部性を帯びたものではなく、むしろ内なる否定の対象として捉え直されているのである。

李は日本の近・現代美術におけるオリジナリティーの欠如という、裏返しの西洋崇拝に過ぎない不毛な反省の繰り返しに陥ることがなかったし、西洋の影響を引き算した後に残る「純粋な文化」などという幻想に足をすくわれることもなかった。それは見方次第では出自(韓国に生まれた李はソウル大学を中退して一九五六年に来日した)によって保証された特権的な立場であったのかもしれない。日本の美術の状況を近代主義そのものの名において批判しえたからこそ、《位相‐大地》は思想的な転換点として明快に位置づけられたのである。もちろんそのことは彼が客観的な第三者であったことを意味しない。問題はあくまでも内なる確執として見据えられていたのだ。

もの派成立

その確執とは、つまり批判されるべき前提としての当時の美術の状況とは、具体的には、光などのテクノロジーや視覚的なトリックによってイリュージョンを操作して見せた作品群であり、またそれと同時代現象と見なしうる広い意味での観念主義的な傾向であった。良くも悪しくもそうした動向を集約したのが、一九六八年の四月に東京の二つの画廊で開催された「Tricks and Vision/ 盗まれた目」展である。この展覧会には、関根がトポロジックな形態の作品を出品しており、先にも述べたように《位相‐大地》も本来はその延長上に構想されたものであった。もの派の中心作家の一人となる菅木志雄も、同じ文脈に属する存在として招待されていた。李自身、批判意識をもちつつもこの展覧会の影響をうけたといい[6]、翌年の初めには蛍光塗料を用いて立体的なイリュージョンを操作した作品を制作しているのである。

もの派が成立するためには、否定の対象が内なるものとして見据えられなければならなかったというのは、その意味でも正しいことになろう。《位相‐大地》の出現によって、「イリュージョンの世界」から「あるがままの世界」への逆転は一挙にして起きたが、「Tricks and Vision」展に象徴される動向への彼らのアンビバレントな反応がその前提をなしていたという事実は軽視されるべきではない。逆転とは、まずは彼ら自身が払拭できずにいた主知的な視覚操作の世界の読み替えだったのである。

ともあれこの時点で、もの派は出発した。関根は翌月(一九六八年一一月)には巨大な円筒形スポンジの上に鉄板を載せて形をひしゃげさせた作品《位相‐スポンジ》を、一九六九年には大量の油土の塊を散在させた《空相‐油土》を発表する。

須磨での制作を手伝った吉田と小清水の作品も、これを境に大きく変貌した。吉田はそれまでの机などの日常的なオブジェを二つに切断するといった視覚的なトリックによる作品から、鉄管の中に綿を詰めたり(《Cut-off》一九六九年)、太い角材の片側をロープで吊って床から斜めに持ち上げたり(《Cut-off(hang)》一九六九年)というような、作家自身の言葉[7]によるならば「状況」ないし「状態」を直截に提示する作品へと転進した。小清水もまた立方体の空洞を縄で梱包してみせたかのようなこれもトリッキーといえなくはない作品から、手漉き和紙の箱や袋の中に石を置いただけの作品(《かみ》一九六九年)へと向かった。

もっとも彼らは須磨の現場で初めて出会ったわけではない。関根、吉田、菅は、多摩美術大学の絵画科の教授、斎藤義重の門下生であり、小清水も同じ大学の彫刻科に身を置いていて、それ以前から親しい関係にあった。斎藤は戦前、戦後の日本の前衛美術の旗手ともいうべき存在として周囲から敬愛されており、また若い作家たちの実験を常に支持し続けることで、大きな求心力の役割を果たしてもいた。斎藤自身はもの派の運動には関わらなかったし、その方向性を示唆することもなかったが、東洋思想への深い含蓄に充ちた座談などによって、当時のアメリカ現代美術一辺倒の思潮とは別個の道の可能性を彼らに考えさせる契機を与えたとはいいうるだろう[8]

もの派成立以前の彼らの視覚的なイリュージョンの作品に、より直接的な影響を与えたのは高松次郎である。やはり多摩美術大学の絵画科の教師であった高松は一世代上のまばゆいスター的存在であり、当時は逆遠近法の空間を立体化した作品や不在の人物やオブジェの影をリアルに描いたタブローなどを制作していた。彼らは私塾のようなアトリエで仕事を手伝いながら、「不在性」を巡る彼の認識論的な実験を注視していたのである。この表象と実在の分離の問題は、まさにもの派が乗り越えなければならない課題となったという意味で、高松への憧憬は逆説的である。彼らの「否定」は、自らが欲していたはずのものの否定に他ならなかったのだ。

「アルガママ」にズラす

李は関根を通じてもの派の作家たちと交流はしたが、多摩美術大学とは関係なく、年齢的にも上(高松と同年の一九三五年生まれ)であった。李がもの派の中心に位置していたこと、彼の理論がもの派の一つの支柱をなしたことは間違いないにしても、その立場はリーダーというようなものではなかった。もの派は親しい仲間であれ、先に述べたように、必ずしも運動体としては自覚されていなかったのである。

さて李の作品も《位相‐大地》以降、大きく変貌する。一九六八年には矩形のガラス板の上に石の塊を載せ、鋭くひびを走らせた作品(《現象と知覚B》、これも含めて彼の作品は後にすべて《関係項》と改題されている)、一九六九年には自然石を並べ、目盛りを付したゴム板のメジャーを床との間に伸ばし方を替えつつ挟み込んだ作品(《現象と知覚A》)、綿と石、綿と鉄板を組み合わせた作品(《構造B》、《構造A》)などが制作されていくのである。

さて先の関根論で示されていた李の近代主義批判からあるがままの世界の現前へと向かう理論を、もの派論(もっともこの時点でもまだ名称は生まれていなかったのだが)として一般化して見せたのは、一九七〇年に書かれた「出会いを求めて」である。

このテキストで彼はまず近代芸術を「像の形象化という表象作用の歴史」であると規定する。「そこでは世界は理念の実現のための素材であり、植民地的領域にしかみなされない[9]」。そのような表象空間から表現を解放するために、彼は荘子を参照する。

荘子は、木や石を単に「木」や「石」としかみなさないとき、木や石をほとんど見たことにならないという。木や石は木や石であると同時に木や石ではない。つまり木や石といえどもそれは規定性をこえた天空にも等しい計り知れない宇宙である、との見方を示している。木や石が単に「木」や「石」にしか見えないとき、見る者はそこで「木」や「石」という像の対象化された己れの理念の凝固物をみているにすぎないということ[10]

しかし管理された同一な情報と大量生産による産業社会では、日常の地平で「像の対象化」という規定性を越えた世界に気づくことは難しい。表現の今日的な喚起性を獲得するためには、「物事を表象空間からズラして、その外部性に息を吹き込むこと。そしてそこに他者性を認め、向こうからとこちらからとが出会う鮮やかな関係の場を開くこと(……)そこらへんのあるがままを「アルガママ」にズラすことが表現行為、作品制作となり、それによってあるがままが反省的に知覚されるということである[11]。」

時代性の中での感受性

だが李のテキストのもう一つの重要なポイントは、このズラすということ、つまりあるがままの世界との出会いをもたらすための仕草は、時代状況によって異なるという冷静な認識であろう。《位相‐大地》が、なぜ円筒形の凹と凸の姿形でなければならなかったか。「太古人であれば多分、ただ無造作に土を掘って、それをそのままそばに置くだけで、それで出会いが可能で」あったかもしれない。実際、吉田はそのように提案したのである。しかし関根は厳密な幾何学的形態とヒューマンスケールを越える大きさを取らなければならなかった。「それが、今日という時代状況の知覚の様式、出会いを感得可能にする自己限定の仕方において[12]」必要とされたからである。

関根のスポンジの上に重い鉄板を載せた《位相‐スポンジ》も「原始人であれば、ドルメンのようにただ岩を積み重ねるだけでよかったかもしれない。今日という産業社会においては、それが円筒のスポンジに鉄板ということで、より自然な様相感を覚える[13]。」

また李は「媒体にとって時代性は、それが生きた構造になるかオブジェと化すかに関わる重大な問題である。時代性に欠けた媒体は、了解事項のような認識の対象であり、すでに擬制化されたオブジェにすぎない」とも主張する。トポロジックな空間からあるがままの世界との出会いへの転換点は、いかにも産業社会の中のある時点でしか起こりえなかった事件であったというわけだ。小清水がその転換点を「現地での肉体労働で体で感じ取った」と語っているのも[14]、原初性への回帰などではなく、あくまでも美術を巡る時代状況の中での言葉なのである。「その時代の自覚のあり方としての表現でなければ、またはその時代の感得の形式が反映されなければ、なんら知覚感官を触発することができず、媒介性を発現することが困難な、それゆえ単なる日常茶飯事と誤解され見過ごされる結果を招くのみであろう[15]。」

だがもの派にとっての媒体とは、なによりも社会の中での常套的な意味から逸脱した生な物質であったはずである。彼らがしばしば異なった物質感をもつ素材を、とりわけ自然素材と工業素材とを唐突に組み合わせてみせるのは、相互的なズラしによってそのあるままの姿を露呈させるための工夫であるといってよい。関根の画廊の中に持ち込まれた不定形の油土やスポンジと鉄板との組み合わせ、ステンレスの柱の上に載せられた巨大な自然石、小清水の軽やかな和紙の袋の中の重い石などにも、そうした意図がうかがえるが、李の場合はより鮮明である。綿と鉄板の組み合わせは極端な距離をもったものの組み合わせであり、その直接的な対比によって相互の名称が剥ぎ取られ、裸形の物質が生々しくもまた珍妙に立ち現れているのである。またガラス板の上に置かれた自然石もナンセンスといえばナンセンスな組み合わせであって、ただそれがそうなっているだけといったリテラルな光景ではない。

名称を剝ぎ取られた物質の直接性を彼らはしばしば「シビれる」「ゾクッとする」「ドキッとする」といった感覚的な言葉で表現する。李の「出会いを求めて」が発表された美術雑誌に同時に掲載された彼らの座談会[16](「〈もの〉がひらく新しい世界」。小清水、関根、菅、成田克彦、李。ちなみに時期的に見てこのタイトルがもの派の名称の元になった可能性がある)にも、各自の口からこれらの言葉が頻出するが、感覚的な表現であるだけに、いま読み返せば彼らの生な物質を捉える感受性が時代性(産業社会)の中での反応であることをより明確にしているように思われる。

極限的な「在る」状態

李が司会したこの座談会はもの派の大半が参加しながらも、話自体はあまり嚙み合わず、やや散漫な印象を与えものであった。特に菅の「ものは見えないものやつくれないものに入っていく出発点であるはず」という発言と李の「あるがままを顕わにする在り方をきわめるとき、はじめて見えないものが見えてくる」という主張とは、微妙にすれ違っているのである。

菅は李と並ぶもの派の論客だが、両者は何も対立的な関係にあったわけではない。「Tricks and Vision」展やアイディアを競い合うような「ジャパン・アート・フェスティバル」展に出品してひどく絶望を感じていた[17]という彼にとって、「観念操作そのものの表象化」は、他のもの派の作家と同様、克服しなければならない切実な課題であった。

前述の雑誌の同じ号には菅も「状態を超えて在る」というテキストを発表しているが、近代主義的な意識の表象作用を徹底的に批判するという前提においては、菅と李はほぼ立場を同じくする。菅もまた「新しく造りかえること、あるいはまたなにかしら構造的な組立の中に、ある実在感をぶちこんでユニークなしろものにする加虐的性格を抹殺」すると記している[18]。「造形者は少なくとも何かしら物を造る潜在的な意識なり観念性なりを捨て切ることから始めなければならない」のだ。

その上で、菅は「有る」状態と「在る」状態を弁別し、人間の観念思考の有無に重点をおいている前者から、そうした意識を消滅させた後者への移行を主張する。「『在る』ということは(……)現に見えている事物のまさしくあるということにほかならない」。「通常のわれわれが認識している一般的な物のある状態から」「その物の極限的な『在る』状態に置き換えること」が「人が物を造る意識をのりこえる糸口ではないだろうか[19]」。

この点については、つまり「あるがまま」ではなく「在る」という言葉を提出していることに関しては、両者の微妙ではあるが重要な違いが見られると言わなければならない。李のあるがままの世界との出会いのためのズラしが、事物の相互的な関係性を認めている(リレーショナルである)のに対し、菅の「極限点的な『在る』状態」ではもはや事物の関係性は成立しえないのである。座談会での「見えないものに入っていく」という菅と「見えないものが見えてくる」という李の発言のすれ違いは、実はそのことに関わっている。

「物が一般的にある状態から極限としての『在る状態』を認識するには、媒体として人の行為を必要とする[20]」と述べているように、菅は何も行為自体を否定しているわけではない。だが菅にとってその行為とは端的に「放置」と呼ばれるべきものであった。李のいう「ズラし」も媒体としての人の行為であるが、放置とは異なってそれは新たな「見える関係性」を発生させてしまう。

そこにあるものを「見られぬ」ようにするにはどうすればよいか。翌年(一九七一年)に書かれた「放置という状況」と題されたテキストの中で菅はこう記す。

それはまず、芸術品を見せる一連の示し方である「置くこと」、「提示すること」をやめるべきだ。そして新たにものを「放置」する以外にない。この「放置」というのは、なにも、実際に見えている事物を、これみよがしにバラまいて置くことでも、いかにも人の目につかないように床や地面に放り出して置くことでもない。私がいう「放置」とは(……)ものや状況の概念を、今までの芸術の体系の外におこうとする意である[21]

時としてものの雄弁さは人間の語り口をしのいで、人の想像力よりももっとイマジナティヴになりやすいのであるから、最初にもの自体の持つイマジネーションを抜きさしならぬ状態でぶち壊さなければならないのであった。あげくのはてに私は、ものとその状況を放置しなければならなかったのである[22]

李がものの名称を剥ぎ取るために関係性をズラしたのに対し、菅は放置によって「ものの無名性の状態」を直接的に認識しようとしたといってもよいだろう。出会いのための新たな関係性の発生が否定されていないからには、李の初期の作品にしばしばナンセンスな組み合わせが見られる(もちろんそれはシュールリアリズム的な意図的な唐突さの効果とは無縁であるが)のも、当然といえば当然であった。一方、菅にとって、放置された状況とは、自然と等価な状況(彼自身のことばによるならば「自然といわれるものと同種位相の根」)であり、無名性のままに沈黙しているのである。

内なる近代主義批判

もっとも菅にとっての「見えないもの」が近代主義的な眼差しの対象であることの否定であり、「放置」が操作の主体としての自己という近代主義的な立脚点の否定であった限りにおいては、李のいう「ズラし」や「見えないものが見えてくる」という発言との間に、字面ほどの隔たりがあったわけではない。

その意味では、両者の思想は七〇年前後の学園闘争の性急なる自己否定のスローガンとも呼応するものでもあったはずである。実際のところ、多摩美術大学でも学生たちの手でバリケードが組まれ先鋭な運動が展開されていたのである。他の作家も含め、もの派のメンバーは総じて政治には無関心のいわゆるノンポリ層であり、そのことで闘争の渦中の学生たちの反発を買ってもいたが、少なくとも近代主義批判の位相においては、自己の内なる近代を否定せよという学生運動のラディカリズムと同時性を共有していたと言いうるように思う。

事実上はもの派のセレモニーであったといってもよい先の座談会が開かれた一九七〇年は、高度成長経済を象徴する大阪万博(この会場で関根は《位相‐大地》を再制作している)が開催された年であり、また三島由紀夫が自ら主宰する右派組織(「楯の会」)のメンバーと東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乱入し、天皇を中心とした国家樹立のクーデターを呼び掛けて割腹自殺した年でもあった。

須田国太郎にとってはあくまでも外部の模倣の問題であった文化的コロニアリズム批判が、もの派では外部性を解消してしまった近代主義批判として捉えられているのは、三〇数年という時間の経過もさることながら、こうした状況を受けての話である。

あえて図式的にいうならば、経済的勝利によって日本の近代は国際的にもっとも成功した近代と見なされていた故の逆説として、もの派の日本の近代批判は近代批判そのものへと一般化されてしまったのだ。コロニアリズムという言葉を用いるなら、その文化的侵略性が、被害者ではなく加害者のものとして批判されていたことになる。

切花的芸術批判という須田的な不毛の反省を繰り返すことなく、もの派が批判の先の道筋を思想的な内実において示しえたのは、前提となる日本の近代が特殊視されなかったからである。自らの内なる近代とは、日本の近代ではなく、近代そのものなのだ。

彼らは近代主義美術を正面に見据え、その対立項をたてようとしたのであって、純粋な文化を得るために欧米の影響を引き算しようとしたのではない。菅のいう放置はまさに「『放置』されずにある状況に真っこうから対峙した位置にものおよびその在る状況を移すという意味」でもあったのだ[23]

しかし冒頭に述べたように、結果的にはもの派は例外的なまでに鮮明に日本的、東アジア的な固有性を掲げた運動とならざるをえなかった。なぜなら対立項という問題の設定自体のなかに、それはあらかじめ避けがたく刻印されていたのだから。

酒井直樹が的確に指摘しているように、アジア人はアジアを否定的な前提なしに、直接的に語ることはできない[24]。アジアとは一つの否定、一つの抵抗そのものであり、逆にいえば否定や抵抗のあるところに、自ずとアジアは立ち上がるのである。その否定や抵抗の対象が西洋から近代主義に入れ替わったところで、事態はかわらないだろう。おそらく出自の文化とはそうしたものであるのかもしれない。私たちは他の文化への対立項として生まれ、育たざるを得ないのだ。もの派の作家が批判の先の道筋を語ったとき、彼らは紛れもなく日本的、東アジア的な芸術観、自然観の核心に属するものを語ってきたのである。

傾向の異なるもの派の作家たち

ここで少しく傾向の異なった他のもの派の作家たちを紹介しておこう。榎倉康二は東京芸術大学の油画科の出身であった。多摩美術系の作家たちとはやや距離を置いた場所にいた。榎倉は彼らのようなもののリテラルな状況には関心がなく、むしろ土、コンクリート、油、布、フェルト、皮などの素材を即物的に扱うことで、その物性に視覚的、触覚的な強度をもたせるという方法を取っている。

彼の作品に見られる油の浸透や土のひび割れといった現象は、自然の状態というよりも意志的に侵された領域であり、見る者には身体的な緊張感をもって受け取られる光景でもある。一九七一年のパリ青年ビエンナーレで、榎倉は二本の樹木の間をモルタルを塗ったコンクリート・ブロックの壁で埋めるという作品を制作したが、木立の中の空間を遮蔽する荒々しい物質をもった壁は、やはり環境に介在する意志を感じさせずにはおかないものであった。榎倉にとっては、物質との関わりは、自己の存在を確認するための行為であり、ある意味での寓意性を帯びているのである。

同じ大学で榎倉の後輩であった高山登の場合には、さらに寓意性が強い。彼は一貫して枕木を素材にしているが、防腐剤のタールで黒ずんだこの不穏な物体は、強く即物的な感触を有すると同時に、鉄道や産業、さらには日本の近代化の過程でのコロニアリズムの犠牲者といったコノテーションをはらまざるをえない。枕木はいわば媒体でありながら社会的な記号でもあるのだ。高山の作品のこうした両義性はもの派の中にあっては極めて例外的なものであるが、作品があくまでも状況の提示であることや内在化された近代主義批判という点では、大枠としての時代精神を他の作家と共にしていたというべきだろう。

成田克彦もまたもの派の中では異質の存在だが、作家としての主体性を可能な限り削減し、ものとその状況を直截に提示しようとした姿勢においては、運動の一環と見なされてよい。彼の代表的なシリーズである《SUMI》は、大きな木塊を炭にしただけの作品だが、あえて造形的な意図が介入しえない炭化現象という方法を取ることによって、寡黙だが傲然としている物体としての存在感を出現させることに成功している。

最後に付け加えておけば、ここに紹介した作家たちは、李と小清水を除けば、いずれも美術大学の絵画科の出身であった。そのことの意味は過大視されるべきではないかもしれないが、制作の概念を一挙に覆しえた背景の一つに、彫刻的な素材観とは当初から無縁であったことが挙げられるようには思う。彼らの前には、元より美術の制度を免れた物質がころがっていたのである。

 

[1] 須田国太郎「我油絵はいずこに往くか」『みずゑ』一九四七年一一月号、一九頁-二一頁、美術出版社。

[2] たとえば小清水漸は、ある時期までもの派と呼ばれることに抵抗感を覚えていたという。筆者による小清水漸へのインタヴュー、二〇〇〇年九月五日。

[3] 筆者による関根伸夫へのインタヴュー、二〇〇〇年一一月二三日。

[4] 筆者による関根伸夫へのインタヴュー、二〇〇〇年一一月二三日。

[5] 李禹煥「存在と無を越えて――関根伸夫論」『みずゑ』一九六九年六月号、五二頁、美術出版社。

[6] 筆者による李禹煥へのインタヴュー、二〇〇〇年九月五日。

[7] 李禹煥の記憶による。同上インタヴュー。

[8] 筆者による小清水漸への前掲インタヴュー。

[9] 李禹煥「出会いを求めて」『美術手帖』一九七〇年二月号、美術出版社。ただし引用は『新版出会いを求めて』二〇〇〇年、美術出版社への採録から。四九頁。

[10] 同上書、五六頁。

[11] 同上書、五七頁。

[12] 同上書、六六‐六七頁。

[13] 同上書、六七頁。

[14] 筆者による小清水漸への前掲インタビュー。

[15] 李禹煥、前掲『新版出会いを求めて』、六八頁。

[16] 「〈もの〉がひらく新しい世界」『美術手帖』一九七〇年二月号、美術出版社。

[17] 筆者による菅木志雄へのインタビュー、二〇〇〇年一〇月二〇日。

[18] 菅木志雄「状態を超えて在る」『美術手帖』一九七〇年二月号、二九頁、美術出版社。

[19] 同上書、二九頁。

[20] 同上書、二九頁。

[21] 菅木志雄「〈放置〉という状況」『美術手帖』一九七一年七月号、一四五頁、美術出版社。

[22] 同上書、一四七頁。

[23] 同上書、一四五頁。

[24] 酒井直樹「誰が『アジア人』なのか?」『世界』二〇〇一年一月号、二三六頁、岩波書店。

 

初出:建畠晢「基調講演 もの派――近代のアポリア」、鎌田東二編著『モノ学・感覚価値論』晃洋書房、2010年、8‐26頁。なお本稿は2001年にケンブリッジ大学の付属美術館、Kettle’s Yard Gallery で開催されたもの派展のカタログに掲載されたテキストMono-ha and Japan’s Crisis of the Modernの和文原稿を講演にあたって微修正したものである。

著者: (TATEHATA Akira)

1947年京都生まれ。早稲田大学文学部卒。
新潮社「芸術新潮」編集部、国立国際美術館主任研究官、多摩美術大学教授、国立国際美術館長、京都市立芸術大学長をへて2014年より多摩美術大学長。埼玉県立近代美術館を兼任。全国美術館会議会長。
1990年、93年のベネチア・ビエンナーレ日本コミッショナー。
2001年の横浜トリエンナーレ、2010年のあいちトリエンナーレ芸術監督。
美術評論集に『問いなき回答』、『未完の過去』
詩集に『余白のランナー』(歴程新鋭賞)、『零度の犬』(高見順賞)、『零度の犬』(萩原朔太郎賞)など。