【会員短信】「現地でわかる韓国美術の重層性」古川美佳

今年夏から初秋にかけて韓国を訪れる機会がたびたびあった。そして改めて、朝鮮半島における美術が一筋縄ではいかない重層性を帯びていることを実感した。

まず韓国東南部の大邱を訪ねた。ここはソウル、釜山、仁川に次ぐ4番目の人口を有する。朝鮮時代には行政・司法・軍事の要衝として機能していたが、日本の植民統治により内陸侵奪の拠点へと変貌させられた。その大邱は軍事独裁を振るった大統領・朴正煕の保守的な地盤とばかり思っていたが、実は1919年大邱3.1万歳(独立)運動や1960年4.19革命の起爆剤となった2.28学生運動など、救国の精神で抵抗運動を実践した中心地でもあったのである。さらに韓国財界をリードする「三星(サムソン)電子」発祥の地でもあり、新種の文化を取り入れ韓国美術界の礎を敷いた。イ・ゴニ(李健煕)サムソン会長の死後2020年に公開された「李健煕コレクション展」(国立現代美術館、国立中央博物館等に寄贈)には観客が殺到した。一方、地元の大邱美術館所蔵の現代美術資料展《1970-80 現代+美術》により、大邱では実験的な小グループ活動が活発で大阪等日本との交流があったこともわかった。

つぎに「光州ビエンナーレ2024」[1]が開催された光州市、その東北部光山区月谷洞に「光州高麗人村」がある。高麗人とは、20世紀初めロシアの沿海州に移住し、朝鮮人として活発な独立運動と経済活動を営んだが、ソビエト連邦時代スターリンによって1937年に中央アジアへ強制移住させられた人びとだ。ながらく異邦人として生きてきたが、旧ソ連崩壊後、韓国政府の「在外同胞法」により高麗人の入国が許可され、祖国に帰還しはじめた。2000年代からは職を求めて自動車など製造業が盛んな光州に集中して住むようになった。

ロシア語の看板やスーパーが並ぶ一角には高麗人文化館があり、そのすぐ近くに住むカザフスタン国籍の「高麗人」画家ヴィクトル・ムン氏のアトリエを数人の研究者と共に訪問した。ムン氏は1986年頃から韓国を行きし始め、独学で韓国語を習得したというが、代表作「1937強制移住列車」のごとく、その話からは「カレイスキ―」と呼ばれる高麗人たちの過酷な生が伝わってくる。現在、光州にきてようやくゆっくり絵筆をとることができたと笑っていた。

最後に済州島での出来事だ。済州旧市内のギャラリーにおける「脱北者アーティスト」ソンム氏の個展へと向かった[2]。オープニングには、朝鮮民主主義人民共和国からの「脱北民(離脱民)」の支援を行っている韓国政府統一部傘下・南北ハナ文化財団のメンバー数人も参席していた。そのうちの財団次長と、同行していたひとりの画家もともに「脱北者」女性だった。済州島こそが「済州島4.3事件」でイデオロギー闘争の果て多くの犠牲者を出し、南北分断を固定化していく起因となった地であるが、そこに北から南に離脱してきた者たちが3名も集ったというのは、なんともいえぬアイロニーだった。

このように一口に韓国美術といっても、日本の植民地、分断、民族離散など共同体の亀裂を経験せざるをえなかった表現者たちが混在している。私たちはそうした隣国の重層的な芸術文化の様相を見つめ、彼ら表現者たちを応援していきたい。

 

[1]日本パビリオンについては以下を参照https://bijutsutecho.com/magazine/review/29648

[2]脱北者アーティストと韓国美術の様相については以下を参照。https://bijutsutecho.com/magazine/insight/28175?preview=5eeac9fa30fc93d169fd822ab5dbf5ee