元読売新聞美術記者であった安黒さんが今年四月にお亡くなりになった。亨年 86 歳であった。美術評論家連盟から訃報を受けてそのことを初めて知った私は、氏に再びお目にかかる機会が失われたことに愕然とした。まことに慙愧に堪えない。私は氏ともう一度お酒を酌み交わしたいと勝手に思っていた矢先のことであったが、思えば氏はとてもそんな状態ではなかったことと知り不明を恥じた次第である。今は氏の新しい世界でのご幸福を祈るばかりである。
安黒さんは京都大学文学部をご卒業後、1960 年に読売新聞大阪本社に入社され、1970 年頃から 1997 年に退社されるまで 30 年近く文化部で美術記者として活動された。
当時マスメディアは伝統的な美術や日本画、洋画といった既成の美術ジャンルから現代美術へと注目を移しそれを紹介、批評する活動が活発となっていきつつあった。在阪各紙でも朝日を先駆けとして産経、毎日など各紙が活発な活動を展開していたが、そんな中で読売の安黒さんも村岡三郎、福岡道雄、河口龍夫、新宮晋などの関西の有力作家を中心に若手の美術家も取り上げ批評を展開されていたことを記憶している。また美術館の活動についても積極的に紹介され、私が勤務していた兵庫県立近代美術館も数多く取り上げていただいた。
のみならず私にとって特別に恩恵を被ったことは、私などの美術館の若い学芸員に紙面を提供して展覧会評などの美術批評記事を書かせていただく機会を得たことである。榎忠や池水慶一など当時最先端の前衛美術家や、八十年代の関西ニューウェーヴを紹介させてもらったことが記憶に残っている。
さらには、「ミニ作家論」という欄を設けて関西の若手を中心とした現代美術の美術家の簡単な紹介を、私や同僚の中島徳博さんや途中からは国際美術館の建畠晢さんも加わって執筆させていただいたことである。作家や作品との出会いや美術記事執筆の勉強もさせていただき大いに感謝している。まだ三十代であった若い私たちにそのような機会を与えていただいたことはまことに恐縮至極である。今から思えばそれに対して色々な方面からの批判もあったかと思うが、安黒さんは敢然とこれを貫徹してくださった。
改めてお礼の言葉を申し上げるとともにご期待に十分お応えすることができなかったことを恥じて、遅ればせながらのお別れの挨拶としたい。