【特集】「いまなぜ、「政治と芸術」なのか 日本の美術界における「抵抗の政治」についての覚え書き」土屋誠一

 いまなぜ、「政治と芸術」なのか。今年、結成70周年を迎える美術評論家連盟は、その結成のタイミングを思えば、日本の「敗戦」と無関係ではないように思われる。1951年にサンフランシスコ講和条約が締結され、翌52年に発効されることにより、敗戦国日本は「主権回復」を果たすことになった。戦後民主主義の体制を伴いつつも、国際社会に主権国家として参入していくことは、美術界における動向とも並行しているであろう。このことは、美術評論家連盟(あるいは国際美術評論家連盟日本支部)の結成と無関係でないことは、連盟のウェブサイトにも記載されていることである[註1]。現在、評論家という職能集団という側面の強い連盟ではあるが、結成当時は、戦後の「国策」上の必要性から、設立に至ったという側面は無視できない。私はいまここで、「国策」についての是非を問いたいわけではない。文化政策において、当該専門家が諮問的な役割を担うことそれ自体は、必ずしもおかしなことではないからだ。しかし、戦中から戦後にかけての美術評論、美術行政を担った人々によって結成された連盟は、その戦中における責任を、ほとんど問われることはなかったように思われる。文学において、それが厳しく追及された(もちろん、具体的な成果があったかどうかは、子細な検討が必要であると思われるものの)「戦争責任」[註2]が、果たして美術評論という分野において、問われたことがあったか。もちろん、治安維持法が苛烈化していくなかでの言論統制と、大政翼賛の政策が強まる渦中において、獄中で非転向を貫いた(その評価も、是々非々ではあれ)共産主義者でもない限り、時局に抗うことが困難であったことは、差し引いて考えなければならない。けれども、連盟の結成メンバーの一人であり、戦後の「前衛」、そして今日に至る「現代美術」に伏在している前衛の、その戦後における、最も重要な牽引者であった瀧口修造ですら、戦争責任から逃れているわけではないことは、注意しておきたい[註3]。ここ20年ほどで、すっかり「再評価」が、良くも悪くも為されてしまった藤田嗣治ひとりをスケープゴートにし、占領下の戦後日本において、そのような日本に見切りをつけるように、早々と1949年に日本を発った/断ったその藤田を、当時の評論家の誰が擁護しようとしたのか、少なくとも私は、不勉強なせいであろうか、知るところではない。

 本特集は、国立西洋美術館で開催された「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」展のオープニングにおける、当該美術館のオフィシャルパートナーである川崎重工業および美術館に対する、イスラエルのパレスチナへの軍事的ジェノサイドに抗議をする、美術家たちのアクションに触発されてのものである。美術評論家連盟からも、「ガザ戦争に対する意見表明」[註4]を発出したが、言論を旨とする美術評論家連盟は、美術家たちのリスクを賭けた直接行動に対して、遅れをとった感は否めない。即座の行動がすべて正しいとまでは言わないものの、さりとて、美術家たちが緊急のアクションを起こしている一方で、美術評論家は、いったい何をボヤボヤしているのだと誹りを受けても、致し方ないように私は思う。それゆえに、本特集は、パレスチナのジェノサイドに限らず、美術評論という職能に基づいた上での、遅ればせながらの応答と位置付けるものである。「政治と芸術」とは、古いながらも、いまだなお喫緊の課題として、眼前にある。拙文は、その古くて新しい課題のイントロダクションを成すことを、望むものである。

 「芸術のための芸術」(l’art pour l’art)という言葉がある。近代以降に取り組まれた、この立場は、芸術の自律性を確保するための、至上課題としてあった。これは、近代以降に世俗化しきった芸術を、同じく世俗的な領域にあるその他諸々(ひとまず「社会」と呼んでおく)から切断するための論理として、展開されたものであると言っていいだろう。私もまた、芸術の自律的な領域が存在することを疑うものではない。しかしながら、この「自律」とは、例えば悪しき意味における「私小説」的な自閉、すなわち、芸術家と芸術作品それ自体を一致させると「見せかける」ことが善であるといったような、芸術理解を導いてきたのではなかったか。逆に言えば、芸術(家)は、芸術のゲットーに居ればよく、わかりもしない「政治」に手を出すな、とでもいったような、自律どころか社会に寄与するところもない余計者として、自らを囲い込み、また囲い込まれるという地点に、芸術を追いやるばかりではなかったか。社会と芸術、また、広義の「政治」と芸術とは、互いが背反するものであり、不可侵であったほうがお互いにとって望ましい、そのように思い込んでこなかっただろうか。私がここで言いたいのは、芸術が積極的に「政治」に参与していくことが望ましい、ということではない。また同時に、政治にコミットするような、抵抗の芸術のみが素晴らしいと述べたいわけでもない。芸術という生産物それ自体は、生産者や所有者からも切り離され、それが持つ能力を発揮することで、「政治」にかかわる。優れた芸術作品は、それが政治的なメッセージを持っていようがいまいが、そのようにあるはずだし、事実、そのような機能を果たしてきたからこそ、今日なお、芸術の営みは絶えることがない。問題は、本来、社会や政治と、自ずから関わりを持つはずの芸術であるにもかかわらず、芸術に携わる専門家が、その可能性を信じていないように見えること、このことの悪弊が、戦後の日本において、(丸山眞男の比喩を使えば)通奏低音のように継続してきたことにあるのではなかろうか。

 美術の専門家(ここでは広義の評論家を念頭に置いているが)は、芸術と政治(ここでの政治は、文化政策的なものを意味しない)との回路を、積極的に閉ざしてきたように思われる。前衛から現代美術へと連なる美術の領域において、芸術と政治の問題を、実践も含めて明示的に考えてきたのは、針生一郎ぐらいしかいなかったのではないか、と思わずにはいられない。けれども、冷戦崩壊後、断続的ながらも、芸術に携わる人々において、「抵抗の政治」の動きは、徐々に起動し始めたように思われる。1991年には、前年からの湾岸戦争への、日本の資金援助に反対する、柄谷行人らの「湾岸戦争に反対する文学者声明」があった。当時、この声明に対する冷ややかな批判が少なからずなされたが、のちの柄谷の思想的展開を考えれば、単なる勇み足の声明ではなかったことが、理解できる。美術評論家・美術家の動向としては、2003年のイラク戦争(第2次湾岸戦争)への、自衛隊派遣などに反対する、反戦デモ組織が形成された。ひとつは、岡﨑乾二郎らを中心としたRAM[註5]、もうひとつは、椹木野衣らを中心とした「殺す・な」であった。これらは、美術界における、明示的な反戦デモ活動としては、画期をなすものであった。さらに、手前味噌であることを承知で挙げるが、私自身、第2次安倍政権下における、集団的自衛権を認める、安全保障にかかわる憲法解釈の閣議決定を受けて、2014年に、展覧会という形式によるデモとして「反戦」展[註6]を組織した。以上のように、ポスト冷戦の時代において、おおむね10年おきに(あくまで、筆者の主観においてであり、見方によっては、私が見落としている重要な事例もあるかもしれない)「抵抗の政治」としてのアクティヴィティは反復しているとも言えるし、時代状況の変化を考えれば、日本国内に限らず、世界的に考えても、より社会状況は悪化しているとも言えるだろう。

 では、美術の言論における専門家集団として、なにができるのか。本特集は、ささやかながらも、現下の美術界における「抵抗の政治」への応答の試みであり、かつ、周期的にではあれ、持続してきたデモンストレーションの歴史的な展開にふまえた、未来に投げかけられる橋渡しでもあるのだ。

 

[註1]「結成経緯 美術評論家連盟の結成」https://www.aicajapan.com/ja/about/background/

[註2]よく知られた例を挙げれば、吉本隆明・武井昭夫『文学者の戦争責任』(淡路書房、1956年)がある。

[註3]瀧口の戦中の言論活動については、次の拙稿にて、部分的に検討したことがある。「戦時体制下の写真批評 瀧口修造を読む」『photographers’ gallery press』4号、2005年。

[註4]https://www.aicajapan.com/ja/statement_2024_05/

[註5]https://studium.xsrv.jp/demo/contents/index.html

[註6]https://hansenten2014.tumblr.com/