時間ができたときに展覧会を見ているが、1つだけを取り上げ、長い論考を書くには時間も労力もかかる。しかし書かない限りは自分も人も忘れてしまう。もう少し簡易的に、備忘録的にすることで、紹介できなかった展覧会を取り上げていきたい。
一定の期間で開催された展覧会を取り上げるが、その期間中、記事を少しずつ増やしたり、加筆していくこともあるのでご理解いただきたい。
「市制70周年記念展 宝塚コレクション-宝塚市所蔵作品展-」
2024年7月20日(土)~2024年9月1日(日)
宝塚市立文化芸術センター
宝塚市の市政70周年を記念した、宝塚にゆかりのある二人の作家、中畑艸人(なかはたそうじん)と元永定正の展覧会。実は、この展覧会、今年生誕100周年となる白髪一雄の展覧会と勘違いして行ったのだが、同じく具体(美術協会)を代表する作家である元永定正が大きく取り上げられていたのであながち間違いでもなかった。元永定正のユニークさを再認識した展覧会もあった。
元永は、子育てを経験した家族ならわかると思うが、現代美術のアーティストで、これほど多くの人に知られている作家はいるまい。それは元永が数多くの絵本を描いているからだ。私の家でも、ずいぶんと元永定正の絵本にはお世話になった。小児科の病院などにもよく版画が飾られているし、絵本の世界では宮崎駿のようにポピュラーな存在でもある。
プリミティブな線や色と、オノマトペのような言葉は、まだ言葉をしゃべれない赤ちゃんの心には強く響く。ワケノワカラナイ絵ではまったくなく、線と形、色が明確にある種の心の形を象っているようにも思える。それはブーバ/キキ効果のような共感覚的で生理的なものを捉えていることでもあるだろう。ここまでその領域に深く立ち入り、影響を与えている作家はほとんど知らない。
1966年にアメリカにわたり最新の抽象画の動向にも影響を受けたようだが、元永定正の絵は、あえて言えば、冷たい抽象/熱い抽象、ハードエッジ/抽象表現主義という二項対立とは異なる、「おもしろい抽象」といえるかもしれない。漫画家になりたかったと記してあったが、その形や色にはどことなく、キャラクター性や効果線のような要素がある。宝塚市立文化芸術センターに隣接して、手塚治虫記念館があるのは象徴的である。芸術と大衆文化の違いはあれど、広く子供たちに愛された作家である。その他、ひらがなをテーマにしたシリーズやインスタレーション作品も新鮮で面白かった。
もう一人、古典技法で具象的な絵を描いた中畑艸人は、馬の画家と称され、相馬の馬追いやなどに加えて、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争や阪神・淡路大震災の惨劇を、馬に託して描いていた。荒れ狂う現在の世界に生きていたら、何を描いたのか気になった。
生誕100年記念 白髪一雄展 「行為にこそ総てをかけて」
2024年7月27日(土曜日)~9月23日(月・休)
尼崎市総合文化センター 美術ホール
白髪一雄の生誕100年を記念して、生まれ育った尼崎の尼崎市総合文化センター美術ホールで開催されたその「足跡」を辿る展覧会。作品だけではなく、当時の街並みの写真や、生家であった「木市呉服店」にあったアトリエを再現したり、刀剣や能面などの白髪が愛好したコレクション、修行をした天台密教の資料なども展示したりするなど、その人柄もよくわかるものであった。
関西に住んでいる具体(美術協会)の作家はなじみ深い。しかし、本当に詳しく知っているのかと聞かれるとあやしい。おそらく、個々のパーソナルヒストリーはほとんど知らない。これは「もの派」の作家と異なる点だと思うが、具体の作家は、吉原治良を含めて、アカデミズムとほとんど関係がないのだ。京阪神を舞台としていたこともあって、美大で学んだ人も少ないし、その後、美大の先生になった作家も少ない。もちろんいないことはないのだが、京都市立芸術大学のような公立の先生はいなかった。だから、大学と具体の作家が切り離されており、直接接触する機会も多くはなかったというのもある。
具体の代表的な作家である白髪一雄のことをもう少し知りたいと思ったのにはいくつか理由がある。天井からロープを吊り下げ、足で絵を描く、フット・ペインティングで描かれた絵はあまりに有名で、かといって、そこにジャクソン・ポロックのような規則性が感じられず、あまりいいとは思ってなかったのだ。ポロックには、それが抽象画であっても、何等かの美を感じる要素がある。何が描かれているかわからない得体のしれないモノを超える何かである。21世紀になって、ポロックの絵に、数学的な規則、つまりフラクタクルや1/fゆらぎといった、自然界にも見られる規則があることが発見された。
ひるがえって、白髪の抽象画にそのようなものはあるだろうか?荒々しい足跡?を残す絵具のうねりは、画面を不規則に横断し、乗り越え、引き裂き、「規則」といった整然としたものは感じられない。もちろん生々しいパフォーマンスの跡は十分過ぎるほど感じられる。
規則性といったものがあるとしたら何なのか?どのような背景があるのか一度知りたかったのが一つ。もう一つは、密教への関心である。大阪万博のことを調べていると、当時、岡本太郎の《太陽の塔》を含め、密教、そしてその世界観をあらわすマンダラが数多くモチーフに使われていることがわかる。おそらく、アジアで最初の万国博覧会をするに際し、西洋的、もっといえばキリスト教をはじめとした一神教的ではない、アジアを起点とした包括的な世界観をつくる必要性が、それぞれの作家の中に芽生えていたのではないかと思う。
抽象画といった形式は、逆説的にその背景にある精神性を浮かび上がらせる。モダニズムといった無機質で還元主義的な考えに基づいて描かれるだけではなく、戦前における神智学の影響や、マーク・ロスコやバーネット・ニューマンといった、偶像崇拝の伝統のないユダヤ教的な世界観を背景に持つものも多い。一見、表象された絵画が似ていたとしても、その背後にある精神性が異なるといったことがある。その意味で、むしろ普遍的なモダニズム的な価値観とは真逆の心性を明らかにするといってもよい。現代美術においても、日本の多くの画家、芸術家が、仏教の禅や密教への関心を寄せているが、白髪のように、実際に得度し、天台密教の激しい修行をしたアーテイストとなるとほとんどいない。だからそれがどのように反映されているのかも確認したかった。
初期から晩年までを網羅したこの展覧会においては、時代ごとの表現に加えて、関心や心の動きがよくわかるものであった。一見、不規則のように見えたフット・ペインティングは、よく考えれば、ロープを持って絵画の中心に立ち、端まですべってはストップをかけて折り返し、また次の端へ向けてすべらすというある種の規則性がある。そこでは、身体を維持するためのバランス感覚が働いており、その瞬間、うまく描こうというよりも、意識は倒れないようにすることに集中している。白髪が4割が思考(意識的)、6割が肉体(偶然的)といっていたようだが、まさにそのような割合でしかコントロールできないのだろう。
そのように見ていくと、ポロックのような細かい線に規則性はないが、中心から垂直に立ち上がる身体の動きも見えてくる。もともと、貴布禰神社のだんじりで、近所のお兄さんが挟まれてなくなって血の鮮血を見たことが脳裏から離れず、赤、クリムゾン・レーキを使用していたといわれる。また、歌舞伎役者になりたかったという白髪は、歌舞伎や能狂言、水滸伝といったものを好み、ある種の演劇的、格闘技的な要素があるのは確かだろう。まさに、「アクション」のぺイティングなわけである。
密教への関心は、60年代後半で比叡山延暦寺で得度したのは1971年。万博も閉幕していて、1972年には吉原治良は亡くなる。アヴァンギャルド芸術は、学生運動や万博を境に変容し、コンセプチュアルやミニマルな観念的なものが主流になっていった。より宗教的な探求をしていく白髪とは対照的であっただろう。比叡山で激しい修行をしたようだが、その本質は変わってないように思える。ただ、やはり精神性の追求をしないで、抽象画を描き続けるのは、ある意味で難しいのではないかとも思えた。作品としては、たしかにダイナミックなフット・ペインティングの方が迫力があるが、本格的な天台密教の修行の末に描かれたある種の「仏画」にも独特な魅力があると思った。仏画のような具象性はないが、白髪流の「梵字」のようにも見える。
相当な宗教的な知識と経験を得て、それがどのように反映されたのか、もう少し見ていく必要があるが、近年、ようやく西洋的な価値観が相対化され、各地の価値観が重視されるようになっており、白髪の70年代~80年代の探求は再評価してもいいのではないかと思う。白髪以上に抽象画で世界に評価された日本のアーティストはほとんどいない。それは白髪が西洋とはまったく異なる精神性を背景に持っていたことも大きいのではないか。