今年(2024年)10月に亡くなった高階秀爾先生を偲ぶ駄文をずっと書こうと思いつつ、今日=大晦日になってしまいました。本当に雑文になってしまいましたが、ご容赦ください。
高階先生の業績は、西洋美術史を中心とした膨大な量の著書、西洋美術ばかりか日本美術にも深い造詣をもって顕彰してきたこと、美術史家と美術評論家をクロスオーバーした活動をしていたこと、ほんの1年前まで大原美術館の館長として積極的に活動なさってきたことなど、すでにほかの多くの方が書かれております。本当に計り知れません。
私はたまたま大学時代に在籍した学科で高階先生が教授をされていたおかげで、講義を取ったりゼミ授業で発表を聞いていただいたり研究室の関西方面の旅行でご一緒できたりする機会がありました。今考えると、何とありがたかったことか。著書も一部しか読んでませんが、1960年代に書かれた内容がまったく古びずに説得力をもって語り続けていることに、しばしば驚愕しておりました。
さて、自分にとって一番影響が大きかったのは、「日本近代美術史論」(1972年、講談社)で高橋由一や黒田清輝らとともに、日本画家の菱田春草を取り上げていたことです。西洋美術史の研究者であるにもかかわらず、というよりも、だからこそお取り上げになったのかと思うのですが、明治に入って激しく流入した西洋美術と対抗する形で成立した「日本画」という枠組みの中で、その最先端を走ったのが、菱田春草でした。私が在籍した美術史学科で京都旅行に行った折にまた運よく菱田春草展をやっていたのですよ。京都市美術館(現・京都市京セラ美術館)だったと思います。高階先生が研究対象に選ばれていた画家だったからこそ、見学コースに入れたということもおそらくあったのではないかと想像しています。それまでは横山大観は知っていても菱田春草のことは知らないという、無知な学生でした。そして、その場で菱田春草に一目惚れしました。
その時の展示作品の中でも、特に引き込まれたのは《菊慈童》(飯田市美術博物館蔵)でした。いわゆる「朦朧体」と当時の批評家に揶揄された作品です。おぼろげな記憶では東京美術学校の卒業制作《寡婦と孤児》(東京藝術大学蔵)も展示されていて、すごみを感じました。逆におそらく展示されていたであろう《落葉》(永青文庫蔵、重要文化財)や《黒き猫》(永青文庫蔵、重要文化財)の記憶は薄く、その素晴らしさを実感するのはもっと後の時期になります。また、《菊慈童》が飯田市民の間でも人気が高い作品であることも後で知りました。おかげさまで取るに足らないものしか書けなかったとはいえ、菱田春草を卒論のテーマにすることもかないました。
今改めて、「日本近代美術史論」の菱田春草の章を読むと、「少なくとも「落葉」が、洋画をも含めて、明治の日本近代絵画を代表する最もすぐれた作品のひとつであることは、誰しも異論のないところであろう」と書かれています。先に書いたように実は京都では《落葉》の記憶が薄かったのですが、その空間構成の妙に限りなく深く私が感じ入ったのは比較的近年、この作品が東京国立近代美術館で展示されたときのことでした。ようやく「異論のない」水準の見方をする境地に達したわけですが、その経験が、高階先生の導きに始まるものだったことを思うと、感無量になりました。少し前には東京藝術大学大学美術館で《水鏡》(東京藝術大学蔵)という、朦朧体を創始する直前の大作を見て、その力に打ちのめされました。
ちなみに、菱田春草はやはり今の若い方たちにとっても魅力的なようで、私が大学で教えている中でもときどき論文のテーマにする学生がいます。こうして同じ画家への関心が連綿と続いていくのも何だか、素晴らしいことだなと思うのですよね。
高階先生と最後にお会いしたのは、今年5月、日経日本画大賞の表彰式でした。車椅子には載っておられましたが、このときも審査委員長、つまり現役の批評家として活動をなさっていたということです。表彰式では、地方の学芸員の大切さなどにまで言及したスピーチをありがたく聞くことができました。何よりも、歴史の研究者でありながら、現代の美術家を最前線のポジションで顕彰し続けてきたというのが素晴らしいですね。