急激に電化する都市と景観美の行方『電線絵画』三木学評

電線絵画
電線絵画
著者:練馬区立美術館
出版社:求龍堂
単行本(ソフトカバー) 176ページ
発売日:2021/03/12

近年、美術館で開催される展覧会カタログは、指定管理者制度のような民間委託の運営が増加したからか、美術系の出版社と組んで、市販流通される場合が多い。かつてなら、美術館まで行ってバックナンバーを購入したり、問い合わせて、現金書留を送った後に、送付してもらっていたことを考えると、その点ではとても便利になっている。

本書『電線絵画 小林清親から山口晃まで』は、2021年2月28日から4月18日まで、練馬区立美術館で開催されていた同名の展覧会の公式カタログになる。この展覧会は、SNSでも注目されており、関心をもっていたが、何分関西在住のため、特にコロナ禍のような状況では東京まで展覧会を見に行くハードルは高い。美術館で得られる身体全体で空間を味わう体験は当然、カタログで代替されるものではないが、現代アートで見られる空間全体を占めるインスタレーション、あるいはインタラクションや協働を伴う作品とは違い、平面作品に関しては、カタログで得られる情報は十分とまではいかないが随分と助けになる。空間を使った作品などは、今後、展覧会記録映像やVRなんかがセットになるとさらによいだろう。

「電線絵画」はその名の通り、明治以降に、日本全土が電信化、電化するに伴い、電信柱・電信線、電柱・電線が張り巡らされていく風景を描いた作品を集めたものだ。近年この電柱・電線は、景観を悪化させる原因の一つとされ、とかく疎まれることが多い。つまり、近代化の残滓であり、現代に変わり損ねた証拠というわけである。電柱・電線が建設される明治・大正期には、生活に電化をもたらすものとして、歓迎されていた面がある。現在においては、景観美を壊す存在という見方がある一方で、日常的な風景として時間を経ており、違和感よりもむしろ哀愁を覚える人々も多いだろう。すでに日本人の心の風景に刻まれている。景観美といっても、時間とともに変わるものであり、普遍的なものではないのだ。

例えば、秋丸知貴が指摘するように、印象派だけではなく、セザンヌも好んで鉄道などを描いている。エッフェル塔がギ・ド・モーパッサンらのような知識人から疎まれていたのは有名な話だが、後にパリに欠かせないシンボルになった。ベッヒャー夫妻は、給水塔、溶鉱炉、冷却塔、精製工場などの工業的建築物をカタログにように撮影して、日常的で非美的な目的で作られたアノニマスな人工物の「美しさ」を逆説的に証明した。我々の持つ美しさの感性は、技術と環境の変化によって、常に更新されていることを自覚すべきだろう。

この展覧会カタログでは、明治初期から現在まで146点、小林清親、河鍋暁斎、月岡芳年、高橋由一、岸田劉生、松本俊介、伊東深水、川瀬巴水、石井柏亭、佐伯祐三といった近代絵画で著名な作家から、山口晃、益村千鶴、坂本トクロウといった現代アートの作家まで、約60名の「電線絵画」が紹介されている。

なかでも象徴的な作家は、輪郭線を用いず、電化していく風景を描き、「光線画」と言われた小林清親、「新版画」と言われ繊細な色を多用した川瀬巴水だろう。川瀬巴水は、近年、スティーブ・ジョブズがコレクションしたことでも知られている。ジョブズの洗練された美意識に訴えた川瀬巴水は、美しい景観の「邪魔者」であるはずの電柱・電線を上手く画面の中に入れ込んでいる。

いっぽうで、同じく新版画の作家として知られる吉田博は、巴水とほぼ同じ風景を描きながら、電柱・電線を描きこまなかった。自身の絵にとっても邪魔だと感じたのだろう。ジョブズは巴水を好んで集めたが、勧められても吉田の作品は購入しなかった。なぜシンプルを好んだジョブズが、電線を入れた巴水を選び、電線を排除した吉田を選ばなかったのか。興味は尽きないが、巴水の発色の高い色材を使った配色の巧みさ、繊細なグラデーション、構図など、電柱・電線も自然と同じように組み込む力量の差があるだろう。もっとも、ジョブズ自身のコレクションには、特に電線が描き込まれた作品はほとんどないが、巴水の先端技術を取り入れる姿勢と配色・デザインの妙はどこか共通点がある。

巴水が最も活躍した1920年代から30年代、大正末期から昭和初期にかけて、これは建築やデザイン、ファッションなどを含めて、すべてに言えることだが、産業革命以降の技術革新を、極めて短い期間で取り入れ、政治体制、文化、環境に混乱をきたしながらも、自国で生産体制を整え、消化した時期にあたる。日本よりはるかに時間をかけて発展したヨーロッパでさえ、工業化に対する抵抗はあった。だから日本にないわけではないが、技術発展や新しさに対する関心の方がはるかに勝っていたと思える。巴水は、その新しさの受容とノスタルジックな抒情性の絶妙なバランスをとっているといえる。

戦後、アトリエからの電線風景を描いた浅井関右衛門は、ふたん意識の外側にある電線を、最大限前景化させた油彩を描いている。浅井自身は縦横に走る電線は街の美観を損ねるものと捉えていたようだが、「東京の愛嬌」として、その存在を強調する形にしているのは、電線にアンビバレントな気持ちをいだく現在の我々の心情に近いものだろう。

出品作家である山口晃の寄稿「電柱再考」では、「街に縦横無尽に走る電線は美的景観を損ねるものとして忌み嫌われてき、誰しもが地中化されスッキリと見通しのよう青空広がる街並みに憧れを抱くことは否めません」[i]というこの展覧会の案内文に対して、「電線電柱の悪印象は圧縮写真などで記号的に印象付けられたプロパガンダであり、実風景を虚心に捉えている人は驚くほど少数です」「今の日本で電柱を無くしても「もつ」ほどしっかりした風景は殆どない」[ii]と異を唱えている。

そして、「縦横無尽にはしる電線は美観を損なうどころか、風景を線分し美しいコンポジションを生み出せます。電線は存在自体が既にして絵画の要素の一つである「線」だからです。それらが巧まずして行われるところに電線の導きがあります」[iii]と主張し、「最上部高圧線の描く懸垂曲線、陶制碍子の鮮やかな白、各部材の組み合わせが生む立華の如き空間への干渉力等々」[iv]と電柱・電線が景観美に寄与する要素を細かく挙げている。

この展覧会では、佐賀県有田でつくられてきた、電柱に電線を絶縁固定するための陶器製の碍子の実物などに加え、碍子の形状に注目し、被写体にした玉村方久斗などの作品も展示されており、構成するよう要素に至るまで目が行き届いている。

たしかに、電柱を地中化してしまえば、空を取り戻し、美しい景観が生まれるというのは幻想にすぎないだろう。電柱をとったところで、素朴な風景は戻ってこない。鉄塔や高速道路のジャンクションなどの土木インフラの構造体が写真の被写体として注目されるように、土木工事が浸透し、もはや自然や田園、農村などの調和の取れた風景は日本中にほとんどない。配色の酷い看板でさえ、不況下で真っ白になれば、より殺風景になるという矛盾がある。

昨今では、里山を切り裂く太陽光発電がクリーンの名のもとに、環境や景観を損ねる新たな元凶になりつつあるが、そこに新たな美意識を重ねる人が出てくるかもしれない。あるいは、家単位、街単位で太陽光発電や少水力発電、地熱発電、バイオマス発電とオフグリット、蓄電池が進めば、地中化どころか電線自体いらなくなるという未来もある。電線の存在自体が、本当のノスタルジーになる未来もなくはないのだ。

我々は、近代以前の素朴な風景に戻ることは不可能であり、いまだ電化の進化や変化の波の渦中にいる。そのような葛藤と価値観の変遷の記録として、「電線絵画」は貴重であるし、アクチュアルで批評的な展覧会になっていると思える。

[i] 『電線絵画 小林清親から山口晃まで』求龍堂、2021年、p.144。

[ii] 同前書、同頁。

[iii] 同書、同頁。

[iv] 同書、同頁。

初出:『eTOKI』2021年7月13日公開。

著者: (MIKI Manabu)

文筆家、編集者、色彩研究、美術評論、ソフトウェアプランナー他。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行っている。
共編著に『大大阪モダン建築』(2007)『フランスの色景』(2014)、『新・大阪モダン建築』(2019、すべて青幻舎)、『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020)など。展示・キュレーションに「アーティストの虹-色景」『あいちトリエンナーレ2016』(愛知県美術館、2016)、「ニュー・ファンタスマゴリア」(京都芸術センター、2017)など。ソフトウェア企画に、『Feelimage Analyzer』(ビバコンピュータ株式会社、マイクロソフト・イノベーションアワード2008、IPAソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤー2009受賞)、『PhotoMusic』(クラウド・テン株式会社)、『mupic』(株式会社ディーバ)など。

https://etoki.art/

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