解説「浅香弘能――研ぎ澄まされた大理石の幻術師:『KASHOUMON』シリーズ」秋丸知貴評

 

浅香弘能の『KASHOUMON』シリーズの魅力は、見慣れた視覚対象つまり「仮象(かしょう)」の素材感や重量感を自由に変換する、その非常に理知的でトリッキーな超絶技巧にある。

例えば、発泡スチロールの断片のような《Corner Protection》(図1)、《(C8H8) n》(図2)、《(C8H8) n-2》(図3)、《(C8H8) n-3》(図4)を見てみよう。

 

図1 浅香弘能《Corner Protection》2020年

 

図2 浅香弘能《(C8H8) n》2020年

 

図3 浅香弘能《(C8H8) n-2》2022年

 

図4 浅香弘能《(C8H8) n-3》2022年

 

98パーセントが空気である発泡スチロールは、軽く柔らかくて加工しやすいが、力を加え過ぎると粒の結合に沿って容易にポロポロと分解する特徴がある。これらの作品では、その粒の充填を滑らかに裁断したような表面や、破断面の粒立つ凸凹が、そうした身近によくある緩衝材である発泡スチロールの柔軟感や軽量感を想起させずにはおかない。

ところが、実はこれらの作品は大理石でできている。だから、柔らかいと思って手に取ると意外に硬く、軽いと思ったら予想以上に重い。そのギャップが、一つの芸術上のコンセプトになっている。それに気付いた時、きっと誰もが浅香の石彫に対し、気持ち良く「騙された!」という微笑と、その著しく理詰めで水際立った技術への感嘆の溜息を漏らすだろう。

 

図5 浅香弘能《Secret fossil》2021年

 

図6 浅香弘能《ENKU-1》2021年

 

また、巻貝を模した《Secret fossil》(図5)や、木彫の円空仏を模した《ENKU-1》(図6)を観てみよう。これらの作品を見れば、誰でも、軽く成形しやすい発泡スチロールで、私達がよく知る軽くて硬質な造形物を模作したと思うだろう。

ところが、実はこれらの作品も大理石を彫ったものである。だから、元々硬いものが柔らかそうに見えてやはり硬く、軽そうに思わせて実は重い。ここでも、やはりそのギャップと巧妙さが微笑と感嘆を誘うだろう。

 

図7 浅香弘能《Airsoft Arms〈COLT M1911〉》2021年

 

図8 浅香弘能《DNA》2020年

 

図9 浅香弘能《Rikyu》2020年

 

さらに、BB弾を発射するエアソフトガンを模した《Airsoft Arms〈COLT M1911〉》(図7)を取り上げよう。この作品を見れば、やはり誰でも、軽く整形しやすい発泡スチロールで、自分が子供の頃によく遊んだ重い金属製のエアソフトガンを模造したと思うだろう。

ところが、実はこの作品も大理石で彫り出したものである。だから、元々硬いものが柔らかそうでやはり硬く、元々重いものが軽そうでやはり重い。その感覚のズレと技巧の精密さに対する驚きと感動は、日本刀を模した《DNA》(図8)や、茶碗を模した《Rikyu》(図9)にも感受される。

 

図10 浅香弘能《Air Golem-1〈DQ〉》2022年

 

図11 浅香弘能《Air Golem-2〈FF〉》2022年

 

図12 浅香弘能《Victoria》2019年

 

図13 浅香弘能《Silhouette〈Stand〉Venus》2022年

 

そして、TVゲームのゴーレムを模した作品を分析しよう。「ドラゴンクエスト」のゴーレム《Air Golem-1〈DQ〉》(図10)や、「ファイナルファンタジー」のゴーレム《Air Golem-2〈FF〉》(図11)は、1970年代以降生まれの人間にとっては誰もがよく戦ったお馴染みの敵キャラである。ここでは、その岩石の塊としての頑丈な重量感が忠実に再現されつつ、やはり軽く造形しやすい発泡スチロールで作像されたように感じられる。同様に、原物は重厚な石造彫像でありながら発泡スチロール製彫像のような軽妙感は、写真映像としては誰もがよく目にする、ルーヴル美術館の「サモトラケのニケ」を模した《Victoria》(図12)や、「ミロのヴィーナス」の輪郭を象った《Silhouette〈Stand〉Venus》(図13)にも看取される。

ところが、実はこれらの作品も大理石を切削したものである。だから、ここで表現されているのは、元々仮想的でありつつ硬そうなものが柔らかそうでやはり硬く、また元々仮想的でありつつ重そうなものが軽そうでやはり重いという、複雑な感覚の遊動である。そこでは、視覚と触覚の一致と不一致が休むことなく繰り返され、仮象の硬柔感と軽重感が絶え間なく変転するような錯覚が生まれる。そしてその結果、やはり誰の中にも、浅香の石彫の極めて理知的でありつつ卓抜した技量への驚嘆と讃美が思わず溢れ出るだろう。

◇ ◇ ◇

浅香は、大阪府堺市出身の彫刻家である。堺市は古代から商工業や文化がいち早く栄え、茶の湯を大成した千利休を輩出すると共に、日本刀の一大生産地であった。特に、その優秀な刀鍛冶の技術は、現在でも職人が一本ずつ手作りで仕上げる打刃物に継承され、「堺打刃物」はプロの和食料理人用包丁の国内シェア約90パーセントを占めている。

浅香は、そうした刃物の伝統産業が盛んな堺市で生まれ育った。刀剣や包丁の職人文化や名品は常に身近にあり、武器から美術品へと昇華された日本刀に対する審美眼も幼少時から培われたという。

出自について言えば、浅香という姓は生まれ育った堺市浅香山町に由来し、彼は当地の浅香城の城主だった藤原氏浅香一族の末裔と伝わる。さらに、祖先には新潟県柏崎市周辺の城主もおり、武士だった高祖父は後に宮大工の棟梁として50人以上の弟子を率いたという。

このように、浅香は、血筋的にも環境的にも「物作り」に縁が深く、本格志向であり、日本の伝統的な精神文化を重視している。彼の彫刻が、西洋的な人体造形ではなく、日本刀のような和風の工芸造形をモティーフに美術作品を制作することが多いことにもそうした美学が見出される。特に、浅香の代名詞といえる石彫で日本刀を表現する『KABUKIMON』シリーズ(図14)は、御影石や大理石を一度きり不可逆的に極限まで鋭敏に削り磨く点で、武士の精神性を匠の技術で追求したものといえる。

 

図14 浅香弘能《覚醒 – Rebone》2021年

 

こうして微細な造形を一分の隙もなく的確に表現できるようになる中で、浅香はある時、大理石は表面に精緻な刻技を施すと発泡スチロールのような質感を表現できることに気付く。それを論理的に突き詰め――誰にでも分かる硬柔・軽重が真逆となるモティーフを考え抜いて洗練し――形態のみならず、素材感や重量感をも自由にコントロールする『KASHOUMON』シリーズが新たに誕生したのである(図15)。その過程では、浅香が常に視覚と触覚のリアリティの異同に関心を抱くと共に、1970年前後のもの派が切り拓いた素材の性質への精妙な感受性や極めて論理的な制作態度に敬意を払い続けていたことも大きく影響しているという。

 

図15 浅香弘能《Awakening – The Rock》2019年

 

要約すれば、浅香の『KASHOUMON』シリーズの特徴は、優れた理と技と美を通じて、仮象の物質感や軽重感を幻惑させる点にある。そのために、モティーフには一般的に認知度の高いものを用いつつ、硬さと柔らかさや、重さと軽さを撹乱する点にその特色がある。また、そのモティーフでは、現代日本のアートシーンと親和性の高い頭蓋骨やゲームキャラ等のサブカルチャーが登場する一方で、日本刀、茶碗、日本と西洋の古典彫刻といった精神性の高い伝統工芸やハイアートへの敬慕も読み取れる。

いずれにしても、浅香の『KASHOUMON』シリーズの最大の魅力は、地に足を付けて自分のルーツを尊重しつつ、長年の研鑽で磨き抜いた卓越する理知と技能と美意識を武器に、大理石と常にストイックな真剣勝負を挑んでいるところに指摘できるだろう。

 

※図録『KASHOUMON HIROYOSHI ASAKA 2018-2023』(ASAKA ART STUDIO・2023年)より転載。

(写真は全て浅香弘能提供)

浅香弘能公式ウェブサイト
http://www.hiroyoshiasaka.com/

浅香弘能個展「真理と真髄」​​

会期:2023年12月23日(土)-2024年1月20日(土)
開廊時間:13:00-19:00
閉廊日:日曜日
会場:YOD Gallery(大阪)
https://www.yodgallery.com/

著者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美学者・美術史家・キュレーター。1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。2013年に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日〜2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto〔虚白院 内〕、会期:2015年3月7日〜2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院〔建仁寺塔頭〕、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日~2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:掌美術館、会期:2022年3月3日~2022年5月6日)等。2020年4月から2023年3月まで上智大学グリーフケア研究所特別研究員。2023年に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)出版。上智大学グリーフケア研究所、京都ノートルダム女子大学で、非常勤講師を務める。現在、鹿児島県霧島アートの森学芸員、滋賀医科大学非常勤講師、京都芸術大学非常勤講師。

【投稿予定】

■ 秋丸知貴『近代とは何か?――抽象絵画の思想史的研究』
序論 「象徴形式」の美学
第1章 「自然」概念の変遷
第2章 「象徴形式」としての一点透視遠近法
第3章 「芸術」概念の変遷
第4章 抽象絵画における純粋主義
第5章 抽象絵画における神秘主義
第6章 自然的環境から近代技術的環境へ
第7章 抽象絵画における機械主義
第8章 「象徴形式」としての抽象絵画

■ 秋丸知貴『美とアウラ――ヴァルター・ベンヤミンの美学』
第1章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念について
第2章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラの凋落」概念について
第3章 ヴァルター・ベンヤミンの「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の問題について
第4章 ヴァルター・ベンヤミンの芸術美学――「自然との関係における美」と「歴史との関係における美」
第5章 ヴァルター・ベンヤミンの複製美学――「複製技術時代の芸術作品」再考
第6章 ヴァルター・ベンヤミンの鑑賞美学――「礼拝価値」から「展示価値」へ
第7章 ヴァルター・ベンヤミンの建築美学――アール・ヌーヴォー建築からガラス建築へ

■ 秋丸知貴『近代絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに』
序論 近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究
第1章 近代絵画と近代技術
第2章 印象派と大都市群集
第3章 セザンヌと蒸気鉄道
第4章 フォーヴィズムと自動車
第5章 「象徴形式」としてのキュビズム
第6章 近代絵画と飛行機
第7章 近代絵画とガラス建築(1)――印象派を中心に
第8章 近代絵画とガラス建築(2)――キュビズムを中心に
第9章 近代絵画と近代照明(1)――フォーヴィズムを中心に
第10章 近代絵画と近代照明(2)――抽象絵画を中心に
第11章 近代絵画と写真(1)――象徴派を中心に
第12章 近代絵画と写真(2)――エドゥアール・マネ、印象派を中心に
第13章 近代絵画と写真(3)――後印象派、新印象派を中心に
第14章 近代絵画と写真(4)――フォーヴィズム、キュビズムを中心に
第15章 抽象絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに

■ 秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道 補遺』
第1章 ポール・セザンヌの生涯と作品――19世紀後半のフランス画壇の歩みを背景に
第2章 ポール・セザンヌの中心点(1)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第3章 ポール・セザンヌの中心点(2)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第4章 ポール・セザンヌと写真――近代絵画における写真の影響の一側面

■ 秋丸知貴『岸田劉生と東京――近代日本絵画におけるリアリズムの凋落』
序論 日本人と写実表現
第1章 岸田吟香と近代日本洋画――洋画家岸田劉生の誕生
第2章 岸田劉生の写実回帰 ――大正期の細密描写
第3章 岸田劉生の東洋回帰――反西洋的近代化
第4章 日本における近代化の精神構造
第5章 岸田劉生と東京

■ 秋丸知貴『〈もの派〉の根源――現代日本美術における伝統的感受性』
第1章 関根伸夫《位相-大地》論――日本概念派からもの派へ
第2章 現代日本美術における自然観――関根伸夫の《位相-大地》(1968年)から《空相-黒》(1978年)への展開を中心に
第3章 Qui sommes-nous? ――小清水漸の1966年から1970年の芸術活動の考察
第4章 現代日本美術における土着性――小清水漸の《垂線》(1969年)から《表面から表面へ-モニュメンタリティー》(1974年)への展開を中心に
第5章 現代日本彫刻における土着性――小清水漸の《a tetrahedron-鋳鉄》(1974年)から「作業台」シリーズへの展開を中心に

● 秋丸知貴『比較文化と比較芸術』
序論 比較の重要性
第1章 西洋と日本における自然観の比較
第2章 西洋と日本における宗教観の比較
第3章 西洋と日本における人間観の比較
第4章 西洋と日本における動物観の比較
第5章 西洋と日本における絵画観(画題)の比較
第6章 西洋と日本における絵画観(造形)の比較
第7章 西洋と日本における彫刻観の比較
第8章 西洋と日本における建築観の比較
第9章 西洋と日本における庭園観の比較
第10章 西洋と日本における料理観の比較
第11章 西洋と日本における文学観の比較
第12章 西洋と日本における演劇観の比較
第13章 西洋と日本における恋愛観の比較
第14章 西洋と日本における死生観の比較

■ 秋丸知貴『ケアとしての芸術』
第1章 グリーフケアとしての和歌――「辞世」を巡る考察を中心に
第2章 グリーフケアとしての芸道――オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』を手掛かりに
第3章 絵画制作におけるケアの基本構造――形式・内容・素材の観点から
第4章 絵画鑑賞におけるケアの基本構造――代弁と共感の観点から
第5章 フィンセント・ファン・ゴッホ論
第6章 エドヴァルト・ムンク論
第7章 草間彌生論
第8章 アウトサイダー・アート論

■ 秋丸知貴『芸術創造の死生学』
第1章 アンリ・エランベルジェの「創造の病い」概念について
第2章 ジークムント・フロイトの「昇華」概念について
第3章 カール・グスタフ・ユングの「個性化」概念について
第4章 エーリッヒ・ノイマンの「中心向性」概念について
第5章 エイブラハム・マズローの「至高体験」概念について
第6章 ミハイ・チクセントミハイの「フロー」概念について

http://tomokiakimaru.web.fc2.com/