靉嘔(アイオー・本名:飯島孝雄)は、1931年に日本に生まれ、草間彌生やオノヨーコらとともに、戦後日本の現代美術を国際的なディメンションでけん引してきたアーティストの一人であり、久保貞次郎(美術評論家)の言葉を借りれば、二十代のころから「ジャイアントの風格を持った男」と言わしめた靉嘔の展覧会「靉嘔:虹虹虹」が、香港に2021年11月にオープンした美術館M+(エムプラス)で、昨年12月より5ヶ月間にわたって開催されている。
今回、私は、M+で行われた靉嘔の個展オープニングレセプションに、飯島花子&クレイシ・ハールーン夫妻、五辻夫妻(五辻ギャラリー)、私の知人の陳姉妹(台湾人)らと出席することができた。
会場は、M+の2階ギャラリー<Cissy Pui-Lai Pao and Shinichiro Watari Galleries>で、長期間にわたって開催される第一弾の企画展となった。
■展覧会名:「Ay-O:Hong Hong Hong 靉嘔:虹虹虹」
■会期:2023年12月15日~2024年5月5日
■会場:香港 М+(エムプラス) Cissy Pui-Lai Pao and Shinichiro Watari Galleries
M+は、中国(香港)の威信をかけて、アジアの「ハブ・ミュージアム」をめざして建設(延床面積17,000㎡)が進められたもので、これまで靉嘔とナムジュン・パイクの共作による立体作品や倉俣史朗の作品など、アジア出身の作家作品が数多くコレクションされてきた。
靉嘔の近年の展覧会で知られているのは、昨年、アメリカのスミソニアン協会国立アジア美術館(ワシントンDC)の開館100周年を記念して開催された、個展「Ay-Ō’s Happy Rainbow Hell」(2023年3月25日~9月10日)だろう。
靉嘔の印象は、「虹のアーティスト」とともに、特に版画の場合には「多作の版画家」「安価で購入できる版画家」というイメージが強い。
しかしながら、靉嘔と親交があり作家としての仕事を見聞してきた美術関係者には、そのレッテルが、靉嘔について語るときの、ほんの一部分に過ぎないことを分かっているはずだ。
特に、海外で活躍する日本人アーティストの場合は、協力者となる美術関係者らとの共同作業で作品づくりから発表までが行われていることも多いが、靉嘔の場合には、油彩画や立体などの多くを自らが長時間をかけて手作業で作品を制作しており、巨大なプロジェクトについても、自らの手で発表機会を切り開いてきた美術家だった。
版画では、久保貞次郎、北川民次、瑛九、瀧口修造らが発起人となって結成された「創造美育協会」(1952年設立)から生まれた「小コレクター運動」(1956年発足)に靉嘔も参加して、「作家が制作した版画などを安価で提供することで美術の魅力を広く伝える」という理念にも接し、その体験などから今日の靉嘔独自の版画制作方法に達したといえる。
靉嘔のやり方は、自身の手による初期の自刷りのエッチング、リトグラフ、シルクスクリーンを除けば、気心の知れた数人の優れた刷り師との分担作業で版画がつくられ発表されてきた。そこには、版画作品をとおして大衆に美術の魅力を広く伝えるという、日本の浮世絵版画と共通するものがあり、版画購入者はもとより刷り師や作品を販売するギャラリーなどの生業にも配慮したシステムだった。
その後、国内での版画による美術の普及は、「小コレクター運動」の終えんにより、「ときの忘れもの」の前進となった「現代版画センター」(1974~85)に受け継がれていった。
靉嘔の版画制作では、自身が描く油彩画が原形になっていることが多く、「虹」のグラデーションの制作には刷り師も多くの時間を費やしている。特に代表作の一つとして知られ、第7回東京国際版画ビエンナーレに出品された≪レインボー北斎≫(1970年)は、岡部版画工房の岡部徳三(刷り師)によって1年という時間と500版を重ねたシルクスクリーンで制作されていることを知る人は少ないだろう。
また、靉嘔の創作の原点にあるのは、1950年代に河原温や池田満寿夫らと参加した「デモクラート美術家協会」の瑛九と、アメリカで出会ったジョン・ケージや「フルクサス」に参加したメンバーらとの交流にあり、作品づくりにも大きな影響を与えたといわれている。
当時、靉嘔と同様に日本を飛び出してアメリカに渡った河原温や池田満寿夫らは、それぞれの個性を活かしながら、グローバルな活躍をした作家となったことは広く知られている。
私自身、これまでに靉嘔以外には、美術作品の存在意義を哲学や科学的に明確に語ることができ、さらに世界各地で発表機会を得ようと行動しながら、パリの《300mレインボー・エッフェル塔プロジェクト》(1987年)のような巨大な表現の場を、自らの力で実際にたぐり寄せてきた美術家に出会ったことがなかった。
今回の展覧会では、靉嘔作品のコレクターであるジャン-マルク・ボタッツィ氏とその仲間たちが所有するコレクションから、多くの作品が展示されている。ボタッツィ氏と私は、十年以上前に五辻ギャラリーで五辻さんの紹介で一度だけ会ったことがあり、「国際的に活動する金融業に従事するフランス人で靉嘔作品のファン」だと伺っていた。ボタッツィ氏は、その後、日本から滞在先を香港に移して、靉嘔作品の世界的コレクターとなったと聞いている。
特に、今回の展覧会は、M+副館長兼チーフキュレイターのドリュン・チョン氏が手掛けたもので、靉嘔が「虹」による視覚の世界だけではなく、人間の五感(視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚)と第六感を含む表現に、果敢に挑戦した美術家であることが伝わる展示となっている。
1958年に渡米した靉嘔の仕事では、ニューヨークの「フルクサス」時代に発表した触覚表現の作品《Finger Box-Kit》(1963年)がアメリカではよく知られている。さらに1960年代からは、Environment(環境)を射程に入れた作品もいち早く発表した美術家で、第11回サンパウロ・ビエンナーレで発表した作品≪アダムとイヴ≫(1967年)※正式名≪Environment painting (6 Paintings)≫は、靉嘔の代表作の一つとなっている。
そして、可視光線のスペクトル「虹色」を表現方法に使うことになった理由とは、「自分の人生の限られた時間の中で「五感」表現の全てをやりきるために、「視覚」領域を早く通過する方法として考えついたのが、人間の眼に見える自然光の波長の配列(赤・橙・黄・緑・青・藍・紫)を守りながら、全ての色を一度に使って対象となるオブジェクトを覆ってしまうことだった」と、靉嘔は私に語ってくれた。
靉嘔が、初めて「虹色」のストライプ作品をニューヨークで制作したのは1962年後半とされ、一方、アメリカ人のギルバート・ベイカー(Gilbert Baker)が、LGBTQ+の象徴とされるレインボーフラッグのデザインを考案したのは1978年といわれているので、それよりも15年も早かったのだ。
香港は、1997年にイギリスから中国に返還されたが、M+においては西欧的な自由なスタイルが今も健在で、12月15日に開かれた「靉嘔:虹虹虹」展のオープニングセレモニーでは、カジュアルな服装とスニーカーで参加する若い世代も多かった。
オープニングセレモニーは、午後5時からスタートして4時間以上にわたり9時過ぎまで多彩な催しが行われ、最初に、ドリュン・チョン氏とジャン-マルク・ボタッツィ氏によるトークショー(靉嘔作品の解説)が英語で行われた。二人の対話は、靉嘔の初期の油彩作品《ひまわりとジェット機》(1955年)から、靉嘔と久保貞次郎との交流、そして、浮世絵の春画を使ったシルクスクリーン作品《レインボー北斎》(1970年)がアメリカで誕生した経緯などにも触れ、靉嘔の詳細な仕事を知らないと語れないものだった。
その後、会場を展示ギャラリーに移して、ドリュン・チョン氏による詳しい作品解説が行なわれた。第1展示室には、《愛することTo Love》(1954年)などの初期の油彩作品、フルクサスのジョージ・マチューナス氏を偲ぶシルクスクリーン作品《目はひとつあれば十分だ》(1993年)、触覚表現として有名な《フィンガー ボックス キッド》(1963年)などが展示されていた。
さらに、第2展示室には、《レインボークロック》(1969年ころ)、《レインボー北斎》(1970年)、《96グラデーション レインボー》(1985年)、パリの300mレインボー・エッフェル塔プロジェクトで制作されたシルクスクリーン作品《ルソーに捧ぐ》(1987年)、《ルソーの森の考える虹猿》(1999年)、広島の原爆投下を題材にした《ひろしまE=mc²(ひろしま8:15AM エスキース)》(1988年)、《インナー レインボー スケルトン》(1990年)、10mの長さの作品《ロング ロング レインボー ペインティング》(1967年)などが展示されており、全体では、1950年~2000年代に制作された靉嘔の約50点の作品とともに、フルクサス関連作家の作品も合わせて展示されている。
そして、メインホールでは、スハーニャ・ラフェル館長やチョン副館長とともに、靉嘔に代わって靉嘔の一人娘の花子さんのスピーチ(靉嘔は92歳の高齢のため参加しなかった)が、Grand Stair(大階段)といわれる数百人収容の客席を持つ階段状舞台で実施された。
花子さんのスピーチでは、靉嘔がニューヨークから清瀬(東京)にある自宅兼アトリエに戻った時の1日の様子が語られ、2階にあったアトリエに朝出掛けて作品づくりをして、夕方に1階のリビングに降りてくるという、サラリーマンのような規則正しい生活をする父だったという。また、靉嘔は、冗談が好きな人柄で、展覧会のオープニングなどでもゆかいなことをやる人だったと、靉嘔が「オプティミスト」と呼ばれている理由を垣間見ることができた。
オープニングセレモニーの最後は、フォーラム会場に移って、展覧会関係者のみが参加できるレセプションが開かれた。従来のテーブルでの会食ではなく、エレキギターによる生バンド演奏を聴きながら踊り出す人もいたほか、夜景が美しい美術館のベランダに出て自由に歓談する人たちもいた。
会場の入口付近には、ボタッツィ氏とその仲間たちが企画した、制作当時は珍しかったカラーコピー機を使ったニューヨーク近代美術館にも収蔵されている作品《Then, Mr. Ay-o got drunk by the Rainbow》(1974年)や、《フィンガーボックス》などをヒントに制作された「ワークショップ」コーナーも設置されていた。
M+の1階にあるミュージアムショップ(The M+ Shop)には、靉嘔コーナーも新設され、書籍、バック、ポストカード、靴下、小物雑貨など、虹色のオリジナル商品が並んでいた。