カム・ミンギョンの身体の叙事詩  

カム・ミンギョン(Kam Min-Kyong)の身体の叙事詩

「未完成」という言葉の響きには果てしなく飛翔し続ける理想の高さと、思いがけない時のきしみが感じられる。そして「完成」には稀なおとずれの瞬間と別離の悲しみがあるのかもしれない(注1)。

2023年初夏、パリに3週間ほど滞在した間、庭に美味しいアボカドが豊富に実るという奇跡の大木のある、友人が住む風光明媚なイタリアの港町を訪ねた。その折に久しぶりにミラノに2泊した。現代美術で有名なプラダ財団や、最大18mの高さのアンゼルム・キーファーの7つの塔が常設されたピレリ・ハンガービコッカに行ったが、密かに期待していたのは、ミケランジェロ作『ロンダニーニのピエタ』。亡くなる前、88歳の時に、かつて中断した塑像を再びとりあげたが未完となった遺作で、ミラノのスフォルツェスコ城博物館に展示されている。だいぶ前だが、シューベルトの「未完成」交響曲の演奏会に際して、この彫刻に触れながら、視覚芸術における未完成についてエッセイを書いた。この評論の冒頭に掲げた言葉はその時のものだ。
カム・ミンギョンの展示に評論で参加することになり、彼女のホームページに掲載された多数の図版を見ていた時、ふと「未完成」という言葉と、『ロンダニーニのピエタ』を思い出した。彼女の作品の中には、未完と完成の間の揺らぎが感じられる画面があり、ミケランジェロのピエタのような探求途上の形態が、おそらく故意に、全てが可能な無の空間として残されている作品があるように思えた。
だがミラノで最も心震える感動を受けたのは、アンブロジアーナ美術館で修復後に2020年から公開されている、ラファエロの『アテナイの学堂』(1509-11年)の原寸大の下絵だ。本来のフレスコ画はローマのヴァチカンにあり、ギリシャの神々の像とともに、プラトンやアリストテレスなどの哲学者や科学者が描かれているが、実際には多くの弟子の助けを借りて実現された。一方、迫真的な臨場感あふれるミラノの下絵は285x804cmという規模にもかかわらず、主に鉛筆を使用したラファエロ自身の繊細な筆致や見事な構成力がじかに伝わる。
木炭による大型の描画を得意とするカム・ミンギョン(1970年釜山生まれ、韓国で活動)の作品と異なり、通常の鉛筆画は輪郭線を中心に線で陰影を施して立体感を表現する。木炭はむしろフラットな面や空間を描きやすく、カム・ミンギョンはそうした画材の特性を生かして、人物や事物をありのままに再現するだけではなく、説明的な輪郭線を省くことで、やや抽象的な構図へと練り上げる。ダ・ヴィンチがモナリザを描いた時に用いた技法をスフマートと呼ぶが、彼女はその技法を研究して応用している(注2)。輪郭線を用いずに、なだらかなグラデーションで、柔らかくぼんやりとしたヴォリューム感を出す表現を会得したのだ。その独特の手法が顕著に表れているのは、もつれる謎めいた身体の拡大したイメージだろう。さらに2018年の『一夜が過ぎてしまう』とその3年後に描かれた『地球からの運命』の作品群を比べると、その間の手法の発展は明白で、ドキッとするほどのリアルな表現を獲得している。

あなたからあなたの表情が取り去られる夜
あなたからあなたの名前が取り去られる夜(注3)

どの部分かは確定し難い、ややデフォルメし、混淆した身体のクローズアップが2021年に増えた。これらの作品では、木炭のぼかし技法が深化し、陰影より光彩への関心が広がり、微かな色彩が施される作品が現れる。だが同時に、しわ、割れ目、傷、しみといったネガティヴな描写が痛覚の痕跡を残し、禁断の性を暗示する。死と孤独に覆われた厳しいパンデミックの最中、遺棄すべきは接触、他者の肉体だった。外部ははるか彼方に退き、遠くの記憶の丘が肉体の起伏に重なり、草原化した皮膚の触感に憧れる。描かれた断片は人なのか、性を持つのか、匂いや体温はあるのか、血液は流れているのか、皮膚の色は何色なのか、汗ばむのか、つぶやきやうめき声は聞こえるのか、オルガスムを知っているのか、眠っているのか、目覚めているのか、あるいは死んでいるのか。その場所は、ベッドの上? 処刑場? 夢の中? 幻想?あるいはヴァーチャルスペース?

    

からまる2本の足の『一夜が過ぎてしまう』(写真:上左 245x300cm 紙に木炭 2018年)には、生命力に満ちた張りがあるが、コロナ禍の恐怖と不安の時期に生まれた『地球からの運命』(写真:上右 展示風景 240x300cm 紙に木炭 2021年)の皮膚はたるみ、艶がなく、背中にかけた腕は虚脱して無表情だ。タイトルに「背中」という言葉があるために、描写されたのが皮膚だとわかるが、『テルシテスの背中』(写真:下左 展示風景 181.3×227.3cm キャンヴァスに油彩 2021年)の油彩からは、身体の形象はほとんど取り去られている。同一性への疑義を提起する「テセウスの船」などの名前も、ギリシャ神話からの引用だが、カム・ミンギョンは、それを人間のアイデンティティー、そして問題のある人類と結びつけて考えようとしたという(注4)。自己の形姿が曖昧になる感覚の中で、それはまた疎外された身体を取り戻す、果てしなく失われた安住の日々への追憶なのかもしれない。

    

釜山で生まれ、荒ぶる海へと船で出る漁師の父の帰還を待ちわびたカム・ミンギョンは、死の余韻が潜む心の空白を広大な自然への祈りと生への希求で、埋めたのだろうか。時間感覚があやふやになり、解放の糸口を待ち続けたグローバルな苦悩の日々に、身体は実体を失い弱体化した。想像を絶する不可視な戦いの疲労に抗して、カム・ミンギョンが生みだした稀有な身体の風景は、私たちが耐え忍んだ時空間の証言となり、忘却してはならない告白ともなった。地球が人類に伝えた共同体としての病という運命。だが超高速で時計が巻き戻るように凡庸に再生する身体の傍らで、ガイアの治癒は遅々として進まない。乖離するそれぞれの航路を近づけるのは、花々、月や太陽、景色などの安寧な日常を取り巻く事物や生物への、他者への気付きある眼差しと、ボーダレスな謙虚さだろうか。
現実への透徹した認識に立ち、ぶれない確固とした制作の指針をもつカム・ミンギョンのこれからの活動に期待し、見守っていきたいと思う。「私たちは世界を創っているところです。そこではいろいろなことがまだ起きつつあるのです。」という彼女の言葉は力強く、明るい(注5)。
(美術評論家、インディペンデント・キュレーター)


1. 「未完の芸術:洗われた色彩のハーモニーが奏でるミケランジェロとレオナルドのルネサンス」、岡部あおみ、NHK交響楽団定期公演のホームページに掲載されたwebエッセイ。公演日は2014年 10月24日と25日、NHKホール。
2. 著者のメールの質問へのカム・ミンギョンからの返信。2023年8月23日。
3. 金恵順著(Kim Hyesson)『死の自叙伝』(죽음의 자서전)、吉川凪訳、新しい韓国の文学21、クオン出版、2021年、「チベット7日目」、p.29。
4. 著者のメールの質問へのカム・ミンギョンからの返信。2023年8月28日。
5. 同上。

追記 メイン画像のタイトルは、『地球からの運命』(215x300cm 紙に木炭 2021年)このエッセイは、李銀美(イウンミ、 Lee Eumi)キュレーターが企画した「視線」という、釜山にある金井文化會館クムセム美術館 (Geumjeong Cultural Center―Geumsaem Art Museum)で、2023年9月12日から10月17日まで開催された二人展の図録(日韓語)に掲載された。韓国の作家の作品について日本の評論家が文章を書き、日本の作家の作品を韓国の評論家が批評するという日韓の二人展で、各人の図録は別冊になっている。以下の図録の扉と別冊表紙をご参照ください。

     

著者: (OKABE Aomi)

国際基督教大学、パリ、ソルボンヌ大学修士、ルーブル学院第三課程卒業。5年間メルシャン軽井沢美術館のチーフキュレーター、12年間の武蔵野美術大学芸術文化学科教授、また2年間のパリ高等美術学校の講師と客員教授、1年間のニューヨーク大学客員研究員を経て、2014年-2020年、国際交流基金・パリ日本文化会館アーティスティック・ディレクター(展示部門)、2018年より上野の杜新構想実行委員会国際部門ディレクター。「前衛芸術の日本1910‐1970」(1986年パリ・ポンピドゥーセンター/コ・コミッショナー),「国際美術映像ビエンナーレ」(1990,92年同センター審査員),「ジョルジュ・ルース阪神アートプロジェクト」(1995年),「ジョルジュ・ルース in 宮城」(2013年), 2016年以降、パリ日本文化会館で「真鍋大度+石橋素」展、「内藤礼」展、「米田知子」展などのキュレーターを務める。監督作品に『田中敦子、もう一つの具体』、著書に『アートと女性と映像 グローカル・ウーマン』、『アートが知りたい 本音のミュゼオロジー』(編著)他。

http://apm.musabi.ac.jp/imsc/cp/ (Culture Powerのサイト)