輝く画面をつくりあげた大気と色の秘密「モネ 連作の情景」大阪中之島美術館 三木学評

展示風景

「モネ 連作の情景」
会期:2024年2月10 日~ 2024年5月6日
会場:大阪中之島美術館

モネは日本においてゴッホやフェルメールと並びもっとも人が入る洋画家の展覧会だろう。しかし短命であったゴッホや作品数が少ないフェルメールに比べて、多作であったモネの作品は、世界中の美術館に所蔵されており、毎年多くのモネに関する展覧会が開催されている。「モネ」という名前を付ければ人が入るので、展覧会の中にモネの作品が少なくても、モネを冠するケースもあるだろう。しかし、今回の展覧会「モネ 連作の情景」はまぎれもなく、すべてモネの作品で埋められており、その意味でモネの画業を一望できる貴重なものだ。なんと国内外の所蔵者51館から約70点を集めたというから、その規模と手間は大変なものだろう。

なかでも、今回の英語の展覧会タイトルが「Claude Monet: Journey to Series Paintings」であるように、モネの「連作」と「旅」にフォーカスしている。特に「積みわら」や「ルーアン大聖堂」はよく知られている。残念ながら「ルーアン大聖堂」のシリーズは今回出品されていないが、初期から晩年まで、そして「積みわら」やロンドンを描いたシリーズが集まっており、モネのファンなら国内外のどこかで見た作品もあるかもしれない。ただし、多くの人々に愛され、知っていると思っているものほど実はわかっていないということもあるものだ。

私は色彩分析の仕事もしており、2021年にポーラ美術館で開催されたレオナール・フジタ(藤田嗣治)の展覧会「フジタ―色彩への旅」展で、フジタの色彩分析を担当した[1]。この展覧会は、フジタが1930年代に中南米や沖縄、中国に旅をし、色彩豊かな画風に変わることに着目したものだった。ただし、フジタは白と黒を中心としたモノクロームの絵画で知られており、色彩に関して言及した研究者はほとんどいなかったという。それで、私が2017年に日本画家の中村ケンゴさんと岩泉慧さんと一緒に日本画材店PIGMENTで開催したトークイベント「色彩と質感の地理学-日本と画材をめぐって 」[2]で特徴的な質感描写を行った画家として、フジタの色彩分析をしていたことにポーラ美術館学芸員の内呂博之さんが目をつけられ、声をかけていただいたのだった。

しかし、1920年代の「グラン・フォン・ブラン(素晴らしき乳白色)」、「乳白色の肌」「乳白色の下地」と称された独特のマチエール(絵肌)は、モノクロな上に独特な材質を使っており、私がやっていたような画像の色立体への分布による分析では難しい。もし将来的にフジタの研究を続けるのなら、非破壊・非接触で深層の構造を解明する、100バンド程度あるハイパースペクトルカメラや最新のコンピューター解析が必要となることを最初に伝えていた。そして、質感研究のグループを立ち上げ、多くの成果を挙げていた生理学者の小松英彦さんに、国立情報学研究所の佐藤いまりさんを紹介してもらい、1920年代のフジタの肌質感表現の研究に着手した。そして2年ほど研究を続け、昨年末、成果発表をリリースした[3]。

結論から言うと、フジタは紫外線によって赤・緑・青に蛍光発光する3種類の白い顔料を使い、人間の肌の光学的特性を再現していたことがわかった。しかし、その表現の意図は、ニスによる修復や戦後のUVカットされた美術館によって伝わってなかったのではないかというのが我々の推測である。

その際、比較のためにフジタ以外の画家の作品も調査した。人間の肌の描写がテーマだったので、フジタの東京美術学校の先生であった黒田清輝、さらに黒田のフランス留学時代の先生であるラファエル・コラン、そしてルノアールである。蛍光発光する顔料を、肌質感の表現に活かしていたのはコランが少しだけ行っていたという結論になった。ただし、それは白ではなく、赤い顔料だった。おそらくレーキ系の顔料だろう。

実はその撮影をするためにポーラ美術館で調査を行っていたとき、当時開催されていたコレクション展の作品も少しだけ紫外線で確認したところ、モネが1875年に描いた《散歩》、1880年に描いた《セーヌ河の日没、冬》の白は、明らかに蛍光発光を意図したものだと思われた。雲や服の白に加えて、太陽の光に反射するハイライトの表現に白を使い、それが蛍光発光しているので、画面全体が発光しているような効果になっている。印象派が、チューブ入り絵具の発明によって、屋外での制作ができるようになったというのは有名な話で、「外光派」などと言われたりするが、その中に自然光に含まれる紫外線によって蛍光発光する顔料を、モネは鋭く発見したのだろう。それはおそらくシルバーホワイトかジンクホワイトに白亜(炭酸カルシウム)を体質顔料にして混ぜたものではないだろうか。北ヨーロッパでよくとれる白亜(炭酸カルシウム)は蛍光発光するからだ。

その後、モネのように画面を自然光による蛍光発光を利用して、キラキラと光らせることが他の印象派の画家や点描になるスーラやシニャックのような新印象派に継承されているか同じように紫外線を当てて見たら、同じく印象派の代表的画家であるルノワールには蛍光発光を意図的に使っておらず、並置混色によって鮮やかな画面の効果を追求したとされるスーラの作品は、蛍光発光する色すらほとんど確認できなかった。つまり、これはモネのみが確立させていた表現である可能性が高いのだ。モネが印象派の中でも、圧倒的な輝きを放つのは、科学的な理由があったのである。

さて、フジタの研究からモネの蛍光発光の表現に行きついたが、これに関しては論文のようなものにはなっていない。できれば、改めて調査し、それがはっきりと確認できたら、美術史に与えるインパクトは大きいのではないかと予想する。そして、残念ながら、フジタと同じように、モネの作品を自然光で見られる美術館はほとんどない。紫外線は高価な絵画を痛めるので、極めて相性が悪いのだ。そのような思いもあって、モネがどのあたりから蛍光発光を確信的に使っているのか確認したいというのが私の目論見としてあった。

展覧会は、1章「印象派以前のモネ」、2章「印象派の画家、モネ」、3章「テーマへの集中」4章「連作の画家、モネ」、5章「「睡蓮」とジヴェルニーの庭」という構成で、おおよそ年代順で、画風の変遷がよく理解できた。兵役を逃れることもあって滞在したという、オランダのザーンダムの川辺の風景は、川面の表現にすでに筆触分割がみられ、後に印象派と呼ばれる手法の萌芽を見て取ることができる。ただし、蛍光発光の白の使い方はそこまで明確でないように感じた。ポーラ美術館で見たモネの絵画と同じ効果を狙っているのは、やはり1870年代から1880年代の初頭までと思えた。雲、雪、水のハイライトなどは特にそうだろう。

展示風景 左《ヴェトゥイユ》(1880年頃)グラスゴー・ライフ・ミュージアム蔵(グラスゴー市議会委託)、右《ヴェトゥイユの春》(1880年)フォイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館蔵

しかし、本展では3章「テーマへの集中」、特に1883年を境に大きく変わる。この時代、ノルマンディー地方の特徴的な岸壁のある海岸、プールヴィルやエトルタに何度も訪れているのでわかりやすいのだが、筆触分割をして塗っていた色から、むしろ混ぜ合わせ、溶け込むような塗り方になり、さらに物質の固有色からかけ離れていくように思える。1883年に何があったのか?

展示風景 左《ラ・マンヌポルト(エトルタ)》(1883)メトロポリタン美術館蔵、右《エトルタのラ・マンヌポルト》(1886)メトロポリタン美術館蔵

大きな出来事として、一つは睡蓮の庭で有名なジヴェルニーに転居したこと。もう一つは12月に初めて地中海沿岸に旅行しているのだ。その時、地中海沿岸の鮮やかな光に魅了され、固有色や細かな筆触分割から解き放たれた可能性はある。スーラとともに、点描画を推し進めたシニャックも、マティスも南仏に行くことで、形から色が開放されるプロセスをふむが、モネは一足早く、解き放たれたといってよい。まさに翌年の1884年、ジヴェルニーの積みわらをモチーフに描き始め、それが1888年頃に連作の題材となった。蛍光発光の白も効果的に使っていると思うが、より形は不明瞭になっていき、筆触分割や固有色との相関は薄れていく。

展示風景 左《ジヴェルニーの積みわら》(1884年)ポーラ美術館蔵、中央《積みわら》大原美術館蔵、右《積みわら》(1891年)スコットランド・ナショナル・ギャラリー蔵

1900年代に入り、何度も訪れた霧の街、ロンドンの光の効果も、かなり色同士を溶け合わせたような描写方法になっており、実際に空気が霞んでいることもあってか、形はかなり不鮮明である。しかし、これもまた蛍光発光の顔料やレーキ系の顔料によって、自然光の下ではかなり画面が発光していたのではないかと思われる。

展示風景 左《チャリング・クロス橋、テムズ川》(1903年)リヨン美術館蔵、右《テムズ川のチャリング・クロス橋》(1903年)吉野石膏コレクション蔵(山形美術館に寄託)

2023年、モネやターナーの風景画は、当時のロンドンやパリの大気汚染と強い相関関係があるという研究発表が、ソルボンヌ大学動的気象学研究所の気象学者、アンナ・リー・オルブライトらによって発表されて話題となった。彼らによると、大気中の汚染物質によって光が散乱し、景色全体が白っぽく見えることに着目し、「輪郭線の明瞭さと絵に使われた白色の量」と「1796年から1901年の間の大気汚染の推定値」を比較し、「両者の指標は驚くほど合致する」と指摘している。そして、「美術史的な変遷や様式のレベルを超えた」ものだという[4]

大気汚染が画家の創造性を越えて、絵画の様式に影響を与えたという指摘には美術評論家からの批判もある。私もロンドンやパリではない郊外でも多く描いているわけなので、ややこじつけに見えるし、その変換の起点は地中海沿岸への旅から始まっているのでむしろ大気汚染から遠い気候からの影響が強いと思える。その上で、画面全体を蛍光発光する白を混ぜて光らせる題材として、大気汚染のロンドンなどを選んだのではないかと思う。そうじゃないと、雪や流氷を好んで描いたことの説明もできない。

第5章 「睡蓮」とジヴェルニーの庭 展示風景

第5章の「「睡蓮」とジヴェルニーの庭」に関しては、連作としては括れないくらい、過ごしている時間も長く、描写方法も多岐に渡る。さらに、白内障を患っていたこともあり、晩年にはより対象が明瞭ではない、抽象的な表現にもなっている。モネが晩年に発光する画面をどのように表現したのか。今後調査できる機会が訪れることを期待したい。

さて、モネは1918年、フランス国家に《睡蓮》の大作を寄付したとき、自然光で見るよう依頼したと言われている。それが1927年に開館したオランジェリー美術館である。自然光で見るとは、すなわち蛍光発光して画面が輝くためには、自然光の中の紫外線が不可欠だからである。その後、1960年代にジャン・ヴァルテール(Jean Walter)とポール・ギヨーム(Paul Guillaume)のコレクションを受け入れる際、2階を増設したため、自然光に近い人工照明に取り換えられたという。2006年、6年間にわたる改修工事を経て、再び自然光があたるように変更されたが、UVカットのフィルターが取り付けられている[5]

長らく絵画作品の「敵」だと思われていた紫外線は、実はモネの作品を輝かす大いなる味方だった。そこから見直さないと、モネの本当の意図、本当の輝きはわからないかもしれない。そして、旅する画家であり、各地の大気を描いたモネだからこそ、たどり着いた表現だったのではないか。連作は、その輝く大気の変化を表現するのに、最適な方法だったのであろう。

註)

[1] 「フジタ―色彩への旅」(ポーラ美術館、2021年)https://www.polamuseum.or.jp/sp/foujita/(2024年2月11日最終アクセス)

[2] 「色彩と質感の地理学-日本と画材をめぐって」(芸術色彩研究会) http://docs.geishikiken.info/?eid=1 (2024年2月11日最終アクセス)

[3] 「フジタは紫外線によって赤、緑、青に蛍光発光する3種類の白を使い分けていた!~レオナール・フジタ(藤田嗣治)が描いた肌質感の秘密を、蛍光スペクトル解析によって解明~」(国立情報学研究所、2023年11月27日)https://www.nii.ac.jp/news/release/2023/1127.html (2024年2月11日最終アクセス)

[4] 「モネは「大気汚染」を描いていた!? 気象科学者が画風の変化と汚染の推定値を比較検証」『ARTnews JAPAN』(2023年3月24日)https://artnewsjapan.com/article/857(2024年2月11日最終アクセス)

[5]「オランジュリー美術館学芸員フィリップ・ソニエ氏のインタビュー」 『MMM(メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド)』https://www.mmm-ginza.org/museum/special/inter-back/0607/special02.html (2024年2月11日最終アクセス)

著者: (MIKI Manabu)

文筆家、編集者、色彩研究、美術評論、ソフトウェアプランナー他。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行っている。
共編著に『大大阪モダン建築』(2007)『フランスの色景』(2014)、『新・大阪モダン建築』(2019、すべて青幻舎)、『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020)など。展示・キュレーションに「アーティストの虹-色景」『あいちトリエンナーレ2016』(愛知県美術館、2016)、「ニュー・ファンタスマゴリア」(京都芸術センター、2017)など。ソフトウェア企画に、『Feelimage Analyzer』(ビバコンピュータ株式会社、マイクロソフト・イノベーションアワード2008、IPAソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤー2009受賞)、『PhotoMusic』(クラウド・テン株式会社)、『mupic』(株式会社ディーバ)など。

https://etoki.art/

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