「現代美術」とか「現代アート」というものは、よく「分からない」ものとして敬遠される。多くの人びと──これを書いた私や、これを読んでいるあなたではない、たとえば小学校や中学校の同級生たちのほとんど──にとって、そもそも「美術」は人生に関係ないものだろうし、あるいは、よく美術館に行くという人や大学で美術史を学んでいるという人でさえ、「現代アート」には馴染みがないということも少なくない。かつて美術評論家の中村英樹が──「前衛」の言い換えとして「現代美術」という用語をつかうようになったと証言しているところで *1 ──それが様式として人口に膾炙しなかったのは「個性」を否定したからだと書いていた。ただし、それは80年代の話で、90年代以降の日本に関しては──松井みどりが書いているように *2 ──「現代美術」は、「美術」のジャンルの1つではなく、現代社会の様々な問題や個人の立ち位置、そして芸術活動の意義について考える手段になったという。
黒木結は、個人的な視点から身の回りの問題を解決する機会として作品を制作しているアーティストであり、「鑑賞のプロセス」という作品では、まさに「分からない」現代美術の作品を──歴史や理論といった専門的な知識を用いて解釈ないし解説するのではなく──日々の生活のなかで気づいたことや思い出したことなど、個人的な経験を巻き込みながら、いわば消化していく「プロセス」を提示する。そうした実践は、「分からない」と見限ってしまうのでも、ましてや「分かった」と見切ってしまうのでもなく、「分かることを保留している」のだと「ハードル」を下げることで、ひいては「同じように分かることを保留しているものごとへの向き合い方を考える」ことにつながっている。「鑑賞のプロセス」は最初、2022年5月、東京の Art Center Ongoing で開催された「WVlog: personal」というグループ展に際し、YouTube 上に発表された作品で *3 、日々の暮らしを記録する「Vlog」という動画のジャンルを下敷きに、それぞれの「最も personal な作品」として構想され、黒木自身によるモノローグのかたちが採られた。他方、2作目となる「鑑賞のプロセス:フランシス・アリス」は、京都・東九条の THEATRE E9 KYOTO という小劇場で発表することを前提に制作された舞台作品で、黒木の他に、岩越信之介と shimizu kana がキャストとして共演した。
「鑑賞のプロセス:フランシス・アリス」の対象に選ばれた10点の作品は、いずれもアリス自身がウェブ上に公開しているもので、いつでも見ることができ、当日パンフレットにも題名および概要とともに QR コードが印刷されていた。2013年に東京都現代美術館で開催された個展(企画:吉崎和彦 *4 )も記憶に新しいが、私たち観客が前もってアリスの作品を見ていることは要求されていない。「鑑賞」の対象である当の作品が登場しないのは前作から変わらず、舞台は、アリスの作品それ自体ではなく、黒木が「フランシス・アリスの作品を観て思ったことや考えたことから制作した」という絵をつかい、自らの鑑賞を追体験させるように展開していく。共演者たちが原作を鑑賞していたかも分からない。絵は、黒い幕のような布に描かれていて、人が両腕を伸ばして広げられるくらいの大きさ──いわば “等身大” ──であり、10 という作品の数は、舞台の広さや演劇としての長さなど、時間的ないし空間的な条件から決められたものと思われる。
第1場──黒木は、キャストの岩越に「次に読む動詞と関係のある絵を選んでください」と指示した上で、「選んだ絵は見えるように掲げてください」、「絵は動詞を読んでから3秒以内に選んでください」と条件を加え、それぞれの絵あるいは作品に関連する10組の動詞を読み上げていく。
「見えるように」というのは、観客に対して、だろうか。そう明言されることはなかったが、このとき照明は落とされていて、劇場内は全体が暗く、岩越が絵を掲げる毎に、それを shimizu が撮影することで、ストロボの閃光が発せられる一瞬だけ明るく見えた。カメラを構える shimizu は、「見る」という役割を演じる──あるいは、その象徴──という意味では、数十人の観客を代表していた。しかし、ほとんどの観客が1度の公演を見るだけなのに対し、shimizu は、おそらくリハーサルから何度も舞台に参加しているキャストであり、単に──客席に座っているのではなく──舞台上に立っているという意味でも、作者の側にいる。はじめは、それぞれ異なる角度から見ている観客の視線が、いわば舞台上でファインダーを覗くshimizu の目線に集約されていたものの、しだいに舞台は明るくなっていき、私たちは shimizu の視点に縛られず自由に見ることができるようになるのだが、こうした演出は、いわゆる「作者の意図」と「自由な解釈」の一方を偏重する極端な見かたではなく、ちょうどいい塩梅の視点を模索することを観客たちに促していたのかもしれない。
そして、「3秒以内」というのは、単に、あまり考えず直感的に選ぶことを促すためだったのかもしれないが、舞台上を移動しながら、しかも、それを掲げるという動作をこなしながら選ぶというのは至難の業だった。そもそも、黒木が描いた絵は、いずれも単純化ないし抽象化されたドローイングで、どの絵がどの作品に対応しているのか一見しただけでは分からない。黒木は動詞の読み上げをくり返してくれるのだが、最初は「並ぶ」、「歩く、押す、溶ける」、「歩く、続く」……と区切りながら読んでいたものの、3回目になると「並ぶ、歩く、押す、溶ける、歩く、続く……」といったぐあいに間髪を入れず読み進めていたので、そのスピードに追いつけるはずはなかった。
無理難題に思われる黒木の指示は、舞台という条件を強調すると同時に、場合によっては「分かることが早ければ早いほど良い」ということを加味していたようにも感じられた。黒木が制作ノート *5 に書いているように、「分かることを保留している」のが、いま友人が苦しんでいる問題や、すぐに声を上げなければならないような社会問題など、「急を要する」事案の場合、十分に理解しきれないまま──それこそ「分かることを保留」したまま──判断を下さなければならないときもある。「鑑賞のプロセス」は、そうした「選択の手助け」になることを目指したものでもあるらしいため、時間と情報が限られたなかで強いられる「選択」を模したのだろうか。
また、演劇や映画といった継時的な作品は、分からないところがあったとしても次のシーンに進んでしまうし、あるいは次のシーンを見て理解が改まるかもしれないため、いわゆる「サスペンス」ではないにしても、結末まで「分かることを保留」──つまり「宙吊り」に──しながら鑑賞せざるをえない。「鑑賞のプロセス」は、「鑑賞」というものを「プロセス」として提示すると同時に、それを個人の体験として保障するのも主な狙いだった。ただし、「鑑賞」の概念は、そもそも「私秘的 private」なもので──マクルーハンではないが、本を黙読するときのように──ひとりで見ることを前提にした近代的な視覚性に基づいている。映画館や劇場のような空間──つまり「シアター」──は、みんなで見ることを余儀なくする装置であり、まさにマイケル・フリードのようなモダニストにとっては嫌悪の対象だったわけだが、ひいてはインターネットの普及した現代において、あらゆる作品の鑑賞は「公共的 public」になってしまった。
誰しもが感想を発信する世のなかで、「鑑賞」という体験を「共有」する方法は重要な懸案になりうる。思うに、黒木の言う「共有」とは、けっして押しつけがましい一方的な伝達を婉曲に言ったものではなく、いわば自慢に近いのかもしれない。1作目で──彫刻家の村上美樹を引き合いに *6 ──「いいでしょ」という言葉をつかっていたように、鑑賞体験が個人のものだというのは、その人にとってかけがえのないもので、他の人に──作者にさえ──あげられるものではないという意味だろうか。
第2場──黒木が「思い返してみると「歩く」作品が多い気がする」とつぶやき、「歩く」と関係のある絵を6つ選ぶよう指示を出す。岩越が「歩く」作品の絵を探す一方で、黒木は「歩く」に関連するフランシス・アリスの作品それぞれについて題名と概要を読み上げていく。岩越が「はい」と挙手をすると、黒木は説明を中断し、「それはなぜ「歩く」ですか?」と尋ねる。急いで選んでいた第1場とは対照的に、じっくり考えながら選ぶ時間があり、選んだ理由の説明も、ゆっくり言葉を紡いでいた。しかし、岩越が黒木の説明を参考にしている様子はなく、客観的には疑わしく感じる選択や解釈もあり、場面が進むにつれ、その皺寄せは無視できないものになっていく。
第3場──残った4枚の絵について、改めて関連する動詞が読み上げられる。おそらく岩越は──そして観客も──第1場で怒濤のごとく読み上げられた動詞の全てを覚えてはいないため、場当たり的に選択せざるをえず、ときに苦しまぎれの解釈をすることになった。たとえば、「走る」に対し、岩越が「走っている人の一人称視点」という理由で選んだ絵は、たしかに、両サイドにガードレールの設けられた道が、まっすぐに地平線まで続いているようにも見えたのだが、その後に「繋ぐ」に対応する《橋》という作品の説明が読まれたとき、さっきの絵は橋のドローイングだったのだと、あの場にいた皆が思ったに違いない。岩越の選んだ絵が「正解」ではないこと──もっと言えば、残っている絵に「正解」がないこと──に気づいていた観客も少なくなかっただろう。
第4場──黒木は「それぞれの作品を観て、思い浮かんだことから作った歌を読みます」と宣言する。読み上げられる「歌」は、「スーパーで果物買うのをためらった 暮らしの壁に飾る静物画」など、字余りや字足らずのものも多かったが、短歌の形式で、内容は、「方言を整えられたインタビュー 「こわい」と消された言葉が取り憑く」のように、作品の感想というよりも、連想された経験を詠んだもので、絵と関連しているものも少なくなかった。今度の指示は、黒木が歌を読み上げる毎に、やはり絵を1つ選び、それをつなげていくことで「岩越さんにとっての「鑑賞のプロセス」をつくってください」というもので、たしかに、黒木の描いたドローイングは、どれも線が画面の外に連続しているように見え、すべてが連結できるようになっていた。子どものころに遊んだ「コンタクトゲーム」を連想したが、辺と辺を合わせるわけではなく、如何ようにもつなげることができそうだった。
黒木の「歌」は、いわばカルタの「読み札」であり、舞台を見に来られなかった人も──あるいは別のパターンを見てみたいという人も──台本があれば、それぞれの手で「再演」できるよう、「鑑賞のプロセス;フランシス・アリス」はボードゲーム仕立てになっている。実際、台本の他に黒木の描いた10枚の絵がステッカーとして販売されており、それらをつかって自宅で遊ぶこともできる(絵それ自体も購入できる)。
第5場──「では、こちらが岩越さんの「鑑賞のプロセス」ですか?」「はい」という短い問答が交わされた後、わずかだが岩越のつなげた絵を眺める時間が設けられた。岩越の「鑑賞のプロセス」は、「取り札」をつなげていく過程で誤りに気づき、選びなおす場面もあった。それは蛇行するように曲がっていて、絵の向きも一定ではなく、どうしても歪な印象だった。
最近、「ドキュメンタリーアクティング」という演技の手法で注目されている 筒(tsu-tsu)というアーティストにインタビューする機会があった *7 。筒曰く、「ドキュメンタリーアクティング」──「実在の人物を取材し、演じる」という一連の行為──は誰にでもできるものだが、取材の結果である「アクリプト」(アクトとスクリプトのポートマントー)という台本にあたるテクストを他の人がつかって演じることはできないという。あるいは「鑑賞のプロセス」もそれと似ていて、黒木が描いた絵や歌をつかって他人が「鑑賞のプロセス」をつくろうとしても上手くいかず、絵を描いたり歌を詠んだりするところから始めなければ、真の意味で、その人にとっての「鑑賞のプロセス」にはならないのだろう。あるいは全く別の「プロセス」でも構わないだろうし、私にとってはこの記事がその方法なのかもしれない。
第6場──岩越がつなげた絵を元に戻し、岩越と黒木が交替する。今度は黒木が絵をつなげていき、果たして10枚のドローイングは見事に1つの円環を成した。黒木の「鑑賞のプロセス」が円環状だったということは、10 のフランシス・アリスの作品の「鑑賞」は、どれが始まりとも終わりともなかったのかもしれない。しかし、いわば基底を成すように舞台の面に置かれた──ただ水平な線が1本引かれただけの──《グリーンライン》のドローイングは、黒木の「鑑賞のプロセス:フランシス・アリス」にとって特別な位置を占めていたように思われる。
「グリーンライン」は、1949年に、イスラエルの建国をめぐってパレスチナで勃発した第1次中東戦争の休戦協定で定められた境界線だが、結局、今日でも、イスラエルと、それに占領されたパレスチナ領域(いわゆるパレスチナ国)との「国境」として認知されている。フランシス・アリスは、その上を、緑のペンキを垂らしながら歩き、つまり「グリーンライン」にグリーンのラインを引くことで、地図上に描かれたにすぎない線──しかし、あまりに暴力的で残酷な事実──を可視化させた。黒木が「鑑賞のプロセス」の2作目の対象にフランシス・アリスの作品を選んだのも、いま再び同じ場所で戦争が起きているという事実に向き合おうとしたからなのかもしれない。
線が分断を生むものではなく、どこかに行くための、誰かと出会うための、繋がりを感じるための道に変わるまで、線の意味が変わるまで、線を繋ぎ続けたい
最後の台詞に、ドローイングの意味が全て詰まっている。「線を引く」のは、区切るためではなく、結びつけるため。そして、「人工」が「自然」の対義語ではなく、それもまた「自然」の一部だと言えるように、世間から乖離した「自律的」な「美術」ではなく、作品は生活の一環に他ならない。
そういう意味で、黒木の実践は批評的だと言いたい。あるいは、彫刻的だと言っても好い。黒木が彫刻専攻の出身だからというわけではないが、私たちが生きている現実に寄与するために、わざわざかたちにするという点で──愛すべき存在を祝福するという点で──彫刻と批評は似ている。世界を変えることは難しくても、「いいでしょ」と素敵なものを「共有」できたら、この地球という名の地獄も悪くないと思える。
しかし、それを「社会彫刻」などと呼ぶのは尚更だが、黒木がインタビューにおいて *8 自らの作品を「コンセプチュアル・アート」と説明しなければならないのも口惜しい。「コンセプチュアル・アート」は、伝統的な造形技術としての「アート」でないという意味では「アート」のジャンルの1つではなく、あるいは美術史的にも──そして、嘲笑的なニュアンスを含むのも──「現代美術」と言うのと変わらない。「現代美術とは何か」という話題に立ち返れば、それは専ら現代美術を実践しているアーティストたちが決めるべきことであって、研究者や評論家が与える定義など、ほとんど無意味に等しい。もちろん、それを歴史的あるいは理論的に規定することは可能だが、実際には、それと全く関係なく──たとえば、単に現代の「美術」という意味で──「現代美術」と言ったり、自らを「現代美術家」と名乗ったりする画家や彫刻家もいる。ひいては「作品」の要件についても同様で、何が作品であって何がそうでないかは、作品をつくることに専心している者が決めることだ。望むらくは、黒木の作品が、いかなる限定もなく「彫刻」や「美術」と呼ばれ、あたりまえに受容されてほしい。それが誰かにとって生きがいになるなら、「芸術活動の意義」など些細な問題にすぎない。
鑑賞のプロセス:フランシス・アリス
2023年10月21日 14:00/18:00、22日 13:00/17:00(上演時間約60分)
THEATRE E9 KYOTO
キャスト:岩越信之介(劇団なべあらし)、黒木結、shimizu kana(TOiTA)
作・演出:黒木結
舞台監督:河村都
照明:渡辺佳奈
制作:木元太郎
宣伝美術:寺岡波瑠
企画ロゴ:黒木結
主催:鑑賞のプロセス2023
共催:THEATRE E9 KYOTO(一般社団法人アーツシード京都)
助成:京都府文化力チャレンジ補助事業
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Notes
*1
中村英樹『表現のあとから自己はつくられる』(美術出版社、1987年)81 頁
*2
松井みどり「両面通行──グローバル化時代の国際展と日本の現代美術の受容」『表象05』(表象文化論学会、2011年)59頁
*3
https://www.youtube.com/watch?v=RmSb8gW01JA/(2024年2月20日 最終アクセス)
*4
吉崎によるフランシス・アリスの作品の紹介も参照のこと。「フランシス・アリス」『これからの創造のためのプラットフォーム』
http://sozoplatform.org/yoshizaki-1/(2024年2月20日 最終アクセス)
*5
9月に京都芸術センターで開催された「印刷物を売る会」で、前売りチケットの付録として販売された。また、公演期間中、台本や記者会見の原稿と併せて収録されたパンフレットが販売された。
*6
2020年8月、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで行われたグループ展「道にポケット」に際して村上美樹が記した覚書を参照のこと。
https://michinipoketto.studio.site/note-4(2024年2月20日 最終アクセス)
*7
筒|tsu-tsu「富士山麓から──ドキュメンタリーアクティングの実践と普及」『活動支援生インタビュー』Vol. 52(クマ財団)
https://kuma-foundation.org/news/10301/(2024年2月20日 最終アクセス)
*8
「黒木 結 / 騒がしい星」『京都の演劇人にインタビュー 頭を下げれば大丈夫』
https://intvw.jp/kuroki_yui(2024年2月20日 最終アクセス)