『近代とは何か?――抽象絵画の思想史的研究』第1章「『自然』概念の変遷」秋丸知貴評

図1 《春のフレスコ(アクロティリ遺跡壁画)》

ギリシャ・サントリーニ島 前16世紀

はじめに

本書の目的は、近代西洋における抽象絵画の成立の分析を通じて近代文明とは何かを明らかにすることである。

本章は、「自然」概念の歴史的変遷を辿る。それは、近代西洋における抽象絵画の成立を考えるためには、その前提としてルネサンス期に成立した一点透視遠近法を考察する必要があり、その一点透視遠近法の成立の読解には「自然」概念の解読が必要だからである。

 

1 「文明」とは何か?

まず、「文明」について見ておこう。

科学史家の伊東俊太郎(一九三〇年~二〇二三年)によれば、「文明」は「文化」との比較によりその概念を定義される。つまり、「文化」は「一定地域の人間集団の生活」(生活圏)における、その集団特有の「エートス・観念形態・価値感情」である。これに対し、「文明」は諸「文化」を反映しつつ、それをより高度かつ大規模に統合・精密化した「制度・組織・装置」である。言い換えれば、ある生活圏における人間生活の営みに必要なハードウェアが「文明」であり、それを運用するソフトウェアが「文化」である。

「文明」は「文化」を反映して形成されるが、「文化」もまた「文明」の変化に影響される。従って、「文明」と「文化」は相互作用的である。また、いったん形成された「文明」は、「文化」から相対的に独立し(文化剥離)、他の生活圏に移植されうる(文明移転)。そして、一般に生活圏相互の交渉は、まず「文明」の領域で行われる(文明接触)。

なお、「西洋」とはユダヤ教・キリスト教「文化」圏の謂である。

 

2 「近代」とは何か?

次に、「近代」について整理しておこう。

「近代」は、いわゆる「科学革命」以後の時代を指す。また、この「科学革命」は、一七世紀ヨーロッパにおける「近代科学」の創出を意味する(その萌芽は、ルネサンス期にある)。つまり、「近代」の根源は「近代科学」である。

元々、「科学」は人間の環境に対する何らかの知的働きかけを意味する。従って、「科学」の土台には「自然観」がある。また、その意味での「科学」は、「文明」である以前に「文化」であり、それぞれの時代や社会において多様な諸「科学」がありうる。事実、「近代科学」を生んだ一七世紀ヨーロッパ以前にも、中世ヨーロッパはもちろん、オリエント、ギリシア、イスラム、インド、中国、日本等に、それぞれ固有の「科学」が存在した。

しかし、「近代科学」は、他の諸「科学」とは全く異なる特殊な性質を持つ。その異質性を明らかにするために、以下、古代オリエント、古代ギリシア、中世ヨーロッパ、ルネサンス期ヨーロッパ、近代ヨーロッパの順に、それぞれの「自然観」と「科学」を比較考察しよう。

 

3 古代オリエントの自然観

まず、「古代オリエントの自然観」を見てみよう。

古代オリエントには、「天」「地」「海」等を意味する個々の言葉はあったが、それらを全体として総括する「自然」という概念はまだ存在していなかった。また、その個々の言葉は、それぞれを司る個々の「神々」の名前であり、個々の自然現象は、その個々の「神々」の超常的な力の働きと捉えられていた。さらに、そうした「神々」は、感情・意志などの「人間」的属性によって擬人化されており、個々の自然現象は、個々の人格神を物語る「神話(ミュトス)」によって説明されていた。そして、個々の自然現象に対する実践的働きかけでは、そうした個々の人格神の擬人的共感に訴え無事息災を祈願する、呪術的「祭儀」が重視されていた。

つまり、「古代オリエントの自然観」は、「神々・人間・自然」を同質な生命的存在として捉え、個々の自然現象と情緒的に交感しようとする、「神話的・感性的自然観」であった。なお、こうしたいわゆる「アニミズム」的自然観自体は、八百万(やおよろず)の神々を信仰する日本を始め、古代世界全体に見られ、人類にとっては本来的に自然で普遍的であることをここで付言しておきたい。

 

4 古代オリエントの科学

こうした「古代オリエントの自然観」を基に、「古代オリエントの科学」が形成される。それは、呪術的「祭儀」に根差しつつ、土地を測量するための幾何術、物を計算するための算術、暦を作成するための天文術、病気を治療するための医術といった、実用的・功利的な「技術知」であった。

これらは、計算的には非常に高度に発達したが、あくまでも個々の事例において断片的に収集・適用される個別的な経験知に過ぎなかった。従って、それらの知識全体を、「理論知」として合理的に論証したり論理的に体系化したりするものではなかった。

つまり、古代オリエントでは、一般的に「科学」と「技術」は分離していた。

 

5 古代ギリシアの自然観

次に、「古代ギリシアの自然観」を見てみよう。

森羅万象を一つの全体として統括する「自然」という概念が最初に生まれたのは、古代ギリシアであった。それは「ピュシス」と呼ばれ、最初は古代オリエントと同じく個々の自然現象を指していたが、次第に自然現象一般も意味するようになった。

元々、「ピュシス physis(自然)」の語源は、「ピュオマイ phyomai(生まれる)」である。従って、「ピュシス」の第一義は、自律的で内在的な「誕生」「生成」「成長」であった。例えば、ヘロドトス(前四八五年頃~前四二〇年頃)は、『歴史』(七巻一三四)で、「生まれ(ピュシス)においても良かったし、富においても一流であった」のように用いている。

また、「ピュシス」の第二義は、その自ずと生長した結果としての内的な「本性」「性質」や、外的な「外形」「形状」であり、両者の場合には「性状」、さらに人間に適用される場合には「気質」「性格」「個性」等を意味した。例えば、ホメロス(前八世紀頃)は、『オデュッセイア』(一〇巻三〇三‐三〇五)で、「アルゴス殺しの神は、地面から抜き取った薬草をくれて、その形状(ピュシス)を私に示した。根は黒く、花は乳のように白かった」のように使用している。

さらに、「ピュシス」の第三義は、その自ずと生長する「力」や、そこで形成される「秩序」であった。

そして、「ピュシス」の第四義は、そこから派生した「地」「水」「風」「火」や「原子」等の自然界の原理的・根源的構成要素であった。

このように、様々な意味に発展していた「ピュシス」は、前五世紀頃に「万物のピュシス」や「全体のピュシス」といった用法から次第に前の形容詞が取れて、「ピュシス」一語だけで自然物全体を含意するようになる。例えば、エウリピデス(前四八五年頃~前四〇六年頃)は、「自然(ピュシス)」を「秩序世界(コスモス)」と同格的に用いている。

幸いなるかな、探究の道にすすみ、
市民たちに害を及ぼそうとも
不正な行為に走ろうともせずに、
不死なる自然(ピュシス)の、不死の秩序世界(コスモス)を眺め、
それをいかにして、また何から、何によって形成されたかを観照するものは。
かかる人びとには、卑しい所業への思いの宿ることは決してないのだ。
(「断片」九一〇〔強調引用者〕)

要約すれば、古代ギリシアにおける「自然(ピュシス)」は、自ずから生れ、育ち、衰え、死にゆくもの全体、すなわち生命的・アニミズム的世界全体を包括する概念であった(図1)。

ここで興味深いことは、この「ピュシス」には、狭義の「自然」のみならず「神々」や「人間」も含まれていた事実である。つまり、「人間」は「自然」の一部であり、「神々」も「自然」に内在するとされていた。

このことを、伊東俊太郎は、全体的な「生命」的「自然」に「神々」も「人間」も全てが同質な「生れを同じくするもの(シュンゲネス)」として内包されているという意味で、「汎自然主義(パンピュシズム)」と呼んでいる。

なお、個々の感覚的な自然現象を一つの全体として概念化することには、理性的思考の働きを観取できる。ここに、自然現象に対する実践的働きかけが「祭儀」から「芸能」へ移行する最初の世俗化の契機を看取できる。特に、前四二七年頃のソフォクレスによる『オイディプス王』には、運命に無力に翻弄されつつも何とかそれに抗おうとする自我の覚醒の兆候を読み取れる。

①アリストテレスの自然観

この「古代ギリシアの自然観」を定式化したのが、アリストテレス(前三八四年~前三二二年)である。

まず、アリストテレスは『形而上学』第五巻第四章で、「第一義的な主要な意味で自然と言われるのは、各々の事物のうちに、それ自体として、その運動の原理を内在させているところのその当の事物の実体のことである」と定義している。

また、アリストテレスは『自然学』第二巻第一章でも、「自然」を物に内在する「運動の原理・原因」とし、「それ自身のうちに運動の原理を持つもの」として、「地」「水」「風」「火」や、「植物」「動物」「人間」などを挙げている。

さらに、アリストテレスは、そうした運動に関わる「始動因」のみならず、「質料因」「形相因」「目的因」の「四原因」全てを、その物の「自然」と見なしている。

そして、アリストテレスは、「自然は、自然に従って存在するものや自然的なものを意味する」とし、やはり自然物全体も「自然」と捉えている。

ここで注意すべきは、このアリストテレスの「運動(キーネーシス)」は、単なる物理的「位置」の移動だけではなく、「実体」の誕生・消滅、「質」の生成・変化、「量」の増大・減少など、自律的で内在的な変化の要素も含んでいる問題である。つまり、ここでも「自然」は、有機的原理を内包する「生命」的「自然」として把握されている。

また、このアリストテレスの「運動」は、物が自らの「目的(テロス)」としての「形相(エイドス)」の実現を目指す、「可能態(デュナミス)」から「現実態(エネルゲイア)」への移行と定義されている。こうした、「自然」に「目的」を見ることもまた、「自然」と「人間」を同質なものと見なし、「自然」に感情・意志等の「人間」的属性を読み取ることに他ならない。

さらに、アリストテレスは、物は全て素材としての「質料(ヒュレー)」と本質としての「形相」から成るとし、生命体は「質料」としての「物体(ソーマ)」と「形相」としての「霊魂(プシュケー)」から構成されるとしている。そして、生命体の生命原理は、それなしには生物が存在しえず(形相因)、そのために生物の諸部分が存在し(目的因)、それによって生物の諸活動が営まれる(始動因)という意味で、「物体」に全体的な秩序を与える「霊魂」であるとしている。

そして、アリストテレスは、「植物」「動物」「人間」はそれぞれ順に「栄養・生殖」「感覚・運動」「理性・思考」を機能とする「霊魂」を持ち、後者が前者を含む連続的秩序を有するとしている。つまり、「人間」は「自然」と対立するものではなく、高位形態ではあってもあくまでも「自然」の内的部分である。

その上で、アリストテレスは、他を動かし自らは動かぬ「不動の動者」としての「神々」を、「自然」の「運動」の究極の「目的」である「純粋形相」として自然学体系の頂点に位置付けている。すなわち、「神々」もまた、「秩序(コスモス)」の源泉としてあくまでも「自然」に内在している。

こうしたアリストテレスの「目的論的自然観」、あるいは「生気論的自然観」こそが、古代ギリシアの集約的な自然観であった。換言すれば、古代ギリシア人にとって「自然(ピュシス)」は、自ずから生成変化する「生命」的「自然」全体であり、「神々」や「人間」も含んだ一つの調和的統一体であった。

 

6 古代ギリシアの科学

こうした「古代ギリシアの自然観」を基に、「古代ギリシアの科学」が形成される。

古代オリエントから古代ギリシアへの認識論的転換は、「神話(ミュトス)」から「哲学(フィロソフィー)」へと特徴付けられる。つまり、「自然」に対し、個別的かつ擬人的・感性的に交感するのではなく、統一的かつ合理的・理性的に理解しようとする態度が芽生える。

ここに、「神話的・感性的自然観」に代わる「哲学的・理性的自然観」が成立する。すなわち、統括概念としての「自然」の成立と、その理性的理解としての「哲学」の誕生(さらに「祭儀」から「芸能」への移行)は、軌を一にしている。

そうした「哲学に最初に携わった人々」(アリストテレス)が追求したものは、万物がそれから生じ、それへと帰一する、「自然」の根源的「原理(アルケー)」であった。そこでまず、「自然」の元素として、「水」(タレス)、「空気」(アナクシメネス)、「四元素」(エンペドクレス)、「原子」(デモクリトス)等が提唱された。

これに対し、「数」を重視するピュタゴラスは、それらは個物を構成する十分条件としての「質料」に過ぎないとし、さらに個物を個物たらしめる必要条件としての「本質」を追求した。この「本質」を、ピュタゴラスの後世代のソクラテスやプラトンは「イデア」と呼び、アリストテレスは「形相」と呼んだ。

ここで注意すべきは、感性的交感から理性的理解に移行したとはいえ、「古代ギリシアの科学(自然哲学)」でも、依然として「人間」と「自然」の同質性が前提されていた事実である。つまり、「人間」は、兄弟としての「自然」に、「理性」を通じて自らと同質のものを直観し、把握し、理解する。例えば、エンペドクレス(前四九〇年頃~前四三〇年頃)は、「等しきものは等しきものによって知られる」とし、「我々は、地によって地を、水によって水を、風によって風を、火によって火を見る」と語っている。

こうした「理性」による「自然」の内的理解は、アリストテレスによって「観照(テオリア)」と定義される。すなわち、「観照」は、「人間」と「自然」の同質性の下に、「理性」に基づき、実用的・功利的な関心による「実践(プラクシス)」や「制作(ポイエーシス)」ではなく、純粋に知的な関心によってのみ対象を合理的に理解することを意味する。

従って、「観照」では、純粋に「理論のための理論」として、「論理(ロゴス)」的な整合性だけが追求される。その結果、実際的な検証や適用は行われないが、思弁的には極めて厳密で説得力のある理論体系が構築される。実際に、「論証」的な純粋数学が非常に発達し、公理的で演繹性の強い、ユークリッド幾何学、アルキメデス力学、プトレマイオス天文学等が隆盛する。

こうした「理論」と「実践」の分離は、古代ギリシアでは、労働が「奴隷」の仕事とされ、「自由人」たる学者が従事すべきではないと見なされていた問題が背景にある。その結果、「古代オリエントの科学」とは対照的に、「古代ギリシアの科学」では、「自由技術(リベラル・アーツ)」としての「理論知」の重視と、「機械技術(メカニカル・アーツ)」としての「技術知」の軽視が生じ、やはり一般的に「科学」と「技術」は分離していた。例えば、アルキメデス(前二八七年~前二一二年)は、「数学的力学」を高度に発展させたにもかかわらず、その技術的実践への適用には必ずしも積極的ではなかった。

①アリストテレスの科学

こうした古代ギリシアの知的営為を集大成し、その「科学(自然哲学)」を体系化したのが、やはりアリストテレスである。

先述のように、アリストテレスは、全ての「自然」の個物は、「質料」と「形相」の結合であり、「質料」が、その「目的」としての「形相」を潜在的に秘める「可能態」から、それを実現する「現実態」へ移行することを、「運動」と見なした。こうした、生命原理としての「形相」は、無限を有限に限定し、部分を全体に統合し、「混沌(カオス)」に「秩序(コスモス)」を与えるものである。

また、その「運動」は、「目的」が達成されると「静止」する。従って、「秩序」ある「静止」こそが、アリストテレス自然哲学の基本である。こうした、安定・均衡・調和を理想とする有限的世界観は、古代ギリシアでは、日常生活が閉じた共同体である都市国家(ポリス)で営まれていたことが背景にあろう。

この有限的世界観から、アリストテレスの宇宙論・運動論も構成される。つまり、アリストテレスは、有限の天動説を取り、地球を宇宙の中心に静止させ、月から下は、「火」「風」「水」「地」の四元素の「本来の場所」が順に層を成し、また月から上は、第五元素「エーテル」の天体が占める、「秩序的宇宙」(コスモス)を構想する。

そして、月下界の不完全な四元素は、それぞれ「本来の場所」を求める「自然」の「傾向」によって、絶え間ない上下運動や生成消滅を行い、様々な気象学的・地質学的変化をもたらす。また、天界の完全な第五元素は、その「自然」に基づき、永遠なる円運動を実現する。

なお、基本的に、このアリストテレスの宇宙論を、観察に基づきより計算的に高度化したものが、プトレマイオスの天文学である。

さらに、アリストテレスは、「生命」的「自然」に関わるものとして、生物学、医学、心理学はもちろん、政治学や倫理学までも、その自然哲学体系に組み入れている。

こうした、アリストテレスの目的論的・生気論的自然観とそれに基づく科学(自然哲学)は、その論理的厳密性ゆえに誰も疑いえない絶対確実な権威的知識として、その後中世・ルネサンスを経て一七世紀に至るまで西方世界を約二〇〇〇年間支配することになった。

なお、古代ギリシアでは、このアリストテレスの目的論的・生気論的自然観以外にも、「自然」の理性的理解をより厳格に推し進めた機械論的自然観として、デモクリトス(前四六〇年頃~前三七〇年頃)が「原子論」を主張したが、一般に広く受け入れられるまでには至らなかった。

 

7 中世ヨーロッパの自然観

こうした古代ギリシアの「ピュシス(自然)」は、古代ローマに入ると「ナートゥーラ natura(自然)」とラテン語訳される。

この「ナートゥーラ」の語源は、「ナースコル nascor(生まれる)」であり、「ピュシス」の語義はそのまま受け継がれる。

つまり、古代ローマの「ナートゥーラ」もまた、「生命」的「自然」全体を指し、自律的で内在的な生成・変化、固有的な性状・力・秩序・原理、そして森羅万象一般を意味するものであった。従って、この時点ではまだ「パンピュシズム」は保たれており、「神々・人間・自然」は同質なものとして相互に分離していなかった。

ところが、国教化されていたキリスト教が文化圏を拡大し、やがて古代ローマの滅亡後に中世ヨーロッパが成立すると、この「ナートゥーラ」は、それまでの「自然」概念とは大きく変質することになる。ここに、近代ヨーロッパの「ネイチャー nature(自然)」概念の起源がある。

キリスト教の教義では、創造主としての唯一「神」と、被造物としての「人間・自然」は完全に分断されると共に、神が別個に創造した「人間」と「自然」も完全に分離される。そして、「神」「人間」「自然」が互いに異質なものと規定されることにより、従来の「パンピュシズム」的な「神々・人間・自然」の同質的一体性は崩壊する。

さらに、キリスト教の教義では、「神」に奉仕する「人間」、「人間」に奉仕する「自然」という明確な役割分担が課される。従って、「神」→「人間」→「自然」という絶対的で断絶的な上下関係が確立される。

その結果、「神」は、もはや「自然」に内在などせずに、彼岸から此岸を監視する超越者となる。また、「人間」は、もはや「自然」の一部などではなくなり、地上の全てを支配する主人となる。そして、「自然」は、もはや何一つ「人間」的属性による類推を許さない、気心の知れぬ下僕となる。

 

①トマス・アクィナスの自然観

ただし、中世においては、依然としてアリストテレス哲学の論理的厳密性の権威が強かった。その上、一二世紀には、元々ヨーロッパにはごく僅かしか継承されていなかったアリストテレス等の古代ギリシャ・ローマの文献が、アラビア世界からある程度流入した(一二世紀ルネサンス)。

そのため、何とかして、このキリスト教の一神教的・階層的自然観と、アリストテレスの目的論的・生気論的自然観を折衷することが目指される。この折衷を、一三世紀に「スコラ学」として大成したのが、トマス・アクィナス(一二二五年頃~一二七四年)である。

アクィナスは、アリストテレスの「自然」の生命原理である「霊魂」を、「実体形相」と翻案する。これにより、中世ヨーロッパにおいても、「自然」は異質な対立的他者に変貌しつつも、まだ依然として「生命」的「自然」としての要素を残存させていた。

 

8 中世ヨーロッパの科学

こうした「中世ヨーロッパの自然観」を基に、「中世ヨーロッパの科学」が形成される。

スコラ学の運動論は、基本的にアリストテレスの運動論を踏襲しており、秩序ある静止がその基本であった。従って、月下界の「運動」は、四元素の「本来の場所」を求める「自然」な「傾向」に基づく直接的運動に由来し、「目的」が実現されると停止するとされた。

また、スコラ学の宇宙論も、アリストテレス=プトレマイオス宇宙論の影響下にあり、有限な天動説を取り、宇宙の中心に地球が静止し、月下界は媒体の抵抗に満ちた四元素の階層的空間であり、天界は天国と解釈された。ちなみに、このアリストテレス=スコラ学的宇宙論は、かなり時代が下った、後のダンテ・アリギエーリの『神曲』(十四世紀初頭頃)や、ジョン・ミルトンの『失楽園』(一六六七年)にまで顔を出している。

なお、中世ヨーロッパでは、こうした「理論知」の担い手は、キリスト教会の神学者であった。従って、その究極的な目標は、あくまでもキリスト教の弁護であった。そのため、「自然」も、キリスト教の神学体系の一部として考察されるが、それはあくまでも思弁的・観念的なものに過ぎず、現実的に検証されたり実際的な問題に適用されることはなかった。

その一方で、実用的・功利的な「技術知」は、専ら無学な職人の仕事であった。彼等の知識は、閉鎖的なギルドで親方から伝授されるか、断片的に収集・適用される個別的な経験知に過ぎず、やはりそれらの知識全体を「理論知」として合理的に論証したり論理的に体系化したりするものではなかった。

つまり、中世ヨーロッパでも、一般的に「科学」と「技術」は分離していた。

 

9 ルネサンス期ヨーロッパの自然観

一四世紀から一六世紀のルネサンス期に入ると、中世ヨーロッパのアリストテレス=スコラ学的自然観は大きく動揺する。なぜならば、十字軍遠征等によるイスラム文明との大規模な接触により、そこで継承されていた古代ギリシア・ローマ文芸の摂取が本格化し、文字通り復興運動が盛んになると共に、一四四〇年頃のヨハネス・グーテンベルクによる印刷術の発達により、古代ギリシア・ローマの文献が広く大量に普及したからである。

特に注目すべきは、プロティノスの「新プラトン主義」、アルキメデスの「数学的力学」、デモクリトスの「原子論」の流行である。「新プラトン主義」は、太陽崇拝の下に、地球中心の静的で有限な宇宙観(天動説)から、太陽中心の動的で無限な宇宙観(地動説)への変換を導くもので、マルシリオ・フィチーノによって広められ、後にニコラウス・コペルニクス、ジョルダーノ・ブルーノ、ガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラー等に影響を与えた。また、アルキメデスの「数学的力学」は、自然を数学的に分析する機運を高めた。そして、デモクリトスの「原子論」は、「自然」から「生命」を脱色する傾向を強めた。

 

10 ルネサンス期ヨーロッパの科学

こうした「ルネサンス期ヨーロッパの自然観」を基に、「ルネサンス期ヨーロッパの科学」が形成される。

ただし、ルネサンス期には、コペルニクスを除いては、それほど重要な科学的発見は見られなかった。しかし、重要なことは、「科学」と「技術」が結合する契機が生じたことである。

この時期、イタリアを中心とする自由都市では、商工業の発達につれて、中産階級を中心とする市民社会が勃興する。そこでは、従来「学者」と「職人」を分け隔てていた階級的障壁が取り除かれ、「学者」の論理的な数学的理論と、「職人」の実証的な技術的実践が接近する道が開かれた。

最初はまず、「職人」による「学者」的「理論知」の獲得として、「高級職人」が登場する。その代表は、チェンニーノ・チェンニーニ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、アルブレヒト・デューラー等である。続いて、「学者」による「職人」的「技術知」への関心も生じる。その典型は、レオン・バッティスタ・アルベルティ、ゲオルク・アグリコラ、アンドレアス・ヴェサリウス等である。

このように、「理論」と「実践」が歩み寄ることが、ルネサンス期ヨーロッパ科学の特徴的傾向であった。それは、一方では「職人」である「画家」が「科学」と結びついて「一点透視遠近法」的芸術を生み、他方では「職人」が「科学」と結びついて今日的な「科学者」や「近代科学」を準備した。その意味で、「一点透視遠近法」と「近代科学」は同根の二つの花である。

さらに、元々「職人」の「術(アルス)」として同じ範疇であった「芸術・技術」の内、次第に「技術(テクネー)」だけが「科学(スキエンティア)」との融合を強め、「科学技術(サイエンティフィック・テクニック/テクノロジー)」が形成された結果、これを相補するものとして、残余概念としての「芸術(アート)」の漸進的な分節化が生じたことも付け加えておきたい。

 

11 近代ヨーロッパの自然観

一七世紀に入ると、それまでアリストテレス自然学に従属していたキリスト教本来の自然観が自律的に台頭する。その特徴は、「自然支配」と「機械論」である。前者はフランシス・ベイコン(一五六一年~一六二六年)に、後者はルネ・デカルト(一五九六年~一六五〇年)に代表される。

①フランシス・ベイコンの自然観

まず、フランシス・ベイコンについて見てみよう。

キリスト教の教義では、「自然」は「人間」に奉仕する奴隷であった。従って、「人間」は、「自然」を支配し、利用せねばならない。事実、ベイコンは『ノヴム・オルガヌム』(一六二〇年)で、「神の贈与によって人類のものとなっている自然に対する自らの権利」(一‐一二九)を主張している。

ここで注目すべきは、キリスト教徒にとって、「人間」と「自然」は、「神」によって別個に創造された、互いに全く異質な他者である問題である。そのため、「人間」は、「理性」に基づいて「自然」の理解を目指す点では古代ギリシアと同じとはいえ、「パンピュシズム」のように「自然」を同質な身内として内から直観し、把握し、理解することが出来ない。そうである以上、「自然」との同質性を前提とする従来のアリストテレス的な「観照」は、「自然」の支配や利用には無効で無益と見なされざるをえない。

実際に、ベイコンはアリストテレス哲学を、「議論や論争に強くなるだけで、人間生活に役立つ業績(ワークス)を生み出す力に欠ける哲学」と評したと伝えられている。そうである以上、今や、アリストテレスの『論理学(オルガノン)』に代わる『新機関(ノヴム・オルガヌム)』が確立されねばならない。

そこで、ベイコンは、「人間」は「自然」を読解するために、「理性」を用いて「自然」を外から拷問し、解剖し、分析しなければならないと説く。つまり、「人間」的属性の主観的投影としての「イドラ」を排除し、「自然」固有の客観的属性に即することによってこそ異質な「自然」の秘密は解読されると力説する。このことを、ベイコンは『ノヴム・オルガヌム』で、「自然は服従することによってのみ支配できる」(一‐一二九)と表現している。ここで重視されるのが、実際的・実践的な「精神と事物の交わり」としての「実験」である。

この「実験」における「技術知」の必要性は、「学者」に「職人」の「機械的技術(メカニカル・アーツ)」への注目をより一層促すことになる。しかし、「職人」の「技術知」は、それだけでは断片的で個別的な経験知に過ぎない。職人は、個々の「成果をもたらす実験」で単発的な「発見」はしても、それらを統括する一般的・普遍的な「自然の原理」としての「原因」までは明らかにしようとはしない。

そこで、効率的な「自然支配」のためには、個々の「発見」を合理的に論証し、それらを論理的に体系化して、全体的な「理論知」にまで昇華せねばならない。つまり、単なる「発見」ではなく、「発見のための発見」に役立つ諸々の「光をもたらす実験」を「帰納」的に蓄積・総合した時に、『学問の進歩』(一六〇五年)は約束されるだろう。

ここに「科学」と「技術」は完全に結合し、「科学技術」が初めて本格的に成立する。実際に、ベイコンは『ノヴム・オルガヌム』の冒頭で、「知と力は合一する」(一‐三)と高らかに宣言している。

こうした「光をもたらす実験」によって「発見」された「原因」を、「発明」における「法則」として適用することで、「自然」は十全に活用される。そうした「印刷術と火薬と羅針盤」を始めとする「人類の欠乏と悲惨を征服する一連の発明」によって、人類の福利厚生は無限に増進し、やがて人類は「自然」の領土に「人間の王国」としての『ニュー・アトランティス』(一六二四年)を築き上げるだろう。

ここで興味深いことは、ベイコンにとって「実験」とは、完全な世俗的行為ではなくむしろ敬虔な宗教的行為を意味した問題である。つまり、ベイコンの「実験」とは、原罪を犯した被造物としての「人間」が「真実の精細な線をもって物質に刻み区切られた創造主の真実の印章」を読み取る唯一の手段であり、その「発見」とは「神の御業の模倣」としてその創造の機微に立ち入ることに他ならない。

従って、ベイコンの「実験」は、単なる「生活の便益」を目指すためだけのものではなく、「真理の保証」として「神」への信仰に直結するものであった。このように、宗教と科学技術は相反するという一般通念とは異なり、キリスト教の正統教義と非常に親和的であることが、ベイコンの「自然支配」の重要な点である。

②ルネ・デカルトの自然観

次に、ルネ・デカルトについて見てみよう。

キリスト教の教義では、「自然」は「人間」との類比的な類推を全く許さぬ異質な他者である。正にここに、「人間」を主体、「自然」を客体として定立する、デカルト式の主客分離的認識論の思想的淵源がある。

キリスト教徒にとって「自然」は、「神」が「人間」とは別個に創造した異物である。この「自然」の「非人間性」が強調されると、「自然」からは「人間」的属性としての感情や意志、つまり「生命原理」や「目的意識」、換言すれば「霊魂」(アリストテレス)や「実体形相」(スコラ学)が漂白される。

この「脱聖化」(マックス・ヴェーバー)により、自律的で内在的に生成変化する「生きた有機的自然」は、他律的で決定論的な機械仕掛けの「死んだ無機的自然」に変貌する。

ここにおいて、物は全て、「人間」的要素である「色」や「匂い」等の「第二性質」を捨象されると共に、「自然」固有の属性である「形」「大きさ」「運動」等の「第一性質」だけに抽象され、一様な幾何学的「延長」として把握される。すなわち、「自然」の「生命」的な「質」は無視され、「数学」的対象としての「量」だけが扱われるようになる。

さらに、こうした「延長」は、明晰判明な「要素」に分解され、抽象的・定量的に因果関係を分析される。こうした「解析幾何学」に通じるデカルトの数学的・機械論的自然観は、「普遍数学」の構想の下に、天体、地球、地上の諸物、人間の順に、「自然」全体に適用される。事実、デカルトは『哲学原理』(一六四四年)で、「自然学においては、幾何学におけるとは違った原理を容認もしないし、望ましいとも思わない」(第二部六四)と明言している。

この「物質」からの「精神」の消去と並行して、「精神」からの「物質」の除去、つまり「心身分離」も進行する。すなわち、「人間」もまた「生命」的内実を欠いた単なる理性的な思考能力として、冷たく純粋な「思惟(コギト)」に還元される。実際に、デカルトは『省察』(一六四一年)で、「精神から物体を分離すること」を奨励している。

この「思惟」は、「我思う、故に我在り」に象徴されるように、合理的に「思う(考える)」だけで何一つ情緒的に「感じる」ことのない、幾何学的「延長」から物理法則を数学的に「演繹」するだけの抽象的な計算的理性である。その一方で、「動物」ばかりか「人間」の肉体さえも、「思惟」とは独立した単なる物質的な「機械」と見なされることになる。

こうして「延長」と「思惟」の両方から人間的・生命的要素が脱落するにつれて、「客体」と「主体」の明確な二元論的分離が完成する。ここに、「世界像の時代」(マルティン・ハイデガー)が開幕することになる。

さらに、デカルトも、ベイコンと同じくアリストテレス的「観照」を敬遠し、滑車・テコ・斜面などの職人の「機械的技術」を賞賛している。

これに関連して、デカルトの「機械論」には、手工的機械技術の感化、特に当時登場したばかりの精密な「機械時計」の影響が指摘されている。事実、デカルトは『方法叙説』(一六三七年)で、心臓と血液の運動について、「私が今説明した運動は、あたかも時計の運動が、分銅と歯車の力、位置、形から結果するのと同じように、心臓の中で目に見ることのできる器官の配置から必然的に結果するのである」と説明している。

これに加えて、デカルトもまた、こうした「機械論」と共に、ベイコンと同じく「自然支配」を称揚している。実際に、デカルトは『方法叙説』で、「この方法は学校で教えられる思弁的思想の代りに実践的哲学を見出すことができ、この助けによって、われわれは火や水、空気、星、天体その他すべての物体の力と作用を、ちょうど職人がいろいろな手工業を知っているように、はっきりと知るならば、われわれはそれらの知識をそれぞれに適した用途に利用することができ、それによって自らを自然の支配者にして所有者たらしめることができよう」と解説している。

このように、やはりキリスト教の正統教義と極めて親縁的であることが、デカルトの「機械論」の肝要な点である。ちなみに、デカルトもまたこれらの著作で、一人のキリスト教徒として、万人に与えられている理性や慣性等の自然の運動法則は神によって計画され賦与されたものであると強調していることをここで付記しておきたい。

なお、エルウィン・パノフスキーが「『象徴形式』としての遠近法」(一九二四~二五年)で指摘するように、このキリスト教的思想風土が創出した、抽象的な計算的理性としての「思惟」が死せる自然としての「延長」を睥睨する精神態度こそが、「一点透視遠近法」の象徴的・造形的意味内容である。

そして、こうした合理的・世俗的思惟は、やがて「不合理故に我信ず」(アウグスティヌス)と信仰された不合理なキリスト教そのものを否定し、理神論さらには無神論を招来せずにはおかない。その時、人間は、その追放した超越的絶対神の視座に、後継者たる理性的主体として傲然と陣取り、世界を客体として表象し、操作し、支配するだろう。

ハーバート・リードの用語を借りれば、この既にルネサンス期に胎動していた、「イコン」としての「一点透視遠近法」を「イデア」にまで論理化したのが、「ミネルヴァの梟」(G・W・F・ヘーゲル)としての一七世紀のデカルトの主客分離的認識論と判定できる。

いずれにしても、こうした「近代ヨーロッパの自然観」の二大特徴である「自然支配」と「機械論」が、共にキリスト教の正統教義を思想的背景に持つと推定されることは注目に値する。

もちろん、伊東が適切に注意を促すように、キリスト教の正統教義が必ず「自然支配」と「機械論」をもたらす訳ではなく、キリスト教の『旧約聖書』(ユダヤ教の『聖書』)の「創世記」における自然観には人によってはそのように解釈する余地があるということである。また、一口でキリスト教的自然観と言っても、神から委託された自然管理の権限をどの水準で捉えるかにより様相が異なり、例えば鳥と対話し動物と人間を分け隔てないアッシジの聖フランチェスコのような聖人の事例もあるので一概に単純化はできないことは十分に留意すべきである。本章では、限られた紙数で論点を明確にするために敢えて問題を図式化せざるをえなかったことをお断りしておきたい。

12 近代ヨーロッパの科学

こうした「近代ヨーロッパの自然観」を基に、「近代ヨーロッパの科学」が形成される。

「近代ヨーロッパの科学」、つまり西洋「近代科学」は、アリストテレス自然哲学の「観照」を没落させ、あらゆる「生命」的「自然」を「目的」を欠いた単なる無機的な物理現象に脱色する。また、それぞれの客体を最小構成要素に還元・細分化し、純粋な計算的理性と厳密な実験的観測を通じてその抽象的な量的関係を「自然法則」として解読する。そして、これを技術的な発明や実践に応用することで、自然の十全な操作・支配もまた可能になる。この典型が、ガリレオ・ガリレイやアイザック・ニュートン等の近代物理学、ロバート・ボイルやアントワーヌ・ラヴォアジェ等の近代化学である。

特に注目すべきは、近代力学を大成したガリレオ・ガリレイ(一五六四年~一六四二年)である。ガリレイもまた、「数学的方法」と「実験的方法」を結び付ける「科学的方法」を初めて本格的に活用したことで知られる。事実、ガリレイは「試金石の天秤」(一六二三年)で、「宇宙は数学の言語で書かれた書物である」と断言しており、その「自然」の数学的理解への確信と、自ら制作した望遠鏡で天体観測することに典型的な職人的技術による実験測定への熱意は、完全に一致している。

このガリレイのように、普遍的ではあるが経験内容の空虚な数学に、実験による実際の経験的知見を加えた時に、「自然支配」に現実的に実効力のある「科学技術」が発動する。やがて、この「科学技術」を駆使して近代西洋は、「文明」を標榜し、「進歩」を称揚し、仮説と検証の無限の螺旋運動の先に、「蒸気機関」を開発し、「産業革命」に突入し、人類史上未曽有の物質的な栄華と暴力を獲得するだろう。

なお、日本がこの近代西洋文明と初めて本格的に対峙したのは、言うまでもなく幕末の黒船来航である。

 

おわりに

以上のことから、「近代文明」は、「近代科学技術文明」と定義できる。

周知のように、「近代科学技術文明」は、人間の福利厚生の「物質」的側面を飛躍的に向上・発達させ、非常に有益で実利的な成功を収めた。確かに、数字で計測しうる経済的繁栄や、衛生状態の改善、寿命の長期化等は、誰にも否定しえない厳然たる「近代文明」の「プラス面」である。

しかし、その一方で「近代文明」は、「マイナス面」として様々な心理的・社会的諸問題を発生させており、人々は必ずしも幸福感や充実感に満たされて生きてはいない。その原因は、突き詰めれば、やはり「近代文明」が「物質」的利害だけを重視し、「精神」的価値を軽視・無視することに由来しよう。

つまり、基本的に「近代文明」の諸問題は、「精神」的意味を伴わずに「物質」的利益だけを追求することに起因する。その弊害は、政治、経済、社会、教育、医療、農業、食事、芸術、宗教、軍事、環境等、全文化領域に及んでいる。

特に、「生命」を扱う分野において「近代科学」の要素還元主義の限界は顕著である。論理上、この立場では、全体とは部分の総和以上であるという認識は全く欠落せざるをえない。しかし、「生命」を部分的要素に分解していくと、必ずそれを形成する「ゲシュタルト」としての統一的連関性は完全に破壊されてしまう。従って、「生命」の本質に向き合う場合には、むしろ肉体における部分と部分の関係や、肉体と精神を共に全体的に捉え直すことこそが重要である。

また、「近代文明」による自然環境破壊も深刻である。既に見たように、その思想的構造において、「近代科学」自体は、部分的にはともかく、究極的には「自然」保護に本当に有効な方策とはなりえない。たとえ、「近代科学」がその合理性ゆえに次第にキリスト教的背景を脱色するとしても、「自然」を「人間」よりも下位の異質的他者と捉える自然観を踏襲する限り本当に根本的な解決策はもたらされない(なお、環境問題において、上位の人間が自然を管理して解決を目指すことをシャロ―・エコロジーと見なし、人間を自然よりも上位と見ずに解決を目指すのがディープ・エコロジーの立場である)。

そうである以上、もし本気で自然環境問題の解決を目指すならば、「近代ヨーロッパの自然観」以前の自然観が再興されねばならない。また、「科学技術」の相補領域としての「芸術」や「宗教」の重要性も再認識されるべきであろう。

その意味で、同質的な「自然」の内に「人間」を捉え、あくまでも「自然」との一体感において人間固有の文化領域を洗練する、日本の伝統的な美意識や各種芸道、そしてその背景にある信仰や自然観は、現在改めて再評価される必要がある。

元々、「近代文明」の土台である「近代科学」は、たとえどれだけ「物質」的側面において「絶対的普遍性」を持つように見えても、本来は一つの特殊な周辺的「文化」に過ぎない。従って、もし「近代科学」が現実に「精神」的側面において弊害を多発させているならば、何よりも必要なのは「近代文明」の「絶対的普遍性」を相対化し脱構築する視点である。

疑いなく、今日の人類的命題は、「近代文明」の全肯定でも全否定でもなく、その「プラス面」を評価しつつ「マイナス面」を修正することである。そして、もし「近代文明」に「正」と「負」の両側面があるならば、その「正」の部分をより一層進展させると共に、その「負」の部分を早急かつ抜本的に改善することが何よりも肝要な最優先課題であろう。

 

主要参考文献

伊東俊太郎「科学革命の思想的基盤」『思想史の方法と課題』中村雄二郎編、東京大学出版会、一九七三年。
伊東俊太郎・広重徹・村上陽一郎『思想史のなかの科学』木鐸社、一九七五年(改訂新版、平凡社ライブラリー、二〇〇二年)。
伊東俊太郎『文明における科学』勁草書房、一九七六年。
伊東俊太郎「近代科学の源流――スコラ学と近代」『西欧精神の探究――革新の十二世紀』掘米庸三編、日本放送出版協会、一九七六年。
伊東俊太郎「比較文化論の系譜――西洋」『講座・比較文化(第八巻)比較文化への展望』伊東俊太郎・高階秀爾・芳賀徹他編、研究社、一九七七年。
伊東俊太郎『近代科学の源流』中央公論社、一九七八年。
伊東俊太郎『科学と現実』中央公論社、一九八一年。
伊東俊太郎『比較文明』東京大学出版会、一九八五年。
伊東俊太郎「科学の社会的次元」『新・岩波講座 哲学8 技術・魔術・科学』岩波書店、一九八六年。
伊東俊太郎『文明の誕生』講談社学術文庫、一九八八年。
伊東俊太郎/ジョゼフ・ニーダム/村上陽一郎「近代西欧科学を超えて」『ジョゼフ・ニーダムの世界』中山茂・松本滋・牛山輝代編、日本地域社会研究所、一九八八年。
伊東俊太郎『比較文明と日本』中央公論社、一九九〇年。
伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス――西欧世界へのアラビア文明の影響』岩波セミナーブックス、一九九三年(講談社学術文庫、二〇〇六年)。
伊東俊太郎「総論 現代文明と環境問題」『講座・文明と環境14 環境倫理と環境教育』伊東俊太郎編、朝倉書店、一九九六年。
伊東俊太郎「比較文明学とは何か」『比較文明学を学ぶ人のために』伊東俊太郎編、世界思想社、一九九七年。
伊東俊太郎『一語の辞典・自然』三省堂、一九九九年。
伊東俊太郎『文明と自然――対立から統合へ』刀水書房、二〇〇二年。

 

【謝辞】本稿は、1999年10月2日に大阪経済大学50周年記念館7階同窓会ホールで開催された第18回経済史研究会における、伊東俊太郎先生(東京大学名誉教授・国際日本文化研究センター名誉教授)の講演「『自然』概念の東西比較」に啓発されて執筆された。その後、拙著『ポール・セザンヌと蒸気鉄道』(晃洋書房・2013年)が2014年度の比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)を受賞した縁で、伊東先生の面識を得て対面や手紙で指導を受けることができたことは、筆者の人生における僥倖の一つである。伊東先生は、『ポール・セザンヌと蒸気鉄道』や、本書所収の拙稿「『自然』概念の変遷」「『象徴形式』としての一点透視遠近法」「自然的環境から近代技術的環境へ」等を一読されて、私が前近代と近代の比較文明的観点を持ち、美学美術史の立場から抽象絵画の思想史的研究を通じて「近代とは何か?」「近代文明のプラス面とマイナス面とは何か?」を学問的に追求しようとしていることを的確に洞察され、研究に邁進するよう激励された。本稿は未熟な若書きであるが、昨年2023年に伊東先生が93歳で鬼籍に入られたこともあり、一人でも多くの後進が現代の危機的状況に向き合うための手掛かりになることを願いここに公開するものである。

 

【関連論考】

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序論 近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究
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第13章 近代絵画と写真(3)――後印象派、新印象派を中心に
第14章 近代絵画と写真(4)――フォーヴィズム、キュビズムを中心に
第15章 抽象絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに

著者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美学者・美術史家・キュレーター。1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。2013年に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日〜2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto〔虚白院 内〕、会期:2015年3月7日〜2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院〔建仁寺塔頭〕、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日~2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:掌美術館、会期:2022年3月3日~2022年5月6日)等。2023年に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)出版。

2010年4月-2012年3月: 京都大学こころの未来研究センター連携研究員
2011年4月-2013年3月: 京都大学地域研究統合情報センター共同研究員
2011年4月-2016年3月: 京都大学こころの未来研究センター共同研究員
2016年4月-: 滋賀医科大学非常勤講師
2017年4月-2024年3月: 上智大学グリーフケア研究所非常勤講師
2020年4月-2023年3月: 上智大学グリーフケア研究所特別研究員
2021年4月-2024年3月: 京都ノートルダム女子大学非常勤講師
2022年4月-: 京都芸術大学非常勤講師

【投稿予定】

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第2章 印象派と大都市群集
第3章 セザンヌと蒸気鉄道
第4章 フォーヴィズムと自動車
第5章 「象徴形式」としてのキュビズム
第6章 近代絵画と飛行機
第7章 近代絵画とガラス建築(1)――印象派を中心に
第8章 近代絵画とガラス建築(2)――キュビズムを中心に
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第12章 近代絵画と写真(2)――エドゥアール・マネ、印象派を中心に
第13章 近代絵画と写真(3)――後印象派、新印象派を中心に
第14章 近代絵画と写真(4)――フォーヴィズム、キュビズムを中心に
第15章 抽象絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに

■ 秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道 補遺』
第1章 ポール・セザンヌの生涯と作品――19世紀後半のフランス画壇の歩みを背景に
第2章 ポール・セザンヌの中心点(1)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第3章 ポール・セザンヌの中心点(2)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第4章 ポール・セザンヌと写真――近代絵画における写真の影響の一側面

■ Tomoki Akimaru Cézanne and the Railway
Cézanne and the Railway (1): A Transformation of Visual Perception in the 19th Century
Cézanne and the Railway (2): The Earliest Railway Painting Among the French Impressionists
Cézanne and the Railway (3): His Railway Subjects in Aix-en-Provence

■ 秋丸知貴『岸田劉生と東京――近代日本絵画におけるリアリズムの凋落』
序論 日本人と写実表現
第1章 岸田吟香と近代日本洋画――洋画家岸田劉生の誕生
第2章 岸田劉生の写実回帰 ――大正期の細密描写
第3章 岸田劉生の東洋回帰――反西洋的近代化
第4章 日本における近代化の精神構造
第5章 岸田劉生と東京

■ 秋丸知貴『〈もの派〉の根源――現代日本美術における伝統的感受性』
第1章 関根伸夫《位相-大地》論――観念性から実在性へ
第2章 現代日本美術における自然観――関根伸夫の《位相-大地》(1968年)から《空相-黒》(1978年)への展開を中心に
第3章 Qui sommes-nous? ――小清水漸の1966年から1970年の芸術活動の考察
第4章 現代日本美術における土着性――小清水漸の《垂線》(1969年)から《表面から表面へ-モニュメンタリティー》(1974年)への展開を中心に
第5章 現代日本彫刻における土着性――小清水漸の《a tetrahedron-鋳鉄》(1974年)から「作業台」シリーズへの展開を中心に

■ 秋丸知貴『藤井湧泉論――知られざる現代京都の超絶水墨画家』
第1章 藤井湧泉(黄稚)――中国と日本の美的昇華
第2章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(前編)
第3章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(中編)
第4章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(後編)
第5章 藤井湧泉と京都の禅宗寺院――一休寺・相国寺・金閣寺・林光院・高台寺・圓徳院
第6章 藤井湧泉の《妖女赤夜行進図》――京都・高台寺で咲き誇る新時代の百鬼夜行図
第7章 藤井湧泉の《雲龍嘯虎襖絵》――兵庫・大蔵院に鳴り響く新時代の龍虎図(前編)
第8章 藤井湧泉の《雲龍嘯虎襖絵》――兵庫・大蔵院に鳴り響く新時代の龍虎図(後編)
第9章 藤井湧泉展――龍花春早・猫虎懶眠
第10章 藤井湧泉展――水墨雲龍・極彩猫虎
第11章 藤井湧泉展――龍虎花卉多吉祥
第12章 藤井湧泉展――ネコトラとアンパラレル・ワールド

■ 秋丸知貴『比較文化と比較芸術』
序論 比較の重要性
第1章 西洋と日本における自然観の比較
第2章 西洋と日本における宗教観の比較
第3章 西洋と日本における人間観の比較
第4章 西洋と日本における動物観の比較
第5章 西洋と日本における絵画観(画題)の比較
第6章 西洋と日本における絵画観(造形)の比較
第7章 西洋と日本における彫刻観の比較
第8章 西洋と日本における建築観の比較
第9章 西洋と日本における庭園観の比較
第10章 西洋と日本における料理観の比較
第11章 西洋と日本における文学観の比較
第12章 西洋と日本における演劇観の比較
第13章 西洋と日本における恋愛観の比較
第14章 西洋と日本における死生観の比較

■ 秋丸知貴『ケアとしての芸術』
第1章 グリーフケアとしての和歌――「辞世」を巡る考察を中心に
第2章 グリーフケアとしての芸道――オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』を手掛かりに
第3章 絵画制作におけるケアの基本構造――形式・内容・素材の観点から
第4章 絵画鑑賞におけるケアの基本構造――代弁と共感の観点から
第5章 フィンセント・ファン・ゴッホ論
第6章 エドヴァルト・ムンク論
第7章 草間彌生論
第8章 アウトサイダー・アート論

■ 秋丸知貴『芸術創造の死生学』
第1章 アンリ・エランベルジェの「創造の病い」概念について
第2章 ジークムント・フロイトの「昇華」概念について
第3章 カール・グスタフ・ユングの「個性化」概念について
第4章 エーリッヒ・ノイマンの「中心向性」概念について
第5章 エイブラハム・マズローの「至高体験」概念について
第6章 ミハイ・チクセントミハイの「フロー」概念について

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