展評「Theo HAZE(テオヘイズ)――宇宙叙事詩~Black Sun~」YOD Editions 秋丸知貴評

テオヘイズ(Theo HAZE)「宇宙叙事詩~Black Sun~」

展覧会:
2024年2月3日(土)-2024年2月25日(日)
13:00-19:00 閉廊日:火・水
会場:YOD Editions
(大阪府大阪市北区西天満4丁目5-2)

オープニング・イベント:
2024年2月3日(土)
トーク・セッション:鎌田東二(京都大学名誉教授)+テオヘイズ(作家)+秋丸知貴(美術評論家)
ライヴ・セッション:鎌田東二(自作詩朗読)+テオヘイズ(津軽三味線)
トーク・イベント:
2024年2月25日(日)
出川哲朗(東洋陶磁美術館名誉館長・大阪大学招聘教授)+テオヘイズ(作家)

 

2024年2月3日から25日にかけて、大阪府大阪市の現代美術ギャラリーYOD Editionsで「Theo HAZE(テオヘイズ)――宇宙叙事詩~Black Sun~」展が開催された。

筆者は、オープニング・イベントのトーク・セッションに登壇し、ライヴ・セッションの司会を務めた。以下、その展覧会と関連イベントのレヴューである。

 

Theo HAZE(テオヘイズ)

 

テオヘイズは、1978年兵庫県神戸市生まれの現代美術家である。日本人離れした名前と長身長髪のルックスであるが、日本人アーティストである(1)。テオヘイズ(Theo HAZE)は、本名の苗字「櫨山(Hazeyama)」と、名前「哲明(Tetsuaki)」の愛称「Theo」を組み合わせている。

英語の「haze」は「煙」の意で、気流的に天に立ち昇るイメージがある。また、英語の男性名「Theo(テオ)」は「Theodore(テオドア)」の略称で、ギリシャ語で「神の贈り物」を表す「Theodoros(テオドロス)」に由来している。本人によれば、「哲」は梯子を建てて神を迎える時の気持ちを表していると聞き、通じるところを感じたという。

テオヘイズは、1997年に宝塚造形芸術大学美術学科絵画コースに入学し、具体美術協会の創立メンバーで、「具体」という名称の提案者である、当時教授を務めていた嶋本昭三(1928-2013)に師事する。1994年に『芸術とは、人を驚かせることである』を出版していた嶋本からは、「絵かきは絵そらごとを夢見るものであり現実と必ずしも直結する必要はない。自由に表現し、提案できるのである。これこそ芸術家の使命である(2)」という薫陶を受けている。

元々、絵画と共に洋楽に関心の深かったテオヘイズであるが、大学1年生の18歳の時に、日本人のアイデンティティとは何かを掘り下げるために津軽三味線を弾き始める。この「鎮魂の楽器」である津軽三味線を日本各地の磐座や社祠等の前で演奏することで、その土地の人々と交流すると共に、土地の古層に眠る情報に触れ、そこで得た体験を作品化することに取り組んでいく(図1)。

 

図1 津軽三味線を演奏するテオヘイズ

 

2001年に大学を卒業後、テオヘイズは2004年にイタリアのヴェネツィアで嶋本と「女拓と三味線とのコラボレーション」を行う(図2)。

以後、「魂の自由と癒し」をテーマに、絵画と音楽を軸として国際的なマルチ・アーティスト活動を本格化する。パリ、東京、京都、大阪、兵庫等で絵画の個展やグループ展を精力的に行うと共に、神社仏閣での奉納演奏を含む音楽活動を展開。近年の特筆すべき活動として、2019年の奈良の大神神社への絵画《黒陽》の奉納と津軽三味線の奉納演奏(図3)、2021年の兵庫県立美術館ギャラリー棟で個展「鬼の回帰・テオヘイズ展」の開催(図4)、2023年の天河大弁財天社での絵画《松宿る神霊 宙より降り注ぐ》の展示と津軽三味線の奉納演奏(図5)、2024年の兵庫県神戸市のフェラーリ正規ディーラーであるオートカヴァリーノでの絵画《星をいただく者》の展示(図6)等が挙げられる。

 

図2 2004年の伊ヴェネツィアにおける嶋本昭三(女拓)とテオヘイズ(津軽三味線)のコラボレーション

 

図3 2019年の奈良の大神神社への絵画《黒陽》の奉納と津軽三味線の奉納演奏

 

図4 2021年の兵庫県立美術館ギャラリー棟「鬼の回帰・テオヘイズ展」の会場風景

 

図5 2023年の天河大弁財天社での絵画《松宿る神霊 宙より降り注ぐ》の展示と津軽三味線の奉納演奏

 

図6 2024年のオートカヴァリーノでの絵画《星をいただく者》の展示

 

本展「宇宙叙事詩~Black Sun~」の見どころは、まずスピリチュアル・ポップ・アーティストとしてのテオヘイズの多面性を全面的に紹介するところである。会場では、平面、立体、衣装、音楽、映像、写真、詩、エッセイの展示に加え、会期中には津軽三味線の奉納ライヴ・パフォーマンスも行われた。

展覧会名の「宇宙叙事詩~Black Sun~」は、テオヘイズが2019年5月に日本最古の神社の一つである奈良の大神神社に奉納した絵画《黒陽》に基づいている。この《黒陽》で追求したテーマをより掘り下げ、さらに多角的に展開したのが本展という位置付けである。

その追求テーマとは、宇宙の根源であり、あらゆる創造性(クリエイティヴィティ)の源泉である超常の存在を「黒陽(ブラック・サン)」と捉え表現することである。そのために、テオヘイズは現代の「宇宙(コズミック)シャーマン」として、その目に見える世界の背後にあるリアリティに触れた「宇宙感覚」(コズミック・センス)を様々な形で可視化して現代社会に伝えようとする。その一連の作品群の名称が、「宇宙叙事詩」(コズミック・エピック)である。

つまり、テオヘイズには、絵画を描いたり音楽を演奏したりする以前にまず強烈に伝えたいと感じるものがあり、それをできるだけ分かりやすく色々な形で表そうとするために表現方法が多様になる訳である。その多様性と一貫性を通して、鑑賞者はテオヘイズの捉えたスピリチュアルなヴィジョンを垣間見ると共に、その根源から伝えられる神秘的波動を感受できるという構成になっている。

そうしたスピリチュアル・アーティストとしてのテオヘイズの特徴は、それをあくまでもポップに表現することである。そのポップ(pop)さとは、文字通りのポピュラリティ(popularity)であり、民衆的日常性に根ざすものである。つまり、初発的な表現衝動はまず路上の落書き(グラフィティ)のようなものに現れるが、そこにこそ創造性の原点がある。一見、テオヘイズの絵画が子供の落書きのように見えるのはそこに関係している。

時折、子供の落書きには、この世のものとは思えない奇抜で斬新な図像や構図が現れることがあるが、テオヘイズが目指しているのはそうした根源的な創造性の発揮であると言ってよい。ただし、子供はそれを意図的に再現したりコントロールしたりできないが、テオヘイズはプロのアーティストとして自覚的なコンセプトと確かな技量を通じて実現するところに大きな違いがある。

分かりやすいのは、絵画の大作の連作であろう。ある種の霊感に満ちた絵画は、小さい画面ならば子供でもまぐれで描くことはあるが、大画面の構図を破綻なく大量に描くためには長年の修練と研鑽がいる。さらに、テオヘイズの場合、その描写の細部も一見乱雑でありながら、近付いてよく見ると想像以上に描線は精妙な揺らぎを示し、彩色は霊妙なグラデーションを提示している。西宮市大谷記念美術館館長を務めた故越智裕二郎氏が、2021年のテオヘイズの兵庫県立美術館での個展を見て「確かな技術が見える」と評したのは、そうした素人と玄人の差異を的確に洞察したものだろう。

そして、大神神社や天河大弁財天社といった古い歴史を持つ由緒正しい神社仏閣と深く関わりながら、敢えて既成の宗教主題ではなくある種の「グラフィティ」的現代美術を展開するところに、テオヘイズの世界的な「SBNR(Spiritual but not religious:宗教ではなくスピリチュアル)」の動向に一致した感受性と(3)、師嶋本から継承した具体美術協会の「自由に表現」する精神の発露を見出すことができる。

テオヘイズ自身の言葉を、引こう。

今回は宇宙叙事詩シリーズの序章であるが、ここにあるのは八百万(やおよろず)の神々、人類学で言うところのマレビト、精霊、来訪神の姿である。こうした事象を追求すると世界の神話にも通じるのだが、これからの宇宙時代に沿う叙事詩が僕の中にあり、一つずつ造形として取り出していく試みだ。この度の展覧会は、その序章にあたる。大神神社に奉納した《黒陽》という絵は、僕が20歳の時に描いた何かが出てくる暗示の絵であった。それをリフレインし、宇宙叙事詩として展開していきたい(4)。

 

図7 テオヘイズ《Worship 黒陽》2022年 ミクストメディア

 

それでは、具体的に展示作品を見ていこう。

会場で一番最初に鑑賞者を迎えるのが、オブジェ作品《Worship 黒陽》(2022年)(図7)である。画面下部で合掌する両手は、打ち付けられた釘、絡み付く金網、雑多な廃材に取り巻かれ、全体的に墨汁に染められて、痛々しく重苦しい様相を呈している。

テオヘイズの説明によれば、この作品では他の素材として、鈴、香料、獣骨、蝋燭、穀物も用いられている。鈴は清音による浄化、香料と獣骨と蝋燭は聖なる存在との交信、穀物は豊穣への感謝として、多くの巫術文化で共通して使用されるものである。ここには、本来人類は天から様々な恵みを与えられているにもかかわらず、欲深さのために自らを窮地に陥れている現代という時代に対する心苦しさと救済への祈りが込められているという。

 

図8 テオヘイズ《Coming…》2023年 写真

 

次に、本展における最も核心的と思われる作品が、写真作品の中で一つだけ独立して展示されている《Coming…》(図8)(2023年)である。

この作品で、テオヘイズは磐座の中にうずくまって横たわっている。それは、まるで現代人全体の傷付き弱った魂が母胎としての古代の磐座に癒やされる姿を象徴しているかのようである。

 

図9 テオヘイズ《Cosmic Shaman 001》2024年 ミクストメディア

 

次に注目すべきは、会場中央に展示された衣装作品《Cosmic Shaman 001》(2024年)(図9)である。その前の「神饌台」を模したテーブルには複数のオブジェが置かれ、ホログラフィック生地のシートが掛けられている。

この《Cosmic Shaman 001》の木材でできた硬い頭部は、宇宙服のヘルメットのように頭から丸ごと被る構造になっている。能面がそうであるように、顔を隠すことは変性意識状態に入りやすく、ユングが言う意味での真の「自己」を引き出しやすい。また、胴体は細かく縮れた柔らかい和紙の帯で全体的に覆われている。着ぐるみがそうであるように、マント状のもので全身を覆うことは変身のスイッチであり、神官が修祓で振るう大幣がそうであるように、揺れなびく帯状のものは対象を清めると共に異界への扉を開く働きをすると言われる。

さらに、この《Cosmic Shaman 001》の前のテーブルに並べられた複数の硬質なオブジェは、テオヘイズが修験の道中で見付けた、獣骨、甲羅、岩石、水晶、銅鏡、機械部材といった「過去と現在」や「生と死」等の時間的な境界を表すものが選ばれている。そして、それらに掛けられた一枚の柔軟な虹色の透過性のシートは、「現世と幽世」の空間的な境界を示唆している。

そして、ここでは一本の有機的な「木(木材+和紙)」としての衣装が、複数の無機的な「鉱物」としてのオブジェに向き合っていると捉えることもできる。つまり、これらの衣装とオブジェは、硬軟や陰陽を対比しつつ――あたかも胎蔵界と金剛界が相対する両界曼荼羅のように――全体的に意識変容と他界交信のイメージを基調としている。

 

図9 テオヘイズ《Threshold》2024年 動画

 

会場には、テオヘイズがこの衣装を着用したパフォーマンスの映像作品《Threshold》も展示されている(図9)。そこでは、「宇宙シャーマン」に扮したテオヘイズが、人里離れた山中で、ホログラフィック生地の垂幕をくぐってさらに大自然の奥深くへと歩んでいく。題名の「Threshold(閾/敷居)」は、そうして自然界から超自然界への移行を指す言葉として選ばれたものであろう。

テオヘイズ自身の説明によれば、この世界には磐座や社祠等の聖なる存在が宿る場所が多数存在している。それらは、人々が訪れ信仰を集めている間は霊力を増すが、人々から忘れ去られ寂れると廃れる。そこで、テオヘイズは《Cosmic Shaman 001》を身にまとい、いにしえの聖地を訪れ、古式の片面太鼓を鳴らしながら演舞し、忘れられた地霊(ゲニウス・ロキ)と交信する。それにより呼び覚まされ蘇った地霊から、テオヘイズは霊的活力を授けられる。

その霊的活力により、テオヘイズは改めてより根源的で普遍的な「黒陽」へと繋がり、その神秘的な宇宙感覚を人々に伝え、改めて形而上的真実と創造性を社会に伝達するのである。ここでテオヘイズは、折口信夫が「国文学の誕生(第三稿)」(1929年)でいう、「常世」からの福徳のメッセンジャーとしての「マレビト」の役割を現代美術家として果たしていると言ってよい(5)。

なお、ここでテオヘイズがパフォーマンスしているのは、大阪府茨木市の竜王山にある岩屋である。ここは、約30メートルの巨大な岩石と岩石の狭い隙間を母親の産道に見立てて登る「胎内くぐり」で有名で、既に奈良時代には修行場だったと伝えられている。その点で、ここは古来の聖地であると共に、ある種の「此岸と彼岸」や「死と再生」のイニシエーションを感得する場であったといえる。

 

図10 テオヘイズ《Trans Check △▼》2024年 写真

 

図11 テオヘイズ《Nirvana》2024年 写真

 

図12 テオヘイズ《Interdimensional DOOR X 001》2023年 絵画

 

 

 

 

左上 図13 テオヘイズ《Star fire 004》2023年 絵画
右上 図14 テオヘイズ《Star fire 005》2023年 絵画
左上 図15 テオヘイズ《Star fire 006》2023年 絵画
右下 図16 テオヘイズ《Star fire 007》2023年 絵画

 

会場では、抽象写真、抽象絵画、抽象彫刻も展示されているが、それらはいずれも単なる幾何学的な抽象模様ではない。それらは、変性意識状態に入り、異世界への「知覚の扉」(オルダス・ハクスリー)が開かれたヴィジョンを描き出したものといえる(6)。テオヘイズによれば、津軽三味線を弾いている最中はそうした明澄な精神状態になることが多いという。また、演奏中や演奏後に突然こうした至高体験や共感覚的なインスピレーションが訪れることがよくあるという。

中でも、テオヘイズが「Wave Structure(波動構造)」と形容する一連の絵画は、幻視者(ヴィジョネール)としての彼の個性を余すところなく玄妙に表象している。テオヘイズによれば、「Wave Structure」とは、世の中を波や振動として捉え、物質も揺れとして表現する絵画である。

特に本展では、絵画の色彩が、従来の彼の特徴であったサイケデリックな極彩色ではなくモノクロームに変わっている。この作風の変化について、テオヘイズは、感じ取った波動を表現するためには色数を増やさなくても濃淡で表現できるようになったからであるという。その点で、これは変化というよりも深化と呼ぶべきであり、結果的に本展では写真や彫刻も含めて会場全体がモノトーンで統一されることになった。

こうした単色画的な表現は、漫画の初発的な原始性と似通っている。さらに、水墨画の超感覚的な観念性とも通底している。ただし、この色彩は単なる白黒二色ではなく青色系や黄色系など含みのある濃淡を用いており、現実を超えたある種の仙境を単なる漫画や水墨画としてではなく現代絵画として追求する画風といえる。

 

図17 テオヘイズ《SAMSARA》2024年 絵画

 

図18 テオヘイズ《Invisible presence》2023年 絵画

 

図19 テオヘイズ《No return, Gyoja》2024年 絵画

 

図20 テオヘイズ《星をいただく者》2023年 絵画

 

図21 テオヘイズ《蔵王権現002》2022年 絵画

 

  

左 図22 テオヘイズ《Ghost structure 001》2024年 彫刻
中 図23 テオヘイズ《Ghost structure 002, Gray》2024年 彫刻
右 図24 テオヘイズ《Ghost structure 002, Black》2024年 彫刻

 

左 図25 テオヘイズ《Pyramid boy 002, Black》2023年 彫刻
中 図26 テオヘイズ《Pyramid boy 001》2023年 彫刻
右 図27 テオヘイズ《Pyramid boy 002, Gray》2023年 彫刻

 

図28 テオヘイズ《Personal egg, Black》2023年 彫刻

 

異世界への扉が開くと、そこには様々な異様な存在が現れる。それを精霊・心霊・亡霊・幽霊・神霊など何と呼んでも良いが、古来日本では特に怪異を「角」に集約させて、それらの異類異形を普段隠れている超常の存在という意味で「隠(オヌ)」から派生した「鬼(オニ)」と呼び習わしてきたようだ。

より重要なのは、世界は目に見える即物的な「この世」だけで完結しているのではなく、通常は目に見えないけれども、その背後には人智を超えた深淵な「あの世」が広がっているという彼岸感覚である。柳田国男の「先祖の話」(1946年)によれば、古来日本では生者の住む「現世」と死者の住む「幽世」は重なりつつ相互浸透していると考えられていたという(7)。言い換えれば、「幽世」は大自然の奥深くに根差した死と再生の「根の国(黄泉の国)」であり、そこに近付けば近付くほど視界は暗くなり闇は濃くなる。その畏れに満ちた魅惑的なリアリティを、日本の芸能――特に能――は捉えようとして、幽霊を主人公とする複式夢幻能という演劇形式を発達させ、「幽玄」の美を追求してきた。周知の通り、「玄」は深みのある黒色を指し、テオヘイズのいう「黒陽」はここに関わる。

また、テオヘイズは、「黒陽」の黒色は、古代中国の五行思想で「黒」が「北」や「冬」と共に「水」を意味することも関係していると言っている。つまり、「黒陽」は固体ではなく、流れや揺らぎを伴う波動体であり、異界への通風孔であり、一種の不可思議なブラックホールである。

テオヘイズによれば、「黒陽」の実体は人間を超越したある種の意識体である。それは人間に関わらず存在する一方で、常に人間を傍で見守っている。それも、特定の人間だけにではなく、誰の傍にも秘かに遍在している。その慈愛は限りなく深く、人間は知らず知らずの内にその恩恵を受けている。それはありとあらゆるものを既に知っており、無心で求めればきちんと答えてくれる。宇宙開闢のビッグバンを始め、物質もアイディアもあらゆる新しいものはそこからやって来る。

優れたクリエイターは、新しい発想が「降りて来る」ために心の中で自分を超える偉大な何かと瞑想的に接続するコツを知っている。即興演奏でもゴール前のボールの競り合いでも、ノッている時には自分でも驚くほど冴えわたる絶妙な創意が次々に繰り出されてくる。あるいは、寝入りばなや起き抜けに、長らく探し求めていた必要な答えが不意に向こうからやって来る経験をした人は決して少なくないだろう。そうした自分を背後から支えてくれる偉大な創造力の源泉を、テオヘイズは神話的に「黒陽」と呼ぶのである。

 

図29 テオヘイズ《Threshold》2023年 写真

 

図30 テオヘイズ《Black Sun 002》2023年 写真

 

図31 テオヘイズ《Black Sun 003》2023年 写真

 

図32 テオヘイズ《神農》2023年 写真

 

今回の展覧会の白眉は、やはりそうした「黒陽」を直接主題とする一連の写真作品だろう。これらの写真でポジとネガが反転しているのは、異界と日常世界は常に重なっており、きっかけさえあればいつでも閾値を超えて越境しうることのメタファーといえる。

「黒陽」と交信するには、一体どうすれば良いのだろうか。それはただ無心で意識を向けることだと、テオヘイズは言う。目には見えないその何かに、そっと耳を傾けて、自分に求められている音を自分なりの楽器で奏でることができれば、その揺らぐ音色と倍音により辺り一帯は歓喜に満たされる。そうすれば、人の魂は奥底から賦活され、人々には豊潤な福徳がもたらされるのである。

例えば、古代中国の伝説上の神的存在に、人間に医薬と農業をもたらしたとされる「神農」がいる。彼が実在の人物であるかどうかに関わらず、そこには「黒陽」の人類への慈悲深い働きがあり、そこからインスパイアされた創造力を利他のために発揮して活躍した人々が存在したと想像することは決して不可能ではないだろう。

要約すれば、何よりも大切なことは、仮初の現世で私利私欲に拘泥するのではなく、それを超える真に自由で共存共栄的な大洋感情的・彼岸的・宇宙的な視野で今生を捉え直すことである。そうした清々しく澄み切った心的境地にこそ、真に心豊かで幸福な人生があるのではないだろうか。

そうした心持ちを、テオヘイズは様々な造形作品で表現すると共に、「宇宙叙事詩 黒陽(Black Sun)」と題する詩で次のように詠っている。

 

 

 

テオヘイズ《 黒陽(Black Sun)朗読》2024年

 

鎌田氏の業績は幅広いが、端的に言えば、PHP新書の『神道とは何か――自然の霊性を感じて生きる』(2000年)のように、日本の宗教文化を表層から深層に至るまで自身のシャーマン的な感受性を通じて長年分かりやすく魅力的に解説してきたことと要約できる(8)。

この鼎談の企画者である私が指摘したかったのは、鎌田氏とテオヘイズはよく似ているということである。一つは二人とも幼少期に「鬼の存在を直観していた」と証言していることであり(奇しくもこの会期初日は節分であった)、もう一つは文化全般におけるスピリチュアリティの復権あるいは「世界の再聖化」の実践をそれぞれの職業上のフィールドで追求していることである。

さらに、二人は自ら詩を作り、唄を歌い、楽器を演奏するところも共通している(鎌田氏は「神道ソングライター」を自称している)。後半のライヴ・セッションでは、鎌田が自作の詩を朗読し、テオヘイズが津軽三味線で伴奏するという、ポエトリー・リーディング・ズーム・ライヴを行った。諸々のアクシデントで一度もリハーサルのないぶっつけ本番の試みであったが、だからこそ予定調和のない即興性の中に瑞々しい創造力が煌めく瞬間が幾度もあった。ここで見られる予測誤差による笑いと連帯感による癒しこそが芸能の原点であることを、ぜひそのダイジェスト版の動画で感じ取って欲しい。

そして、会期最終日前日の2月25日には、トーク・イベントとして、美術史家の出川哲朗氏(東洋陶磁美術館名誉館長・大阪大学招聘教授)とテオヘイズの対談が行われた。

出川氏は、大阪大学の基礎工学部で物理学を修めた後に、文学部に転学して美学を学んだ異色の経歴の持ち主である。長く東洋陶磁美術館の学芸員を務めた陶磁器研究の第一人者であるのみならず、抽象絵画における神秘主義の影響を分析した名著であるロバート・ローゼンブラムの『近代絵画と北方ロマン主義の伝統』の共訳者でもある(9)。

出川氏によれば、テオヘイズの絵画には、バーネット・ニューマンやマーク・ロスコ等の抽象表現主義に通じる崇高性があり、単なる物質的存在を超えて高次元の波動が感得されるという。また、テオヘイズ自身には、作風や生き方において江戸時代の孤高の大衆的修験僧仏師である円空に通じるものを直感するという評言であった(10)。

 

 

 

【註】

(1)ロックとは、魂を揺さぶることである。ロックのビート(鼓動)は、赤子が胎内で聞く母親の心拍に似ていると言われることがあるが、その初発性は童謡に似ているとも言える。多分、テオヘイズにとっては絵画も音楽も波動の表現という点で共通している。そこには、スピリチュアル・ロックが鳴り響いているのである。なお、筆者がテオヘイズに初めて会った時に感じた第一印象は、ジミ・ヘンドリックスの「パープル・ヘイズ」をBGMに登場したラモーンズのジョーイ・ラモーンであったことを付言しておこう。

(2)嶋本昭三『芸術とは、人を驚かせることである』毎日新聞社、1994年、7頁。

(3)Robert C. Fuller, Spiritual, but not Religious: Understanding Unchurched America, Oxford University Press, 2001.

(4)テオヘイズから筆者に提供された、2024年1月29日付のエッセイから引用。

(5)折口信夫「国文学の誕生(第三稿)」1929年。

(6)オルダス・ハクスリー『知覚の扉』平凡社ライブラリー、1995年。

(7)柳田国男「先祖の話」1946年。

(8)鎌田東二『神道とは何か――自然の霊性を感じて生きる』PHP新書、2000年。

(9)ロバート・ローゼンブラム『近代絵画と北方ロマン主義の伝統――フリードリヒからロスコへ』神林恒道・出川哲朗訳、岩崎美術社、1988年。

(10)本展で展示されたテオヘイズのエッセイを、一つだけ掲出しよう。

「兆し」

山奥の名もなき古社にひとり奉納演奏をしに行く。誰にも頼まれず、誰も
聴いていない。気配は自分で作られているように感じる。が、ある時木は
生きている事に気づく。少なくとも地面から水を吸い上げ葉っぱの隅々ま
で栄養を運んでいる。その音が小さな小さな音であろうがしているのかも
しれない。

そうすると山の木々たちの小さな音は濃密だ。

奉納演奏とはその土地、場との交流だと思っている。赤ん坊のような無垢
な心で素直な音を出そうと努力する。何も抵抗がないように、差し出せる
ように。

それは私のwishが偽りでない事を捧げる行為であり、かなえば場は何かし
ら教えてくれる。

そのあとに虹が出たり、何か自然が呼応してくれるように感じる事がある。
偶然といえば偶然だし、関連があると思えば関連がある。
この世界はどこまでも自分の意識の連続。

自分の名前も無くすと想像してみるとその瞬間に私は何者でもなくなる事
も出来る。自分はその名前だと思い込んで生きている。名前を記号のよう
な見方も出来る。

そういう多大な認識の積み重ねによって人類の社会は維持され続けている
と思う。

 

(写真・動画は全て作家提供)

テオヘイズ公式ウェブサイト
THEO HAZE | Welcome to Japanese Spiritual world of THEO HAZE.

 

著者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美学者・美術史家・キュレーター。1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。2013年に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日〜2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto〔虚白院 内〕、会期:2015年3月7日〜2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院〔建仁寺塔頭〕、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日~2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:掌美術館、会期:2022年3月3日~2022年5月6日)等。2020年4月から2023年3月まで上智大学グリーフケア研究所特別研究員。2023年に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)出版。上智大学グリーフケア研究所、京都ノートルダム女子大学で、非常勤講師を務める。現在、鹿児島県霧島アートの森学芸員、滋賀医科大学非常勤講師、京都芸術大学非常勤講師。

【投稿予定】

■ 秋丸知貴『近代とは何か?――抽象絵画の思想史的研究』
序論 「象徴形式」の美学
第1章 「自然」概念の変遷
第2章 「象徴形式」としての一点透視遠近法
第3章 「芸術」概念の変遷
第4章 抽象絵画における純粋主義
第5章 抽象絵画における神秘主義
第6章 自然的環境から近代技術的環境へ
第7章 抽象絵画における機械主義
第8章 「象徴形式」としての抽象絵画

■ 秋丸知貴『美とアウラ――ヴァルター・ベンヤミンの美学』
第1章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念について
第2章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラの凋落」概念について
第3章 ヴァルター・ベンヤミンの「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の問題について
第4章 ヴァルター・ベンヤミンの芸術美学――「自然との関係における美」と「歴史との関係における美」
第5章 ヴァルター・ベンヤミンの複製美学――「複製技術時代の芸術作品」再考
第6章 ヴァルター・ベンヤミンの鑑賞美学――「礼拝価値」から「展示価値」へ
第7章 ヴァルター・ベンヤミンの建築美学――アール・ヌーヴォー建築からガラス建築へ

■ 秋丸知貴『近代絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに』
序論 近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究
第1章 近代絵画と近代技術
第2章 印象派と大都市群集
第3章 セザンヌと蒸気鉄道
第4章 フォーヴィズムと自動車
第5章 「象徴形式」としてのキュビズム
第6章 近代絵画と飛行機
第7章 近代絵画とガラス建築(1)――印象派を中心に
第8章 近代絵画とガラス建築(2)――キュビズムを中心に
第9章 近代絵画と近代照明(1)――フォーヴィズムを中心に
第10章 近代絵画と近代照明(2)――抽象絵画を中心に
第11章 近代絵画と写真(1)――象徴派を中心に
第12章 近代絵画と写真(2)――エドゥアール・マネ、印象派を中心に
第13章 近代絵画と写真(3)――後印象派、新印象派を中心に
第14章 近代絵画と写真(4)――フォーヴィズム、キュビズムを中心に
第15章 抽象絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに

■ 秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道 補遺』
第1章 ポール・セザンヌの生涯と作品――19世紀後半のフランス画壇の歩みを背景に
第2章 ポール・セザンヌの中心点(1)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第3章 ポール・セザンヌの中心点(2)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第4章 ポール・セザンヌと写真――近代絵画における写真の影響の一側面

■ 秋丸知貴『岸田劉生と東京――近代日本絵画におけるリアリズムの凋落』
序論 日本人と写実表現
第1章 岸田吟香と近代日本洋画――洋画家岸田劉生の誕生
第2章 岸田劉生の写実回帰 ――大正期の細密描写
第3章 岸田劉生の東洋回帰――反西洋的近代化
第4章 日本における近代化の精神構造
第5章 岸田劉生と東京

■ 秋丸知貴『〈もの派〉の根源――現代日本美術における伝統的感受性』
第1章 関根伸夫《位相-大地》論――日本概念派からもの派へ
第2章 現代日本美術における自然観――関根伸夫の《位相-大地》(1968年)から《空相-黒》(1978年)への展開を中心に
第3章 Qui sommes-nous? ――小清水漸の1966年から1970年の芸術活動の考察
第4章 現代日本美術における土着性――小清水漸の《垂線》(1969年)から《表面から表面へ-モニュメンタリティー》(1974年)への展開を中心に
第5章 現代日本彫刻における土着性――小清水漸の《a tetrahedron-鋳鉄》(1974年)から「作業台」シリーズへの展開を中心に

● 秋丸知貴『比較文化と比較芸術』
序論 比較の重要性
第1章 西洋と日本における自然観の比較
第2章 西洋と日本における宗教観の比較
第3章 西洋と日本における人間観の比較
第4章 西洋と日本における動物観の比較
第5章 西洋と日本における絵画観(画題)の比較
第6章 西洋と日本における絵画観(造形)の比較
第7章 西洋と日本における彫刻観の比較
第8章 西洋と日本における建築観の比較
第9章 西洋と日本における庭園観の比較
第10章 西洋と日本における料理観の比較
第11章 西洋と日本における文学観の比較
第12章 西洋と日本における演劇観の比較
第13章 西洋と日本における恋愛観の比較
第14章 西洋と日本における死生観の比較

■ 秋丸知貴『ケアとしての芸術』
第1章 グリーフケアとしての和歌――「辞世」を巡る考察を中心に
第2章 グリーフケアとしての芸道――オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』を手掛かりに
第3章 絵画制作におけるケアの基本構造――形式・内容・素材の観点から
第4章 絵画鑑賞におけるケアの基本構造――代弁と共感の観点から
第5章 フィンセント・ファン・ゴッホ論
第6章 エドヴァルト・ムンク論
第7章 草間彌生論
第8章 アウトサイダー・アート論

■ 秋丸知貴『芸術創造の死生学』
第1章 アンリ・エランベルジェの「創造の病い」概念について
第2章 ジークムント・フロイトの「昇華」概念について
第3章 カール・グスタフ・ユングの「個性化」概念について
第4章 エーリッヒ・ノイマンの「中心向性」概念について
第5章 エイブラハム・マズローの「至高体験」概念について
第6章 ミハイ・チクセントミハイの「フロー」概念について

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