アン・ジュン(Ahn Jun)「重力へ:方向と座標」
会期:2024年4月26日~6月30日
会場:入江泰吉記念奈良市写真美術館
入江泰吉記念奈良市写真美術館は、今日における古都・奈良のイメージを決定づけたともいえる写真家、入江泰吉を記念してつくられた美術館である。土門拳をはじめとして、戦後も仏像を撮影した写真家は多数いるが、入江はむしろずっと山陰に在住して活動を続けた植田正治にスタンスは近いかもしれない。植田のようなシュールレアリスム的な写真ではないが、急速に近代化する奈良ではなく、1300年前から変わらないイマジナリーな奈良の風景を、写真の中で構築したといってよい。
入江泰吉記念奈良市写真美術館は、奈良市が入江の写真の約8万点の寄贈を受け、黒川紀章の設計によって建てられた美術館であり、高畑町という奈良の古い町並みの中にある。高畑町は、かつて志賀直哉が居住し、文化人が集まった場所で、高畑サロンと称されていた。志賀が引っ越しした後は、入江の幼馴染である上司海雲(後の東大寺別当)の住んでいた観音院がサロンとなり、文化人のネットワークは継承され、戦後に入江も加わっている。
現在、入江泰吉奈良市写真美術館では、ニューヨークとソウルを拠点に活動している韓国人写真家、アン・ジュン(Ahn Jun)の個展「重力へ:方向と座標」が開催されている。1992年の美術館開館以来、外国人アーティストの個展が開催されるのは初めてのことになる。2022年、大西洋が館長に就任して以降、メタバース美術館を立ち上げたり、奈良女子大学とアーティスト・イン・レジデンスと成果展を開催したりするなど、さまざまな新しい取り組みが話題を呼んでいる。アン・ジュンも昨年、奈良女子大学でAIを使用したワークショップを行い、成果展では自身のAIによる最新作を展示している。
今回、ニューヨーク、ソウル、東京から作品が集められ、アン・ジュンの代表作「Self-Portrait」(2008-2013)と「One Life」(2013-)を中心に約120点が展示さている。「Self-Portrait」は、ニューヨークやソウルのビルの屋上や窓のそばに立つアン・ジュン自身を撮影しており、今にも飛び降りるようなイメージが注目を浴びた。今回も奈良市内のさまざまな場所に「Self-Portrait」の代表作が個展のポスターとして掲示されており、ぎょっとさせられる。同時に、非現実的で空を飛べそうな浮遊感もある。
アン・ジュンは、南カリフォルニア大学時代は美術史を修め、パーソンズ美術大学の大学院では写真を専攻した。大学時代に研究をしたのは、ジャクソン・ポロックだった。アン・ジュンは、美術史を学んだことが、自身の作品制作に役に立っているという。一見無関係のように思える「Self-Portrait」でも大いに関係がある。ポロックは、巨大なカンヴァスを床に置き、筆やスティックに顔料をつけて、滴らしたり、流し込んだりするドリッピングやポーリングと言われる手法で知られている。つまりそれまでのカンヴァスを垂直に立てかけて絵具を筆で塗るのではなく、重力と身体的な運動性が重要になる。描かれた絵画は、抽象的かつ表現主義的であるため、美術批評家ロバート・コーツが抽象表現主義と名付け、美術批評家クレメント・グリーンバーグらが評価したことはよく知られている。いっぽう、美術批評家ハロルド・ローゼンバーグは、身振りや身体全体を通して、即興的に描くプロセスに注目し「アクション・ペインティング」と名付けた。
アン・ジュンの今にも落ちるような身振りは、自身が絵具の一滴となって飛び込むような行為である。またウルトラマリンのような鮮やかで深い青のワンピースを着ており、イヴ・クラインを連想させる。イヴ・クラインは、インターナショナル・クライン・ブルーという独自の鮮やかな青を開発し、ヌードの女性に絵具を塗ってカンヴァスに型を取ったり、二階から飛び降りる瞬間を撮影した著名な作品を制作した。
イヴ・クラインですらその時の撮影で骨を折ったと言われるが、アン・ジュンの場合、高層ビルの屋上や窓のそばのため、落ちるともちろんそれだけではすまないだろう。そのような恐怖感とともに、今日の高層ビルにはヒューマンスケールを超えた「崇高さ」も感じる。NYの高層ビルともなれば、ほとんど人工物で構成された「自然」である。あるいは、ビルの下を覗いている写真などは、『攻殻機動隊』や『フィフスエレメント』、『マトリックス』といった近未来のSF映画のワンシーンを見るようでもある。
ニューヨークとソウルの両方で撮影されており、それぞれもちろん異なる風景であるが、「Self-Portrait」とタイトルを付けているのには意味があるだろう。アン・ジュンにとってNYの環境は決して親和的ではないかもしれない。飛び降りることはしないまでも、不安定な自身の存在やアイデンティティを表象しているようにも見える。いっぽうソウルにおいても、NYから帰国した自身にとっては違和感を覚えるという、両方に属せないというアイデンティティの揺らぎ見て取ることはできる。そのような自身の存在の揺らぎと、美術史を勉強し写真で表現するというアイデンティティが折り重なっているように見える。
いっぽう「One Life」のシリーズは、世界各地で落下する複数のリンゴを高速シャッターで撮影したものだ。その瞬間を人間はとらえることができないが、カメラならばリンゴが浮いたような写真を撮影することができる。それは、「Self-Portrait」から継承する重力がテーマになっている。リンゴはもちろんニュートンの万有引力の発見のシンボルであり、重力のメタファーである。
鑑賞者が最初に見て思うことは、その非現実的な写真をどのように撮影したのか?ということだろう。実は、このシリーズは、彼女のパートナーや両親など、家族による共同制作になっている。つまり、カメラの画角の外に、家族が隠れており、一斉にリンゴを投げて、高速シャッターで撮影しているというわけである。刹那的ともいえる美しさのある写真が、実はそのような、家内制手工業によって生み出されていると思うと、別の面白さがあるが作品自体は、完璧に計算された光と影、構図であると感じる。
もちろん場所によって、日差しの強い屋外なら壁に影が映っていたり、逆光であったり、光が強くない場合は、影がない場合があり、光との関係を見ても興味深い。影のない方がより非現実的な光景に見える。ただし、影がある場合は、落下した後を想像させられる。実は、「One Life」というシリーズは、もともとその名の通り「Gravity」というタイトルであったが、自身の結婚やその後に訪れた祖父の死を受け、リンゴが落ちるように、人間は生を受け、等しく死に向かって落下しているが、いつ落ちるかは誰も知らない。その「偶然性」や刹那の美しさを表現したいという意図がある。
この高速シャッターを使用したシリーズを見て、私の師でもある畠山直哉の「BLAST」シリーズを連想した。そのことについて以前、アン・ジュンに聞いたら、畠山のことを非常に尊敬しているという。もちろん、ポロックのドリッピング/ポーリングや、「Self-Portrait」につらなる作品であり、よりシュールレアリスムに関心の強い彼女の作品であることは間違いない。特に石を投げるシリーズ「Liberation」に顕著である。波打ち際で落下する石を撮影した写真は、マグリッドの《ピレネー城》(1959)そのものに見える。
同時に、カメラという機械の眼の自己言及的な先品でもある。カメラの眼と人間の眼は異なる。それを鮮やかに可視化したのは、エドワード・マイブリッジやエティエンヌ=ジュール・マレーの連続写真である。マイブリッジは連続写真によって、馬の脚運びの議論に決着をつけた。カメラと人間の眼の違うは多くあるが、カメラは人間の眼よりもはるかに高速のをイメージを見分けられる点が大きい。また、ニュートンはカメラを発明することはなかったが、望遠鏡の改良を行う過程で、光の波長について発見をしており、カメラ発明に至る光学の系譜にある。高速シャッターこそ人間の知覚を超えたカメラの特徴であり、超意識/無意識の介在する部分だろう。ただし、高速シャッターを実現するには、極めて短い時間で十分な露光を得るための感度が必要であり、もし撮影できたとしても、粒子の粗い写真になる。大きく拡大された、「One Life」シリーズも近づけばドットが粗く見え、物理の法則に従っていることがわかる。
その後、高速シャッターの作品は、ダムの放流を撮影した「The Tempest」へと展開する。あるいは、「Self-Portrait」のシリーズは、亡くなった祖母を追悼するために、自身が炎の前に立ったり、花弁が舞い落ちたりする作品として発表されている。それは落下した生が、再び天に昇るという意味も込められているだろう。最後に、飛び立つ鳥の羽を捉えた写真が並ぶ。これは逆に重力に反して上昇する象徴でもある。
AIを使用した作品《Good morning, John》と、AIと神の具象化について問答する内容も貼られており、新しいテクノロジーと、どれだけ技術が発達しても偶然性から逃れることができない人生や運命といったテーマは継承されているように思えた。
しかし、機械が垣間見せてくれる人間が知覚できなかった新たな世界に、自分自身や家族といった生の証を、美術史を参照しながら、これ以上ないほどに美しく刻み込むというアン・ジュンの作品は、まさに鑑賞者の意識下にもダイブし、永遠と刹那を往還するのではないかと思えた。それはどの瞬間もどの人生も取り換えがきかないことを教えてくれるのだ。