現在、瀬戸内国際芸術祭が開催されている(2022年時)。2010年から3年ごとに開催されているトリエンナーレ方式の芸術祭で、今年で5回目となる。瀬戸内国際芸術祭によって、「瀬戸内海」の美しさが改めて注目されるようになったのは間違いないだろう。
岡山に本社のあった福武書店(現・ベネッセコーポレーション、ベネッセホールディンクス)の創業者の長男で、総合プロデューサーである福武總一郎(公益財団法人福武財団理事長)が、「瀬戸内海」に関心をもつきっかけとなった本の一つとして、西田正憲著『瀬戸内海の発見』(中公新書、1999年)を挙げていることを新聞記事で読んだことがある。
『瀬戸内海の発見』は、私もかつてから注目していた本だった。本書は、現在、我々が自明のものとしている「瀬戸内海」という内海が、実は、近代以降に欧米人によって「発見」されたものだという事実を明らかにしている。そう言われると、いぶかしがるものもいるだろう。というのも、瀬戸内海は日本の古来からあるものだし、中世では平清盛が日宋貿易を行い、厳島神社に壮麗な社殿を造営したり、源平合戦もあった。また、近世においても、村上水軍が活躍し、木津川口で織田信長と合戦を繰り広げている。
それらは瀬戸内海を舞台にしているのは間違いないが、厳密には瀬戸内海ではない。というのも、明治以前は、瀬戸内海は一つの内海として認識されていなかったからだ。航海技術が劣っていた時代、瀬戸内海は、島と島が迫っている急流地帯である複数の「瀬戸」と、やや広い「灘」のクラスターであると認識されており、それらが一つの内海としては捉えられてなかったというわけである。それが変わったのは、開国によって、蒸気船が1日で瀬戸内海を航海できるようになったことによる。その結果、大きな1つの内海、「瀬戸内海」が「発見」されていったということだ。
その際、瀬戸内海は、ツーリズムの祖、トーマス・クック(実業家)やユリシーズ・グラント(第18代アメリカ大統領)、フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン(地理学者)などの欧米人が訪れ、その美しい風景を評価している。『瀬戸内海の発見』に掲載されているトーマス・クックの評を見てみよう。
「私はイングランド、スコットランド、アイルランド、スイス、イタリアの湖という湖の殆どを全てを訪れているが、ここはそれらどれよりも素晴らしく、それらの全部の最も良いところだけをとって集めて一つにしたほどに美しい。(ビアーズ・ブレンドン、石井昭夫訳『トマス・クック物語』1995)」[1]
クックだけではなく、世界の「内海」「多島海」「河川」「湖畔」などにたとえられ、世界的なツーリストに絶賛されていくのだ。しかし、蒸気船という産業革命後の乗り物の登場で発見された「美しい未開の多島海」は、同じ産業革命後の技術によって失われていく。そして、浜辺は埋め立てられ、工場が立てられ、戦艦時代の主な軍需産業地帯となった。戦後、重工業化は、一層激しくなり、赤潮のような公害によって、「美しい多島海」といったイメージは過去のものとなった。しかし、工業化が進んだことで四国と本州の交通網の効率化を図るために、本州・四国を結ぶ3つの連絡橋が作られ、船の往来は急激に減っていく。
また、90年代後半以降は、デジタル化とグローバル化が進んだことで、工場汚染も少なくなり、逆説的にとり残された美しい多島海が再び浮上するようになった。過疎化した島々が、日本の原風景を残すものであり、新たな観光資源となっていることを「発見」したのが福武總一郎というわけである。その際、かつてトーマス・クックら世界のツーリストが、瀬戸内海を絶賛した過去があることを『瀬戸内海の発見』から知ることになる。そして、ご存じように、直島を起点に、瀬戸内国際芸術祭が開催されるようになり、多島海の魅力が、世界に再び伝わるようになった。
しかし、まだ取り残されているものがある。そこに注目したのが、アーティストユニット、ヨタ(Yotta)のプロジェクト「Artist on the Sea in Sakaide project」である。近世までの歌枕となるような名所、戦前までの美しい風景、それらはかなり失われたが、そこにもう一つの失われた風景があるのだ。3月、ヨタのオンライントークイベントにゲストで参加したので、そのことについて記しておきたい。
ヨタは、日本の民芸品や大衆文化といった民俗学的なモチーフをテーマに、それらに擬態し、アート自体を問い直す試みを行っているといえる。例えば、石焼き芋カー《金時》(2015)などは、昭和の超高級セダン、センチュリーにデコトラ風の装飾を施し、石焼き芋が焼けるように「改造」したものだ。しかし、厳密には改造ではなく、トランクに耐熱的な加工を施し、窯を置いただけだ。つまり荷物であり、過剰に見える「竹槍マフラー」も煙突としての機能を持っている。その際、関係する法規を洗い出ており、それらを犯している点は一つもない。近年では、芸術祭で呼ばれることが多いが、普通に石焼き芋を売ることで、利益を上げられる仕組みになっている。日本の伝統的な風景、商慣習をサーベイし、芸術的要素を挿入することに成功している。
今回、香川県の坂出でヨタが実施しているプロジェクトでは、「家船(えぶね)」をモチーフに、船で住めるように「改造」した。その船は、ヨタの漂う鬼の家「ワンダーえびす丸」と命名されている。瀬戸内国際芸術祭に参加しているようにみえるが、独自のプロジェクトだ。「瀬戸内国際芸術祭2019」において、沙弥島ナカンダ浜で作品制作に着手していたが、その後3年間、制作を進め完成にこぎつけた。
家船は、瀬戸内海に1970年代まで存在していた、船上生活をする人々の住居のことだ。民俗学者の沖浦和光によると、「文字通り船を家として、家財道具一式を積み込んで、そこを寝座(ねぐら)に行く先々の海で漁をやった海の民で、瀬戸内の海民史を語るときには決して逸することができない漁民」[2]であるという。まさに、瀬戸内海で失われた古来からの風景であると同時に、日本の歴史の最古層の文化ともいえる。
家船漁民は、漁業権を持っていないため、沿岸部ではなく、沖に出て漁業をし、1 本釣りか手繰網の小網漁といった小さな漁をしていたが、最先端の知識と技術を開発していたし、どこで釣れるかもよく知っていた。漁業権を持つ村人はその知識をわけてもらう代わりに、地先海面での漁業も多少目をつむられていたという。また、数艘で組んで釣りをし、売上高も平等に分けあう原始共産主義的な文化を残していた。彼らは紀伊水道、豊後水道、対馬海域まで出漁していたという。
家船漁民は、土地に根付いておらず、移動を繰り返しているため、租税を納めていなかった。夫婦2人がペアとなって1つの船で、船上生活をし、子供も船で育てるが、大きくなれば子供もまた夫婦ペアとなり、独立していく。財産はないに等しいが、長男に継承されるわけではなく、最後に老いた両親の面倒を見なければならない末子に継承されるため、財産が一極集中することはなかった。
家船の船上生活者の文化は、陸上生活者とかなる異なり、東南アジアにもみられるが、もともとルーツを同じくしていた可能性もある。つまり、日本人の源流の一つであり、海を通じて世界の文化とつながっているのである。山に住む民のことをサンカと称したりするが、海に住むサンカにといったところだろう。瀬戸内海で育った民俗学者、宮本常一や沖浦和光も、調査を行っていたことで知られている。
瀬戸内海という海の文化に注目しながら、もっとも失われていた記憶である、家船と漂海民について、今まで、アーティストが本格的に取り上げたことはなかった。地域のサーベイをすることが、前提となっている近年の芸術祭の中で、家船に関するものがほとんどなかっことが不思議であるが、ヨタはそこに注目した。ただし、家船の文化は、すでに70年代以降完全に失われているし、現物もほとんど残っていない。その子孫たちはいるだろうが、経験のある人々もほとんど存命してないので、それをたどるのは難しい。
ヨタはその記憶をたどりながら、船で住むこととはどういうことか、自分たちで船に暮らせるよう小さな船を「改造」することからプロジェクトを進めている。実証主義的なヨタらしいアプローチといえるだろう。ただ、もらい受けた船は、速度を重視したタイプで、船幅がやや狭く、縦に長いため、船首の方に住居部分をつくらなければならなかったという。天井高は、現代人の暮しに合わせて、かがんで動けるくらいの高さを確保している。そのため運転席は住居越しに見るため、やや高く設置されている。わずか数畳ほどだが、寝ることは可能だ。船尾の部分で、バーベキューなどもできるという。実際の「家船」は、生活ができるよう、船幅が広く、屋根も低かったので、ヨタの船と似つかないが、ヨタは「家船」というコンセプトの中で、それがどのような方法なら実践可能か、自身たちの方法で検証しているといえるだろう。
近年、オーストロネシアと言われ、台湾を源流とする人々が、東はイースター島、西はマダガスカルまでカヌーで行き来きしていたことの実態が明らかになっている。それは言語にも残っているし、ポリネシアなどの風習としても残っている。家船を操っていた漂海民もそのような世界的な海のネットワークに源流があったとしてもおかしくはない。ヨタが「鬼」や「えびす」と称するのは、アーティストがコミュニティの外部にある得たいの知れないものであると同時に福をもたらす可能性のあるもの、と定義しているからだろう。かつて、漂海民もそのような存在であり、自分たちと重ね合わせている。ヨタの民俗学的な調査は、世界的で民族学的なアプローチへと転換していくかもしれない。
とはいえ、海が危険であることは、海のおだやかな瀬戸内海でも変わりはない。急流地帯や浅瀬の岩礁が多いことから、外洋よりも危険な場合もある。村上水軍などはその水先案内人を担っていたというのもうなずける。そのような漁師や船員にしかわからない海の知識を現地の人々から教えてもらっているという。
ヨタが芸術祭に出品するアーティストとスタンスが異なるのは、その時間をかけた人々との交流と、一過性の祭りではなく、地域の日常的な地平に降り立たないと見えてこない知識を重視しているからといえるだろう。実際、彼らも船舶免許をとっており、航海に出ることも試みるとのことだが、安全性に留意して、新たな発見をすることを期待したい。
[1] 西田正憲『瀬戸内海の発見 意味の風景から視覚の風景へ』中公新書、1999年、p.33。
[2] 沖浦和光『瀬戸内海の民族誌 海民史の深層を訪ねて』岩波新書、1998年、p.166。