反響する身体と想像の器 西條茜「Phantom Body」アートコートギャラリー 三木学評

展示風景 撮影:来田猛 /写真提供:アートコートギャラリー

西條茜「Phantom Body」
会期:2022年11月5日(土)~12月17日(土)
会場:アートコートギャリ―
パフォーマンス:
 11月12日(土) 15:00-15:30、12月10日(土) 15:00-15:30
 パフォーマー:大井卓也 ・遠藤リョウノスケ・ 宮木亜菜
https://www.artcourtgallery.com/

空間を感じるのはどのようなときだろうか?視界の開けた場所より、洞窟や教会、寺院、コンサートホールなど密閉されて音が反響する場所の方が空間を感じるだろう。光は直線的しにか進まないので、暗闇や物体に遮られたら、反射してない限りそれを感知することはできない。しかし、音は回り込み、360度どの方向から鳴り響いても感じることができる。そして、その音の質によって、それがどちらの方向から、どのような種類のもので、どのような空間の形状をしているか把握できるのである。

展示風景 撮影:来田猛 /写真提供:アートコートギャラリー

芸術の経験は、そのような空間の構造や認識と密接な関係がある。例えば、ゴシック建築の教会では、眼に見えない二階部分から合唱隊が聖歌を歌い、上昇した声は天井に跳ね返って1階で祈る信徒にステンドグラスの光と共に降り注ぐ。合唱隊はかつて変声期を迎えていない子供であったため、透き通ったボーイソプラノが天使の声として頭上から聞こえる。あるいはチベット密教では密閉された空間で、僧侶たちが低い声で読経することで、天使の声のような倍音が鳴り響く。太古の洞窟はどうか?2008年、フランスの旧石器時代の洞窟壁画が、音の響きやすい場所に描かれていることが、パリ大学の音響学者、イゴル・レズニコフにより発表されて話題となった[1]。洞窟壁画は響きよい場所のマーキングであり、そこに描かれている動物の種類と、音の響きに関係があると考えられている。つまり、人類の原初的な芸術体験は、空間の内側に描かれる絵や音楽などの総合的なものであると示唆されているのである。

パフォーマンス風景 撮影:三木学

西條茜は、いわゆる日常的に使用する器ではないが、陶磁器の技法を用いて身体の痕跡を残し、それを鑑賞者がたどることによって、身体を介した総合的な芸術体験やコミュケーションの可能性を追求しているアーティストである。2022年11月5日から12月17日まで、アートコードギャラリーで開催されている西條の個展「Phantom Body」にあたって、西條が制作した作品に息や声を吹き込むサウンドパフォーマンスが行われた。

パフォーマンス風景 撮影:三木学

《果樹園》(2022) 撮影:来田猛 /写真提供:アートコートギャラリー

大井卓也、遠藤リョウノスケ、宮木亜菜によるパフォーマンスは、西條の作品をめぐり、時に息を吹きかけ、口をつけ、声を出しながら、空間を音で埋めていった。円錐状に広がるベルのような形状が複数取り付けられた《果樹園》(2022)以外は、楽器のように見えるものはない。《果樹園》ですら音を増幅したり、音程を変えたりする機能はないが、パフォーマーは鳴り響きやすい場所を探すように、声や息を吹きかけていく。その様子は、洞窟をめぐる太古の人類に似るかもしれない。儀礼的でもあるし、官能的なしぐさにも見える。コロナ禍で塞がれていた口が見えることが、より印象深くしている。複数の穴と、大きな窪みのある《湿地》は、声の高さと当たる場所によって思わぬ反響を生み、天井の高いギャラリー空間に響き渡る。男性2人女性1人の声が時に混ざり合い、ぶつかり合い、倍音となって降り注ぐ。その際、内部空間の形状が、内部エコーのように見える気がしてくる。

パフォーマンス風景 写真提供:アートコートギャラリー

《湿地》(2022) 撮影:来田猛 /写真提供:アートコートギャラリー

西條が陶磁器に声や息を吹き込むパオフォーマンスの着想を得たのは、ヨーロッパで滞在制作中に、フランスのルネサンス期の陶工、ベルナール・パリッシー(1510年頃-1590)の逸話を知ったからだという。パリッシーは、チュイレリー宮殿の地下に陶製の人工洞窟がつくったと言われている。そこには風が吹けば音の鳴る仕組みも施されていたという。パリッシーは、「田園風土器」と称される魚や虫、爬虫類などをあしらった奇妙な陶磁器で知られているが、プロテスタントであったため、キリスト教的なモチーフは扱っていない。その即物的で博物学的な観察眼は、若冲にも通じる。改宗を固辞してバスティーユ牢獄で亡くなるが、カトリックとは異なる自然主義的な世界観を持っていたであろう。また、西條の父は、整形外科医であり、幼少期に内視鏡で体の内部を見る様子を傍らで見ていたこともあり、身体の内部への関心があったことも影響しているという。

パフォーマンス風景 写真提供:アートコートギャラリー

《柔らかな谷底》(2022) 写真提供:アートコートギャラリー

西條が、日常的に使用する陶磁器をつくらなくなったのは、自身が制作したカップに口をつけられることへの抵抗感だったという。カップに口をつけることは当たり前の話ではあるが、確かに、絵画や彫刻といったアカデミックな芸術の様式で、口をつけられることはない。触られることもほとんどないだろう。明治以降、陶芸の一部はさまざまな工芸から分離し、美術工芸として芸術作品になったが、手に触れられ使用されるということが、絵画や彫刻とは決定的に異なる。後に西條は、芸術作品に口をつけるというタブーを思わぬ形で解禁するというわけである。

パフォーマンス風景 撮影:三木学

《吐露する灯台》(2022) 撮影:来田猛 /写真提供:アートコートギャラリー

当初はその抵抗感から、カップのような形状から離れる形を模索してく。もう一つは釉薬と、形状構造の恣意性に対する抵抗である。釉薬は確かに、後から塗られるものであり、構造である土とは関係がない。しかし構造を持たせるためには、中を空洞にする必要がある。そこに虚構があると西條が指摘する。つまり表面には豊かな表情や質感があるのに、内部は「何もない」という認識のギャップが生まれるということである。西條は、内側も見える釉薬だけで自立する形、皮膜の造形をつくり出している。

さらに、新しい形状を創造するために、西條が考えたのは自身の身体の一部を鋳型とすることである。手の型、体の型の一部を取り、自身の身体の痕跡、亡霊としての陶磁器をつくりだした。さらに、窯元を訪ね、アーティスト・イン・レジデンスなどで地域のリサーチをする中で、その土地の土や、物語を読み取って形をつくることも行ってきた。つまり、外側にはその土地の土が使われ、虚構としての空洞には、食べ物や飲み物ではなく、物語が入っているというわけである。しかし、コロナ禍でアーティスト・イン・レジデンスや海外渡航が難しくなる中で、より内なる自然としての身体や心を見直すことになった。

《旅枕》(2022) 撮影:来田猛 /写真提供:アートコートギャラリー

今回の展覧会は、幻想文学者、イタロ・カルヴィーノの『まっぷたつの子爵』に着想を得たものだという。子爵は、トルコとの戦争の爆撃によって、引き裂かれた身体は善と悪に分かれてしまう。最初に悪の半分が戻って散々悪さをするが、後に善の半分が戻り、善という名の下に人々を抑圧する。最後に半身同士が決闘し、1人の身体に戻る。その後、極端な善悪は行われなくなり平和が訪れる[2]。自分が不完全と思い込み、善悪に分けたがる人々の心と、善悪では割り切れない現実が物語として描かれているが、自身の正義の名の元に悪行をしたファシズムや、資本主義国と共産主義国に分断された冷戦下のメタファーとも言えるだろう。それは再び分断が進む現在の社会にも通じる。

《さまよう子爵》(2022) 撮影:来田猛 /写真提供:アートコートギャラリー

展示された新作は、分かれて彷徨する2つの身体の旅路を表したものだ。同時に、自分自身でありながら、見えない身体の内部や見えない心をめぐる旅路であるといってもよいだろう。ただし、より他者に開かれているように思える。自分の身体でありながら、他者の方が見えることもある。例えば、自身の背中は直接的に見ることはできない。心もまた他者からの方が見えることもある。その意味では、より開かれた器となって物理的にも心理的にも他者が入り込む空洞が提示されているといえる。あるいは、2つに分かれた身体の半分とは、鑑賞者であるのかもしれない。

《Phantom Body》(2022) 撮影・編集 山根香 出演者:大井卓也、遠藤リョウスケ、宮木亜菜

また、カップに口をつけることに官能性、エロスを感じるという、繊細な感性を持ちながら、コロナ禍での非接触への反動もあるのか、より官能的な形となっているのが興味深い。同時に、魂の抜け殻としての身体の型は、死、タナトスを感じるものでもある。生と死と言う根源的な衝動、内と外、心と体、他者と私という対照的なモチーフが折り重なって形になっている。そこに息を吹きかけることは、再び生命を蘇らせる儀式のようにも見える。それがコロナ禍において人前でマスクを外すことへのタブーと重なり、見てはいけないものを、それでいて根源的な衝動を揺さぶるものとして鑑賞者も包み込むのである。

《湿地》(2022) 撮影:来田猛 /写真提供:アートコートギャラリー

さらに、興味深いのは、形と色、土と釉薬の組み合わせだろう。例えば、《湿地》は、緑や赤などのさまざまな色が交じり合い、筆触分割されたモネの睡蓮の絵画ようにも見えるし、ジョン・エヴァレット・ミレーの《オフィーリア》(1851-1852)を想起させる。ともに精緻な観察から多様な色彩で描かれている。さらに、光沢感のある質感が、川藻の上に水が流れているように見える。また、テーブルに置かれた《談話する群島》は、それぞれ形と素材、色彩が異なり、触ることでさまざまな感覚引き起こす。ただし、それらのすべてが計算されたものではない。

展示風景 撮影:来田猛 /写真提供:アートコートギャラリー

《談話する群島#1~#7》(2022) 撮影:来田猛 /写真提供:アートコートギャラリー

西條はスケッチを描くが3割程度は自分がコントロールできないもの、と語っている。つまり、西條の想像の範疇を超えたものでもあるのだ。それは自然が司るものであり、感知しえない外部である。それもまた開かれた内部といってもいかもしれない。そこには、自然主義的な認識を持ちながら、それを超えた幻想的、あるいはアミニズム的な感性、無意識、他者などの自身を超えた世界へとつながろうとする意志が伺える。

《談話する群島#1~#7》(2022) 撮影:来田猛 /写真提供:アートコートギャラリー

身体性とともに物語性を含んだ西條の器は、身体の型であるとともに、心や想像力の型であり、それらが生命の息吹によって蘇る容器といってよいのではないか。それは自然と内なる自然の折り目でもある。

[1] 「旧石器時代の洞窟はコンサートホール?」『ナショナルジオグラフィック日本版』2008年7月2日。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/125/(2022年11月16日閲覧)

[2] カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』河島英昭訳、岩波書店、2017年。

※本記事は、西條茜「Phantom Body」展の公式記録のために制作された。

初出:『eTOKI』2022年11月28日公開。

著者: (MIKI Manabu)

文筆家、編集者、色彩研究、美術評論、ソフトウェアプランナー他。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行っている。
共編著に『大大阪モダン建築』(2007)『フランスの色景』(2014)、『新・大阪モダン建築』(2019、すべて青幻舎)、『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020)など。展示・キュレーションに「アーティストの虹-色景」『あいちトリエンナーレ2016』(愛知県美術館、2016)、「ニュー・ファンタスマゴリア」(京都芸術センター、2017)など。ソフトウェア企画に、『Feelimage Analyzer』(ビバコンピュータ株式会社、マイクロソフト・イノベーションアワード2008、IPAソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤー2009受賞)、『PhotoMusic』(クラウド・テン株式会社)、『mupic』(株式会社ディーバ)など。

https://etoki.art/

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