プロパガンダ型展示に抵抗せよ! 市原尚士評

前に前に上へ上へと積むほかなし見たしと思ふ書はどの下ぞ

昭和期の歌人・平野宣紀(1904~2001年)の歌集「涓滴」から。

東京都美術館、あるいは国立新美術館あたりで団体展、公募展の書道部門を鑑賞しようとすると、必ずと言っていいほど味わわされる嘆きと虚しさを鮮やかに切り取った名歌だと思うので紹介しました。

「見たしと思ふ」ほどの書を見つける前に、ぎゅうぎゅうと段積みにされた作品を見ているとうんざりしてしまうのが常ですから。

ところが、たくさんの書道展を拝見していますと、あっと驚くものに出会うことがあります。筆者は今、悪い意味で「驚く」、と言っていますが。

2024年の夏、そごう美術館が入居している「そごう横浜店」に向かって歩いている時、神奈川県神社庁が主催する青少年書道・絵画展にたまたま遭遇しました。

第三十七回神奈川県神社庁青少年書道・絵画展(2024年7月24~25日開催)

展示用の仮設壁の一面に「神国日本」という文字が大量に並んでおり、心底から驚きました。ああ、この四文字の言葉を2024年現在でも「見たしと思ふ」方たちが間違いなく存在しているのか、という驚きです。

神奈川県神社庁のお偉い方たちが、「神国日本」という言葉をありがたがるのは彼らの勝手です。どうぞ、お好きなように、この四文字を崇め奉ってください。ただ、青少年を対象にした書道の展示で、お題として「神国日本」を選んでしまう、その時代錯誤性については、あきれてしまいました。

彼らの頭の中には、今でも「教育勅語」「国体の本義」「臣民の道」といった超国家主義的なテキストがいっぱいに詰まってしまっているのでしょうから、今さら「日本国憲法の理念を重んじましょう」と訴えても、まったく心に響きそうもないでしょう。

私が一番、腹が立つのは学校の教諭、教頭、校長らに対してです。書道展に子どもたちが参加する際に、当然、「神国日本」というお題を彼らは知っていたはずです。にもかかわらず、学校を挙げて出品させているというのは、一体全体どういう神経なのでしょうか?

2000年、「神の国発言」で森喜朗内閣総理大臣(当時)が退陣に追い込まれたのは学校関係者も、そして読者の皆さんもまだ記憶していることでしょう。

一国の首相が辞職せざるを得なくなる……それくらい大ごとに発展してしまうほどの四文字言葉「神国日本」をしれっとお手本に設定する神社庁も神社庁なら、まだ社会問題への確固とした判断力を持たない幼い子どもたちに書道のお手本として「神国日本」を書かせる学校側も学校側です。

改めて言うまでもなく、教諭は公務員です。そして公務員は「日本国憲法」第九九条で「この憲法を尊重し擁護する義務を負」っています。戦前の「神国日本」的なるものを猛省し、民主主義的な世の中を作り上げていこうと願って、敗戦後の焦土に立ち上がった先人たちの熱い思いもいつしか風化してしまったのでしょうか?

憲法を順守しなければならないはずの教諭たちが、教え子に平然と「神国日本」のお題で書道展に参加させるグロテスクさには吐き気を覚えます。同時に、我が子が自宅で「神国日本」を懸命に書いている姿を見て、学校側に抗議しない親御さんたちにも正直、不甲斐なさを感じます。

いいですか? 戦前の価値観を良しとする神社庁や学校側にあなたのお子さんは政治的に利用されているんですよ。言い換えれば、学校を挙げての「神国日本」礼賛のためにお子さんたちが動員されているんですよ? 親御さんもお子さんも「日本は神国」と確信し、礼賛しているのならともかく、そう思っていないのであれば、こんなお題で展示に参加するいわれはないでしょう。

私が憂慮するのは、書道の“お手本”に潜む強烈な政治性です。お手本とは文字通り、人生や社会への理想的な方向性が込められたものとして、一般的には認識されています。つまり、「お手本」となる言葉は、人間社会の理想や輝かしい未来を想起させるという政治性を持っている、あるいは持つことを期待されているということです。

「神国日本」が理想的な日本人の将来を指し示すとは到底、思えないのですが、この四文字言葉をお手本に据えることによって、子どもたちの頭の中に神国日本的なるものが「理想」として刷り込まれてしまう恐れが否定できないのです。

言い換えれば、子どもたちを神国日本の方向に洗脳する効果を持っていると思うのです。たかがお手本、ではありません。お手本は政治的スローガンの変形に過ぎません。学校教育の現場が非常に偏った政治的プロパガンダの実験場になるのは不適切と言わざるを得ません。

神社庁主催の展示は2024年で第37回を迎えています。後援には神奈川新聞社、サインケイリビング新聞社が加わっています。民主主義を順守すべき新聞社が、「神国日本」というお手本を容認して、後援している現状にはうすら寒さを覚えます。

子どもたちの政治的動員は美術館での展示でも散見されます。2022年10月下旬、平塚市美術館1階市民アートギャラリーで開催された「第16回わたしたちの絵画展」(平塚市主催)は、「平塚のみどりやまちづくりをテーマ」とした3つの絵画コンクール作品の共同展示会でした。

  • 第21回 わたしが好きなまちかどスケッチ展~みんなで行きたい ひらつかの景色~(424作品)
  • 第48回 平塚市緑化ポスター・標語コンクール*標語は入賞作品のみ展示(217作品)
  • 夢はこぶ新幹線・私たちの未来のまち絵画コンクール(329作品)

上の2つは特に問題ありません。ただ、最後の一つ、新幹線ネタの絵画コンクールには大きな疑問符が付きます。

夢はこぶ新幹線・私たちの未来のまち絵画コンクール(2022年10月27~30日開催)

神奈川県の新横浜駅と小田原駅の間、寒川町倉見地区の「倉見新駅」(仮称)に東海道新幹線新駅を誘致しようという政治的動向は1970年、神奈川県議らが衆議院に「倉見駅設置に関する請願」を提出したのが一応のスタート地点となります。

倉見地区のすぐ西隣には平塚市が位置しています。平塚市側は新駅設置に前のめりの姿勢で臨んできました。ところが寒川町の方は平塚市ほどの熱はなく、両市町の間にはかなりの温度差が感じられるのが現状です。

住民の間でも、新駅については賛否両論がある中で、「神奈川県東海道新幹線新駅設置促進期成同盟会」なる団体が主催の絵画コンクールが開催されてしまったわけです。

展示会場内には、こんな言葉が。

この絵画コンクールは、新幹線をより身近に感じてもらい、新しい「まち」の将来の姿を1枚の絵に表すコンクールで、テーマは「夢はこぶ新幹線・私たちの未来のまち」です。

主催者である神奈川県東海道新幹線新駅設置促進期成同盟会は、寒川町倉見地区への新幹線新駅の誘致や、環境共生都市ツインシティの整備をめざしています。

〇今年度の応募作品数 26校から329作品(平塚市内)

(低学年の部133作品、中学年の部101作品、

高学年の部95作品)

いかがでしょうか?

こんな無茶苦茶なコンクールが血税を使って実施されているわけですが、納得いきますか? 新駅設置に関しては県民、市民、町民の間でも賛否が割れる重要なテーマなのに、平塚市は市内26の小学校から300点を超す作品を集めて、それを並べているのです。

1点1点、つぶさに鑑賞しましたが、基本、新幹線新駅が平塚市に明るい未来をもたらしてくれる、という何とも楽観的なビジョンに基づいた作品ばかりが並んでいました。

日本全国、津々浦々を旅してきた著者は「真実」を知っています。たとえば東京から博多までをつなぐ「のぞみ」号がすっとばしていく駅に、あなたは降りたことがありますか?

新富士駅(静岡県)、相生駅(兵庫県)、厚狭駅(山口県)などなど、酔狂な筆者はなかなか新幹線がとまってくれない駅を狙って降りて、そこを観光する企画旅行を勝手に(自主的に)実施してきました。これらの駅の前には、残念ながら賑わいも何も存在していません。

風に吹かれて地面をころころ転がる枯れ草「タンブルウィード」は西部劇でもおなじみの光景ですが、のぞみ号がすっとばす駅の前は、まさにタンブルウィードしか転がっていないのです(あくまでも比喩です。各駅の関係者の皆さん、気分を害されたらごめんなさい)。

新幹線の新駅ができたら、街が賑わうなんて、ただの世迷言にすぎません。実際に新幹線を各駅で降りて、それぞれの駅前や街並みを歩けば、新駅の経済効果には疑問符しか抱けません。神奈川県の新駅設置促進期成同盟会の方には「あなたたち、きちんと全国の新幹線の駅を視察していますか?」と聞きたいくらいです。

住民の間でも賛否両論に割れていて、街の活性化にも疑問符が付くようなテーマに血税を注ぎ込む。さらに、明るい未来を描いた作品を半強制的に描かせるコンクールの持つ政治性には腐臭が漂います。コンクールの会場内には、新幹線新駅誘致の正当性を訴える各種資料や宣材用クリアファイルなどが山積みされ、「ご自由にお持ちください」と呼び掛けられていました。

新駅設置の必要性や明るい未来を訴える宣材用資料などが会場内で無料配布されていた

小学校に通う児童のまだ柔らかな頭の中に「新幹線新駅=明るい未来」という非常に偏った考え方を行政側が刷り込むのは、まさに洗脳そのものです。絵画コンクールの名を借りたプロパガンダを許してはいけないと筆者は思います。

以上、書道と絵画のコンクールでの子どもたちの動員の現状をご紹介しました。たまたま2つしか紹介しませんでしたが、よく目を凝らせば、類似事例はまだまだたくさん存在しています。

あなたの住む自治体が、子どもを利用したプロパガンダを実施していないか、きちんと監視し、おかしな催事をしていたら、きちんと抗議をする、あるいは子どもたちをそのコンクールに参加させないという形で良識を示す責務があると思います。

戦後日本で最大規模の児童動員型プロパガンダは、原子力を巡るそれでした。2011年の福島第一原発事故の前まで実施されていた「原子力ポスターコンクール」(旧称・「原子力の日」ポスターコンクール)の作品はすごく内容が偏っています。原子力発電所が明るい未来を運んでくれる切り札であるかのような極めて偏った“意見”が子どもたちを動員して披露されていました。

判断力も知識もない子どもがなぜ、そのような内容のポスターを描けるのか? それはコンクールの応募要項に仕掛けがありました。「ヒント」と名付けられたコーナーには、主催者側である文部科学省と経済産業省エネルギー庁とが、あらかじめ模範的な作品のお手本になるような方向性をいくつも示していたのです。

 

「第17回原子力ポスターコンクール」募集パンフレット、文部科学省/経済産業省資源エネルギー庁、2010年

書道展における「神国日本」という偏ったお題と同様、原子力発電についてのポスターコンクールでも偏ったお手本が示され、その線に沿うと入選しますよ……と言わんばかりの誘導が露骨に行われていたということです。この原子力国策プロパガンダ問題に関しては、早川タダノリの好著「原発ユートピア日本」(合同出版)を一読されることを心からお勧めいたします。今、ちまたに現れている児童動員型プロパガンダの淵源は、原子力プロパガンダであることがはっきりと分かります。

そして、さらに付言すれば、原子力国策プロパガンダの淵源は、戦前のファナティックな愛国心教育にさかのぼれます。まさに「教育勅語」の精神を称揚し、礼賛し、頭に刷り込むようなプロパガンダが、教育や報道の世界で当たり前のようにまかり通っていた時代です。

私たちは、「たかが書道のお手本でしょ」「しょせんは絵画コンクールでしょ」「目くじら立てるほどのことじゃない」といって、ふざけた展示を看過してはいけないと思います。嘘にまみれた「お手本」が現実のものになってしまう。そんなことが歴史上、何度も何度も繰り返されてきました。美術教育、書道教育に携わる方たちが、いかに日常の中に潜む危険な「ファシズムの種」を丁寧に摘み取ることができるか?

今、それが問われています。(2025年1月12日16時43分脱稿)

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。