一 はじめに
2015年度のモノ学・感覚価値研究会アート分科会は、約七年間の活動成果の集大成として芸術・学術の総合イベント「現代京都藝苑二〇一五」を実施した。これは、二〇一五年三月七日から京都市内で開催した現代美術の四つの展覧会(「悲とアニマ」「素材と知覚」「記憶の焼結」「連続の縺れ」)及び関連イベントから構成され、総合テーマに「日本的感受性」を掲げ、京都の伝統文化遺産と現代芸術文化の国際的な情報発信に貢献することを目指した。本稿では、その概要を報告する。
二 「現代京都藝苑二〇一五」開催経緯
モノ学・感覚価値研究会は、二〇〇六年春に鎌田東二を研究代表とする科研「モノ学の構築――もののあはれから貫流する日本文明のモノ的創造力と感覚価値を検証する」により組織された。その芸術部会として二〇〇八年秋に近藤髙弘と大西宏志を幹事として発足したアート分科会は、美術団体のような固定メンバーを置かない自由な研究会活動として、二〇〇九年から翌年にかけて六回の合同研究会と一回の国際シンポジウム「もの派とモノ学――ものからモノへ」を行い、二〇一〇年一月一六日から三一日まで京都大学総合博物館で第一回展「物からモノへ――科学・宗教・芸術が切り結ぶモノの気配の生態学」を行った。また、同年一一月二一日から二八日まで虚白院で第二回展「物気色(モノケイロ)――物からモノヘ」を、翌二〇一一年一月一五日から二月一二日まで東京画廊で第三回展「モノケイロケモノ」を開催した。研究成果は、研究会の公式ウェブサイト及び年報『モノ学・感覚価値研究』の他、『モノ学の冒険』(創元社・二〇〇九年)、『モノ学・感覚価値論』(晃洋書房・二〇一〇年)、『物気色』(美学出版・二〇一〇年)等でも発表した。
この時点で大型の集大成展が構想されていたが、二〇一一年三月一一日に東日本大震災が発生したことによりさらに議論を深めることになる。研究活動は二〇一一年度京都大学こころの未来研究センター一般公募型連携研究プロジェクト「モノと感覚移入・感情移入に関する基盤研究」(受入教員:鎌田、研究代表:大西)で継続し、展覧会活動は二〇一一年一一月一一日から一三日まで遊孤草舎で第四回展「物気色一一・一一」を開催した後は一旦保留することになった。翌二〇一二年からは、同じく京都大学こころの未来研究センター一般公募型連携研究プロジェクト「被災地のこころときずなの再生に芸術実践が果たしうる役割を検証する基盤研究」(受入教員:鎌田、研究代表:大西)で考察を進めつつ(同研究プロジェクトは二〇一五年度まで四年間継続中)、各自研究及び実践活動に取り組むことになった。その後、稲賀繁美を研究代表とする科研「海賊史観から交易を検討する:国際法と密貿易――海賊商品流通の学際的・文明史的研究」の一部も兼ねて、二〇一四年三月二日から八日まで遊孤草舎で第五回展「続・物からモノへ――うつしとうつわ」を開催し[1]、その際に改めて翌二〇一五年春にこれまでの活動成果を集大成する展覧会を開催することが計画された。
丁度二〇一三年五月に、活動拠点である京都で最初の大規模な現代芸術の国際展「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭二〇一五」が二〇一五年春に開催されることが告知されていた。また二〇一三年一〇月に、二〇一五年に京都を中心として「琳派四〇〇年記念祭」が実施されることも既に公表されていた。そこで、アート分科会の集大成展もそれらの正式な後援事業の一つとして準備を進めることになった。集大成展は、発足以来の研究会活動の中で浮かび上がった多様な問題を取り上げるため、複数のテーマ展覧会を開催し、それに関連した様々なパフォーマンス、セミナー、シンポジウム等を実施することになった。全体の名称は、一八世紀後半の京都における芸術家と学者の相互交流を指す「京都藝苑」を踏まえ[2]、現代京都における芸術と学術の総合運動体である「モノ学・感覚価値研究会」を母体とする総合イベントの名称として「現代京都藝苑二〇一五」に決定した。これに併せて現代京都藝苑実行委員会が発足し、実行委員長に鎌田東二、副実行委員長に稲賀繁美、事務局長に秋丸知貴、実行委員に浅井俊子、大西宏志、奥田圭太、近藤髙弘、森裕一、山本豊津が着任した。
三 「物気色」から「現代京都藝苑二〇一五」へ
「モノ学」とは、日本語の「もの」という語の三層構造的多義性を手掛かりとする、宗教・芸術・科学(人文科学・社会科学・自然科学)にまたがる新しい総合学問である。つまり、「モノ」(霊的次元)と「者」(人格的次元)と「物」(物質的次元)を一語で表す日本の伝統的心性をモデルとし、そうした三層一体的・非二元論的心性を様々な角度から探求し、それにより近代西洋文明が身心を分断し霊性を無視することによりもたらした様々な行き詰まりを打開する道を模索するものである。
その際に鍵となる「感覚価値」研究とは、人間の心に備わる量的な感覚を質的な価値に変換する力の考察である。日本では伝統的に「もののあはれ」や「見立て」等として表現されてきたこうした精神の働きは、三層それぞれの次元で働くと共に、時には次元を超える「孔」としての役割も果たす。またこうした感覚価値は、身体に基づくために「技(わざ)」とも関わり、「場所」にも影響される。そして生物・無生物を問わず、あらゆるものが単なる「物」ではなくある霊性を帯びた魂(いのち)を持つ「モノ」でもあることを、同じく魂を持つ「者」である人間は感得しうる。こうしてあらゆるものは「モノ」の化身として関り合い、縁起としての「事」を生じる。こうした「物事」の内、例えば「者」が「物」を通じて「モノ」を表すのが「ものづくり」であり、「者」が言葉という「物」を通じて「モノ」を表すのが「物語」である[3]。
こうした思想的基盤を持つモノ学・感覚価値研究会アート分科会では、芸術領域における理論と実践を通じて興味深い問題が数多く浮上した[4]。その中で、常に基調低音として流れていたのは分科会の発案者である近藤の提出した問題意識である。近藤によれば、現在でも日本と西洋では芸術観に明らかな差異がある[5]。それは、制作観、美術と工芸の関係、芸術における霊性の三つの問題に大きく分けられる[6]。
まず、議論の前提として「芸術」概念を整理しておこう[7]。元々、「art(芸術)」は近代西洋で成立した概念であり、何らかの目的を達成する技能全般を指す古来の「ars(術)」の内から「science(科学)」と「technology(技術)」が結合分離した時に残された領域、つまり術の内、数学的法則に基づく普遍的に再現可能な術ではないものを意味する。こうした特殊な思想史的背景を持つとはいえ、「芸術」概念で指示される文化的実体自体は近代西洋以外のあらゆる人間文化においても存在していた。例えば、「伝統日本芸術」と呼ばれる文化領域もその一つである。
その上で、制作観の問題について言えば、古来日本では芸術作品を制作する場合、作者の意図(インテンション)は存在するが、それと同程度に作者の意図を超えるもの、つまり素材的特性や、環境的特性や、制作過程における偶然性が高く評価され、それを生かす技量としての身体的修練が尊重される。これに対し、近代西洋では作者の意図の実現が何よりも重要であり、それを揺るがす素材的特性や、環境的特性や、制作過程における偶然性については否定する技量が重んじられ、しかもそうした身体労働は知的観念である元の意図よりも評価が低い。この制作における「作る」か「成る」かの問題、つまり人間の自我だけで全てを完結させるかそれとも自然との協働により完成するかいう制作観の差異は、人間を自然よりも上位と見るかどうかという人間中心主義の問題に関わる。すなわち、人間の主観的自我を絶対視して自然を支配し操作すべき延長的「物」と捉えるか、それとも主客合一的自己滅却を理想として自然を畏敬し協働すべき魂的「モノ」と捉えるかという自然観の差異の問題である。
さらにこのことは、芸術分類上の優劣、つまり「美術」と「工芸」の価値序列の問題にも関わる。古来、人類の伝統文化では普遍的にあらゆる芸術作品は実際上の有用性、つまり「使用価値」を持っていた。世俗的な日用で用いる生活芸術はもちろん、超俗的な信仰で用いる宗教芸術でさえ実用的な「使用価値」を有していた。すなわち、本来全ての芸術作品は「実用芸術」、つまり「工芸」であったといえる。
こうした工芸作品を手業で制作する場合、まず実用的目的を前提として作者個人の意図が、作者の身体的技量を介して、素材的特性や環境的特性に左右されつつ作品に具現する。これが「職人」による「工芸」、つまり「職人工芸」である。こうした職人工芸は、作家的個性が求められない日用品においては、生活共同体内で伝承されつつ匿名的に生成変化していく。これが「民衆」による「工芸」、つまり「民芸」である。重要な点は、こうした職人工芸も民芸も共に無用性に対する有用性を前提としているために「実用芸術」、すなわち「工芸」だったことである。またこうした工芸では、人為性に対する自然性、意識性に対する無意識性、必然性に対する偶然性が介在するために、作者個人の純粋に自由な意図が実現される訳ではない点が特徴である。
これに対し、近代西洋においては人間の主体的理性が重んじられ、作者個人の純粋に自由な意図の実現が重視される。つまり、制作者としては、実用的目的を前提として作品を制作する職人や民衆とは異なる、実用的目的を前提とせずに作品を制作する「芸術家」が誕生する。また、作品においても実用的目的は等閑視され、純粋に見て楽しむだけの「鑑賞芸術」、つまり「美術」が成立する。さらに、こうした美術では、芸術家個人の知的観念としての意図を表す視覚的要素が特権化され、触覚的要素や身体的技量はあくまでもそれに従属し、素材的特性や環境的特性が捨象される点も特徴である。
こうして近代西洋の芸術観においては、視覚的鑑賞芸術が「美術」と呼ばれて上位に置かれ、実用的な「工芸」が下位に位置付けられる。そして、「美術」においては芸術家個人の純粋に自由な意図としての象徴的な理想的概念(コンセプト)が主題化される一方、「工芸」的な有用性・触覚性・技量性・素材性・環境性は低い評価を受けることになる(なお、「art(芸術)」分類内において「practical art(実用芸術)」と対置されるのは「fine art(鑑賞芸術・美術)」であるが、端的に「craft(工芸)」と対置される場合には「fine」が欠落して一語だけで「art(美術)」と呼ばれることもあることに注意したい)。
こうした「鑑賞芸術」としての「美術」が成立する過程で、「実用芸術」としての「工芸」の日用的要素と共に排除されたのが信仰的要素である。言い換えれば、純粋な鑑賞芸術としての美術が成立するためには、生活芸術と宗教芸術という聖俗両面の実用性を捨象しなければならなかったといえる。その意味で、近代西洋において「ars(術)」から「science technology(科学技術)」が析出されて「art(芸術)」が成立した後、その原因である主体的理性の称揚が「生活芸術」を「美術」に転化すると共に、同じ主体的理性に基づく科学技術の発達が世俗化を進めキリスト教を凋落させて「宗教芸術」を「美術」に変貌させることは、避けえない必然的発展であったといえる。
ここで図式的に要約するならば、先に見た伝統日本の芸術観は、自然の万物には魂が宿るとし、自然に対する畏怖共感の下に、「もの」の一語に物質的次元・人格的次元・霊的次元を重ね合わせるアニミズム的自然観の反映といえる(こうしたアニミズム的自然観は、日本のみならず人類の伝統文化においては普遍的であったことに留意したい)。これに対し、近代西洋の芸術観は、そうしたアニミズム的自然観を合理化して「世界の脱魔力化(Entzauberung der Welt)[8]」をもたらし、自然の万物を単なる物質的延長と捉え、人間の肉体を含む外的自然を一種の機械と見なし、自律的な人間主体が数学的計算理性により自然を自由に支配し操作できるとするいわゆるデカルト的・機械論的自然観の反映といえる。
西洋ではルネサンス期に芽生え、一八世紀に進展したこうした「art」概念を、日本は逼迫する国際外交上の必要の下に明治期に「芸術」あるいは「美術」と翻訳して輸入した。問題は、こうした近代西洋的芸術観が伝統日本的芸術観とは相容れない側面が多々あったことである[9]。例えば、元々の日本の芸術的伝統においては「純粋鑑賞」という概念は存在せず、「用」と「美」は常に不可分であり、むしろ「用」に基づいた「美」こそが重んじられたという意味では「工芸」は「美術」よりも上位にあったといえる。また、西洋のキリスト教芸術では(偶像禁止の教義上は)芸術作品自体は神性を持たない単なる彼岸の超越神への信仰の手がかりに過ぎなかったのに対し、日本の宗教芸術では芸術作品自体が霊性を帯びたご神体や霊宝として崇拝されていた点も大きく異なる。世界文化史上、むしろ伝統日本では、近代西洋が「美術」を成立させるために除外してきたそうした芸術における日用的要素と信仰的要素にこそ並外れて繊細な感受性を発達させる傾向があったといえる。従って、本来的文脈とは異なる「美術」という概念で伝統日本芸術を再編した時には様々な本質的齟齬や混乱が生じることになる。例えば、本来日本家屋の陰翳の中で用いられてこそ魅力を発揮する蒔絵作品が美術館の明るい照明の下で展示されることにより貧相に見えてしまう問題や[10]、元々鑑賞対象ではない仏像を美術館に展示する際には現在でも霊障を避けるために必ず「御霊抜き」を行わなければならない問題等を挙げられる。
もちろん、時代を経て「美術」概念が定着するにつれて、日本でもそうした「美術」概念に即した新しい芸術文化が発達したことは確かである。しかし、それでも伝統に根差した芸術観の差異がもたらす様々な問題、例えば国内では西洋諸国以上に大量の工芸家が輩出する一方でその工芸品は芸術家の美術品よりも価格が安く扱われるという問題や、国外では自らにとって自然で高雅な美意識に基づく造形表現こそが逆に低く評価されるといった問題は、今日でも完全に解消されているとはいえない。端的に言って、文化多元主義の高まりの中で少しずつ改善されつつあるとはいえ、現在でもなお国際的に見て日本の古代から現代までの芸術文化は近代西洋美術の文脈においてのみ評価されており、しかもその評価はあくまでも亜流的・傍流的な位置付けに留まっていることは誰にも否定できない事実である。
しかし、既に見たように日本の伝統的な自然観に基づく芸術観には独自の論理と価値があることは疑いない。そうであるならば、そうした芸術観そのものを評価されることを望むことは国際道義上決して間違ってはいない。特に、袋小路に陥ったことを自ら主張し始めている近代西洋芸術観に対し、その限界を相対化する新しい観点を日本の伝統的な芸術観の中に探ることは必ずしも無益ではないはずである。そうして、もし日本を否定するのでも西洋を否定するのでもなく、互いに不足しているところを補い合うことができるならば、それは真に人類的芸術への一つの貢献といえるであろう。
その上で、輸入されて既に一四〇年以上の文化的蓄積を持つ概念としての「芸術」も「美術」もその両方を含んだ「アート」も、紛れもなく現代日本の「伝統文化」である。従って、象徴的な理想的概念の実現としての「fine art」の本来の文脈に即して、日本の伝統的な感受性や美意識それ自体をアートの主題として表象することも可能なはずである。何よりもまず、近代西洋文明の人間中心主義が環境問題を筆頭に人類の生存基盤そのものを崩壊させつつあると指摘される現代において、それとは異なる日本の伝統的な持続可能的・生命共生的自然観を一つの理念としてアートで表現していくことは少なくとも無駄ではないはずである。そして、もしそれが可能であるならば、それを真に地球的美術と形容することも決して大袈裟とはいえないだろう[11]。
これらが、これまでアート分科会が理論と実践を通じて探求し、「物気色」というキーワードを提出した問題意識だったといえる[12]。すなわち、ここで改めて「物気色」とは、日本の伝統的なアニミズム的自然観に基づき、「物」としての芸術作品に、超感覚的側面としての「気」と、感覚的側面としての「色」の両方が表象されていることを捉える芸術概念であると定義できる。この観点から、一九七〇年前後の「もの派」を日本の伝統的なアニミズム的自然観が息づく先駆的芸術運動として再評価した点も、アート分科会の大きな業績だったといえる。
こうした「物気色」の展開を受けて、現代京都藝苑二〇一五はさらに問題を広く捉えるために「日本的感受性」というより広い観点を設定した。つまり、「日本的感受性」という総合テーマの下に、日本の伝統的なアニミズム的自然観や、それに基づく芸術表現の様々な諸特徴を取り上げようとしたのである。
丁度このことは、後援元である「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭二〇一五」が、あくまでもユニバーサルな文脈での現代芸術祭を志向し、敢えて日本の文化的伝統や京都的風土性を前面には出さない方向性であったことを異なる立場から補足する意味合いがあった。また、同じく後援元である「琳派四〇〇年記念祭」が日本の伝統文化の再評価を目指していることを側面から支援する意味合いもあった。
こうして現代京都藝苑二〇一五は、主に近代西洋的芸術観では無視されたり軽視されたりしてきたものに特に注目することになった。なぜならば、そこにこそ取り分け「日本的感受性」が現れやすいと考えたからである。第一に注目したのは、「美術」の形成過程で捨象されてきた生活芸術や宗教芸術の問題である。また、「美術」では評価の低い有用性・触覚性・技量性・素材性・環境性等の問題にも着目した。これらのテーマは、特に中心主題として扱われていない場合でも、四つの展覧会の全てに伏在している。特に環境性については、具体的な展示場所の問題として、四展いずれも純粋な美術展示施設ではなく、築一〇〇年以上の古民家や宗教施設や文化遺跡を会場とし、それによりアンチ・ホワイトキューブ的性格を鮮明に打ち出すことにした。
こうした現代京都藝苑二〇一五の実施に当たり常に念頭にあったのは、果たして「日本的感受性」は意識的に表されうるものかどうかという問題である。つまり、意識的に表現される「日本的感受性」はどこかあざとさを否めず、むしろ純粋に近代西洋美術の論理を追求する中で無意識的に現れるものこそが真の「日本的感受性」ではないかという問題意識は常に存在した[13]。さらに、既に一世紀半以上も近代的に西洋化されて久しい現代日本において、「日本的感受性」も持続しつつ様々な変容を受けているのではないかという問題意識も常に付随した。こうしたテーマも、四つの展覧会の全てに潜在している。
具体的には、まず芸術における信仰性の問題を主題化したのが、「悲とアニマ――モノ学・感覚価値研究会展」である。この展覧会は、近年東日本大震災を始めとして頻発する天災・人災による実存的危機に対し、信仰性を排除することにより成立した美術には大衆芸能ほど人の心を癒す力は望めないが、もしそれでも美術に可能なことがあるとすればそれは一体どのようなものであるだろうかという問題意識から出発している。換言すれば、それはコンテンポラリー・アートによる奉納神事はいかにして可能かという今日的課題の実践である。
次に、芸術における日用性の問題を主題化したのが、「素材と知覚――『もの派』の根源を求めて」展である。この展覧会は、特に日本の生活芸術の典型である「生け花」の美学がコンテンポラリー・アートにおいてどのように生かされうるかという問題意識から出発している。また、広く現代日本美術における素材性に対する向き合い方に「日本的感受性」がどのように現れるかを探ることも大きな主題としている。これらに関連して、「もの派」理解の従来の主流である現象学的解釈の脱構築的補完を試み、「もの派」前史として「幻触」との関係に着目することを始め、従来看過されてきた「もの派」の様々な文脈や影響関係を明らかにすると共に、改めて「もの派」と共鳴する「日本的感受性」の今日的表現の諸様態を探求した。
さらに、芸術における環境性の問題を主題化したのが、「記憶の焼結―conti/nuit/é―」展である。この展覧会は、場所の持つ力が制作や鑑賞においていかに人間の身心に多大な影響を及ぼすかという問題意識から出発している。特に、会場である五条坂京焼登り窯(旧藤平)は、近代西洋の「美術」概念の輸入により様々な変質を被り、遂には近代的西洋化に伴うライフスタイルの変化により衰微しつつある伝統工芸の一つである陶磁器の代表的な生産地である。そうした歴史的経緯を持つ文化遺構を、「美術」の現在形であるコンテンポラリー・アートがいかに活性化し、逆にまたいかに活性化されるかを模索する実験的試みでもある。
そして、現代日本美術における日本的感受性の持続や変容そのものを主題化したのが、「連続の縺れ―conti/nuit/é―」展である。この展覧会は、既に写真的映像環境が常態化し、テレビやコンピュータ等の電子(エレクトリック)メディアを始めとするハイ・テクノロジーが自明化している現代日本の若い作家達の美意識がいかなるものであるかを探る問題意識から出発している。すなわち、その展覧会名には様々な含意が込められているが、その一つは、連続しつつ縺れ、縺れつつ連続している「日本的感受性」の現代的諸様相を様々な角度から探求するものである。
これらに先駆けて、プレイベント対談「日本的感受性と日本近現代美術」も実施した。これは、二〇〇九年五月二四日に行った二〇〇九年度第一回モノ学・感覚価値研究会における関根伸夫の講演「もの派の活動とアート」や[14]、二〇一〇年一月一六日に開催したモノ学・感覚価値研究会国際シンポジウム芸術部会「もの派とモノ学――ものからモノへ」の内容を引き継ぎ[15]、現代京都藝苑二〇一五の総合テーマ「日本的感受性」の発案者である秋丸知貴が聞き手となり、改めて関根伸夫の作家歴や芸術観を学生時代から現在まで本人の証言で辿るものであった。そのことにより、「もの派」のリーダーである関根の芸術制作には、最初期から今日まで伝統日本的なアニミズム的自然観や芸術観が一貫的に底流していることが改めて確かめられた。そして、そうした「日本的感受性」こそが今後の世界における日本美術を考慮する際には極めて大きな芸術的・文化的重要性を有していることが再確認された。
現在、現代京都藝苑二〇一五の記録は公式ウェブサイトで公開中である(http://kyotocontemporaryartnetwork.web.fc2.com/)。
以下、全行事の項目のみを列記する[16]。
四 展覧会・関連イベント
■「現代京都藝苑二〇一五」プレイベント対談「日本的感受性と日本近現代美術」
日時:二〇一五年二月二八日(土)午後二時~午後三時三〇分
場所:京都大学文学部 新館第三講義室(※無料・予約不要)
関根伸夫(美術家)/秋丸知貴(美術史家・インディペンデントキュレーター)
■展覧会「悲とアニマ――モノ学・感覚価値研究会展」
監修:鎌田東二
企画:秋丸知貴
会期:二〇一五年三月七日(土)~三月一四日(土)
開館時間:午前九時~午後五時(※三月一二日のみ午前一二時~午後五時)
主催:現代京都藝苑実行委員会/モノ学・感覚価値研究会
共催:北野天満宮/京都伝統文化の森推進協議会/京都大学こころの未来研究センター震災関連プロジェクト「こころの再生に向けて」
協賛:株式会社サンレー
後援:PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭二〇一五/琳派四〇〇年記念祭委員会/京都大学こころの未来研究センター連携研究プロジェクト「被災地のこころときずなの再生に芸術実践が果たしうる役割を検証する基盤研究Ⅲ」/科研:基盤研究A「身心変容の比較宗教学――心と体とモノをつなぐワザの総合的研究」(研究代表:鎌田東二・二〇一一年~二〇一五年)
第一会場:北野天満宮 社務所
展示:岡田修二/狩野智宏/上林壮一郎/スティーヴン・ギル/坪文子/松生歩/三宅一樹/渡邊淳司+丸谷和史
第二会場:北野天満宮 神楽殿
展示:大西宏志/勝又公仁彦/鎌田東二
■京都伝統文化の森推進協議会+第三四回身心変容技法研究会合同公開セミナー「森と身心変容」
日時:二〇一五年三月五日(木)午後一時~午後五時
場所:京都大学稲盛財団記念館三階大会議室(※無料・予約不要)
基調講演①:「木彫刻のアニミズム」
三宅一樹(彫刻家/元多摩美術大学非常勤講師)
基調講演②:「森の自然と人のかかわり――生態学・進化生物学の視点」
伊勢武史(生態学者・進化生物学者/京都大学フィールド科学教育研究センター准教授)
総合討論
司会進行:鎌田東二(京都大学こころの未来研究センター教授/京都伝統文化の森推進協議会会長)
主催:京都伝統文化の森推進協議会
共催:京都大学こころの未来研究センター(科研:基盤研究A「身心変容の比較宗教学――心と体とモノをつなぐワザの総合的研究」+ワザ学研究プロジェクト)
■公開シンポジウム①「モノ学・感覚価値研究とアート」
日時:二〇一五年三月七日(土)午後四時~午後六時
場所:京都大学稲盛財団記念館三階大会議室(※無料・予約不要)
趣旨説明
大西宏志(京都造形芸術大学教授/モノ学・感覚価値研究会アート分科会幹事)
基調講演①:「モノ学・感覚価値研究とは何か」
鎌田東二(京都大学こころの未来研究センター教授/モノ学・感覚価値研究会代表)
基調講演②:「モノ学・感覚価値研究会アート分科会の歩み」
大西宏志
基調講演③:「『悲とアニマ』展について」
秋丸知貴(「悲とアニマ」展企画者)
総合討論
鎌田東二
秋丸知貴
近藤髙弘(陶芸・美術作家/モノ学・感覚価値研究アート分科会幹事)
岡田修二(画家/成安造形大学教授)
大舩真言(画家/京都精華大学非常勤講師)
司会進行:大西宏志
■公開シンポジウム②「火と水と森とアート」
日時:二〇一五年三月一〇日(火)午後一時~午後五時
場所:京都大学稲盛財団記念館三階大会議室(※無料・予約不要)
趣旨説明
鎌田東二(京都大学こころの未来研究センター教授/京都伝統文化の森推進協議会会長)
基調講演①:「森とアート」
やなぎみわ(演出家・美術作家/京都造形芸術大学教授)
基調講演②:「火とアート」
勝又公仁彦(美術家・写真家/京都造形芸術大学専任講師)
基調講演③:「水とアート」
近藤髙弘(陶芸・美術作家/京都伝統文化の森推進協議会委員)
総合討論
勝又公仁彦
近藤髙弘
吉岡洋(京都大学大学院文学研究科教授/京都伝統文化の森推進協議会委員)
大西宏志(京都造形芸術大学教授/京都伝統文化の森推進協議会委員)
秋丸知貴(「悲とアニマ」展企画者)
司会進行:鎌田東二
■鎮魂茶会
日時:二〇一五年三月一一日(水)正午~午後三時
場所:北野天満宮 茶室梅交軒(※有料・要予約)
近藤髙弘/大舩真言
■鎮魂舞台
日時:二〇一五年三月一一日(水)午後五時~午後七時
場所:北野天満宮 境内駐車場(※無料・予約不要)
・前口上
鎌田東二+やなぎみわ(演出家・美術作家/京都造形芸術大学教授)
・淡路人形芝居「戎舞」
淡路人形座
電気紙芝居「くーりんと京だらぼっち」
くーだら劇団(京都伝統文化の森推進協議会)
・能舞「天神~鎮魂・悲とアニマ」
河村博重(観世流能楽師・重要無形文化財/京都造形芸術大学客員教授)
鎌田東二(神道ソングライター/京都大学こころの未来研究センター教授)
・後口上
加藤迪夫(北野天満宮権宮司)
■展覧会「素材と知覚――『もの派』の根源を求めて」
監修:山本豊津
企画:秋丸知貴
会期:二〇一五年三月七日(土)~三月二二日(日)
開館時間:午前一〇時~午後五時
主催:現代京都藝苑実行委員会
協力:一般社団法人 Impact Hub Kyoto
後援:PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭二〇一五/琳派四〇〇年記念祭委員会
第一会場:遊狐草舎
展示:飯田昭二/入江早耶/大西伸明/河口龍夫/斉藤義重/鈴木慶則/関根伸夫/高松次郎
第二会場:Impact Hub Kyoto(虚白院内)
展示:池坊由紀/榎倉康二/大西宏志/大舩真言/神山貴彦/小清水漸/近藤髙弘/関根伸夫/外林道子/林武史/松井紫朗
■「素材と知覚」展 公開シンポジウム「『もの派』の根源を求めて」
日時:二〇一五年三月八日(日)午前一〇時~正午
場所:京都市美術館本館 PARASOPHIA教室(Class room)(※無料・予約不要)
基調講演①:「『幻触』と『もの派』について」
本阿弥清(NPO法人環境芸術ネットワーク代表・元虹の美術館館長)
基調講演②:「『素材と知覚』展について」
秋丸知貴(「素材と知覚」展企画者)
総合討論
本阿弥清
山本豊津(東京画廊代表/「素材と知覚」展監修者)
司会進行:秋丸知貴
■「素材と知覚」展 オープニング・トーク
日時:二〇一五年三月八日(日)午後四時三〇分~午後五時
場所:Impact Hub Kyoto(虚白院内)(※無料・予約不要)
山本豊津(東京画廊代表/「素材と知覚」展監修者)
近藤髙弘(出品作家)
大西宏志(出品作家)
池坊由紀(出品作家) 他
司会進行:秋丸知貴(「素材と知覚」展企画者)
■展覧会「記憶の焼結―conti/nuit/é―」
監修:山本豊津
企画:森裕一
会期:二〇一五年三月七日(土)~四月一二日(日)(※金・土・日・月のみ開館)
開館時間:午前一二時~午後六時
主催:現代京都藝苑実行委員会/京都市教育委員会
後援:PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭二〇一五/琳派四〇〇年記念祭委員会
会場:五条坂京焼登り窯(旧藤平)
展示:河合政之/黒田アキ/近藤髙弘/ジャン=リュック・ヴィルムート/松井紫朗
■展覧会「連続の縺れ―conti/nuit/é―」
企画:森裕一
会期:二〇一五年三月七日(土)~三月二二日(日)
開館時間:午前一一時~午後六時
主催:現代京都藝苑実行委員会
後援:PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭二〇一五/琳派四〇〇年記念祭委員会
会場:The Terminal KYOTO
展示:安藤隆一郎/片野満/河合政之/黒川彰宣/花岡伸宏/パラモデル/藤原康博
■「記憶の焼結」展・「連続の縺れ」展 合同公開シンポジウム「連続の縺れ―conti/nuit/é―」
日時:二〇一五年三月八日(日)午後一時~午後三時
場所:京都市美術館本館 PARASOPHIA教室(Class room)(※無料・予約不要)
総合討論
小林康夫(東京大学大学院総合文化研究科教授)
黒田アキ(出品作家)
近藤髙弘(出品作家)
松井紫朗(出品作家)
河合政之(出品作家)
司会進行:森裕一(「記憶の焼結」展・「連続の縺れ」展企画者)
註
[1] なお、第五回展から発展した第六回展「『うつわ(器)』と『うつし(写)』:うつろいゆく形の生命――モノのかたちの霊的伝播をめぐる新たなパラダイムにむけて」が、同稲賀科研の一部を兼ねて二〇一五年一月二〇日から二四日までフランス・パリ日本文会館で開催され、その帰国展「Utsuwa et utsushi うつわ と うつし」も、同稲賀科研の一部として二〇一五年一二月三日から二〇日まで京都芸術センターで開催された。
[2] 高橋博巳『京都藝苑のネットワーク』ぺりかん社、一九八八年。
[3] 「モノ学」や「感覚価値」については、鎌田東二「『モノ学』からの挑戦――『モノ学・感覚価値研究会』発足に向けて」モノ学・感覚価値研究会公式ウェブサイト、二〇〇六年五月一九日や、鎌田東二「序論 モノ学の構築」、鎌田東二編著『モノ学の冒険』創元社、二〇〇九年や、鎌田東二「まえがき」、鎌田東二編著『モノ学・感覚価値論』晃洋書房、二〇一〇年や、鎌田東二「モノ学から見た『モノ・ケ・イロ(物気色)』」、モノ学・感覚価値研究会アート分科会編『物気色』美学出版、二〇一〇年等を参照。
[4] 特に、第一回展が浮かび上がらせた「美術」と「学術」の差異の問題については、近藤髙弘・大西宏志「アート分科会および展覧会の活動報告」『モノ学・感覚価値研究』第四号、二〇一〇年や、稲賀繁美「蘇生する化石・跳梁する魂 大学博物館で現代美術展? 京都大学総合博物館での『物からモノへ』展より」『物気色』美学出版、二〇一〇年を参照。第一回展の展示形式上の美術史的意義は、何よりもまず大学博物館における最初の本格的な現代美術展であることや、展示物における超感覚的要素の最初の本格的追求であることが挙げられる。また、展示空間における質的不均一性の追求も際立った特徴であるといってよい(ただし、これらの特徴は両義的である点にこそ重要性がある)。さらに、アート分科会の年度毎の活動報告については、二〇一〇年度は『モノ学・感覚価値研究』第五号を、二〇一一年度については第六号を、二〇一二年度について第七号を、二〇一三年度については第八号を、二〇一四年度については第九号を参照。
[5] 近藤髙弘「モノと感覚価値――工芸と美術へのアプローチ」『モノ学・感覚価値研究』第一号、二〇〇七年や、近藤髙弘「『モノ』感覚価値――工芸と美術へのアプローチ」『モノ学の冒険』創元社、二〇〇九年を参照。
[6] この問題については、稲賀繁美「モノの気色(けしき)――物質性より立ち昇る精神の様相」『物気色』美学出版、二〇一〇年も参照。
[7] この問題については、次の文献等を参照。松宮秀治『ミュージアムの思想』白水社、二〇〇三年。松宮秀治『芸術崇拝の思想――政教分離とヨーロッパの新しい神』白水社、二〇〇八年。松宮秀治「展示と政治」、川口幸也編『展示の政治学』水声社、二〇〇九年。松宮秀治『文明と文化の思想』白水社、二〇一四年。
[8] マックス・ウェーバー『職業としての学問』尾高邦雄訳、岩波書店(岩波文庫)、一九八〇年、七二頁。
[9] この問題については、次の文献等を参照。磯田光一『鹿鳴館の系譜――近代日本文芸史誌』文藝春秋、一九八三年。北澤憲昭『眼の神殿――「美術」受容史ノート』美術出版社、一九八九年。佐藤道信『〈日本美術〉誕生』講談社(講談社選書メチエ)、一九九六年。佐藤道信『明治国家と近代美術――美の政治学』吉川弘文館、一九九九年。北澤憲昭・木下長宏・イザベル・シャリエ・山梨俊夫編『美術のゆくえ、美術史の現在――日本・近代・美術』平凡社、一九九九年。北澤憲昭『境界の美術史――「美術」形成史ノート』ブリュッケ、二〇〇〇年。北澤憲昭『アヴァンギャルド以後の工芸――「工芸的なるもの」をもとめて』美学出版、二〇〇三年。佐藤道信『美術のアイデンティティー――誰のために、何のために』吉川弘文館、二〇〇七年。稲賀繁美編『伝統工藝再考 京のうちそと――過去発掘・現状分析・将来展望』思文閣出版、二〇〇七年。樋田豊郎・稲賀繁美編『終わりきれない「近代」――八木一夫とオブジェ焼』美学出版、二〇〇八年。森仁史『日本〈工芸〉の近代――美術とデザインの母胎として』吉川弘文館、二〇〇八年。北澤憲昭『美術のポリティクス――「工芸」の成り立ちを焦点として』ゆまに書房、二〇一三年。北澤憲昭・佐藤道信・森仁史編『美術の日本近現代史――制度・言説・造型』東京美術、二〇一四年。
[10] 谷崎潤一郎「陰翳礼讃」『谷崎潤一郎全集 第二〇巻』中央公論社、一九六八年。
[11] この問題については、原田憲一「モノ学・感覚価値研究会展覧会の意義――地球が生み出した美と人間が生み出す美」『物気色』美学出版、二〇一〇年も参照。
[12] 「物気色」については、モノ学・感覚価値研究会アート分科会「はじめに」『物気色』美学出版、二〇一〇年や、大西宏志「アート分科会活動報告二〇一〇・物気色」『モノ学・感覚価値研究』第五号、二〇一一年を参照。
[13] 伝統日本的芸術観を明らかにするためには、同様にその比較対象である近代西洋美術の論理も考究しなければならない。こうした問題意識から近代西洋絵画におけるモダニズムの本質を究明したのが、二〇一〇年一月一七日の第六回アート分科会合同研究会で口頭発表し、同年『モノ学・感覚価値研究』第四号で論文発表した、秋丸知貴の「抽象絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの『アウラ』概念を手掛かりに」である。この問題については、さらにその発展である二〇一〇〜二〇一一年度京都大学こころの未来研究センター一般公募型連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」(受入教員:鎌田、研究代表:秋丸)の研究成果も参照。同研究プロジェクトに関わる論考は全て、秋丸の公式ウェブサイトで公開中である(http://tomokiakimaru.web.fc2.com)。また、同研究成果の一つである秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道』(晃洋書房・二〇一三年)や、本号掲載の「ヴァルター・ベンヤミンの複製美学」も参照。
[14] この講演記録については、モノ学・感覚価値研究会公式ウェブサイトで公開中である(http://mono-gaku.la.coocan.jp/happyou4.htm#46)。
[15] このシンポジウムの内容については、『モノ学・感覚価値論』晃洋書房、二〇一〇年を参照。
[16] 「悲とアニマ」展と「連続の縺れ」展は入場無料、「素材と知覚」展と「記憶の焼結」展は入場共通パス一千円で実施した。
初出:2016年3月 秋丸知貴「モノ学・感覚価値研究会アート分科会活動報告二〇一五・「現代京都藝苑二〇一五」を中心に」『モノ学・感覚価値研究』第10号、京都大学こころの未来研究センター/モノ学・感覚価値研究会、2016年、40-47頁。
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