美術作品は見る人の心に安らぎや癒しを与えるものだと考える人も多いだろう。今に続く印象派の人気は、美しい色彩の絵画を見ることで心を豊かにしたいと感じる人が多いことを物語る。しかしアートの伝えるものは視覚の「美」だけではないのではないか。
この連載で取り上げるアートは、「病い、老い、死」という、できれば避けて通りたい人生の負の側面から発想された作品である。作者がみな女性であることも共通している。
松下誠子は「羽根、パラフィン紙のドレスや枕、毛皮で覆われた家」など、松下独自の意味を込めた素材を使って、女性が人生で出会うさまざまな苦しみや困難、孤独などの体験を表現してきた。函館の恵まれた家庭に生まれて、子どもの頃から父の蔵書の美術全集を毎日眺めては模写に明け暮れ、両親や兄たちの文学や社会を語る会話を浴びて、文学全集に読みふけった少女時代。個の意識の高い母の言葉も、松下の精神的自立を促した。大学入学を機に上京したが、松下は美術大学にはあえて進まなかったという。
そして結婚と出産、離婚と子育てという女性の人生の試練を経て、絵を描くことに戻ってきた松下は、その後、さまざまな素材のオブジェやドローイング、写真や映像、パフォーマンスという、現在の制作スタイルを発展させて来た。小中学生の頃から「天才少女」と称されたほど絵の受賞を繰り返したにもかかわらず、松下がそのまま美大に進まなかったのは、豊富な読書の中で培った彼女なりの「絵は哲学だ」という思いからだったという。
若い頃からの信念の通り、松下の作品には常にだいじな意味がこめられている。例えばピンクに染めた水鳥の羽根で覆われたセキュリティ・ブランケット(安心防衛毛布)は、世界中の苦難にさらされた人々を「安全地帯」として守る、精神的な「武装」の象徴である。人間の身体が皮膚で守られるなら、第二の皮膚であるパラフィンドレスだけを身にまとった参加者たちによるパフォーマンスでは、「あなたにとってセキュリティー・ブランケットとは何ですか?」という問いに答えなければならない。獣毛で覆われた家のかたちのオブジェからは、舌のように長いものが伸びて、「家」の持つ密室的で、DVや虐待の場ともなる暴力性を露わにしている。

松下誠子《セキュリティ・ブランケット》2018-2023年、パラフィン紙、羽根、サイズ可変 奥:《すべての私たちの女たちの枕》2023年、パラフィン紙、半紙、サイズ可変 撮影:菅実花

松下誠子《スカートの下で》2020年 インスタレーション 《燃えるスカート》待ち針、糸、パラフィン紙114×87×3.5cm、 《家の舌》 毛皮、カートン、石塑粘土、芯生地、85×30×34cm の組み合わせ
つまり松下は、相対的に力の弱い女性たちの人生に降りかかる暴力の存在を表わしつつ、それから守る装置をかたちにすることで、女性や子ども、弱い立場の人々に対する避難所を表現し、勇気づけている。これこそが松下がアートを制作する哲学に他ならないだろう。
松下は現在、2枚重ねのドローイングを制作している。1枚の絵の上に、半透明の紙に描かれたもう1枚が重ねられる。〈窓枠の叛乱〉と名付けられたこのシリーズでは、上辺の絵に隠された裏側のもう1枚を想像しつつ見ることになる。内と外の境界でもある窓の枠が壊れて、内側のもう一つの場面が表に現れるかどうか、そのあいだのせめぎ合いと緊張がほとばしる。松下誠子はこれからもさらに深化したアートの哲学を表現し続けるだろう。

松下誠子 シリーズ〈窓枠の叛乱〉より 《さよならが言えないで》2024年 2枚重ねのドローイング パラフィン紙、オイルパステル、木炭 45×61cm
*本稿は、連載「アートとジェンダー 病い、老い、死」 第1回として、『しんぶん赤旗』(2024年12月3日)に掲載されたものです。編集部および作家の了承を得て再掲します。
*松下誠子については、以下の筆者が管理運営するサイトのデータベース、およびインタビューもご参照ください。
https://asianw-art.com/matsushita-seiko/
https://asianw-art.com/interview/interview-with-matsushita-seiko/