福重明子展「Reflective Landscapes」
会期:2024年6月8日〜28日
会場:GALLERY URO
福重明子は、刺繍のような繊細な線と、淡い色彩によるシルクスクリーンが特徴的な作家である。シルクスクリーンは複数の版によって重層的に構成されて、その上からボールペンやアクリル絵具で着彩されている。
それらはすべて福重の旅の記憶を元に制作されたものであり、具体的な経験やその時に感じた想いや感情、見てきた風景が折り重なっている。それがどのようなものなのかは、シルクスクリーンだけを見ても詳しくはわからない。よく見ると、トナカイやオオカミ、馬、犬、ハチドリ、サソリ、キノコといった具象的な象を結んでいるものもあるが、ほとんどは抽象化され、それらが有機的に結びついて複雑な形象と色彩になっているからだ。
2024年6月8日~28日まで、GALLERY UROで福重明子の約7年ぶりの個展「Reflective Landscapes」が開催された。7年という時間は非常に長いが、2020年からはコロナ禍によってさまざまな活動が社会全体で制限されていた。またその間、福重は結婚し、子供を出産していたこともあって、今回、創作活動を本格的に再開した。
会場の入口から、日本(石垣島、丹後、万博記念公園)、ノルウェー、メキシコ、ポルトガル、モンゴルと、福重が旅をした時系列に沿って、それらの記憶を留めた作品が展示された。これまでの展示と異なるのは、それぞれの作品に、元になったエピソードが記されていることだ。
ノルウェー北極圏などはサーミ人(スカンジナビア半島北部及びロシア北部コラ半島に居住する先住民族)、モンゴルでは遊牧民と共に生活し、広大なランドスケープと移動の経験と記憶が1枚の絵に詰め込まれているが、一方で石垣島のサンゴやシカクナマコ、ウツボといった海中の小さな生物、万博記念公園やノルウェーのキノコなど微視的な視点が入り混じる。さらに、極寒のノルウェーに温暖な石垣島を想起して、下層のシルクスクリーンに石垣島の風景を入れ込んだり、大雑把に感じるメキシコで、細やかなノルウェーの文化をよく思い出したこともあって、下層のシルクスクリーンにノルウェーの風景を入れ込んだり、連想的に浮かび上がる記憶に従って作品も連画のようになっている。あるいは、メキシコでは、ナワ族(原住民中最大の民族)と食事をしたり、その土地に根差した人々の生活体系に出入りすることで、複数の視点で文化を捉え、混交した記憶をシルクスクリーンに集約させている。
その点では、単なる旅の記憶といったものではなく、人類学者のような手付きで現地の人々と生活を共にし、その人々の生活体系や世界観、生物学者ユクスキュルのいう「環世界」を自分の中に取り入れて、さらに彼らから見た参与者である自分や、自身の見方、記憶を重ねて、シルクスクリーンに記述しているといってよいかもしれない。
例えば《Maze Life》(2010)では、ノルウェーの北極圏で、マイナス40度にもなる2月に、サーミ人がトナカイを移動させるため使用するスノーモービルに同乗させてもらい、白銀の世界を犬と一緒に並走した経験が元になっている。その際、凸凹した雪の大地の上で、スノーモービルが蛇行したり、バウンドしたりする中、片方の手袋を外してカメラを撮影していたため手袋を落としたという。しかし、吹雪も拭いて視界が前方数メートルしかない帰り道で手袋を発見し、犬みたいな目だと言われたことがキャプションに記載されている。また、部屋に戻りベッドに横たわると、海で泳いでいるように揺れている感覚が続いたという。それはスキーやスケートをした日の夜に起きる感覚に近いだろう。
作品は、細い線の集積が幾つかのクラスターになって、分離したり、繋がったりしており、そういわれると、迷路のような道のようにも、凸凹した平原や山のようにも見える。もちろんそれらを写実的に描こうとしているわけではないが、一定の時間と移動を伴う、具体的なエピソードから得られた内的な感覚や感情を、線や色彩に変換して定着しているといってよいだろう。そして、自分の中ではそれがどのような対応関係を持つのかある程度明確であるだろうし、絵を見た瞬間にそのエピソードと感覚や感情がありありと蘇るのではないか。
その意味では、福重の作品は、写真や映像、文字といったものでは呼び起こすことが難しい感覚と感情の記憶装置といえるかもしれない。福重の描く線の集積は、どことなく神経細胞のように見えるし、それらがシナプスによって情報伝達が行われ、記憶が強化される構造を類推させられる。つまり、自身が描くことによって記憶の反復を行い、1回限りの具体的な経験についての、個人的な記憶である「エピソード記憶」を、長期記憶にしているといえるだろう。そして、一つの場所のエピソードは、別の場所のエピソードの連想を誘発している。さらに、そのような海馬に蓄積される記憶と同時に、描く動作によって身体性を伴う手続き記憶として、小脳にも蓄積されているように思える。
そのようなことを考えると、福重の作品は、旅における特定の場所の「エピソード記憶」という一つの単位で構成されており、それがまた別の旅のエピソード記憶とつながる構造になっていることがわかる。もちろん、鑑賞者である我々には、福重が独自に確立したエピソード記憶が定着された作品を見ても、それらのエピソードが再現されるわけではない。しかし、それが何かのエピソードを表していることは何となく伝わる。
実は、2016年にThe Third Gallery Ayaで開催された個展「Circulation change」を見たとき、簡単なレビューを書いて、何らかの言葉と組み合わせた方がいいのではないか、と指摘していた。筆者自身は失礼ながらそのことをすっかり忘れていたのだが、当然書かれた方がよく覚えており、それもあって今回の展示では一つひとつの作品にエピソードがキャプションに付け加えられていた。それによって、まさにこれらがエピソード記憶を表したものだとはっきり認識することができた。
おそらくこのような個人のエピソード記憶が、特定の共同体で発達して、伝承や神話、洞窟壁画のようなものに発展していったのではないだろうか。福重は、実際、人類学や先住民の文化に関心を継続して持ち続けており、この7年の間には、国立民族学博物館で非常勤職員をしていたこともある。そして今回は、ノルウェーやモンゴル、メキシコで使用したり、購入したりした道具も、民博の方に設置方法のアドバイスを受けて展示をすることで、より旅のエピソードを鮮明に呼び起こすようにしている。福重は、個人の記憶が伝承や神話といった共通の記憶に変化していく前段階のプロセスを、自身の個人的な体験を通して遡行しているといってよいだろう。
また、かなり離れた地域の民族の文化の中に、対比的な側面と、共通性を見出したりすることで、個人的な連想に加えて、人類の普遍的な文化形成の有り様を見ようとしているように思える。特に、ノルウェーのサーミ人の生活文化が、定住化政策やチェルノブイリ原発事故によってトナカイの餌であるキノコの汚染によって変質していたり、日本から来たことを伝えるとアイヌ人ですか?と問われたり、東日本大震災後に滞在したメキシコでは、避難を勧められたり、人間が勝手に引いた国境という線には収まらず、互いが影響し合っていることがわかる経験をしており、それもまた「リフレクティブ」な風景であり、記憶といってもよいだろう。
ただし、子育てをしながら、今までのように世界中を旅をして、現地の人々と生活を共にする経験は難しい。これはアーティストだけではないが、女性がキャリアを築いていくにあたって、出産や子育てが大きな障壁となっているのは間違いない。それは制作だけではなく、発表をする際にもさまざまな課題がある。このような展覧会をする場合、土曜日や日曜日に開催される場合が多く、レセプションなどは夜に行われることがほとんどであり、特に子供が小さい頃は難しい。
そのようなことを福重に問うと、子供がいると予定が読めないことが多く、シルクスクリーン工房の予約がとりにくいことがあるため、さまざまな手法を試すようになったこと。子供を守るために、気持ちも体力も余裕をもたせるようになったことで、今までより楽に感じる部分があること。元気な子供に触れることでエネルギーをもらうこと。そして、子供と一緒に隠岐の島やインドに行く予定を教えてくれた。
日常の中の小さなエピソードを絵にする方法もあると思うが、それは強い異文化経験ではないこともあるのか時間がかかるという。子供が成長する中で、確実に子供と一緒に経験するという別のスタイルや手法を獲得しようとしていることがうかがえた。まさに、今回は新たな形へと移行・移動するプロセスの展覧会といってよいだろう。さまざまなハンディはあると思うが、子育てをするアート関係者の一人としても今後の制作に期待したい。