
展示風景
「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」
会期:2025年6月21日(土)~8月31日(日)
会場:大阪中之島美術館
展覧会サイト:https://koumyakuten2025.jp/supervisor.html
大阪中之島美術館で2025年6月21日から8月31日まで、「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」が開催されている。
今年、大阪・関西万博が開催されていることもあって、大阪・京都・奈良の三都の美術・博物館で「国宝」をテーマにした展覧会が開催された。「国宝」という言葉を改めて考えると、近代国家や美術・博物館の成立に行きつく。日本は「国民国家」の概念を中心とした近代国家体制を取り入れた非西洋では最初の国になるだろう。
同時にそれは万国博覧会の時代と重なる。海外における国際博覧会、国内における内国勧業博覧会。日本ではそれが固定化されたのが美術館・博物館の起源といってよい。それと対となるように出来たのが1897(明治30)年の古社寺保存法であり、古社寺の建造物及び宝物類で、「特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範」であるものが「特別保護建造物」または「国宝」に指定された。その意味では「国宝」とは、初期においては、廃仏毀釈によって棄損された古社寺や仏教美術を新たに文化財として価値づけ、保存するためにあったといえる。その後、日本の歴史に重要な美術工芸品も「国宝」として認定されていく。戦後は文化財保護法が制定され、戦前の国宝は一旦、重要文化財に指定された後、新たに国宝に指定された。
今回の「未来の国宝」は、ある意味で逆張りの展覧会である。菅谷富夫館長は、大阪中之島美術館のコンセプトとして「大阪ゆかり」「大阪からの視点」というものがあるが、それは東京中心だった美術史観とは別の新たな視点、史観を提示することでもあるという。その意味で従来の「国宝」の価値観の延長線上にあるものではなく、別のものを提示するという意味も込められていると語る。
今回、監修を務めた美術史家の山下裕二は、2017年から2018年にかけて刊行されたウイークリーブック『週刊 ニッポンの国宝100』(小学館)の中で、「未来の国宝・MY国宝」という連載を担当したことがある。その基準が、遠くない将来、国宝に指定される作品「未来の国宝」、自身の思い入れが強く、22世紀には国宝になってほしいと願う作品「MY国宝」であり、合わせて50点が選ばれた。後に単行本として出版されている。
言わば、「日本美術の鉱脈」展は、「未来の国宝・MY国宝」を、展覧会として実現したものである。この企画に関しては具体名を挙げなかったものの幾つかの美術館に打診したようだ。満を持してこの企画を引き受けたのが大阪中之島美術館だった。山下はそのことに重ねて感謝を述べていた。このような挑戦的、あるいは挑発的な企画を引き受けることが大阪らしいといえるかもしれない。山下の言うように、逆に言えば、この展覧会にはまったく「国宝」が出品されていないのである。だから、観客は教科書に載っているような作品を目当てに人々がくるわけではない。むしろほとんど知られていない、もっと言えば「ナンジャコリャ」という感想を抱く作品を多く出品しているのだ。
しかも、縄文土器から現代アートまでの作品81点を集めたというのだから驚かされる。しかし、すでに評価されている美術作品、歴史から逸脱した作品を集めるのは、何らかの価値基準が必要となる。山下は、その選出基準をシンプルに「驚いたもの」であるという。つまり、日本美術史を専攻した山下の知識になく、その価値基準から逸脱しているが、素晴らしいと思える作品といえるだろう。しかし見どころは「国宝展」よりも多いかもしれない。日本美術において、見たことがほとんどないのに驚かされる展覧会はほとんどない。展覧会を見ることで規範からの「逸脱の美」はある意味で日本の美意識の中にあることを確認させられる。
2000年に京都国立博物館で開催された若冲展以前は「知らざれる鉱脈」だった若冲は、今やその人気が衰えることはない。プライスコレクション展などの影響も大きいだろう。若冲をはじめとした「奇想の画家」と呼ばれる、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳は、山下の師でもある美術史家、辻惟雄によって1968年に『美術手帖』誌上で紹介され、1970年に単行本『奇想の系譜』として出版されて注目されるようになった。
「奇想」とは、「琳派」のように事後的につけられたものだが、辻の命名である。狩野派や四条円山派、文人画のようなお抱え絵師や主流の画風とは逆の、グロテスク、奇矯(エキセントリック)、幻想的(ファンタスティック)な表現を行っていた江戸の画家たちを、あえて取り上げて一つの系譜を示した。ただし、「1968年という時代」を踏まえてないとわからない部分もある。つまり、学生運動を中心とした反体制的なムーブメントに対する辻なりのアンサーだったともいえよう。いずれにせよ、日本美術の正史ともいえる歴史観から逸脱した美の発見は、辻が嚆矢となり、その弟子筋である山下が後を継いでいる(ちなみに、「奇想の画家」に選ばれた長沢蘆雪、歌川国芳の両方とも、大阪中之島美術館で大々的な展覧会が開催されている)。
本展は、第1章「若冲ら奇想の画家たち」、第2章「室町水墨画の精華」、第3章「素朴絵と禅画」、第4章「歴史を描く」、第5章「茶の空間」、第6章「江戸幕末から近代へ」、第7章「縄文の造形、そして現代へ」という、江戸・室町を中心に現代美術と縄文で結ぶという幅広く、大胆な構成になっている。

左隻:伊藤若冲《竹鶏図屏風》(寛政2年・1790以前) 右隻:《竹鶏図・梅鯉屏風》(天明7年・1787)
なかでも「奇想の画家」を展覧会の最初に持ってきたのは、辻惟雄へのリスペクトもあるだろう。同時に、昨年記者会見で発表されたほぼ同時代に生きたもののほとんど交流のない伊藤若冲と円山応挙の共作である《竹鶏図・梅鯉屏風》は一つの目玉となっていた。二曲一双で、金字水墨の屏風で左隻を若冲、右隻を応挙が描いている。スタイルは違えども両方、描写力が高く、夢のコラボレーションともいえるが、おそらく高名な二人に、それぞれ得意な画題を同じフォーマットに描かせるということのできる、地位と予算を持った人がいたのだろう。今から見てもなんと贅沢な注文だろう。しかも両方金箔である。趣味がいいかは別として、それくらいのことができた実力者がいた証拠であるし、若冲の評価が高まっている今日だからこそその真価がわかる。
はたして二人は共作になることを知らされていたのだろうか?知らされていたとしたら、それぞれ竹と鶏、梅と鯉という題材ということは聞いていたのだろうか?当時から二人のアイコンとして認識されていたのだなと改めて知ることができた。そして描写力は、両者勝るとも劣らないが、水墨という単色であったとしても、若冲はコントラストが強く豪胆、曲線を多用している。応挙はわずかな線で水面を感じさせる繊細な線、細かな描写、そして二匹に鯉は左隻の鶏をうかがっているようでもある。鶏もまた、右隻の様子を見ている。制作中に打ち合わせをしたことなどないだろうが、目に見えない関係、駆け引きを感じさせる見どころの多い屏風である。

式部輝忠《梅樹叭々鳥龱屏風》(室町時代・15世紀)
知られてなかった二人のコラボレーションや奇想の画家の知名度を使いながら、山下の狙いに引きずり込んでいく。それが第二章の「室町水墨画の精華」である。もともと山下は室町水墨画を専門としているからだ。東福寺の画僧だった霊彩(れいさい)、式部輝忠、雪村などである。式部輝忠に関しては、山下が修士論文のテーマにしたそうだが、室町時代後期に東国で活躍した以外、その出自はほとんどわかっていないという。雪舟という、日本美術史の金字塔の影で、室町時代の水墨画家たちも、江戸時代の奇想の画家以上に、魅力的であるということを伝えることが本展の狙いの一つだろう。実際、本展に出品されている式部輝忠の《巌樹遊猿図屏風》、《梅樹叭々鳥龱屏風》《韃靼人狩猟図屏風》(すべて室町時代)は、南宋末元初の画僧、牧谿の影響受けているとされるが、雪舟のようなシャープな線ではなく、うねるようなストロークの短うねるような描写には、「奇想」に通じる独特なリアリティがある。
第3章「素朴絵と禅画」は江戸時代の「奇想の画家」につながる別の系譜を示している。それは「稚拙美」「素朴美」といったものだろう。「奇想の画家」たちが、江戸時代の禅僧、白隠慧鶴に影響を受けたことはよく知られている。自身の境涯を表すために描いた白隠の書画は、決して上手くないし、上手さを求めている絵ではないが、その素朴さと「五百年に一度」と言われる天才僧の迫力が画面に強烈に伝わってくる。そのような「稚拙美」「素朴美」の発見は、こちらもまた室町時代に遡るとされ、西洋におけるルソーやアール・ブリュットよりもはるかに早い。白隠の作品は、大阪中之島美術館設立のきっかけとなった、山本發次郎が集めていたことでも知られており、出品されたコレクションから、本展の実施は必然的なものであったとも思えた。

《かるかや》(室町時代・16世紀)サントリー美術館所蔵

《筑島物語絵巻》(室町時代・16世紀) 日本民藝館所蔵
そして本章の目玉ともいえる作品が《かるかや》(室町時代)と《筑島物語絵巻》(室町時代)である。《かるかや》も辻惟雄が絶賛していたとのことで、その先見の明に驚かされる。仏教説話のための描かれた冊子とのことだが、その稚拙さ、粗野さが、かえって時を超えて画家の息遣いがリアルに感じられるという不思議な作品である。《筑島物語絵巻》もあまりに記号的な人間と平面的な服の模様の処理に笑ってしまう。《曽我物語屏風》(江戸時代)は、背景の富士山や建物の遠近感を無視して、曽我兄弟が戦う様子は、パラパラ漫画を並べているようにも見える。

原田直次郎の《素戔嗚 八岐大蛇退治画稿》(明治28年・1895頃) 岡山県立美術館蔵
第4章「歴史を描く」は、明治から大正時代にかけて、西洋画の技術を身に着けた原田直次郎や高橋由一が描いた「歴史画」、いっぽうで落合朗風のように、日本画で旧約聖書を描いた画家を紹介する。日本の洋画の祖である高橋由一や高橋に習い、後にドイツに留学しアカデミックな技術を習得した原田直次郎は、帰国後は新しい「日本画」を打ち立て、国粋主義的になる美術界において、不遇な扱いを受けた。そして、完璧な洋画技法を扱いながら、仏教や日本神話などモチーフを描くようになる。その代表作が《騎龍観音》である。こちらも日本美術とは異なる克明な描写ではあったが、東京帝国大学教授の外山正一から酷評を受け、旧友である森鴎外が擁護するなど騒動があった。今回出品されているのは、高橋由一の《日本武尊》と原田直次郎の《素戔嗚 八岐大蛇退治画稿》(1895)であるが、八岐大蛇を描いた部分になぜか犬の顔が飛び出しているという謎の絵になっている。原田は不遇のままに亡くなるが、この作品は「ナンジャコリャ」という観点では、もっともユーモラスで救われる気もしてくる。

加藤智大《鉄茶室徹亭》(平成25年・2013)

山口晃《携行折畳式喫 茶室》(平成14年・2002)
第5章「茶の空間」では、千利休が長次郎に焼かせた、黒楽茶碗「俊寛」が展示されている。黒楽茶碗は、ろくろによる成形でじゃなく、手で固められたもので、長次郎の手の跡を感じられる素朴さがある。また、もっとも軽い茶室として、山口晃のベニヤでつくった《携行折畳式喫 茶室》(2002)、もっとも重い茶室として、加藤智大《鉄茶室徹亭》(2013)が出品され、「茶室」や「茶道」そのものがコンセプチュアルであり、禅問答のような側面があることを示した。

笠木治郎吉《提灯屋の店先》(明治時代)

牧島如鳩《魚籃観音像》 (昭和27年・1952) 足利市美術館蔵

安藤緑山《竹の子に梅》(大正~昭和初期・1912-1940)京都国立近代美術館所蔵
第6章「江戸幕末から近代へ」では、さらに西洋と日本の狭間で揺れる不思議な作品が頻出する。狩野一信の「五百羅漢図」は、洋画技法を取り入れているため、ハイパーリアルな表現によって異様な光景になっているし、笠木治郎吉らによって。明治時代にお土産物として庶民の生活をリアルに描いた水彩画は異様ではあるが、写真や洋画、日本画では描かれなかった当時の空気感を色濃く映し出している。また、伝統工芸も、西洋の影響受け、万博などに出品されたり、輸出品として産業化されたりするにあたって、過剰なリアルさを取り入れていく。ほとんど知られていなかった安藤緑山の牙彫、近年ではよく知られるようになった安本亀八の生人形も登場する。ハイライトは、牧島如鳩《魚籃観音像》 (1952)で、ハリスストス正教徒の牧師であり、福島県小名浜漁港の大漁祈願のために描かれたもので、観音を描きながら、左上にはマリアと天使、右上には菩薩と天女が描かれ、雲の上に乗る魚籃観音の下には、小名浜の海岸線が描かれている。マリア観音のバージョンとは言え、ほとんど見たことがない「仏基習合」の形式であり、近代を象徴する融合の形といってよい。さらに、大阪中之島美術館で積極的に再評価を行っている「大阪の日本画」「女性の日本画」から、島成園の作品も出品されている。

手前:西尾康之《アルファ・オメガ》(2015) 奥:会田誠《電柱柱、カラス、その他》(2012-2013) 森美術館所蔵

手前:《深鉢形土器(天神遺跡出土)》(縄文時代前期末 )山梨県立考古博物館所蔵 奥:岡崎龍之祐《JOMONJOMON—Emotion Beat》(2025)《JOMONJOMON—Tender》(2025)
最後の章、第7章「縄文の造形、そして現代へ」では、縄文土器と現代アートを組み合せている。縄文土器の美学の発見自体、岡本太郎によるところが大きいので、それほど不思議ではないのかもしれないが、ここに出品されているのは「火焔型土器」のようなメジャーなものではなく、子供が粘度でつくったような人物がつけられた《人体文様付有孔鍔付土器》(縄文時代中期中葉)のような、少し脱力感のあるものである。そこに、会田誠の《火炎縁雑草図》(1991-1996)、《火炎縁蜚蠊図》(1991-1996)、《電柱柱、カラス、その他》(2012-2013)、西尾康之《アルファ・オメガ》(2015)、縄文土器をモチーフにした衣装、岡崎龍之祐《JOMONJOMON》(2025)などが展示されている。

《人体文様付有孔鍔付土器 (鋳物師屋遺跡出土)》(縄文時代中期中葉) 南アルプス市教育委員会・ふるさと文化伝承館所蔵
鎌倉時代、平安時代、奈良時代、弥生時代のものがごっそり抜けているとはいえるが、ここまで網羅的に日本美術を取り扱い、さらに一貫して現在の評価軸から外れたものを一挙に展示するのは圧巻である。それも全体として過剰すぎたり、下手過ぎたり、混ざり込んだり、枠に収まらり切らない「逸脱の美」が貫かれており、二重の逸脱がさらに展覧会の面白さにつながっている。
しかし、若冲を中心とした江戸絵画の例にあるように、「ナンジャコリャ」と思われた作品が、後の世に評価されることはある。それが「国宝」になるほどのコンセンサスを得ることができるかはわからないが、「ナンジャコリャ」と思われていた《太陽の塔》が重要文化財になったことを思えば、可能性はゼロではないだろう。
美術館におけるキュレーションは、今まで評価されなかった作品、作家を、新たな評価軸によって評価し直す、再編することが醍醐味の一つだろう。日本美術はその意味で、それだけの歴史的な蓄積と美術品があるし、大胆にそれを行うことの面白さを改めて提示した展覧会といえるだろう。