彩字記#11(採取者・市原尚士)

長者町岬さんの最新刊「台湾航路」(田畑書店)の書評を書くための研究と称して、台南、玉井、高雄の街を巡ってきた「マンゴー+虐殺」の旅日記 市原尚士評はお読みいただきましたか? 本稿は、マンゴーと虐殺以外のネタを書きます。「彩字記」の名にふさわしく、グラフィティが中心になります。

ゆるゆるグラフィティ

台南の街を歩いていると、あちこちにグラフィティが描かれています。暴力的な感じではなく、ゆるゆるな感じの作品とちょいちょい出くわすのは、台南の人々のお人柄でしょうか? イリーガルなラクガキを描く際にもついつい緩さが漏れてくるのでしょうか?

台南市中心部にあるバス停「小西門(西門路)」の背後にあるフェンスはなぜか大量のグラフィティが描かれています。

台南市のバス停前に描かれていた、ゆるふわグラフィティ

筆者が注目したのは、「FALSE VACCUM DECAY」です。「VACCUM DECAY」で区切ると、その意味は真空崩壊です。ある真空状態が別のより安定した真空状態に変化する現象を指すのが真空崩壊です。

一方、「FALSE VACCUM」で区切ると、「偽の真空」という意味になります。これは不安定な真空状態で、真空崩壊を起こす可能性があることを示しています。

物理学の難しい概念ですし、宇宙空間の中に潜む膨大なエネルギーの爆発を示唆する、恐ろしい考え方でもあります。

ところが、そんないかめしい感じの言葉の下に描かれたのが、細い足を生やして、何だか苦笑いでも浮かべている風船のような子なのです。そのギャップには思わず吹き出してしまいそうになります。

ちょうど、幼稚園児が意味も分からずに、音の響きがカッコいいだけで「ドップラー光線だー、死ねーっ」などと友達に叫んでいるようなものです。どこかで、ドップラー(効果)という言葉を聞き、とっておきの必殺技に使おうと考えた子どものかわいらしい遊び心ですね。

ちょうど、そのように「真空崩壊」「偽の真空」というものものしい言葉・概念がゆるゆるの絵に添えて描かれているので何とも言えないおかしさが生まれるわけです。

シャッターの色を生かして描かれた省エネ型のグラフィティ

緩いというか、省エネのグラフィティも台南市中心部で見つけました。商店が並ぶアーケードのシャッターの上にそれは描かれていました。下地になるシャッターが鮮やかな青色であるのをフルに生かし、黄色の輪郭線で文字のような形象を描いたら、後は黒いスプレーを薄く輪郭線内にかけているだけです。

これだけで、元々シャッターの持っていた青色をうまく活用したグラデーションが巧みに生まれました。すべてを細かく描くのではなく、手を抜けるところは手を抜き、しかも表現として成立する作品を世に問おうとする姿勢に感心させられました。

高雄駅前のグラフィティビル

高雄の駅前には、廃業したまま放置されている元商業ビルがあります。ビルがきちんと管理されず放置されているということは、グラフィティも大量に描かれています。大きなシャッターに横位置で力作をほどこしたのは、よく日本でも海外でも作品を見かける「24K」です。

高雄駅前、廃ビルのシャッターに描かれたグラフィティ。24Kの署名が入っている

本当に、24K、と書かれた作品はあちこちで見ますね。個人なのか、それとも集団の名前なのか? あまりにも各地で見るので到底、独りの仕事とは思えませんが、バンクシーだって独りで世界中に出没しているわけですから、「24K」も単独の個人なのかもしれません。

高雄駅前の廃ビル側面部に描かれたグラフィティ群

シャッターだけでなく、ビルの壁面にも大量のグラフィティが施されております。中には、こんなに高いところにどうやって描いたの?と思うような作品もありますが、多分、複数人が肩車して、一番、上の人が描いたのでしょう。

KAWSが、そうやって描いている現場を捉えた写真を見たことがあるので、多分、同じ手法で高雄の廃ビルにも作品が描かれたのではないかと筆者は推測しました。

大きなガジュマルの下に設置されていた約80年前の防空洞

防空洞の出入り口アップ写真。中は物置のようだ

防空洞の解説

この駅前から10分くらい歩いた市街地で出合ったのが、約80年前の「防空洞」でした。大きなガジュマルの木の下に、いかにも昔風の構造物があったので、すぐに気が付きました。

大量の屋台が立ち並ぶ六合観光夜市に向かって歩いている途中で偶然見つけたので、余計に興趣を覚えました。今は地域住民の物置兼ゴミ捨て場(?)として活用されているようです。

台湾は中国との軍事衝突に備え、街中に多くのシェルターが存在しています。歩いていると、「防空避難(Air Defense Shelter)」の表示が台南市にもあちこちに掲示されていました。

先日、北欧を訪れた際、ロシアの軍事的脅威に備え、フィンランド・ヘルシンキのあちこちに地下シェルターが存在することを示唆する掲示を見たのとまったく同じです。

いささか、きな臭い感じが漂う中台関係ですが、高雄の防空洞はただの物置だったので、その緩さも相まって筆者の緊張感も弱まりました。台湾と中国、どうかもっと仲良くしてほしいものです。日本にも関係のある話なだけに…。

空かずの駐車場

台南、高雄のグラフィティを目に焼き付けて、国内に帰りました。そして、帰国から数日後、横浜市内にある駐車場で“奇跡”が起きているのを見ました。

都市中心部の駐車場は、道路に面した部分を開口部とし、コの字形に右、左、奥に壁面があることが多いです。三方に壁があるーーこの条件はグラフィティの描き手の創作意欲を大いに高めるようで、多くの駐車場の壁面は「ボム(=描く)」されていることが多いです。

ただ、街中の駐車場は常に車がいっぱいに停まっており、作品群は車に隠れて、まったく見えないことが多いのです。車さえ停まらなければ最高の“キャンバス”になりうるのに、決してそうはならないのが駐車場パラドックスなのです。

まるで、いつも遮断機が下りている「開かずの踏切」よろしく、車が空になってくれない「空かずの駐車場」は日本全国、都市の中心部にはどこにでもあると思います。読者の皆さんも今度、駐車場の前を通りかかったら、車の向こうに少しだけ目をやってください。たいてい、グラフィティの欠片、切れ端が見えるはずです。

横浜市内の駐車場内に描かれたグラフィティ

横浜市内の駐車場に描かれたグラフィティ

横浜市内の駐車場に描かれたグラフィティ

しかし、先日、横浜の駐車場の前を通りかかると、普段、すべての区画が車で埋まっているのに、この日は一番開口部に近い手前に1台、車が停まっているだけで、あとの区画はすべて空いているという滅多にない状況が現出していました。ふだんは車で隠れてほとんど見えない作品をようやくはっきりと見ることができました。

高雄で出合った「24K」が作者と思われるグラフィティもありました。きれいに撮れるものは全部撮影しましたので、読者の皆さんもご覧ください。

横浜市内の駐車場に描かれたグラフィティ

横浜市内の駐車場に描かれたグラフィティ

グラフィティが描かれた横浜市内の駐車場の全景

高雄と横浜がグラフィティで結びつく。台湾とヘルシンキが地下シェルターで結びつく。どっちがより物騒・危険だと思いますか? 筆者は後者、つまり地下シェルターの方がよほど恐ろしいです。台南で出合った「真空崩壊グラフィティ」のゆるゆるパワーで世界がもっと笑顔にみちた平和な状態になればいいな、と心底から考えました。(2025年6月22日20時59分脱稿)

*「彩字記」は、街で出合う文字や色彩を市原尚士が採取し、描かれた形象、書かれた文字を記述しようとする試みです。不定期で掲載いたします。

 

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。