長者町岬「台湾航路」を読む 市原尚士評

西洋絵画を日本に移植するのは本当に難しい。西洋社会の根底にどっかと鎮座するキリスト教の思想を日本人はまったく理解できていない。だから、現代にいたるまで浅薄皮相に西洋絵画の上っ面をなぞることに終始してきたと言っていいでしょう。同様に西洋絵画を真似した日本の作品を台湾に移植することだって難しい。1895年から半世紀にわたって日本による統治を受けていた時代に、です。タマネギの皮みたいな話しをしてしまい、分かりにくくてスミマセン。西洋の真似をしながらも、日本的洋画を一応は確立した日本の画壇が、統治下にある台湾の画家に“日本風の洋画”を移植するのが可能かどうか、ということを今、話しています。

両洋の相克を描き切る
長者町岬さんの「台湾航路」(田畑書店)は、西洋と東洋との相克をプラトンの対話篇さながらの緊張感あふれるダイアローグで綴った小説作品です。

長者町岬「台湾航路」(田畑書店)

最も印象に残る登場人物は2人。明治期から昭和期前半まで、日本洋画壇の重鎮だった藤島武二(1867~1943年)が日本代表です。1926年の帝展に「嘉義街外」を出品し、台湾人の西洋画家として初入選を果たした陳澄波(1895~1947年)が台湾側の代表です。チェン・チェンポーと発音しますが、本稿では便宜上、「陳」と表記させていただきます。

陳澄波「嘉義街外」(1926年、現存せず)

小説の冒頭は、台湾から東京美術学校に内地留学していた陳が藤島に投げかけた爆弾発言から始まります。

「こんど帝国美術院展覧会に挑戦したいんですが、台湾の故郷を描いた西洋画で、応募してもよろしいでしょうか?」

この問いかけの持つ政治性を敏感に受け止めた、藤島は返答に窮してしまいます。

最近のように日本統治にたいする反感が高まっている時局下で、台湾人が故郷の風景を描いて帝展に応募してくれば、それは反日メッセージの暗喩と見なされかねない。

そう藤島は考えたからです。藤島と陳との息の詰まるようなやり取りがその後も小説では続いていきます。

陳はなぜ、藤島に食らいつこうとするのか? その理由は明白です。藤島自身が西洋と日本(≒東洋)との軋轢に苦しみ続けた芸術家であることを分かっているからこそ、西洋と日本と台湾との軋轢に苦しむ自分の葛藤に答えてくれるのではないか、と感じたのでしょう。日本の統治下に置かれている台湾の芸術家だけに、藤島よりも軋轢の種が一つ、つまり「日台関係(=支配・被支配の関係)」という種が一つ増えてはいますが…。

長者町岬さん、あなたはいったい誰なのか?
ところで、この本の著者である、「長者町岬」って何者なんでしょうか?
そんな疑問を抱いた方も多いと思います。美術評論家連盟会員の藤田一人さんが、「美術評論+」の【会員短信】「ある美術史家の転身」藤田一人という文章で、長者町さんの初の小説「アフリカの女」の内容と著者が何者であるかについて簡潔に答えてくれていますので、興味のある方はぜひお読みください。先回りして答えを言ってしまいますと、「長者町岬=樋田豊次郎」であることが分かります。

長者町岬さん近影

樋田さんの仕事の特長は、「個人と国家の緊張関係」を常に念頭に置きながら、日本と西洋の近代工芸を研究対象に据えてきた点にあります。樋田さんには「豊次郎」だけでなく「豊郎」名義の著作も存在します。樋田さんの著書は、論旨も明快で難解すぎる術語も使わないのでとても分かりやすいのですが、最も平易な本を1冊、と聞かれたら、樋田豊郎著「工芸のコンポジション 伝統の功罪についての13詩論」(里文出版)と私は答えます。

「台湾航路」とのかかわりで最も重要だと考えたくだりを同書177ページから引用します。

アイデンティティの追求は芸術発展の原理としては、もう終わりかかっているからだと思います。「日本」への帰属を義務づけてきた国民国家の概念も、自身の内面的価値を至上とする個人主義も、もう賞味期限が切れかかっているのではないかという疑念が、私のなかで大きくなっています。日本の芸術はアイデンティティに引きずられつづけているのではないか、という疑問が私のなかに渦巻いています。

上記の引用の中に登場する「日本」という言葉を「日本統治下の台湾」と置き換えても、まったく差支えはないでしょう。つまり、アイデンティティを過剰に追い求めようとすればするほど、人は迷路に迷い込むことになるーー「台湾航路」のなかで、台湾で生きる多くの芸術家が登場しますが、彼らは日本が一方的に押し付けてきた「日本的なるアイデンティティ」にある時は反発し、また、ある時はすり寄り、「日本へのアンチ」としての「台湾的なるもの=アイデンティティ」を探し求めていくのです。

藤島武二「蒙古の日の出」(1937年、アーティゾン美術館蔵)

台湾の芸術家が台湾のアイデンティティーを懸命に追い求める姿は、そのまま藤島武二の葛藤に満ちた人生航路と見事に重なり合います。本書にも登場する「蒙古の日の出」(1937年、アーティゾン美術館蔵)を鑑賞する者は、複雑な思いに駆られること必至です。

1928年、昭和天皇の即位を祝うため皇居の学問所を飾る日の出の絵を描き始めた藤島が最晩年、人生という旅路の果てに行き着いたのは蒙古の砂漠だったのです。画業の変遷をたどればたどるほど藤島の苦悩が手に取るように分かるのです。

日本の西洋画は風土の奴隷?
「台湾航路」では、優雅な女性像で知られる洋画家・岡田三郎助(1869~1939年)に師事した台湾の画家・李梅樹(1909~83年)も紹介されます。リー・メイシュと発音しますが、本稿では便宜上、「李」と表記させていただきます。本書の65ページに李の独白として極めて重要な文章が綴られていますので、少し長いのですが引用します。

日本の画家たちは、西洋画に日本人の魂を入れようとしている。恩師の岡田先生が絵に伝統の和服や工芸品を描き込んでいるのは、その際たるものだ。しかし、そうして応用される伝統とは、一体なんだろう?
伝統はヨーロッパの絵画を、日本の風土に軟着陸させる触媒だが、同時に、それがほんらいもってた自由な翼を萎縮させてしまう、副作用のつよい薬ではないか。伝統が日本の西洋画をつまらなくしている。あれじゃあ、日本の西洋画は風土の奴隷だ。

今、引用した李の独白は、本書全体を貫く問題意識にほかなりません。江戸時代の国学者・本居宣長(1730~1801年)が「やまとごころ(=大和魂)」と「からごころ」によって思考・文化を捉えた歴史が容易に想起されます。しかし、やはり「やまとごころ⇔からごころ」の二項対立ではアイデンティティの迷宮に引きずり込まれてしまうでしょう。

李の独白は、そのまま樋田豊郎が「工芸のコンポジション」内で披瀝した「アイデンティティの追求=賞味期限切れ」説に接続されていると思います。固定化されたアイデンティティなるものは存在しません。長い時間を経て、また他国との交渉を通じて、構築され、あるいは変形されていくもの、それがアイデンティティなのではないでしょうか? 筆者は「台湾航路」を読んで、そんな思いにとらわれました。

陳澄波の緊張感あふれる画面構成
「台湾航路」内では、陳の作品が図版で紹介されています。これを見るだけでも陳の技量の高さがうかがえます。陳は台湾各地の風景、人の営みを描くのですが、道が一本通っていて、その右と左に家々が並ぶ、といった「道路山水」的な単純な構図は決して採用しません。1926年の帝展に入選した「嘉義街外」は、国華街という通りの外れにある住宅街の情景を描きます。下半分は、上下水道敷設工事で道路がめくりかえっています。心がざわつく画面構成を採用されており、強く印象に残ります。

陳澄波「嘉義街景」(1934年)

1934年の「嘉義街景」では、道が画面左から右奥に向かって斜めに伸びています。画面右に描かれた大樹の枝の伸びる線と併せて画面全体を眺めると「逆Sの字」の形で構成されており、動的な緊張感が漂っているように思えます。単純にノスタルジックな印象だけで陳は自身の古里・嘉義を捉えてるわけではないのです。

陳澄波「雨後の淡水」(1937~45年)

1937~45年の「雨後の淡水」は、淡水の街の一角で、出征兵士を送る人たちの行列が描かれています。こちらは「Sの字」に曲がりくねった道が目につきます。ここでも、「道路山水」的な構図は排除され、螺旋的な動態が画面の奥を突き破らんとするかのような勢いが認められます。

陳澄波「清流」(1929年)

本稿執筆の調査研究のため、台南市美術館で7月6日まで開催中の「The Formosa Era」展を鑑賞したところ、会場に入ってすぐの場所に、とても目立つ形で、陳が1929年に描いた代表作「清流」と1937年の佳作「嘉義遊園地」の2作品が並んでいました。「清流」も風景が「Sの字」に激しくうねっており、「嘉義遊園地」は、画面中央の大樹の枝が、やはり激しいうねりを生み出していました。2作品とも傑作の名にふさわしい作品でした。

美術館のショップでは、2024年3月に刊行されたばかりの陳の図録が販売されていましたが、表紙には「清流」が採用されていました。また、「油彩化身」「台湾油画第一人」と陳の画業を定義づけており、彼が台湾芸術界でいかに重んぜられているかが体感できました。

長者町さんが目指すべき方向性は「単純化」
台湾から帰国し、「台湾航路」をまた読み直しました。本書を読むのは、これで3回目になります。素晴らしい出来栄えですし、問題設定も的確だとは思いましたが、登場人物がやや多すぎたかな、とも思いました。

戦前台湾の文化的状況を描く際にポリフォニックな語り口を採用するのは正解だとは思います。ただ、この本の美質である「緊張感あふれるダイアローグ」があまりにも多くの登場人物によって繰り返されることで、読んでいる時の印象がごちゃごちゃになってしまうように感じられたのです。

思い切って登場人物を半分くらいに減らして、その分、一つ一つの章を長く、濃く描写した方が読みやすく、また面白くなるのではないでしょうか?

安井曾太郎(1888~1955年)が自己の様式として定義づけた「単化、変形、強調」という素晴らしい言葉を借りれば、単化(=単純化)こそが、今、長者町岬さんに必要な要素ではないかと思いました。

構図を整理し、余計なもの、弱いものは省く。そのような営みを経て、もっともっと素晴らしい作品になるのではないかと確信しております。長者町岬さんの小説、3作目も楽しみにしております。(2025年6月29日17時39分脱稿)

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。