多読せよ、精読せよ…第8回横浜トリエンナーレはテキストの祭典か?市原尚士評

第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」が3月15日に開幕しました。横浜美術館、旧第一銀行横浜支店、BankArt KAIKOなどで繰り広げられている美の祭典ヨコトリを某日、訪ねたのが「利口者」と「馬鹿者」の2人です。利口者は年齢60歳くらい、いつも気の利いたことしか言わない、教養のある男です。すでに今回のトリエンナーレの諸会場を回ったことがあるようで、「完璧な鑑賞法」を見切った、と考えています。馬鹿者は年齢55歳くらい、底抜けの阿呆で周囲の人に苦笑されてばかりの人生を送ってきました。アートは今まで見たことがほとんどないようです。2人が訪れたのは会場の一つである横浜美術館のようです。さぁ、2人の掛け合いがいよいよ始まるようで…。

<イントロダクション>

馬鹿者)先生。私は日頃、芸術に親しんでいる訳ではないので、今日は「正しい見方」を伝授してください。

ヨアル・ナンゴのメッセージ

利口者)うーむ、分かった。私が考えた最善の見方、展示の回り方を教えようか。まず、美術館正面の向かって右側の壁面に掲げられたノルウェーのヨアル・ナンゴ(1979~)のメッセージを読もう。

馬鹿者)なんか変な書体でまったく読めません。

利口者)まぁ、そりゃそうだろう。オリジナルの書体によるサーミ文字で書いてあるから、君が読めないのも無理はない。私が翻訳しよう。「彼らは決められた道を行かず、誰かが定めた秩序にも従わない」と書いてある。このメッセージを胸に刻み込んでから正面の公園口(入り口)をくぐるのだが、その前に!

馬鹿者)その前に?

利口者)唱えなくてはならない言葉が一つある。

馬鹿者)なんですか、そりゃ?

利口者)「われを過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ」だ。ダンテ『神曲』の有名な章句だが、君は知らないだろう。

馬鹿者)はい、知りません。

利口者)まぁ、知らなくともいい。これから地獄巡りが始まるのだ。いったん深呼吸して、心の準備ができたら、入り口をくぐろうじゃないか。

<第1章>

厨川白村著『象牙の塔を出て』の一節が壁面上部に記された展示会場

利口者)会場入口を通過して、エスカレーターでまず3階に上ろう。

馬鹿者)2階にも色々と作品がありますが、これは見なくていいんですか、先生。

利口者)うん、見なくていい。まずは3階から見た方がいい。理由は後で話す。真っ先に見なくてはいけないのが「密林の火」と題された章立ての展示だ。ここが横浜美術館の展示の、いやヨコトリ全体の中でも最重要なパーツだと私はにらんでいる。さぁ、まずはギャラリー4に入ろう。

馬鹿者)先生、紛争やら民族間の対立やら難しそうな社会的問題を扱った写真や映像や絵画が色々、並んでいますけど、どう見たらいいんですか? こりゃ、まるでダンテの地獄みたいじゃないですか?

利口者)困ったら、まずは天井に近い壁面の最上部を見るんだ。なんか書いてあるだろう。

馬鹿者)はい、きれいな銀色の文字で書いてありますけど、見たこともない漢字が使われているから読めませんよ。さっきのサーミ文字と同じように解読してください。

利口者)溺れなければ泳がれない。壁に衝突(ぶつか)つて見なければ、出口は見付からない。暗中に靜思默坐してゐる事は安全第一かも知れないが、それでは何時(いつ)まで經(た)つても光明の世界には出られないではないか。徹底的に誤つた人でなければ徹底的に悟る事も出來ない。

馬鹿者)なるほど、私なんか、どちらかと言うと要領が悪くて、「誤った人」と世間様から指さされてきた人間なんで、この言葉を聞くと救われますね。誰の言葉なんですか?

利口者)厨川白村(1880~1923年)という偉い英文学者が1920年に発表した『象牙の塔を出て』の一節だ。この本の中で白村は、芸術家は「象牙の塔」に閉じこもっちゃ駄目で、現実に起きている政治的、経済的な諸問題と密接にかかわらなければいけないと主張したんだ。

馬鹿者)なるほど、ギャラリー4の作品が、世界中のろくでもない問題を取り上げているものが多いから「正視するに堪えない」と思ったんですけど、そりゃ間違いってことですね。徹底的に誤った人だからこそ徹底的に悟ることができるわけだから、この展示を企画した人たちは、展示の向こう側に悟りや救いを見出しているんですね。

利口者)その通りだ。白村という今ではほとんどの人から忘れ去られている男のテクストをあえて引用しているのは、よほど重要性があるから、ということだよ。親鸞の思想を今に伝える『歎異抄』の中の有名な「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を思い出させてくれる、白村の素晴らしい言葉だね。美術館側が推奨するルートはこの後、ギャラリー5に移動することになっているが、そこはあえて無視しようか。ヨアル・ナンゴの流儀「決められた道は行かない」メソッドを使って、ギャラリー3へ行こう。さぁ着いた。

ギャラリー3には海外の現代美術作品にまじって勅使河原蒼風の作品も展示された

馬鹿者)うわーっ、ここもさっきのギャラリー4に負けないくらいの地獄巡りですね。貧困問題、新自由主義の台頭、少数民族を排除しようとする黒い意思が充満しています。どうしたらいいんですか?

利口者)困ったら、また壁面の上を見つめてごらん。

馬鹿者)今度は英語じゃないですか。読めませんよ。また、解読、お願いします。

利口者)まぁ、落ち着きなさい。この英文は、さっきの部屋で読んだ白村『象牙の塔を出て』の一節をただ英訳しているだけだ。「溺れなければ泳がれない。(中略)徹底的に誤った人でなければ、徹底的に悟ることもできない」を英語にしているだけだよ。

馬鹿者)YOU CANNOT BE THROUGHLY ENLIGHTNED UNLESS YOU ARE THROUGHLY MISTAKEN.あっ本当だ。なんとなく意味が分かってほっとしましたよ。いくら世界が地獄のように見えたとしても、必ずその向こう側に悟りや救いの世界は見いだせるはずだ、という希望に満ちた展示と言えるかもしれませんね。ただ、分からないことがまだありますよ。「密林の火」の会場となっているギャラリー3、4には日本のアーティストの名前もちらほら目にしますけど、これはどうしてなんですか?

利口者)うむ、勅使河原蒼風、尾竹永子、浜口タカシ、田中敦子、坂本龍一、「小林昭夫とBゼミ」ら日本人芸術家の作品がなぜ入っているかという点は私も考えた。でも作品を見れば、答えは出る。学園紛争、フクシマの原発といった戦後日本が抱え込んできた「地獄」の一端を見せているとは言えないかな? 田中の作品は、ボタンを押すと大音響でベルが鳴り響いていたが、あの音が戦後から現代までの日本の宿痾を告発しているようにも聞こえたよ。

馬鹿者)なるほど、国内外の地獄を巡ったせいで、もうお腹いっぱいですよ。次はどこに行くんですか?

利口者)またまた、美術館側の推奨するルートは無視して、「鏡との対話」と題されたギャラリー1に行くことにしようか。

<第2章>

ラファエラ・クリスピーノの白色ネオン管を用いた作品

馬鹿者)鏡に白いネオン管で何か字が書いてありますね、また英語だ。

利口者)We don’t want other worlds, we want mirrors.そう書いてあるな。イタリアのラファエラ・クリスピーノ(1979~)の作品だ。

ボードレールが「Anywhere Out of the World(この世の外ならどこへでも)」としたためたが、その反対の意味合いだろうか? 「『この世の外』なんて俺たちは望んでいない。俺たちが望むのは鏡だけ」というメッセージが鏡面に強烈に反射している。

馬鹿者)こりゃ、どういう意味合いですかね?

利口者)ギャラリー3、4を使った「密林の火」の章では、悪のはびこる「この世」の向こう側に広がっているかもしれない「光明の世界」を夢見させたが、ここで一回、観客を突き放して、自己内省を促しているのだろう。

馬鹿者)自己内省って、どういう意味ですか?

利口者)「密林の火」で見た恐ろしい世界中の問題を君はどこか他人事のように感じなかったかな?

馬鹿者)えー、なんて恐ろしい人たちが世界にはいるんだろうと思いましたよ。

利口者)自分には無関係の恐ろしい人たち?

馬鹿者)えぇ、自分とは無関係ですね。

利口者)本当に無関係?

馬鹿者)うーん、そう何度も聞かれると自信がなくなるなぁ。自分にも関係あるかも、しれませんね。

利口者)クリスピーノが言いたかったこともそこだろう。鏡に写る自分の姿を凝視すれば、自分の内部に巣くう悪も見えてくる。その悪と徹底的に向き合わずして、どこかよその国のよその人の悪行を「ひどい話だ。野蛮な人たちだ」と傍観しているだけでは何にもならない。

馬鹿者)確かに、日本人だって過去には他国の人々を苦しめてきた歴史がありますよね。それに今、とても安い衣料品が手に入るのも他国の安い人件費によって実現しているわけで、ある種の経済侵略ですよね。自己内省を深めれば深めるほど、自分の、自国の抱える「悪」が見えてきますね。

利口者)そうだ、その通りだ。そして、自己内省を深めるのに、有効な方法が「温故知新」だ。古いものをたずね求めて新しい事柄を知ろうという人生態度だな。

馬鹿者)あっ、だからこの「鏡との対話」の中に「縄文」が入っているんですね、かなり古い時代だけど。

利口者)そうだね、石元泰博、児島善三郎、中島清之、岡本太郎らの作品を効果的に配置した「縄文と新たな日本の夢」は、横浜美術館での展示の中でも白眉といっていいだろう。いったん、縄文まで戻って2020年代の日本人が温故知新を試みる。この非常に長い距離・時間を経巡ることによって「日本とは何ぞや?」「日本人とは何ぞや?」というアポリアと向き合うことが可能になるわけだ。縄文の造形は今見ても衝撃力、破壊力は十分で、行き詰まったかのように見える国内外の諸問題を解決するための突破口になりうるのではないか。鏡との対話=縄文との対話、という方法論は非常に意義深いと思う。

馬鹿者)見ているだけで、気分が上がるとんでもない芸術、それが縄文の凄さですよね。海外からのお客さんにもぜひ「JOMON」の魅力を知ってほしいですね。あと、この部屋だけでなく、すでに亡くなった過去の作家が多く作品を「出品」しているのも今回のヨコトリの特徴ですね。まさに温故知新だ。

利口者)さぁ、縄文の熱気を浴びた体をクールダウンして、そろそろ次の部屋に行こうか。

<第3章>

馬鹿者)鏡との対話を見てから「苦悶の象徴」と名付けられたギャラリー7の展示を見ようということですね。さぁ、じゃあ部屋に入るか。

利口者)おい、待ちなさい。美術館側が推奨する動線では、この入り口は、出口みたいだよ。向こうが入り口だから少し歩こうじゃないか。しかも、ここを歩くと地味だけれどとても意味のある展示物が見られるから。

馬鹿者)なんですか? 意味のある展示って?

魯迅『野草』

利口者)通路の中央付近にあるじゃないか、凄いものが。向かって左側が魯迅(1881~1936年)の詩集『野草』の原本、右側がケーテ・コルヴィッツ(1867~1945年)の木版画「カール・リープクネヒト追悼」だよ。横浜美術館の中で最も暗くて、ひっそりした場所に安置された書籍と木版画、まるで100年後、1000年後にまでも残し続けたい、伝え続けたい「人類の至宝」扱いじゃないか。どこか、タイムカプセルの内部にも思える空間に書籍と木版画を配置した意味に来場者は大いに思いを馳せなければならないだろうな。美術館の一番真ん中で、少し奥まった「ニッチ」(壁龕=へきがん)のような空間に書籍と木版画をあたかも聖像のように安置していて、何だか崇高な気分になるな。

馬鹿者)それにしても、なぜ魯迅とコルヴィッツなんですか?

利口者)よくぞ聞いてくださった! そもそも、今回のトリエンナーレのタイトルは知っているよね?

馬鹿者)えぇ、「野草:いま、ここで生きてる」でしたっけ?

利口者)このタイトルの野草は、魯迅の『野草』からとっているんだよ。北京を拠点として国際的に活躍するアーティストとキュレーターのチーム、リウ・ディン(劉鼎)とキャロル・インホワ・ルー(慮迎華)を今展ではアーティスティック・ディレクター(AD)に迎えたわけなんだけど、彼らが展示の最重要なコンセプトに据えたのが『野草』だった。展示の公式資料からADの感動的な言葉を引用しよう。少し長いけど、素晴らしい内容だから、しっかり読んでほしい。「彼(魯迅)は希望ではなく、絶望を自分の人生と仕事、そして思考の出発点とすることとし、希望も野心もない、ただの闇、闇のみの世界を完全に受け入れるようになったのです。同時に、この完全なる暗闇のなかから出口を見つけることにも専念するようになります」。

馬鹿者)このADさんの言葉って、横浜美術館の展示そのままじゃないですか。

利口者)ADはこうも言っている。「『野草』は荒野で目立たず、孤独で、頼るものが何もない、もろくて無防備な存在を思い起こさせるだけではありません。無秩序で抑えがたい、反抗的で自己中心的、いつでもひとりで闘う覚悟のある生命力をも象徴しています」。野草は一見、弱そうだけど、実はアナーキーな破壊力を秘めていると主張しているのだろう。

馬鹿者)私も野草みたいなもんだから、この展示を見ていると勇気がもらえますよ。

利口者)魯迅は中国・上海でコルヴィッツの木版画を紹介し、それが後の新興木版画運動の素地となった。また、魯迅は厨川白村の著作『苦悶の象徴』を読み、非常に共鳴し、中国語に翻訳もしている。つまり、今回の横浜トリエンナーレは、魯迅を中心にした文化の伝播・交流の歴史を下敷きにしているということだね。

馬鹿者)まぁ、このギャラリー7の中も直視したくない世界の諸問題がてんこ盛りですね。「密林の火」と同様に。でも、魯迅の生き方、考え方を踏まえて、作品を鑑賞すると、ポジティブに捉えることもできますね。

利口者)さぁ、次の部屋、ギャラリー6に向かおうか。

<第4章>

馬鹿者)飯野農夫也、鈴木賢二、滝平二郎やリー・ピンファン(李平凡)らの版画作品が並ぶ「平凡の非凡な活動」という展示が目を引きますね。

利口者)魯迅、コルヴィッツの思想・作品は日本に流れ込み、芸術家たちに大きな影響を与えた。飯野、鈴木、滝平といった、まさにその流れの中心にいた人物の作品を紹介することで、「ヨーロッパー中国ー日本」のつながりを実感できるというわけだ。この項もやはり「温故知新」の一環と捉えられるだろうね。

馬鹿者)ギャラリー6の隣が…。

利口者)ギャラリー5。富山妙子の作品を一堂に集めた「わたしの解放」と題した章だね。富山の作品を、こんなにたくさん見られる機会は少ないから、とてもよかった。あたかも富山のミニ回顧展を見ているようだった。富山の展示室が美術館の向かって左端だったけど、右端に位置するギャラリー2で同じく「わたしの解放」と題した章として展示された一人がウィーンで活躍する日本人作家・丹羽良徳だった。丹羽と言えば、資本主義が席巻する現代社会で、「1+マイナス1=0」の「0」の部分を自らの身体を使って証明してみせる作風でいつ見てもおもしろいんだよね。現実の社会には「0」なんて見えないのにそれを可視化する手際がいつも鮮やかで感心する。

馬鹿者)でも先生、富山にしても丹羽にしても、何が「わたしの解放」なのか、今一つ分かりにくかったですよ。

利口者)まぁ、それは君の言う通りかもしれないな。章立てのコンセプトに富山や丹羽の作品を無理やり押し込んでしまったような窮屈な感じは正直したよね。また、「わたしの解放」だけでなく、キュレーションをしている側の思惑やら誤読(?)やらによって、作品の一部分だけを切り取られて、ある章にカテゴライズされてしまっているケースが所々に見受けられた。面白く、理想的な章立てのストーリーに作家が従属しているような印象が漂ったが、これはあまり「野草的」なやり方ではなかったかもしれない。

馬鹿者)3階の展示は見終わったから、ようやく2階の展示ですね、先生。どうして、先ほどは「2階は後回しでいい」と言っていたんですか?

セレン・オーゴードの作品

利口者)3階で地獄巡りをした後で、休息したり、3階の展示を思い返したり、咀嚼したりするのが2階の役割だと思うからだよ。前出のヨアル・ナンゴやデンマークのセレン・オーゴード(1980~)が木材や日常生活で用いる物品を使って構築した仮設の立体物は、見る者の心を癒してくれる効果が抜群だ。また、写真家・志賀理江子(1980~)は、「緊急図書館」と題する小さなライブラリーを開室している。世界中を取り巻く問題や危機に賢く対処するためのヒントを与えてくれそうな書籍や雑誌類が置かれており、自由に読書できる空間になっている。ここで休息がてら本を読んでから、また3階に戻って美術作品を見ると理解が深まるかもしれない。ただ、ウクライナの危険な戦場を背景としたアーティスト集団「オープングループ」のかなりやばい内容の映像作品もしれっと置かれているので油断はならないけど。

<第5章>

馬鹿者)これで、だいたい、美術館内の展示は全部見たわけだけど、欧米の著名作家、人気作家がほとんどいなかったなー。

利口者)そうだね、欧米列強諸国というよりはアジア圏、北欧などの作家が目立ったね。

馬鹿者)インスタに画像をあげて人から「いいね」をつけてもらうような、いわゆるSNS映えを意識した美術展が横行するなかで、今展は「映え」を意識した箇所は、ほぼなかったですね。あと、新しい形の優生思想につながりかねない「科学万歳!アート」や過剰なお色気を発散させ、生殖器をチラ見せするような「セクシーアート」もなかった。この展示になかったものを分析すると、よきにつけ悪しきにつけ、8回目を迎えた「ヨコトリ」の特徴がつかめそうですね。

利口者)観客動員を意識した「安易なSNS映え」を拒否する強烈な意思を感じると同時に、深い思考を促す読書の意義をしつこく示していた点が興味深い。そもそも、今回、私が示した鑑賞法は、白村の文章を「導きの糸」にしていることからも分かるように、鑑賞に際して過剰に文字情報を重視している嫌いはあるんだけど。まぁ、展示企画者側が、やはりクソがつくくらいの真面目な人たちで「文字による読解」を会場内のあちこちで推奨していたね。例えば、2階の…。

日々を生きるための手引集

馬鹿者)あー、2階のど真ん中、一番目立つ場所に設置された「日々を生きるための手引集(Directory of Life)」のことですね。

利口者)生きるヒントになるテキスト(Sources)を提供しようという趣旨なんだけど、その顔触れがすごかった。君は全部、タイトルをメモしていたよね?

馬鹿者)はい、読んでも難しくて理解できなさそうだったんですけど、一応チェックしました。ジュディス・バトラー『アセンブリ:行為遂行性・複数性・政治』、デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ現象について』、マッケンジー・ワーク『資本は死んだ』、中国の匿名の著者による『寝そべり主義宣言』などなど10種類のテキストが電子端末で読めるようになっていました。魯迅に厨川白村にバトラー。正直普通の来場者からすると縁遠いテキストの読解が求められており、ちょっとハードルが高かったですね。

利口者)まぁ、僕にしたら、普通に読んでいる本ばかりだけど、理解しているか、と尋ねられたら、ちょっと言葉が詰まるかもしれないね。通常なら会場の片隅に置くか、サテライト会場の一角に置くような「手引集」コーナーをあえて会場内で一番日の光を浴びて、目立つ場所に置いた主催者側の意気やまたよし、と評価することもできるし、あるいは、普通の観客を遠ざける、やや「ハイブラウ」な印象を漂わせてしまったかもしれない。

馬鹿者)普段、私は本なんか読まない(読めない)ので、展示の全体を通じて、「本を読め、もっとたくさん読め。そして深く読み、考えろ」と脅迫されているような気がしましたよ。

利口者)まぁ、美術展でこれだけテキストを読むことの重要性を訴えてくる内容と言うのも珍しい。夏目漱石『それから』に出てくる「高等遊民」の亡霊が見えたような気もした。現代の非正規雇用、低賃金で日々を暮らす人々が、この展示を見たら、「随分と高尚でかっこいいことを訴えているけど、俺たちの生活とは関係ないね」とそっぽを向かれてしまう危険性も感じた。無残で残酷な資本主義に苦しんでいる人たちにこそ、この展示は見てほしいはずなのに、まさにそのような人たちから嫌われる恐れがあるということだね。

横浜美術館の側壁に巨大な壁画を描くSIDE CORE

馬鹿者)すごく賢い人、つまり先生みたいな人相手の展示にも見えてしまうのは残念。なんか、真面目すぎるし、ひたむきすぎる…そこが美点であるのは間違いないけど、もっともっと遊び心が欲しかった。「学校で一番成績の良い優等生が精魂込めて作った模範解答」みたいにも見えてしまったな。横浜美術館の向かって左横の側面に巨大な壁画を描く「SIDE CORE」の仕事が館内の優等生ぶりを吹き飛ばすくらいの開放性を発揮していたのは救いだった。また、サテライト会場の一つである旧第一銀行横浜支店は、松本哉や山下陽光など、良い意味でどこか間が抜けていて、ヤンチャでパンクな連中の快作がそろっていたけど、例えば、このなかの松本を横浜美術館に持っていったら、もっと優等生臭が消えて、雰囲気が緩くなったかもしれない。あと、今回、先生の指示に従って、割と好き勝手に横浜美術館内の中を動き回ったけど、それは、館側が推奨するルートが見にくかった、という理由があったような…。

利口者)やっと、気が付いてくれたかい。そう、美術館で入場の際に手渡されるフロアマップに記された動線の通りに見ると、かえって展示が分かりにくくなる気がするんだ。今回は、私が一番、展示を理解しやすいと思う動線を紹介してみた次第だよ。読者の皆さんも、展示を巡る中で自分が一番見やすい、理解しやすい動線を創造してもらえたらうれしいな。

<コンクルージョン>

馬鹿者)「野草」の割には、カチカチに硬くて真面目な展示だったけど、すごく面白かったのは確か。自分がこれまで知らなかった地獄、つまり、世界中の諸問題を多くの作品を通して知ることができて、何だか視野が広くなった気がします。

利口者)まぁ、横浜美術館だけ鑑賞しても、企画者側の意図が伝わりにくいのは事実だ。旧第一銀行横浜支店やBankART KAIKOやクイーズスクエア横浜(2階)、元町・中華街駅連絡通路といった諸会場を回ることによって、より理解が深まり、ヨコトリ全体を楽しむことができそうだな。会期も6月9日までとまだまだ長く開催している。私は2001年の第1回のヨコトリから今年の第8回まで、すべて鑑賞してきたけど、どの年のヨコトリでも2回、3回と繰り返し、鑑賞してきた。すべての会場に何度でも入場できるフリーパスを購入して、しつこく横浜に通うことをお薦めしたい。会場内の動線を少し批判したが、もっと重要なのは横浜という大きな街の中で自身がどう動き、意識を活性化することができるかだろう。お客さんが多く訪れ、街中をかき回せば、横浜の歴史や文化も活性化する。ヨコトリ、観客、横浜の街並みが互いに刺激を受けつつ、困難な問題に立ち向かう契機としていきたいね。(2024年3月21日22時13分脱稿)

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。