弱男美術論 市原尚士評

「光」への敏感さを遺憾なく発揮し、なんでもないような都市の光景をリアルに描く森本啓太(1990年生まれ)が新たな挑戦をしています。KOTARO NUKAGA(東京・天王洲)で開催中の個展「what we told ourselves」で、絵画ではなくインスタレーション作品を発表しているのです。

本稿では、このインスタレーションに焦点を絞って、筆者の考えを記します。暗幕をくぐって会場に入ると、飲料の自動販売機が複数、立ち並んでいます。高さ180センチを超す自販機、左側からは青系統、右側からが赤系統の光線が内部から放射されています。

2台の自販機の前に立ちすくす男性

飲み物の取り出し口の中を見ると、「がらがら、がしゃん」と落ちてきたばかりの飲料容器が数本、溜まっています。面白いのは、ディスプレイ内に並ぶ商品見本も取り出し口内部の飲料もすべて白色という点です。白色、すなわち匿名性です。飲料の銘柄も製造会社もよく分からない、飲料の“骨格”のようなモノだけが白く提示されているわけです。

そのくせ、自販機の中央下部には森本の描いた小ぶりの絵画がはめ込まれています。夜景の中に立つ人物です。この絵画を見ると、胸が締め付けられるような気がします。

Functional Mythologies(Wunderkammer Series)

たとえば、大学生のころ、同じゼミに所属し、市原が片思いしている方とばったり東京・下北沢の劇場の前で出会ってしまったときのことを思い出します。

「なんだ、Aさんもこの演劇、見ていたんだ」「うん、市原くんも劇団●、好きなんだね」……言葉が何回か行ったり来たりしている時、筆者の頭の中には「ねぇ、この後、居酒屋にでもいかない」という一言がずーっと浮かんでいます。でも、どうしても、その一言は外に出てこない。そして、「じゃあね」と別れる。

Aさんは一瞬、こちらを振り返って、何かを言いたげな感じだったのに何も言わずに街の向こう側に消えていく。後から振り返れば、Aさんとはもう30年以上も会っていないわけです。あの人が生きているのか、死んでいるのかも今となっては分かりません。

誰かを好きになることは、こんなにも確実なのに、それを相手に伝えるのが絶望的なまでに不可能なのはどうしてなんだろう。単純なことじゃないか。ただ、相手に「好きです」と言うだけのことじゃないか。それが、とても難しい。いつも自分に言い訳ばかりを用意する。「いいさ、また下北沢かどこかできっと会えるさ」と自分を慰めながら、「今度こそ、あの人に会ったら、必ず告白しよう」と決意するのです。

本展の英語のタイトルは、「私たちが自分に語り聞かせたこと」と訳せます。まさに、下北沢の劇場の前で、言いたくても言えなかった「好きです」のたった4文字を補うかのように、慰めるかのように、己に言い聞かせた言い訳だらけの述懐のようです。

真っ暗な空間に向かって溶けていくようなAさんの姿を呆然と立ち尽くして眺める自分の心を代弁するかのように、真っ白な若い男性像が自販機の前に立ち尽くしています。少し、うなだれています。絵の中にはAさん。どんどん、自分から離れていこうとするAさん。今すぐ捕まえなきゃいけないAさん。どこか遠いところに行ってしまうAさん……。でも、何もできなかった自分。

自販機の取り出し口に真っ白に漂泊された飲料が落ちてくる「ガラガラガシャン」という音を聞いて2026年の自分が我に返る。「ここは下北沢じゃあないんだ」「今は1990年じゃあないんだ」「Aさんと最後に会ってから、もう30年以上もたっているんだ」「偉い作家になると息巻いていたはずの自分は作家になんかなっていなかったんだ」「つまらない大人になんかなりたくない、と叫びながら路上で酒を噴いていたのに、『The つまらない人間』に成り下がっていたんだ」。様々な悔悟の言葉が、わーっと湧いてきます。もう、恥ずかしくて死にそうです。

森本のインスタレーションを見て、最初に想起するのは、アメリカの彫刻家ジョージ・シーガル(1924~2000年)の真っ白で寂し気な等身大の人物像でしょう。ただ、シーガルの作品の前に立ったときの率直な印象は、人間存在の根本的な孤独感であり、同時に動きを凍結された人間の冷たさのような印象になります。

森本の作品も人間存在の孤独は描く。しかし、彼は、その孤独感の元となっている理由も作品内に示唆しています。今展の作品においては、「好きだったのに、好きと言えなかった瞬間を捉えた過去の情景」が一枚の絵として、自販機内に組み込まれているのです。

このような森本の作品としての方向性については、好きな人と嫌いな人とに二分されてしまうような気もします。嫌いな人は「感傷的すぎるよ」「説明過多だ」「甘口すぎる」と言うでしょう。好きな人は「率直に自分の考えを告白しており潔い」「文学的な情景を、しかも遠く時間を遡った(自分にとって)特別な情景を盛り込む、そのエモーショナルな物語構造が面白い」と誉めるでしょう。

筆者の考えは、「好きでもあり、嫌いでもある」になります。ただ、見る者の心を思い切り鷲づかみして、過去の情景や片思いの思い出を想起させる力は非常に強いと思います。まぁ、彼の作品は、単なる“触媒”に過ぎないのかもしれませんが…。

見る人一人びとりの過去の思い出をよみがえらせることが作品の究極の目的であって、作品そのものは真っ白な触媒に過ぎないのかもしれないのです。ただ、その作品内に一枚だけ描かれた森本自身のものと思われる、過去の重要な情景が、さりげなくはめこまれることによって、見る人の感情(≒感傷)を巧みに引きずり出しているのです。

そう、今、筆者は、「感傷」という言葉を使いました。森本の作品には、やや「感傷的」な印象があるのです。「甘さ」「弱々しさ」の香りがします。昔だったら、「男のくせに、こんなめそめそした作品を作るな」とマチズモに侵された芸大の教官に乱暴な調子で全否定されそうなくらいの印象です。

今では差別語的な言い回し「女々しい」を言い換えるならば、「意気地がない」「軟弱」「未練がましい」「優柔不断」「頼りない」「潔くない」と言った言葉が頭に浮かびます。森本のインスタレーション、さらに言えば、大型の絵画作品にも、この女々しいの言い換え表現のすべてが当てはまるような気がするのです。

つまり、森本は、男性中心主義においては否定されたり、バカにされたりしている感情や生き方を素直に、そのまま提示しているのです。つまり、意気地のない男をひとまずは肯定しているのです。「弱くあることの強さ」を提示しているのです。2020年代の新たなジェンダー表現を切り開いているのかもしれません。

ただし、「男が弱くて何が悪い」と言い募るのであれば、その先の男の、女の、男でも女でもない存在の、新たな生き方の処方箋を提示してくれないと表現としては、まだ弱い気もします。森本作品の今後の課題は、感傷的な甘さを吐露するだけではなく、ジェンダーレスな生き方を謳歌するために求められる、新たなユートピアを提示することなのだと筆者は確信しました。

東京の夜景をバックに立ち尽くすフード姿の男性

インスタレーションには、ほかにもフードをかぶった高さ50センチの男性と思われる真っ白な像が鑑賞者に向かって立ち尽くす作品もありました(いえ、女性の像かもしれません)。作品の後ろには、東京と思われる都市の夜景の映像が流れています。この映像+白い像も非常にエモーショナルです。「好きです」と言えずに別れた後、自分のダメさ加減と恋心を持て余しながら、夜の街を徘徊する自分のようだからです。

よく、徘徊していましたね、筆者は。家にも帰りたくない。友達の家も行きたくない。誰とも話したくない。行き先がどこにもない。希望もない。お金もない。やりたいことは何もない。もちろん、恋人もいない。もう、「ないない尽くし」の自分ができるたった一つのことが深夜の東京を徘徊することだったのです。

筆者の場合は、10数キロ、未明の東京を歩き回りました。地図も見ないで、でたらめに歩き続けるのです。そして、始発の電車が出るころ、偶然、出くわした駅から電車に乗って、自宅に帰っていました。未明の公園のブランコに乗りながら、深夜の街を徘徊する自分の姿に完全に酔っていました。そんな自分だけに、森本の感傷が痛いほど分かります。

でもさ、森本君。自分でも分かっていると思うけど、あなたも今年で36歳。かなり微妙な年ごろだよね。若者というには「おっさん」だし、「おっさん」と言うには、まだ若すぎるし。でも、もうすぐ、あなたも立派なおっさんになります。その時も、今と同じ作品を作り続ける気かい?

もはや、アドレッセンス(Adolescence)を気取れる年でもないわけじゃん。おっさんと若造の両方から思い切り引っ張られ、「キリストの磔刑」のようになってしまった、にっちもさっちもいかない、あなたの自己矛盾が透けて見えるよ、筆者には。どうする? 前に進む? 後ろに進む? 右に行く? 左に行く? どこにも行かずにひたすら眠る?

男とも女ともつかない像が、これから始まる「都市への徘徊」の時間を予感させる

人はよく誰かを励ますために「あなたの前には無限の可能性が開けている。だから、頑張れ」と言います。しかし、頭が非常に良く、感性も鋭い森本は、多分、分かっている。「自分の前には無限の不可能性が口を開けて待っている。俺は一体全体、どうすりゃいいんだ?」と。

アイデンティティ・クライシスを乗り越えるための唯一の処方箋を森本に伝えたいです。

がむしゃらになって描け! 良い作品も悪い作品もたくさん描け! 描いて、描いて、描きまくれ!

「魂の咆哮」を甘口ではなく、辛口でも描けないか?

If you can dream it,you can do it.(2026年2月7日15時49分脱稿)

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。