絵画と文学から読解する近代西洋社会成立の精神史「書評 高階秀爾著『ヨーロッパ近代芸術論――「知性の美学」から「感性の詩学」へ』筑摩書房・2023年」秋丸知貴評

高階秀爾著『ヨーロッパ近代芸術論――「知性の美学」から「感性の詩学」へ』
筑摩書房・2023年

 

本書は、東京大学名誉教授で国立西洋美術館館長や日本芸術院院長等を歴任した西洋美術史の泰斗、高階秀爾氏がこれまでに発表した近代西洋美術に関する論考をまとめた論文集である。それも、既刊の複数の論文集からさらに抜粋して再編集されている点で、高階氏の近代西洋美術研究の一つの集大成といえる。

その核となるテーマは、書下ろしの序文の冒頭が示すように「『近代』とは何か」である。「『近代』の登場により、十八世紀から十九世紀にかけて、西欧世界の社会のあり方とそれを理解するパラダイム設定に、もはや後戻りのきかない決定的な変化がおとずれたことは明らかであるように思われる」(9-10頁)。ここでは、副題の「『知性の美学』から『感性の詩学』へ」を手掛かりにその意味するところを探ろう。

まず、本書を読み解く補助線として、高階氏が『日本近代美術史論』で提出した「黒田清輝問題」がある。これは、印象派の輸入者と見なされていた黒田が日本に輸入したかったのは、実は印象派よりもむしろ西洋絵画の伝統、つまり「構想画」と「裸体画」であったという指摘である。

西洋絵画では、画題に明確な序列がある。宗教や歴史を主題とする物語画(ヒストリー・ペインティング)が上位にあり、風俗画、風景画、静物画の順に下位になる。この背景には、人は神の似姿として理性を与えられた自然管理者であるという旧約聖書の世界観がある。つまり、野性へと、無生物へと下降していくほど価値が低いという考え方である。高階氏の慧眼は、神(≒人)の理性を体現する物語を、画家もまた理性を駆使して知的に群像で構成した最上位の絵画を、「構想画」と呼んだことにある。

これに関連して、西洋絵画では神(≒人)を裸で描く「裸体画(ヌード)」を尊ぶ伝統がある。これもまた同様に、人は神の似姿として創造されており、聖なるものとして描かれた裸体は卑猥なものではないという約束事による。

西洋では、近代において、つまり「十八世紀から十九世紀にかけて」、この構想画や裸体画の伝統が崩れていく。なぜなら、ルネサンスから啓蒙主義を経て、人には神から理性が与えられているという旧約聖書の教えが理性による現世問題の解決という合理主義的世俗化を生じさせたからである。これが、市民革命を実現すると共に、分析と実験による自然支配としての科学技術も成立させ、逆に実証主義によるキリスト教の凋落を招く。この科学革命による科学技術の発達は、蒸気機関の発明を契機に産業革命に繋がっていく。

なおこの時、術(テクネー/アルス)の内、数理的な近代科学に結び付くものが技術(テクニック)として抜き出された時に、残ったものが芸術(アート)と呼ばれることになる。つまり、芸術は科学技術(テクノロジー)の補完概念なのである。やがて芸術の内、触覚性よりも理性的な視覚性の度合いの高いものが美術(ファイン・アート)と呼称されることになるだろう。

科学技術の発展は物質的繁栄をもたらす一方で、ハンス・ゼーデルマイヤーのいう「(キリスト教的)中心(理念)の喪失」を招来する。これにより、キリスト教的理性に統合されていた価値体系は解体し、社会は瓦解し始める。この精神的危機に対し、キリスト教を刷新した「新しい神話」を通じて再び人々の心を結合しようとしたのがロマン主義である。そこでは、中世趣味、異国趣味、異常趣味が噴出する。結局、理性の光は狂気の闇も召還したのである。

価値体系が解体すると、文化の諸領域(ジャンル)が分化し、各媒体(メディウム)も純化し始める。ここにおいて、絵画における物語性=文学性の称揚は疎まれ、「絵は詩の如く」という伝統的美学は否定され、レッシングの『ラオコーン』のように造形芸術と文学芸術は峻別され始める。その一方で、単なる名無しの脇役であったサロメが魔性の「宿命の女(ファム・ファタル)」に変貌したように、従来のキリスト教主題は再解釈され、絵画と文学の境界を超えて瀰漫していくという流行も生じる。

社会においては、画家とパトロンが乖離し、両者の仲介として美術評論家が登場し、サロンの代わりに個展や団体展が隆盛する。主題上の様々な制約から解放された芸術家は自由を獲得するが、新奇性と大衆受けに急き立てられると共に、社会に報われない「呪われた芸術家」の逸話も普及する。絵画では、理知的な一点透視遠近法が緩むと共に、理性による文学性よりも感性による音楽性が好まれ、客観的再現ではなく主観的表現が推進される。この傾向は、絵画ではドラクロワから始まり、マネ、モネ、セザンヌを経て、純粋抽象絵画へと到達する。同じ現象は詩でも生じていて、その筆頭に挙げられるのがマラルメである。これこそ正に、「『知性の美学』から『感性の詩学』へ」と形容できるだろう。

高階氏の著作は一貫して、単なる美術史に留まらず、比較文学や比較文化、さらに広義の比較精神史へと開かれている。本書にも、常に日本人にとって西洋とは何かという通奏低音が流れている。ぜひ、本書と同様の観点から「日本とは何か」という問題意識で高階氏の諸論考を厳選再編集する『日本近代芸術論』の出版を待ちたい。そして、筆者は何よりもまず、日本人の知性と美意識の最高峰として『高階秀爾全集』の刊行を心待ちにするものである。

 

※『週刊読書人』2023年12月1日号より転載。

著者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美学者・美術史家・キュレーター。1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。2013年に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日〜2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto〔虚白院 内〕、会期:2015年3月7日〜2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院〔建仁寺塔頭〕、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日~2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:掌美術館、会期:2022年3月3日~2022年5月6日)等。2023年に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)出版。

2010年4月-2012年3月: 京都大学こころの未来研究センター連携研究員
2011年4月-2013年3月: 京都大学地域研究統合情報センター共同研究員
2011年4月-2016年3月: 京都大学こころの未来研究センター共同研究員
2016年4月-: 滋賀医科大学非常勤講師
2017年4月-2024年3月: 上智大学グリーフケア研究所非常勤講師
2020年4月-2023年3月: 上智大学グリーフケア研究所特別研究員
2021年4月-2024年3月: 京都ノートルダム女子大学非常勤講師
2022年4月-: 京都芸術大学非常勤講師

【投稿予定】

■ 秋丸知貴『近代とは何か?――抽象絵画の思想史的研究』
序論 「象徴形式」の美学
第1章 「自然」概念の変遷
第2章 「象徴形式」としての一点透視遠近法
第3章 「芸術」概念の変遷
第4章 抽象絵画における形式主義と神秘主義
第5章 自然的環境から近代技術的環境へ
第6章 抽象絵画における機械主義
第7章 スーパーフラットとヤオヨロイズム

■ 秋丸知貴『美とアウラ――ヴァルター・ベンヤミンの美学』
第1章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念について
第2章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラの凋落」概念について
第3章 ヴァルター・ベンヤミンの「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の問題について
第4章 ヴァルター・ベンヤミンの芸術美学――「自然との関係における美」と「歴史との関係における美」
第5章 ヴァルター・ベンヤミンの複製美学――「複製技術時代の芸術作品」再考

■ 秋丸知貴『近代絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに』
序論 近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究
第1章 近代絵画と近代技術
第2章 印象派と大都市群集
第3章 セザンヌと蒸気鉄道
第4章 フォーヴィズムと自動車
第5章 「象徴形式」としてのキュビズム
第6章 近代絵画と飛行機
第7章 近代絵画とガラス建築(1)――印象派を中心に
第8章 近代絵画とガラス建築(2)――キュビズムを中心に
第9章 近代絵画と近代照明(1)――フォーヴィズムを中心に
第10章 近代絵画と近代照明(2)――抽象絵画を中心に
第11章 近代絵画と写真(1)――象徴派を中心に
第12章 近代絵画と写真(2)――エドゥアール・マネ、印象派を中心に
第13章 近代絵画と写真(3)――後印象派、新印象派を中心に
第14章 近代絵画と写真(4)――フォーヴィズム、キュビズムを中心に
第15章 抽象絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに

■ 秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道 補遺』
第1章 ポール・セザンヌの生涯と作品――19世紀後半のフランス画壇の歩みを背景に
第2章 ポール・セザンヌの中心点(1)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第3章 ポール・セザンヌの中心点(2)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第4章 ポール・セザンヌと写真――近代絵画における写真の影響の一側面

■ Tomoki Akimaru Cézanne and the Railway
Cézanne and the Railway (1): A Transformation of Visual Perception in the 19th Century
Cézanne and the Railway (2): The Earliest Railway Painting Among the French Impressionists
Cézanne and the Railway (3): His Railway Subjects in Aix-en-Provence

■ 秋丸知貴『岸田劉生と東京――近代日本絵画におけるリアリズムの凋落』
序論 日本人と写実表現
第1章 岸田吟香と近代日本洋画――洋画家岸田劉生の誕生
第2章 岸田劉生の写実回帰 ――大正期の細密描写
第3章 岸田劉生の東洋回帰――反西洋的近代化
第4章 日本における近代化の精神構造
第5章 岸田劉生と東京

■ 秋丸知貴『〈もの派〉の根源――現代日本美術における伝統的感受性』
第1章 関根伸夫《位相-大地》論――観念性から実在性へ
第2章 現代日本美術における自然観――関根伸夫の《位相-大地》(1968年)から《空相-黒》(1978年)への展開を中心に
第3章 Qui sommes-nous? ――小清水漸の1966年から1970年の芸術活動の考察
第4章 現代日本美術における土着性――小清水漸の《垂線》(1969年)から《表面から表面へ-モニュメンタリティー》(1974年)への展開を中心に
第5章 現代日本彫刻における土着性――小清水漸の《a tetrahedron-鋳鉄》(1974年)から「作業台」シリーズへの展開を中心に

■ 秋丸知貴『藤井湧泉論――知られざる現代京都の超絶水墨画家』
第1章 藤井湧泉(黄稚)――中国と日本の美的昇華
第2章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(前編)
第3章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(中編)
第4章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(後編)
第5章 藤井湧泉と京都の禅宗寺院――一休寺・相国寺・金閣寺・林光院・高台寺・圓徳院
第6章 藤井湧泉の《妖女赤夜行進図》――京都・高台寺で咲き誇る新時代の百鬼夜行図
第7章 藤井湧泉の《雲龍嘯虎襖絵》――兵庫・大蔵院に鳴り響く新時代の龍虎図(前編)
第8章 藤井湧泉の《雲龍嘯虎襖絵》――兵庫・大蔵院に鳴り響く新時代の龍虎図(後編)
第9章 藤井湧泉展――龍花春早・猫虎懶眠
第10章 藤井湧泉展――水墨雲龍・極彩猫虎
第11章 藤井湧泉展――龍虎花卉多吉祥
第12章 藤井湧泉展――ネコトラとアンパラレル・ワールド

■ 秋丸知貴『比較文化と比較芸術』
序論 比較の重要性
第1章 西洋と日本における自然観の比較
第2章 西洋と日本における宗教観の比較
第3章 西洋と日本における人間観の比較
第4章 西洋と日本における動物観の比較
第5章 西洋と日本における絵画観(画題)の比較
第6章 西洋と日本における絵画観(造形)の比較
第7章 西洋と日本における彫刻観の比較
第8章 西洋と日本における建築観の比較
第9章 西洋と日本における庭園観の比較
第10章 西洋と日本における料理観の比較
第11章 西洋と日本における文学観の比較
第12章 西洋と日本における演劇観の比較
第13章 西洋と日本における恋愛観の比較
第14章 西洋と日本における死生観の比較

■ 秋丸知貴『ケアとしての芸術』
第1章 グリーフケアとしての和歌――「辞世」を巡る考察を中心に
第2章 グリーフケアとしての芸道――オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』を手掛かりに
第3章 絵画制作におけるケアの基本構造――形式・内容・素材の観点から
第4章 絵画鑑賞におけるケアの基本構造――代弁と共感の観点から
第5章 フィンセント・ファン・ゴッホ論
第6章 エドヴァルト・ムンク論
第7章 草間彌生論
第8章 アウトサイダー・アート論

■ 秋丸知貴『芸術創造の死生学』
第1章 アンリ・エランベルジェの「創造の病い」概念について
第2章 ジークムント・フロイトの「昇華」概念について
第3章 カール・グスタフ・ユングの「個性化」概念について
第4章 エーリッヒ・ノイマンの「中心向性」概念について
第5章 エイブラハム・マズローの「至高体験」概念について
第6章 ミハイ・チクセントミハイの「フロー」概念について

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