入口風景(撮影:加藤健)
「祈りのかたち――小川佳夫・平野泰子・前田信明・加藤舞」
会期:2024年11月25日(月)-12月8日(日)
開廊時間:12:00-19:00(最終日は17:00まで)
休廊日:会期中無休
会場:古美術長野
(東京都港区赤坂2-23-1 アークヒルズフロントタワー1F)
□ 出品作家: 小川佳夫・平野泰子・前田信明・加藤舞
□ 企画: MARUEIDO JAPAN
□ キュレーター: 大島徹也(多摩美術大学教授/多摩美術大学美術館館長)
会場風景(撮影:加藤健)
2024年11月25日から12月8日にかけて、MARUEIDO JAPANの企画により、東京赤坂の古美術長野で、四人展「祈りのかたち――小川佳夫・平野泰子・前田信明・加藤舞」が開催されている。
キュレーションを担当した大島徹也によると、本展「祈りのかたち」は、戦後アメリカの抽象画家であるリチャード・プーセット=ダートの「祈りは創造的な行為だろうか?」(1950年)という問いと、バーネット・ニューマンの「最初の人間は芸術家だった」(1947年)というテーゼに触発されたものであるという。つまり、創造行為が動物的本能とは次元の異なる人間固有の「祈り」の表象になりうるかという問題意識の下に、現代日本で活躍する画家の前田信明(1949-)、小川佳夫(1962-)、平野泰子(1985-)と、彫刻家の加藤舞(1992-)という幅広い世代の仕事を取り上げている。
大島が企画趣旨で語るように、「祈りのかたち」というテーマの展覧会は数多い。その中でも本展の特徴は、戦後アメリカ美術の文脈をきちんと踏まえた上で、現代日本美術のアクチュアルな一側面を提示するところにある。
そもそも、西洋の「ファイン・アート」は宗教性を脱色したところに成立した。その道標は、ヴァルター・ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」(1936‐37年)で指摘する、ルネサンス期における「礼拝価値」から「展示価値」への移行である。それは、ニューマンの「崇高はいま」(1948年)に倣えば、超感覚的価値としての「崇高」から感覚的価値としての「美」への移行と言っても良い。
これに並行して、ハンス・ゼーデルマイヤーは『中心の喪失』(1948年)と『近代芸術の革命』(1955年)で、近代絵画は宗教的統合理念の凋落による各媒体の自律的純粋化の過程で抽象化したと説明した。これを受けて、クレメント・グリーンバーグは「近代主義の絵画」(1960年)で、絵画は媒体固有の特性である「平面性」の純粋還元の過程で抽象化したと主張した。このグリーンバーグの言説は、絵画の内容面ではなく形式面だけに注目するもので「フォーマリズム」の立場と言われる。
これに対し、既に抽象絵画の黎明期に、ヴィルヘルム・ヴォリンガーは『抽象と感情移入』(1908年)で、抽象絵画の成立要因として形而上的感受性を指摘していた。この延長上で、ロバート・ローゼンブラムは『近代絵画と北方ロマン主義の伝統』(1975年)で、抽象絵画の成立には絵画の内容面も重要であるとし、北方ロマン主義を代表とする西洋の汎神論的な神秘主義的伝統において、超感覚的感受性が目に見える具象的な物質世界の背後にある目に見えない抽象的な精神世界を追求することで抽象絵画がもたらされたと解説した。そして、その絵画的伝統はアメリカ抽象表現主義の中にも伏流しており、その一つの到達点がマーク・ロスコ(1903‐1970)の大画面の抽象絵画に囲まれた瞑想的展示空間「ロスコ・ルーム」であるとした。つまり、その抽象表現は「祈りのかたち」なのである。
この文脈を踏まえて、本展は現代日本美術においてそうした「祈りのかたち」の現われを捉えようとする試みだといえる。現代においても日本は古来の汎神論的心性を色濃く残しており、西洋の北方ロマン主義の伝統と呼応するような表現が見られるかもしれない。そこには、戦後アメリカ美術とはどのような共通性と差異性が見られるのか、またもし共通性が見られるならばそこにはどのように人類的な普遍性が窺えるのか、それが本展の見どころの一つと言えよう。
小川佳夫《Seizing the Light》 2024年
小川佳夫は、画布に暗色の油絵具を何層も塗った背景に、明色の一筆を揮う作風に特徴がある。筆者は、ここに和泉式部の「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る」に通じる感受性を見る。つまり、この和歌は、恋煩いのあまりに魂が肉体から離れ彷徨うように感じることを蛍に託して詠んだものである。古来、日本はそうした彼岸と此岸は地続きで魂と肉体は分離しやすいとする精神風土であり、小川の絵画にはその一つの現代的反映が感受される。
平野泰子《Anticipation》 2024年
平野泰子は、画布の下地に施した石膏を研磨し、そこに何色もの油絵具を薄く重ね、暗闇にどこからか仄明るい光が差し込んでいるような画面を得意とする。そこではいくつかの小さな線や形体が描かれ、それには影が付き従っているような表現がしばしば見られる。それにより、それらはまるで空中で静止したり浮遊したりしているように感じられ、それ自体が何か超常の感覚を覚えさせる。ここでも、やはり何か無限空間における絶対的なものへの敬虔さが感じられる。
前田信明《UDB24-1020》 2024年
前田信明は、画面を上下左右に結ぶ線が中心で交差する構成を描き続けている。その画面を水平に結ぶ線は天と地を分け隔てる水平線か地平線のようであり、画面を垂直に結ぶ線は永遠の彼岸から此岸に漏れ差す後光のようである。その図様はキリスト教の十字架やニューマンの「ジップ」を彷彿させるが、むしろ二足歩行する人間が崇高で普遍的なものを求める場合には古今東西こうした十字形に収斂するということではないだろうか。その上で、前田の特徴は常に大きさに関わらず縦と横が「1.085:1」という比率の画面を用いることであり、そこにも何か絶対的なものや永久不変なものへの希求が感じられる。
加藤 舞《月の花》 2019年
加藤舞は、主に鉄を素材として充実体というよりも虚空間を立ち上げるところに特色がある。例えば、《月の花》と題された作品では、溶接された鉄は細く円弧を描き、それが「中空」を作り出している。そこでは、細い鉄の枠組みによりむしろ中の空間が意識される。また、加藤は一つの作品の制作過程で生じた鉄屑を溶接して別の作品を制作することも特徴としており、そこでも本来充実体であるはずの鉄自体が虚を内包しているといえる。そうした虚実の淡いを幻視させるような表現は、やはり此岸と彼岸を往来する異界感覚に通じているように筆者には感じられる。
◇ ◇ ◇
明治以来、日本でも「ファイン・アート」概念を輸入翻訳して「美術」概念が成立し、その中で長らく宗教性は脱色されてきた。ただ、興味深いことに近年の日本のアートシーンでは、世界的な「SBNR = Spiritual but not religious(宗教ではなく信仰)」の流れの中で、いわゆる仏画仏像の類ではなくあくまでも「美術」の領域内で「スピリチュアリティ(信仰心)」への関心が高まっているように感じられる。そうした美術におけるスピリチュアリティの復権には、特に2011年の東日本大震災や2020年の新型コロナ禍以後、此岸の価値観だけが表現の全てではなく、彼岸から此岸を捉え直すような表現が改めてリアリティを持つようになった時代背景も反映しているように思われる。その点でも、本展は極めて時宜に適った展覧会といえよう。
本展は、喧騒の絶えない赤坂や六本木の高層ビル群の膝元に、言わば新たな日本版の静謐な「ロスコ・ルーム」を創出する試みと言えるかもしれない。あまりにも小声のためについ聞き逃してしまいそうになるが、ぜひ一人でも多くの人にその幽(かそ)けき祈りの言葉に心の耳を傾けていただきたい。
会場風景(撮影:加藤健)
会場風景(撮影:加藤健)
(写真は全てMARUEIDO JAPAN提供)