日本の「芸術祭」の起源(20世紀末)をさぐる…尾崎正教から田中泯・北川フラムまで

1 はじめに

3年前(2021年)の夏、美術家の深澤孝史から突然の連絡が入った。

「本阿弥さんが追いかけてきた「丸石神」(道祖神)と「尾崎正教」(愛媛県出身の美術活動家)のことで聞きたいことがあるのでお会いしたい」という内容だった。

深澤は、1984年山梨県生まれで、《越後妻有・民俗泊物館》(大地の芸術祭、新潟県2015年)、《神話の続き》(奥能登国際芸術祭、石川県2017年)、《海をつなげる》(Reborn-Art Festival… 宮城県2019年)、《アケヤマ… 秋山郷立大赤沢小学校》(大地の芸術祭、2024年)などの作品で、北川フラム(アートディレクター)や中沢新一(思想家・文化人類学者)からも高い評価を得ている、私も気になる美術家の一人だった。

私にとっての「丸石神」【丸石】は、故石子順造(美術評論家)の掘りおこし作業のなかで巡り合った究極のオブジェクト(人間が加工することなく悠久の時間をかけて誕生した美術作品)であり、さらに、「尾崎正教」は、私が1970年代から「現代美術」を追いかけるきっかけを作ってくれた恩人の一人でもあった。

当時の深澤は、山梨県立美術館が主催する作品プラン公募「山梨アートプロジェクト2021」で、「丸石神」をテーマにした企画が採用されていたことや、同時期に愛媛県松山市で官民学(行政、大学、NPOなど)設立の「松山市文化創造支援協議会」から、企画展参加の要請を受けており、松山市周辺の調査の過程で知ったのが、美術活動家の「 尾崎正教」の存在だった。

私と深澤は、それ以来、「丸石神」「尾崎正教」という二つのテーマをとおして交流が始まった。

そして、深澤によって制作された作品は、「丸石神」をテーマにした《丸石神、石神未満、道祖神》(山梨県立美術館2021年)と、「尾崎正教」をテーマにした《展覧会<わたくし美術館 開館支援センター>》(松山市文化創造支援協議会2024年)として公開された。

今回、深澤は、「no+e」に「尾崎正教をアートプロジェクトの起源として考える」と題したレビューを、2024年12月3日に発表したので、興味のある方は見てほしい。

https://note.com/fukasawatakafumi/n/nb0a38661d6a7?sub_rt=share_pb

2 「尾崎正教」とは?

尾崎正教は、出身地である愛媛県の師範学校を卒業後に小学校教諭となり、戦後は東京で教職に就き、大田区立嶺町小学校を定年の1年前に退職して、その後は「美術」の啓蒙・啓発運動にまい進した人物だ。

そして、仲間と美術活動で訪れた新潟県小国町の宿泊先で79歳で急逝するまでは、「美術とは何か」を問い続けながら、20世紀後半を走り抜けた稀有な教育者であり美術活動家だった。

特に尾崎は、戦後の博物館法に基づく「美術館」のあり方について疑問を唱え、独自の思想・理論から生まれた、「個人」の側から捉えた美術と美術館の理想の形を、【わたくし美術館】【わたくしの町美術館】という形でつくり上げようとした人物だった。

私自身、尾崎の「わたくし美術館」運動に強く影響を受けたこともあり、NPO法人が運営・管理するわたくし美術館「虹の美術館」(静岡県清水市2000年)をつくるきっかけとなった人物でもあった。 (私が館長で副館長に就任したのが尾崎だった)

■尾崎正教(1922~2001) 1922年 愛媛県大洲市生まれ。 1935年 大洲中学校入学、中江藤樹の至徳堂にて孝経の素読を受く。 1940年 愛媛師範学校にて伊藤某より安岡正篤の王陽明をすすめられ東洋思想に傾倒。 1945年 小川太郎よりピアジェの講義を聴く。 1951年 久保貞次郎を真岡に訪ね、児童美術に大いなる転換をみる。1952~2001年 現代美術の啓もう・啓発活動に取り組む。 2001年 美術活動で訪れた新潟県の宿泊先で急逝

左が尾崎正教夫婦

尾崎正教『わたくし学校』文化書房博文社1979年

(1) 尾崎正教の美術運動

尾崎の美術運動の始まりは、1952年に児童画研究会で久保貞次郎(美術評論家)を訪ねて瑛九(美術家)の存在を知ったことにあり、「創造美育協会」活動に参加し、さらに「小コレクターの会」の活動が、「わたくし美術館」構想となって歩むことになった。

1) 「創造美育協会」「小コレクターの会」への参加

創造美育協会(略称:創美)とは、素封家だった久保貞次郎が1938年に真岡小学校(栃木県真岡町)に建築物「久保講堂」を寄付した縁で、久保の提案で「児童公開審査会」が開催され、そのときに審査にかかわった画家の瑛九、北川民次、オノサト・トシノブらとともに1948年に「図画研究会」が誕生し、この研究活動が発展して1952年に設立されたのが「創美」だった。

発起人には、北川民次、瑛九、瀧口修造などがおり、最盛期には約2,300人の会員がいたとされる。毎年夏には、研究会「創美全国セミナール」が、全国から美術教師や作家らが参加して、児童画についての活発な討論や版画講習会、児童画展が開催された。

また、小コレクターの会は、コレクターとしても知られていた久保が、「小コレクター運動」(コレクターという言葉に「小」を付けて、一人3点以上の美術品を所有する人のことを、ささやかなコレクターという意味で「小コレクター」と名付け、一般人が気軽にコレクターと名乗り、美術に関心を持ってもらうこと)を目的に1956年に発足した。

■久保貞次郎(1909~1996)1909年 栃木県生まれ、美術評論家。1933年 東京帝国大学卒業。1952年 北川民次らと創造美育協会を設立。1956年 小コレクターの会発足。1966年 ベネチア・ビエンナーレ日本代表コミッショナー。1977年 跡見学園短期大学学長(1977~85)。1987年 町田市立国際版画美術館館長(1987~93)。1996年 死去

■北川民次(1894~1989)1894年 静岡県生まれ、美術家。1913年 早稲田大学中退。1914年 渡米し、ニューヨークのアート・スチューデント・リーグで学ぶ。1921年 メキシコに渡る。1924年 サンカルロス美術学校に学ぶ。1932年 タスコの野外美術学校校長に就任。1936年帰国。1937年 二科会会員。1978年 二科会会長に就任。1989年 死去

■瑛九(1911~1960)1911年 宮崎市生まれ、美術家※本名:杉田秀夫。1926年 日本美術学校中退。美術評論を発表。1930年 オリエンタル写真学校入学写真評論を発表。1937年 長谷川三郎、山口薫らと「自由美術家協会」を創設。1951年 泉茂らと「デモクラート美術家協会」を結成。戦後の前衛美術の先駆者、靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久らの師。1960年 48歳で死去

■オノサト・トシノブ(1912~1986)1912年 長野県生まれ。美術家※本名:小野里利信。1937年 「自由美術家協会」結成、会友として参加。1964年 「グッゲンハイム国際賞展」に出品。1964年及び66年 ベネチア・ビエンナーレ日本代表。1986年 死去

「久保貞次郎」久保記念観光文化交流館開館5周年記念誌より抜粋

「瑛九」写真 ※渋谷区立松濤美術館での図録2004年

「渡米する靉嘔夫人を見送る会」1961年 尾崎正教(前列右から1人目)、磯辺行久(前列右から3人目)、久保貞次郎(3列右から2人目)、オノサトトシノブ(3列右から1人目) 『久保貞次郎を語る』(文化書房博文社1997年)より

「久保宅庭先にて」1956年
尾崎正教(前列右から4人目)、磯辺行久(前列右から3人目)、久保貞次郎(2列右から1人目) 
久保貞次郎『私の出合った芸術家たち』 (叢文社1984年)より

2) 「わたくし美術館の会」の設立

尾崎によれば、都内にあった「自由が丘画廊」(實川暢宏代表)に集っていた美術愛好家(美術作家・美術コレクター・美術批評家ら)との交流を通して、「わたくし美術館」という概念が具体化していったという。

『わたくし美術館(第一巻)』(博文社)は、1979年に尾崎が中心となって編集・発行された。その後、尾崎が代表となって「わたくし美術館の会」が誕生し、第1号となる季刊・会報「わたくし美術館」(NO.1)が1982年6月に発行された。

会報「わたくし美術館」は、その後、第70号(2001年4月発行)まで約20年間にわたり、尾崎が中心となって制作され、尾崎の急逝によって終わりを迎えた。会報は、第4号までカラー刷り印刷であったが、第5号からは手作りのB5サイズ8頁の白黒簡易印刷となり、尾崎の想いが詰まった機関紙だった。

なお、實川暢宏は、尾崎との縁もあり1976年に建設された「磯辺行久美術館」(千葉県長南町)にも関わっており、美術館パンフレットの制作所が「自由が丘画廊」と記載されている。

■實川暢宏(1937~)1937年 静岡県生まれ。「自由が丘画廊」を経営(1968~87)。自由が丘画廊が20年近い経営で扱った作家は、澤田政廣、山口長男、大沢昌介、駒井哲郎、磯辺行久、オノサト・トシノブ、相笠昌義、ルチオ・フォンタナ、フランク・ステラ、ジャン・デュビュッフェ 他

<實川暢宏へのインタビュー>

「尾崎正教さんとは1965~66年頃に出会った。尾崎さんが南画廊(志水楠男代表)でオークションをやっていたので僕らも顔をだすようになった。1968年に僕が画廊を始めると同時に、志水さんが画廊の仕事が忙しくなったということで、尾崎さんのオークションが僕の画廊に移ってきた。この≪オークション・小コレクターの会≫が、後の≪わたくし美術館≫のスタートとなるのです」 ※参考資料:「画廊とコレクター(實川暢宏氏へのインタビュー)」川谷承子(静岡県立美術館学芸員) 「静岡県立美術館紀要2009年」より

機関紙「わたくし美術館(NO.3)」発行:尾崎正教
わたくし美術館刊行会 1982年3月

『わたくし美術館(NO.70)2001年4月1日発行』 ※尾崎正教

尾崎正教による「オークション・小コレクターの会」
※1970年代初頭の「自由が丘画廊」の様子

(2) 尾崎正教が残した成果

尾崎正教が生前に残した成果のうち、特に大きな功績といえるのが、千葉県長南町に建設した私設「磯辺行久美術館」と、「現代版画センター」の立ち上げ参加だといえる。前者では、「わたくし美術館」運動に共鳴した仲間たちや長南町在住の協力者が、後者では、頒布会(はんぷかい)という形からも、多くの著名な作家や刷り師らの協力者なしには実現することがなかった。

1) 「磯辺行久美術館」(千葉県長南町)建設

磯辺行久は、瑛九との交流から「デモクラート美術家協会」に参加していたことで、「創美」の活動にも作家として参加しており、尾崎正教とも交流が生まれたといえる。その磯辺は、フランスを経由してアメリカに旅経ったことで、作品の維持管理を頼まれた尾崎が、仲間たちに声を掛けて建設したのが、倉庫を兼ねた私設美術館だった。

この美術館の特徴は、アメリカに渡ってからの磯辺が、美術家から環境影響評価づくりなどの環境プランナー(リジオナルプランナー)に転身したことで、美術館づくりには、一切、関わることなく、尾崎とその仲間たちや長南町関係者が私設の美術館として建設し、土地を所有する手嶋家が長年にわたり作品を守り建物の維持管理に努めたことにあった。

  磯辺行久美術館

場所:千葉県長生郡長南町。完成:1976年5月。構造:木造切妻造2階建。規模:建築面積20坪(70㎡程度)。収蔵作品:立体作品(箪笥系、ワッペンレリーフ系など)、平面作品(油絵、水彩画、版画など)、雑誌などを含め数千点を所蔵。(ただし、1990年代以降は、数点を残して作品の多くが全国の美術館や磯辺行久アトリエ(静岡県長泉町)と磯辺行久記念越後妻有清津倉庫美術館(新潟県十日町市)などに移された) ※主な協力者:手嶋重衛(土地所有者)、手嶋操、現代版画センター

■磯辺行久(1935~)1935年 東京生まれ。美術家で東京藝術大学油絵科出身。1963年 日本国際美術展優秀賞。1963年 サンパウロ・ビエンナーレ日本代表。1963年 全共連ビル壁画レリーフ制作。1966年 渡米・ニューヨーク居住。1972年 ペンシルバニア大学大学院修了。1974年 日本に帰国。その後、日本で環境アセスメントを主体とする都市計画系の企業「リジオナルプランニングチーム」を設立

磯辺行久美術館(千葉県長南町) 左が磯辺行久、右が尾崎正教 1990年4月 撮影者:本阿弥清

1990 磯辺行久美術館(千葉県長南町)の内部 1990年4月 撮影者:本阿弥清

「磯辺行久美術館」パンフレット(1976年5月30日)発行者・尾崎正教、制作者・自由ヶ丘画廊、協力者・手嶋重衛と手嶋操と現代版画センター

「磯辺行久美術館」パンフレット(1976年5月30日)発行

2) 「現代版画センター」の設立協力

「現代版画センター」は、久保貞次郎らによって生まれた「小コレクターの会」の思想が反映された形で具現化された頒布会であり、1974~85年の活動期間中に、約80人の美術家の協力を得て、700点を超える作品を世に送り出したとされている。現代版画センターの設立当初は、代表が綿貫不二夫で事務局長を務めたのが尾崎正教だった。さらに1977年企画の”現代の声”では、北川フラムが企画実行委員長を務めている。また、2018年には、現代版画センターの関係者から、埼玉県立近代美術館に多くの版画作品や資料が寄贈されたこともあり、企画展「《現代版画センター》の軌跡(1974~85)」が開催された。

現代版画センター『’77現代と声(版画の現在)』※発行人・綿貫不二夫、監修・北川フラム 1978年

《現代版画センター》の軌跡(1974~85)  ※「版画の景色…現代版画センターの軌跡」(埼玉県立近代美術館)パンフレットより

1974年2月/ 全国版画コレクターの会(仮称)準備会結成。1974年3月/ 機関誌『画譜 創刊準備号』刊行。1974年5月/ 正式名称を「現代版画センター」とする。1974年6月/ エディションNO.1として靉嘔≪I Love You≫を制作発表して愛媛県松山と岩手県盛岡からスタート。1975年2月/ 機関誌『現代版画ニュース』創刊(105号まで刊行)。1978年7月/ 現代版画センター、北川フラム編『’77現代と声-版画の現在』刊行。1981年3月/ 現代版画センター直営のギャラリー方寸を渋谷にオープン。1983年6月/ 『アンディ・ウォーホル展 1983-84 オリジナルカタログ』刊行。1983-84年/ 「アンディ・ウォーホル全国展」を東京・パルコ他で開催。1984年4月/『版画センターニュース』を『版画コミュニケーション誌ed』へ。1985年2月/ 現代版画センター、倒産

■出品作家

靉嘔、安藤忠雄、飯田善國、磯崎新、一原有徳、アンディ・ウォーホル、内間安瑆、瑛九、大沢昌介、岡本信治郎、小田譲、小野具定、オノサト・トシノブ、柏原えつとむ、加藤清之、加山又造、北川民次、木村光佑、木村茂、木村利三郎、草間彌生、駒井哲郎、島州一、菅井汲、澄川喜一、関根伸夫、高橋雅之、高柳裕、戸弧雁、難波田龍起、野田哲也、林芳史、藤江民、船越保武、堀浩哉、堀内正和、本田愼吾、松本旻、宮脇愛子、ジョナス・メカス、元永定正、柳澤紀子、山口勝弘、吉田克朗、吉原英雄

機関誌「画譜(第3号)」現代版画センター 1976年3月

「版画の風景(現代版画センターの軌跡)」埼玉県立近代美術館 2018年1月~3月

3 「わたくし美術館」運動とは?

尾崎が提唱した「わたくし美術館」とは、一般に知られている「美術館」の概念(公立や企業などの組織・団体が建設して作品を収蔵展示する場)とは異なり、個の人たちが所有する身近なコレクションを持ち寄って公開することで、個人が作品を持つ喜びと他人に伝えたいという気持ちが相乗効果となって、人の心から心へと共感を与える場となる「美術館」をつくろうという運動だった。

尾崎正教『わたくし美術館(第一巻)』文化書房博文社1980年 (「架空美術館」p189)

尾崎正教『わたくし美術館(第二巻)』 (「わたくしの町美術館展」構想)

 (1) 国内に広まった「わたくし美術館」運動

尾崎は、「小コレクターの会」などの経験を踏まえて多くの作家や作品とめぐり合い、自身が作品を収集するなかで、後に「自由が丘画廊」でのオークション主宰、「磯辺行久美術館」建設参加、「現代版画センター」設立参画などを経て、小学校教員退職後には、交流のある作家や刷り師らの協力を得て版画を中心にした作品を制作し、「創美」会員などの全国の仲間たちを頼りながら、版画をスケルトンに入れて行商人のように全国を回り、作品の魅力を伝える伝道師となった。

1) 「わたくし美術館」づくりと全国行脚

尾崎は、58歳まで小学校教諭を務め、退職後の1979年から精力的に全国行脚の旅に出ている。そして、尾崎が行き先々で語っていた言葉が、「3人以上のコレクターが3点以上の作品を持ち寄り、そして、3ヶ月(以内)の展示を行うことで「わたくしの町美術館」が誕生する」というものだった。尾崎は、作家や刷り師の岡部徳三らの協力を得て新作版画を制作し、行き先々でオークションを開催していった。

■靉嘔(1931~)1931年 茨城県生まれ※本名:飯島孝雄。1954年 東京教育大学(現筑波大学)芸術学科卒。1963年 「デモクラート美術家協会」参加。1958年 渡米。1962年 「フルクサス」参加。1966年 ベネチア・ビエンナーレ日本代表。1971年 サンパウロ・ビエンナーレ日本代表。1987年 エッフェル塔(パリ市)『300m虹のプロジェクト』。1990年 日本芸術大賞受賞

■池田満寿夫(1934~1997)1934年 旧満州生まれ。1952年 長野北高校卒。1956年 デモクラート美術家協会会員。1960年 東京国際版画ビエンナーレ展(文部大臣賞)。1961年 パリ青年ビエンナーレ(優秀賞)。1965年 渡米。1966年 ベネチア・ビエンナーレ日本代表(国際大賞)。1977年 小説『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞受賞。1997年 死去

■草間彌生(1929~)1929年 長野県生まれ。1948年 京都市立美術工芸学校で日本画を学ぶ。1957年 渡米。ニューヨークを拠点に巨大な平面作品、ソフトスカルプチャー、鏡や電飾を使った立体作品を発表。1973年 帰国。1993年 ベネチア・ビエンナーレ日本代表。2000年 芸術選奨文部大臣賞受賞。2001年 朝日賞受賞。2003年 フランス芸術文化勲章オフィシェ受賞

尾崎正教『わたくし美術館(第一巻)』文化書房博文社1980年

2) 「わたくしの町美術館」と候補地

『わたくし美術館(第一巻)』(1979年)の最初に登場する「わたくし美術館」の事例が、尾崎の同郷人の松川太郎の「島の小さな美術館」である。風光明媚な瀬戸内海に浮かぶ小さな島を舞台にしたわたくし美術館構想は、後に、松川によって松山市内で、鳥小屋を改装してつくった「とり小屋美術館」へと展開していった。

① 島の小さな美術館(愛媛県喜多島群長浜町青島)

松川太郎の提案は、島の廃校になった中学校校舎(6教室)を利用して、作品の展示室、制作室、宿泊機能を持った施設としてリニューアルしていくものだった。

② 空想の森美術館(大分県湯布院町)

由布院は、古くからの温泉地で「湯布院映画祭」「ゆふいん音楽祭」が開催される街としても知られている。美術を活かした街づくりとして「アートフェスティバルゆふいん」が1989年から始まり、その中心になったのが1986年にオープンした空想の森美術館館長の高見乾司だった。尾崎と高見との交流がきっかけとなって、1990「アートフェスティバルゆふいん≪わたくしの町美術館展≫」が開催された。

③ 尾崎正教が想い描いた≪わたくし美術館≫構想「こんな美術館村ができたら…」

尾崎が想い描いた「わたくし美術館」は、生前、自らの手で実現させることはできなかったが、自身の構想を美術雑誌『芸術生活』(1977年)と自著『わたくし美術館(第一巻)』(1979年)で語っているので、その概要を以下に示しておきたい。

名称:〇〇美術館村  場所:南房総(千葉県)/完成:〇〇年〇〇月  敷地面積:約15,000㎡(1.5ha)/展示作家・作品:10人の作家(瑛九、靉嘔、磯辺行久、池田満寿夫、オノサト・トシノブ、菅井汲、山口長男、李禹煥、関根伸夫、福井延光)の作品/施設の概要:10人の作家それぞれの美術館を単独で敷地内に点在させるもので、個別美術館・散策できる森・宿泊施設・小動物もいる農園のある施設

「こんな美術館村ができたら」尾崎正教 1977年『芸術生活』

尾崎正教『アートジャーナル NO.1(創刊号)』文化書房博文社 1993年3月31日

(2) 「わたくしの町美術館展」と「芸術祭」

尾崎は、当時活躍中の現代美術家の版画作品を抱えながら全国を回り、自分流のオークションを開くなどして、出会った人たちに美術の魅力を伝えていった。その先々では、「わたくしの町美術館」をつくろうとする人たちを見つけ出すことも、自分の使命と考えて行動している。これまでに発行された70号までの会報「わたくし美術館の会」には、「わたくし美術館」や「わたくしの町美術館」の候補地情報を掲載した他、建設計画がとん挫したことに一喜一憂する様子なども記されている。

ここでは、尾崎の「わたくし美術館展」などの開催が足がかりとなり、地域を巻き込んだ「芸術祭」に発展していった国内の事例と、尾崎が活動した以降に国内で始まった日本を代表する二つの芸術祭の、「アートキャンプ白州(山梨県)」「大地の芸術祭 <越後妻有アートトリエンナーレ>(新潟県)」についても合わせて紹介する。

1) 「大街道わたくしの町美術館展」 愛媛県松山市

第1回「大街道わたくしの町美術館展」が開催されたのは、1983年3月のことで、松山市の大街道のアーケード街(約700m区間)を美術館に見立てて、油絵、日本画、版画など約100点が街道に展示された。

尾崎は、新聞(愛媛新聞)への寄稿で「松山が前例となって、全国に先駆けて第一歩を踏み出した」と語っている。 また、1984年10月に開催された第2回「大街道わたくしの町美術館展」では、美術家の川俣正による間伐材約6トンを使ったインスタレーション作品「大街道インスタレーション」もアーケード街に造られた。

■川俣正(1953~)1953年 北海道生まれ。1984年 東京芸大博士課程満期退学。1977年より発表活動を始める。1982年 ベネチア・ビエンナーレ日本代表。1987年 ドクメンタ8(ドイツ)。1987年 サンパウロ・ビエンナーレ日本代表。1995年 国際連合50周年記念展(ジュネーヴ)。2000年~ 大地の芸術祭<越後妻有アートトリエンナーレ>参加。2002年 上海ビエンナーレなど、国内外で多数のプロジェクトや展覧会に参加・発表

尾崎正教『わたくし美術館(第二巻)』 (「アーケード美術館」愛媛県松山市大街道1983年)

2) 「アートフェスティバルゆふいん」 大分県湯布院町(現由布市)

「アートフェスティバルゆふいん」は、1989年から毎年開かれて第5回の1992年まで続いたアートイベントである。 特に尾崎が力を入れて協力したのが、1990年開催の「わたくしの町美術館展」で、尾崎が所有するコレクション(瑛九、靉嘔、池田満寿夫、元永定正らの作品)が、「わたくしの町美術館展」として貸し出されている。 また、由布院温泉は、日本を代表する温泉地の一つであり、博多(九州の玄関口)から特急電車で1時間20分の距離にあり、多くの来訪客が期待できる場所として、JR九州がこの年からアートイベントに積極的に参加することになった。

① 由布院温泉とは

由布院温泉は、その歴史は古く全国3位の温泉湧出量を誇り、特に、芸術文化による地域おこしが始まったのは、中谷健太郎(亀の井別荘)と溝口薫平(玉の湯)の存在で、東京で映画助監督から旅館を継ぐために1962年に戻った中谷と、博物館の学芸員だった溝口が妻の実家旅館の経営に参画するため1966年に由布院に来たことで、後に「湯布院映画祭」「ゆふいん音楽祭」を仕掛けるなど、後に由布院が「芸術文化の香りのする街」として、全国的にも知られるようになった。

② 「アートフェスティバルゆふいん1990」の内容

日本初の試みとして行われたのが、JR特急列車の1車両が「美術ギャラリー」として車内が改装された。 このアイデアは、後にJR東日本の上越新幹線で「現美新幹線」(2019年秋)として、ギャラリー列車が走る先駆けとなった。

名称:アートフェスティバルゆふいん≪わたくしの町美術館展≫

開催場所:大分県湯布院町(現由布市湯布院町)/会期:1990年4月28日~5月31日/アートイベントの内容:「わたくしの町美術館(由布院)」の開催/池田満寿夫展、靉嘔展、泉茂展、草間彌生展など町内13施設と佐藤忠雄コレクション展(佐藤は「わたくし美術館の会」メンバー)のほか、町内の他の美術館(既存)とギャラリーなどでも独自の展覧会が実施された。芸術祭の特色:JR九州特急「ゆふいんの森号」がギャラリーに変身した。

■特急「ゆふいんの森号」車上ギャラリーの開催

尾崎が所有する靉嘔、池田満寿夫、瑛九、オノサト・トシノブ、元永定正などの版画作品が、車上ギャラリーに使用された。

■特急「ゆふいんの森号」でシンポジウムの開催(1990年4月28日)

オープニング企画として、JR九州特急「ゆふいんの森号」の車上でのシンポジウム「動く美術館…情報としてのわたくしの町美術館」が、博多駅を出発して由布院駅までの区間で行われた。尾崎正教とともに、針生一郎(美術評論家)、石井幸孝(JR九州初代社長) 、中谷健太郎(亀の井別荘)らも参加した。

JR九州特急「ゆふいんの森号」 撮影:本阿弥清

JR九州特急「ゆふいんの森号」内の美術館ギャラリー 撮影:本阿弥清

列車内でシンポジウム開催。右が針生一郎、左が尾崎正教 撮影:本阿弥清

列車内でシンポジウム開催。右が中谷健太郎、左が石井幸孝 撮影:本阿弥清

大分県湯布院町「わたくし美術館展」の様子
1990年4月 撮影:本阿弥清

「アートフェスティバルゆふいん」湯布院や柳川市などの美術館、ギャラリーなどで開催された 撮影:本阿弥清

3) 「伊豆高原アートフェスティバル」 静岡県伊東市

伊豆高原でアートイベントが始まるきっかけは、1992年の「アートフェスティバルゆふいん」に、尾崎正教や高見乾司と交流があった伊豆高原在住の谷川晃一(美術家)の展覧会が開催されたことにある。谷川が、由布院で開催された「わたくし美術館展」を参考にて、伊豆高原でもできないかと模索して生まれたのが、「伊豆高原アートフェスティバル」だった。

1993年からスタートした「伊豆高原アートフェスティバル」は、伊豆高原に点在する多様な施設が参加し、5月の1ヶ月間を会期とするアート系イベントとして定着したが、2017年(25回)まで続けられたが惜しまれながら終了した。その後、新たに誕生したのが「伊豆高原 五月祭」で、音楽や映画なども取り入れたアート展となり、「わたくし美術館」の思想は今でも受け継がれている。

① 伊豆高原とは

伊豆高原は、伊豆半島の東海岸にある風光明媚な地区で、東京から2時間程度の距離にあり、日本有数の保養地・観光地として、年間をとおして多くの来訪者で親しまれている。また、一碧湖畔にある池田20世紀美術館が核となって、周辺には美術家ら美術関係者の住居や施設も多く点在することでも知られている。

②「伊豆高原アートフェスティバル1993」の内容

名称:第1回「伊豆高原アートフェスティバル」/開催場所:静岡県伊東市伊豆高原/会期:1993年5月1日~5月31日/アートイベントの内容:伊豆高原一帯に点在する56施設で行われた。/尾崎らのコレクションによる「わたくし美術館展」(瑛九展、靉嘔展、大沢昌介展)の他に、「谷川晃一展」「宮迫千鶴展」などの実行委員作品展、さらに地区内にある美術館(既存)とギャラリーなどでも、独自の企画展が行なわれた。

■谷川晃一(1938~2024)1938年 東京生まれ。1964年 個展「記号の増殖」(内科画廊)。1988年 東京から伊豆高原に転居。1990年 「回顧展」(池田20世紀美術館)。1993年 「伊豆高原アートフェスティバル」第1回実行委員長。2016年 「谷川晃一・宮迫千鶴展」(神奈川県立近代美術館)。2000年 『かずあそびウラパン・オコサ』(日本絵本賞受賞)。2024年 死去

「第1回伊豆高原アートフェスティバル」 1993年

4) 「アートキャンプ白州」 山梨県白州町(現北斗市)

「アートキャンプ白州」は、白州町で1988~1999年の夏に、田中泯らの舞踏パフォーマンス公演を中心に、美術・演劇・音楽・映像・建築・農業など多岐にわたる表現活動で、20世紀末アートイベントの草分け的存在でもあった。

① 白州との関係

白州に1985年に移り住んだ田中泯(ダンサー)が、「身体気象農場」を開き農業を始め、田中の呼びかけでスタートしたのが1988年「白州・夏・フェスティバル」だった。 当初は、4日間の「祭り」だったが、後に会期が1ヶ月以上となる「アートキャンプ白州」へと展開していった。

② 「アートキャンプ白州」の概要 (※「ダンス白州」は2001~2009年開催)

名称:「アートキャンプ白州」 ※初期の名称は「白州・夏・フェスティバル」/開催場所:山梨県白州町(現北斗市白州町)  会期:1988~1999年の夏期/内容:白州で行われたイベントは1000にもおよぶといわれており、ここでは詳細は省き、主な参加者・関係者を以下に列記する。

■ダンス(玉井康成・堀川久子・元藤燁子・森繁哉・山崎広太・石井満隆ら)/■音・パフォーマンス(マルセ太郎・観世栄夫・デレクベイリー・巻上公一ら)/■美術工作物(剣持和夫・原口典之・遠藤利克・高山登・榎倉康二ら)/■建築ワークショップ(樋口裕康・難波祐介・丸山欣也ら)/■シンポジウム、トーク(下河辺淳・中上健次・中沢新一・木幡和枝ら)

■田中 泯(1945~)1945年 東京生まれ。日本、世界各地で舞踏、ダンス、美術展、映画などで活躍。1985年 山梨県白州町に「身体気象農場」を開設。1996年 「舞踏資源研究所」を発足。2000年 甲斐市で農事組合法人「桃花村」を主宰。2006年~ 国内外の野外各地で一人踊る「場踊り」を展開。舞踏批評家協会賞、朝日舞台芸術賞を受賞

「アートキャンプ白州1997」山梨県白州町 パンフレット

白州アートキャンプ(田中泯+舞塾)1993.8.28 ※土の舞台の練習風景 撮影:本阿弥清

白州アートキャンプ(山梨県白州町)1993.8.28 沖縄エイサー 山の舞台 撮影:本阿弥清

白州アートキャンプ1993.8 ※坂口寛敏作品「水-循環器地球環境地球」1989 撮影:本阿弥清

白州アートキャンプ(山梨県白州町)1993.8.28 建築ワークショップ 撮影:本阿弥清

5) 「大地の芸術祭 <越後妻有アートトリエンナーレ>」 新潟県十日町市他

北川フラムらによって新潟県十日町市などで開催された「芸術祭」は、2000年からスタートして3年ごと(基本的には)行われており、第7回(2018年)には、7月から9月まで51日間が開催され、50万人以上の来場者があったとされている。

① 越後妻有地区の概要

新潟県南部に位置する十日町市と津南町の妻有郷からなり、日本一の長さを誇る信濃川中流域に開けた盆地を中心に栄えた地域。「妻有」とは、古くから旧十日町市、旧川西町、旧中里村、津南町地域を指しているが、旧松代町、旧松之山町を含める十日町市、津南町を「越後妻有」と表現。平年で2mを超える積雪が生じ豪雪地帯として有名な地域である。  ※新潟県庁ホームページ等を参照

②「大地の芸術祭 <越後妻有アートトリエンナーレ>」の内容  ※通称「妻トリ」

名称:「大地の芸術祭 <越後妻有アートトリエンナーレ>」/開催場所:新潟県十日町市、津南町  会期:2000年~/内容:国内では、21世紀以降に始まった「芸術祭」のモデルとし広く知られており2000年から開催されている。 特に、「妻トリ」の特徴は、参加する国内外の作家の多さにあり、第8回においては展示作品数が300点あったとされる。

参加作家:ジェイムス・タレル、クリスチャン・ボルタンスキー、イリヤ・カバコフ、祭国強、草間彌生、磯辺行久、中谷芙二子、河口龍夫、田島征三、川俣正、剣持和夫、遠藤利克、植松奎二、眞板雅文、太田三郎、佐藤時啓、日比野克彦、和名晃平、塩田千春、前山忠、堀川紀夫、深澤孝史ら延べ人数1,255名

■北川フラム(1946~)1946年 新潟県生まれ。東京芸大美術学部卒業。1978~79年「アントニオ・ガウディ展」。1988~90年 「アパルトヘイト否!国際美術展」。2000年~「大地の芸術祭 <越後妻有アートトリエンナーレ>」。2010年~「瀬戸内国際芸術祭」。2017年~「奥能登国際芸術祭」などの総合ディレクター。2018年 文化功労者に選出

イリヤ・カバコフ作品(第1回越後妻有アートトリエンナーレ)松代町 2000.8.24  撮影:本阿弥清

「大地の芸術祭(越後妻有アートトリエンナーレ)」パンフレット

清津峡「MAD アーキテクツ「Tunnel of Light」」大地の芸術祭(越後妻有アートトリエンナーレ) 撮影:本阿弥清

深澤孝史「民俗泊物館」越後妻有アートトリエンナーレ 2015 撮影:本阿弥清

磯辺行久作品(磯辺行久記念 越後妻有清津倉庫美術館) 2018年9月 撮影:本阿弥清

「走る美術館…現美新幹線」JR東日本 2019.10~2020.3 ※パンフレットより

(3) 尾崎正教が晩年にかかわった「わたくし美術館」

尾崎の晩年は、特に自身が推す美術家(瑛九、靉嘔、池田満寿夫、大沢昌介、オノサト・トシノブら)の「わたくし美術館」が誕生することを願っていた。当時の会報(1999年発行)には、「坂のまち美術館」(富山県八尾町)が完成することに触れて「わたくし美術館の第1号の大沢昌介記念美術館が完成」と、さらに会報(2000年発行)では、「わたくし美術館を提唱して40年、ようやくわたくし美術館に辿りついた」と喜びを記している。

1) 「坂のまち美術館」 富山県八尾町(現富山市八尾町)

高見乾司(由布院)と交流があった八尾町の関係者(山下隆司ら)が、尾崎が所有する大沢昌介作品と出合い、宇津孝志(彫刻家)がギャラリーを兼ねた「わたくし美術館」として町家を改装し、1999年に「坂のまち美術館」をオープンさせた。

① 越中八尾とは

八尾町は、富山県中部に位置し、聞名寺の門前町として、また飛騨と越中の結節点として栄えた街で、毎年、二百十日の「風の盆」に「風を治め五穀豊穣を祈る」祭り(9月1日から3日3晩)として「越中おわら節」が唄い躍られることでも有名。

②「坂のまち美術館」の内容

名称:「坂のまち美術館」/館長:宇津孝志/場所:富山県八尾町(現富山市八尾町)/美術館開館日:1999年8月21日/展示コーナー:大沢昌介記念館・林秋路記念館/美術館は、大沢昌介(洋画家)作品を展示する「大沢昌介記念館」と八尾町出身の林秋路(版画家)の版画を展示する「林秋路記念館」で構成されている。

■大沢昌介(1903~1997)1903年 東京生まれ。1928年 東京美術学校(現東京芸大)西洋画科卒。1943年 二科会会員。1954年 多摩美術大学教授。1965年 サンパウロ・ビエンナーレ日本代表。1977年 国立国際美術館「日本の美展」招待。1981年池田20世紀美術館「大沢昌介の世界展」開催。1982年 二科会退会。1997年 死去

「坂のまち美術館」富山県八尾町 (※パンフレット抜粋)

越中八尾「坂のまち美術館」1999年 撮影:本阿弥清

2)「虹の美術館」 静岡県清水市(現静岡市清水区)

富士山が見える場所に2000年につくられた「虹の美術館」(静岡県清水市)は、尾崎正教自身が会報「わたくし美術館」(1988年発行)で「富士山のみえる所にぼくの美術館を建てたい」と記していたことや、尾崎コレクションの一部が展示されたこともあり、美術館が完成したことを非常に喜んでくれた。 なお、美術館に使用した建物(ビル)は、本阿弥清の知人でNPO法人メンバーでもあった所有者の許可を得て内外装をリニューアルし、5年間限定で借り受け使用したものでだった。 また、美術館は、NPO法人が管理・運営する現代美術系の実験的な美術館として、3つの柱「20世紀の現代美術の検証」「県内の優れた芸術活動の掘りおこし」「環境芸術の模索」で、企画展やトークショーなどが精力的におこなわれた。 「虹の美術館」の名称は、虹のアーティストともいわれている靉嘔の作品がメインで展示したことから「虹」の名前がつけられたものだった。

① 静岡県清水とは

清水は、静岡県中部に位置する清水港がある街で、南端には駿河湾越に浮かんで見える富士山の眺望が美しい名勝「三保松原」があり、三保松原は2013年に「富士山世界文化遺産」の構成資産の一つに登録された。

②「虹の美術館」の内容

名称:「虹の美術館」/館長:本阿弥 清/副館長:尾崎正教/場所:静岡県清水市(現静岡市清水区)/本阿弥清が収集した現代美術系作品を中心に尾崎正教所有の作品も展示/美術館(5年間限定で開館):2000年9月15日~2005年9月11日

展示コレクション:靉嘔、瑛九、オノサト・トシノブ、大沢昌介、池田満寿夫、磯辺行久、細江英公、李禹煥、関根伸夫、川俣正、太田三郎、岩崎永人、天地耕作(村上誠)、ジョアン・ミロ、ジョン・ケージ、アンディ・ウォーホル、ヨーゼフ・ボイス、フランク・ステラ、クリストほか

虹の美術館の外観 撮影:本阿弥清

「虹の美術館」の館内の展示風景 撮影:本阿弥清

虹の美術館「靉嘔(アイオー)展」2004.7.16~9  ※アイオーさん  撮影:本阿弥清

虹の美術館「石子順造とその仲間たち」2001.5.25~9.16 ※トークショー「李禹煥×中原佑介」2001.8 撮影:本阿弥清

 

著者: (Honnami Kiyoshi)

1954年富山県生まれ。現代美術研究/都市環境デザイナー。現在、NPO法人環境芸術ネットワーク代表。日本大学(建築専攻)を卒業後に綜合設計事務所(東京大学大学院丹下健三研究室で丹下自邸などの設計に参画した山梨清松が主宰する都市・建築・環境設計事務所)に都市環境デザインナーとして35年間勤務(在職中に慶応大学(哲学専攻)で学び「西洋哲学」などの単位取得)。1995年から浜口隆一(建築評論家)の勧めで、本業のかたわら本阿弥清 (筆名)で評論活動を本格的にスタート。NPO法人運営「虹の美術館 (静岡市)」館長 (2000~2005年)。多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員 (2010~2016年)

■受賞・入選歴:第14回(2009年)美術出版社《美術手帖》「芸術評論募集」入選 『<もの派>…隠された真実をめぐって』。

■単著:2016年『<もの派>の起源(石子順造・李禹煥・グループ<幻触>がはたした役割)』水声社。
■共著: 1997年『エコロジカル・スカルプチャーは可能か?』(E・S研究会)※杉山恵一+村上誠+ほんなみきよしの共同執筆 他
■編著:2002年『石子順造とその仲間たち…対談集(李禹煥×中原佑介/飯田昭二×針生一郎/前田守一×尾野正晴/丹羽勝次×立花義彰/鈴木慶則×李美那/小池一誠×本阿弥清)』、2004年『石子順造は今…対談集(池田龍雄×中村宏×峯村敏明×鈴木慶則×本阿弥清)』、2005年『グループ<幻触>の記録』(以上 虹の美術館)、2022年『道祖神リプレゼンテーションの8つの成果(深澤孝史企画)』(山梨県立美術館) 他
■寄稿(雑誌・美術館図録・その他):<雑誌・寄稿> ※国内…1995年『連載・地域主義の時代シリーズ11(浜口隆一論)』月刊「近代建築」12月号、2010年『<もの派>と石子順造と<幻触>の知られざる関係』月刊「あいだ」vol.171 4月発行、2019年『台湾當代美術瞥見』月刊「あいだ」vol.251 12月発行、2020年『<幻触>と1960年代末の美術』月刊「あいだ」vol.254 10月発行 他
※海外…2016年 香港『グループ<幻触>ともの派Group Genshoku and Mono-ha』「美術手帖」アジア版vol.2、3月発行(日本語、英語、中国語版)、2020年 台湾『飯田昭二、石子順造、李禹煥』月刊「芸術収蔵+設計」 6月号(中国語版)、2024年『靉嘔 虹的激浪狂熱分子 展…テキスト』「台湾・ヒロヒロアートスペース」(中国語版)
<展覧会図録(論考・執筆)> 2014年『石子順造と<幻触>』「グループ<幻触>と石子順造1966-1971展」静岡県立美術館、2014年『飯田昭二と<もの派>の知られざる関係』「飯田昭二展」鎌倉画廊、2023年『鈴木慶則…石子順造と共に歩んだ美の探求』「鈴木慶則-石子順造と歩んだ世界展」ギャラリーQ 他

■展覧会キュレーター: 2001年「仮設であることの意味展(クリスト・靉嘔・磯辺行久・関根伸夫・川俣正・<天地耕作>グループ)」、2001年「石子順造とその仲間たち(グループ<幻触>…飯田昭二、前田守一、丹羽勝次、鈴木慶則、小池一誠)展」、2002年「岩崎永人展」、2003年「太田三郎展」、2004年「池田龍雄・中村宏・鈴木慶則展」、2004年「靉嘔(アイオー)展」、2005年「『場』の環境展」(以上 虹の美術館)。2010年「石子順造と丸石神」(多摩美術大学芸術人類学研究所)※中沢新一+椹木野衣+本阿弥清の共同作業。2017年「グループ<幻触>(飯田昭二・鈴木慶則・長嶋泰典)」かけがわ茶エンナーレ 2017(静岡県掛川市)。2020年「三島由紀夫と天人五衰 展」(静岡市三保松原文化創造センター) 他
■展覧会協力:1991年「磯辺行久 展」(目黒区美術館)、2005年「もの派-再考」(国立国際美術館)、2007年「収蔵品展・虹の美術館の軌跡」(静岡県立美術館)、2014年「グループ<幻触>と石子順造1966-1971」(静岡県立美術館)、2014年及び2020年「飯田昭二」(鎌倉画廊)、2020年「飯田昭二展」(台湾・ヒロヒロアートスペース)、2021年「飯田昭二を偲ぶ会/遺作展」(アートカゲヤ画廊)、2021年「道祖神リプレゼンテーション…深澤孝史」(山梨県立美術館)、2023年「鈴木慶則-石子順造と歩んだ世界」(ギャラリーQ)、2024年「靉嘔 虹的激浪狂熱分子 展」(台湾・ヒロヒロアートスペース) 他

■作家インタビュー(日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ):※加治屋健司らと実施…2010年「鈴木慶則」(インターネット配信2010年)、2010年「丹羽勝次」(配信2011年)、2010年「飯田昭二」(配信2011年)(以上 グループ<幻触>)。2011年「靉嘔」(配信2014年)

■都市環境デザインナーとしての主な作品:2015年「梅原 猛(哲学者)揮毫碑」※富士山世界文化遺産登録記念(静岡県)