質問1これまでの美術評論でもっとも印象的なものについてお答えください。
回答1:クレメント・グリーンバーグの美術批評(とくに後期)。
クレメント・グリーンバーグ(1909-1994)は、毀誉褒貶のたいへん激しい美術批評家である。アメリカ美術界における、1950年代~1970年代のグリーンバーグの圧倒的影響力と、1970年代以降の彼への反発と批判(いわゆるClem Bashing)の激烈さ。その明と暗のコントラストの激しさは他に類例を見ない。21世紀に入って、欧米ではティエリー・ド・デューヴらによってグリーンバーグの再評価が見られるようになり、20世紀を代表する美術批評家として、ようやくその評価が確かなものになりつつある。日本では、『近代芸術と文化』が1965年に出版され、「アヴァンギャルドとキッチュ」や「モダニズムの絵画」など、代表的な美術評論が翻訳され、美術批評家の藤枝晃雄らによって『美術手帖』などの雑誌で紹介されてきた。後になって、やっと『グリーンバーグ批評選集』(藤枝晃雄編訳 勁草書房 2005年)がバランスよくまとめられたが、翻訳、掲載されたエッセイは僅か15本であり、十分とはいえない。一般的には、「絵画の平面化」を提唱するモダニズムの代表的批評家ということになっているが、モダニズムそのものが既に克服された過去の遺物とされ、熱心に読まれ、研究、再評価されているとは言いがたい。
1980年代初頭から美術史の勉強を始めた私は、主に日本の美術批評家藤枝晃雄の影響を介して、少しずつグリーンバーグを読んでいた。しかし、熱心に読むようになったのは、1986年以降刊行された批評集“Clement Greenberg The collected essays and criticism”(1~4巻 John O’Brian編、The University of Chicago Press)や、“Clement Greenberg Late Writings”(Robert C. Morgan編、University of Minnesota Press)などの著作集が出てからである。原本を入手してからは、1990年代半ばから時評や文芸評論も含めて、学芸員としての仕事の合間に少しずつ読むようになった。前者は、1939年から1969年までの美術批評、時評、書評、文芸評論、文明論を収録してあり、後者は1971年の前衛論から1994年のインタビューまでが収録されている。いずれも、極めて短い批評の中に含蓄の深い観察と美的判断、そして洞察を含んでいる。私はグリーンバーグの文章に影響されてきたし、今もなお影響されている。何度読み返しても、そのつど新鮮な発見がある。
アメリカと日本の美術ジャーナリズムが、1990年代以降、グリーンバーグが帝国主義的なアメリカ政府と美術業界の手先となって働いていたとする批判的論調を合言葉のように繰り返すのを苦々しく思いながら、そのような議論に介入する気持ちは全く起きなかった。ただ、グリーンバーグ・バッシング(叩き)の文章をいくら読んでも、「書いている当人がちゃんと読んでないくせに何を言ってんの」と思っていた。1939年から1994年まで、ジャーナリズムとギャラリーの最前線で、アメリカ社会と美術業界を相手に「美的価値の維持」のために論陣を張ってきたグリーンバーグをもう一度、公平に理解し、全体的に評価する必要があると思う。過去の遺物とされているモダニズムの再検討も含めて。ただし、研究ではなく、私たちの美術のために、そして私たちの批評のために。
グリーンバーグの1970年代以降の著作について言及されることは少ない。しかし、私は依然として現代でも重要性を失っていないと思う。なかでも、彼の死後、妻であるジャニス・ヴァン・ホルン・グリーンバーグ(Janice Van Horne Greenberg)の手によって編集された著書『手作りの美学』(1999年刊)は、興味深い。彼は大学アカデミズムにはほとんど関わらなかったが、1970年にベニングトン大学(Bennington College)で行ったゼミで学生が活発に質問、議論したことに刺激されて、1971年の4月に同大学で再び9回連続のゼミを開き、そのレクチャーと質疑応答の経過を書籍化したいと考えていた。その後、時間をかけて準備してきたようだが、結局生前には実現しなかった。内容的には、美的(感性的)体験、美的判断、「趣味は客観化しうるか?」、驚きという要因、判断と美的対象、慣習と革新、価値の体験、美的言説の言語、観察と美的距離……といったトピックがエッセイとして掲載されていて、後半には実際のレクチャーと質疑応答の録音テープが書き起こされている。「手作りの美学」という書名は、グリーンバーグ自身が決めていたものだ。それは、美的体験による作品の価値判断は、結局個々人それぞれの眼と感性、即ち「趣味Taste」によるほかないという、彼の考え方を物語っている。私たちは、誰であれ、考える以前に美的(感性的)判断を行っているのであり、この個人による孤独な判断という条件から逃れられない以上は、それを自覚することから始めざるをえない。正解があるわけでもないし、極東の島国の伝統から抜けられるわけでもない。その意味で、現代でも、欧米でも、アジアでも、日本でも美的判断の条件は同じなのである。
グリーンバーグは、そのような美的判断の基準について、次のように書いている。「基準(criteria)は、直接的で、個人的な経験に由来するのであって、それ以外にはない。水準(standard)は、美的基準として、やはり同じことを意味している。私たちは、同様な仕方で水準を獲得する。しかし、ここで用語の違いを云々することは無意味である。“趣味 taste”、それは18世紀以来、基準に対する不信が示されてきたあらゆる傾向の中で、何とかかんとか生き残ってきた言葉だが、趣味はこの基準にも水準にも適用できる。色々と難しい面があるにもかかわらず、”趣味“という言葉は“基準”よりも、そして “水準”よりも誤解を招くことがより少ない。何故なら、趣味は定義されるべく求められることがあまりないし、個人とは切り離されるべきだと容易に主張できる代物でもないからだ。」Clement Greenberg “Homemade Esthetics Observations on Art and Taste” Oxford University Press, 1999 p.70
質問2これからの美術評論はどのようなものになりうるかをお答えください。
回答2:分かりません。
色々な立場の美術評論があると思うし、その将来も千差万別だと思います。私にとっては、美術評論(美術批評)は、個人的にいいと思った(美的判断として)展覧会、作品などについて、できるだけ誠実に言語化していく以外にないと思っています。いわゆる印象批評と同じだともいえると思いますが、これから、そこから一歩でも外に出られれば幸いです。