川島小鳥『サランラン(Sa-lanlan) 』(青幻舎、2025年)
川島小鳥の新しこそいい写真集『サランラン(Sa-lanlan)』を見た。ハングル語で「サラン(愛)」と「サラム(人)」をつなげた造語を意味するというこの写真集は、秋から翌年の春にかけて、川島がソウルを何度も一人旅する中で撮影した人や街、モノが納められている。実は、川島が『未来ちゃん』という写真集で爆発的に評価されている時期、あまり新しい写真家の作品を見ていなかったため、どのような写真家が理解していないまま今日に至っていた。
しかし、その制作姿勢として、90年代に活躍した写真家に似たものを感じていた。90年代は、新たな写真表現と芸術が雑誌メディア、特に急拡大した音楽業界などを中心に活躍していた時代といってよいだろう。アイドルを中心として、職業作曲家と職業歌手のように分業が主流だった80年代までと違って、シンガーソングライターや自分たちで楽曲をつくるバンドが一気に増えた。そこにおいてミュージシャンは、パブリックな存在というよりも、個人的な内面を表現する詩人のような存在となっていった。そのような新しいミュージシャン像を写し撮るのに、職業写真家よりも、こちらもまた詩人のように個人的な表現として写真を撮る写真家が求められた。時にはそのような写真家がミュージッククリップの映像を撮ることもあった。2000年代になると音楽業界がデジタル化や配信化に伴い、徐々に廃れていき、音楽業界の中で写真表現を拡張させていた写真家たちの活躍も見えにくくなっていく。
その中で、川島小鳥は、詩人のような90年代的な写真家の佇まいを2020年代に残した写真家といえるかもしれない。写真の中には詩情が溢れている。特定の被写体を追った写真が多いので、ポートレートの要素はあるが、生活を共にしたり、時間を共有したりする中で、その人を取り巻く「空気感」を写し出してく。それは被写体との密度の高い交流がないと撮ることができない。時に被写体と自分が一体化したり、被写体に乗り移ったり、被写体が自分に乗り移るような、主客が無限に交錯する経験といえるだろう。
そこにおいては、写真の技術よりも、コミュニケーションの能力の方がはるかに重要になる。同時に写真が介在しているからこそできるコミュニケーションということもいえる。いずれにせよ、その写真の持つ潜在的な力とコミュニケーション能力によって、被写体を選び取り、新たな時代の肖像を生み出してきた。絵画がほとんど肖像画を描かなくなった現代において、無名の被写体を、人々が目を見張る存在にすることができる稀有な写真家であるといえる。
その後、台湾をモチーフにした写真集では、1人の被写体だけではない広がりを持たせるようになり、最新作『サランラン』においても、繰り返し登場する少年を基調にしながらも、さまざまな人物、シーンを写し撮り、詩情豊かな世界を描いている。被写体は人物だけではなく、ふとした街や部屋の光景が撮られており、何等かの造形的な類似性があるわけではないが、独特な色調、陰影、モノの配置が演出的で、被写体から語り出してきそうな印象を覚える。人影は少なく、余白が多い、誰もが凝視しないスキマを切り取る視線が泳いでいく。それは写真家の内面の投影でもあり、擬人化された風景でもあるからだろう。そこにはかつてのような主客一体化したものはなく、それだけに孤独や寂寥というものも感じられるが、距離があるからこそ返って被写体とのわずかなつながりに温もりや愛しさを感じる。そういった類の写真だ。そして、つぶやき声のように「サランラン(Sa-lanlan) 」というメッセージが写真集にこだましている。
このような日常の中に潜む、明確な言葉にできない「あわい」の出来事は、写真家にしかつかみ取れないものかもしれない。写っているモノ自体が美しいわけでは決してないが、その関係性によって美しくみえる。そして、特定の人物が後景化することによって、写真家自身の心象がより強く押し出された写真群といってもよいだろう。
実際ほとんど一人旅のようなスタイルで撮影された写真であり、詩情の中に郷愁・ノスタルジーのような印象を抱かせるのは、川島自身が高校時代にソウルに留学していたからであり、その時に思い出が、1人の少年も含めて二重写しになっているからであろう。川島の高校時代はまさに90年代の半ばであり、90年代的なものを感じるのも偶然ではないかもしれない。
しかしすでに90年代の半ばからは30年の月日が経っている。インターネットやスマートフォンの登場によって世界は大きく変わり、なかでも人間のコミュニケーションの在り方自体を変えたことが一番大きな影響ではないだろうか。あらゆる情報がスマートフォンから見る時代において、写真集という古い形式自体にある種の懐古趣味的なものがあるかもしれないが、やはり「紙の束」だからこそ見えてくるものがあると改めて感じさせてくれる。流れる時を止めるのが写真であるならば、スクロールではなく、めくるという行為で写真を眺めることで見えてくることがある。また、光沢ではなく、しっとりとした、色がやや沈む紙が、澄んだ空や冷たい雨、雪景色の中にも、手触りと温もりを感じさせる。シャボン玉に映り込む光と色は、美しい思い出、そして消えていく時を象徴しているようにも見える。
本書を見ることで、敵と味方に分かれ距離がないメディアで感情がぶつかり合うソーシャルメディアと、憎しみをぶつけあう紛争や戦争が激化するなか、どちらでもない「あわい」や余白の中に美しいもの、愛しいものがあることに気付かされるだろう。