現代美術のターニングポイントを鮮やかに切り取る 開館50周年記念 特別展「Back to 1972 50年前の現代美術へ」西宮市大谷美術館 三木学評

西宮市大谷記念美術館 開館50周年記念 特別展「Back to 1972 50年前の現代美術へ」
会期:2022年10月8日(土)〜12月11日(日)
会場:西宮市大谷記念美術館

今年も多くの展覧会や芸術祭が開催され、識者によってノミネートがされているが、私が印象に残ったのは西宮市大谷美術館の開館50周年記念 特別展「Back to 1972 50年前の現代美術へ」である。最近見た展覧会だから記憶に新しいという理由も大きいが、「美術館」で行う展覧会の意義を改めて感じさせられた。

本展は、西宮市大谷美術館が開館した1972年に主に関西で制作された現代美術作品を集め、そこから時代性を問う意欲的な試みであった。「Back to 1972」と銘打たれているように開館した1972年という時代がどのような時代だったのか振り返ることが当初の企画であったと思うが、調査する中で社会においても現代美術においても、1960年代から70年代の転換期として、1972年という年がある種のターニングポイントであることが次第に浮かび上がってきたのではないか。60年代から70年代というと、例えば国立国際美術館で開催されたコレクション展「コレクション 1 : 1968年展――新しいパラダイムを求めて」のように、1968年に焦点が当てられることが多い。1968年は、パリ5月革命に象徴される、学生運動が世界的なムーブメントになっていたからだ。あるいは、日本では大阪万博や東京ビエンナーレ「人間と物質」展が開催された1970年が重要視される。

現代美術において、1972年というのは大阪万博後のシーンであると同時に、関西では絶大な影響力を誇った具体(具体美術協会)後のシーンに移行するターニングポイントでもある。なぜなら具体のリーダーであった吉原治良が1972年の2月に没し、具体もその年に解散しているからである。そして、物質や素材の使い方の新規性や多様性を重視した具体から、より観念的で還元的なもの派を代表するシーンに移行していった。

本展では、1972年という時代に絞ることで、その転回を鮮やかに切り取っている。展覧会は、第0章「1972年」という時代、第1章「1972京都ビエンナーレ」と関西のアートシーン、第2章具体美術協会の変遷、第3章現代美術の点景、第4章版画の躍進という5章の構成で1972年に起きた地殻変動を明らかにしている。

特に骨格となっているのは、1972年2月に京都市美術館で初めて開催された「京都ビエンナーレ」と、同月に亡くなった吉原治良とその後の具体の動きである。「京都ビエンナーレ」は、同じく京都市美術館で1957年から開催されていた無審査展「京都アンデパンダン展」よりも積極的に支持するために企画された展覧会で、「京都アンデパンダン展」と隔月で開催され1976年で終了しているが、第1回は野村仁や植松奎二、北辻良央、河口龍夫といった、より言語や観念、写真や映像、コピーといった複製メディアを用いる新しい世代の作家が招聘されている。本展では、特に1972年2月に的を絞り、観念やコンセプトを嫌い、具体的で物質主義的な具体からの観念的な表現への移行を象徴的に取り上げたのだろう。

第2章では、大阪万博後の吉原がどのようなヴィジョンを持っていたか。また吉原が急逝した後、翌月の3月31日には解散し、それぞれで活動するようになる具体の変遷を、残された資料から克明に伝えている。吉原は、ミシェル・タピエの影響で絵画に回帰していた時期から、大阪万博で集団的で、インターメディア的な表現を大々的に展開した。さらに、1972年には10年に1回オランダで開催される国際園芸博覧会フロリアーデ( Floriade)に、具体メンバーによるバルーンの作品を出品することを計画していたことが、残された手紙から明らかになっている。3月30日のオープニングに間に合わせるためにフロリアーデの委員会とやりとりしている手紙やメンバーのプランが展示されており、大阪万博の先を見ていたことがわかる。しかし、吉原がいなければ具体という団体が成立しないことは、没後にすぐ解散を決めたことからも明らかであろう。

1972年に制作された白髪一雄や松谷武判、元永定正ら初期の主要メンバーや今井祝雄や松田豊といった後期の作家たちは、同じグループとは思えない作風になっており、それは吉原という強烈なリーダーによってまとめられていたといえるだろう。白髪の作品は、スキージで削るリヒターの抽象画を思わせるし、松谷武判はハードエッジの作風を意識していたという。世界的な動向と連動し、時に先行しながらそれぞれの展開を見せていたといえる。

第4章では、「現代美術の点景」として、具体と京都ビエンナーレの奥にあるシーンとして、もの派を代表する作家である李禹煥や耳の彫刻で独自の作風を築いた三木富雄、写真によって実在と不在を表現した木下佳通代などの作品に加えて、さまざまな同時代の作家を記録した安齊重男の写真が展示されている。安齊の写真からも、1972年に関根伸夫や小清水漸、菅木志雄など多くの「もの派」の作家が写されていることがわかる。

第5章の「版画の躍進」は、現在ではその記憶は薄れているが、「版画の黄金時代」と言われ、版画が芸術として注目を浴びていた時代であることが明らかにされている。特に、高松次郎やもの派の作家である榎倉康二、吉田克朗に加え、下谷千尋など現代美術の作家による版画表現も目立つ。泉茂や吉原英雄など、関西の版画シーンも活況を呈していたことが、豊富な資料とともに示されている。

第0章の「1972年」という時代で展示されている、亀倉雄策がデザインした、2月に開催された札幌オリンピックのポスター、荒川修作がデザインした会期中の9月5日、パレスチナのゲリラが、イスラエル選手宿舎を襲撃した大事件となった、ミュンヘン・オリンピックのポスター、そして、永井一正がデザインした、1972年5月にアメリカから返還され、その記念として1975年に開催された沖縄海洋博のポスターなどには色濃く時代が反映されている。それらの華やかな側面の裏面として、ユージン・スミスが撮影した「水俣」を展示するなど、高度成長期には公害問題が多発していたことが示されている。そして1973年にはオイルショックが起こり、高度成長は終わる。社会的、経済的にも1972年は戦後日本のターニングポイントだったのだ。

今年は40年の計画を経て開館した、大阪中之島美術館と国立国際美術館による大規模な具体展や、国立新美術館と兵庫県立美術館を巡回している李禹煥展など戦後日本の現代美術を代表する具体ともの派についても再度注目を浴びている。

しかし、関西中心の具体と、関東中心のもの派ということもあり、その間や背景をつなぐものはあまり語られてこなかった。本展では1972年という吉原の没年と、京都ビエンナーレにフォーカスを当てることで、うまくそれを補完している。1972年に制作されたという縛りで、よくここまで豊富な展示ができたと思うが、美術館のネットワークと資料によって実現している。すでに評価が定まったり固定化した歴史に異なる視点を当てて、別の系や可能性を引き出すのがキュレーションや美術館の大きな役割であることを再認識させられたし、小さな美術館でも企画さえ明確ならば可能であることが示されたと思う。

本展を見ていれば、具体展や李禹煥展を見る視点はより豊かになっただろう。その時期に合わせたことも非常に秀逸であった。このような企画を今後も期待したい。

著者: (MIKI Manabu)

文筆家、編集者、色彩研究、美術評論、ソフトウェアプランナー他。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行っている。
共編著に『大大阪モダン建築』(2007)『フランスの色景』(2014)、『新・大阪モダン建築』(2019、すべて青幻舎)、『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020)など。展示・キュレーションに「アーティストの虹-色景」『あいちトリエンナーレ2016』(愛知県美術館、2016)、「ニュー・ファンタスマゴリア」(京都芸術センター、2017)など。ソフトウェア企画に、『Feelimage Analyzer』(ビバコンピュータ株式会社、マイクロソフト・イノベーションアワード2008、IPAソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤー2009受賞)、『PhotoMusic』(クラウド・テン株式会社)、『mupic』(株式会社ディーバ)など。

https://etoki.art/

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