大正時代に京都の日本画壇を席巻した甲斐荘楠音(かいのしょう・ただおと、1894〜1978年、「甲斐庄楠音」との表記も)の事績を顕彰した「甲斐荘楠音の全貌 絵画、演劇、映画を越境する個性」展(京都国立近代美術館と東京ステーションギャラリーを巡回)が終了した。筆者は今年、京都展と東京展の両方を鑑賞、さらには京都展と同時期に京都の星野画廊で開かれた「甲斐荘楠音の素顔 ーその知られざる素描の魅力ー」展もじっくり見る機会を得た。この場を借りて、雑感を記しておきたい。
=====
◆「甲斐荘楠音の全貌 絵画、演劇、映画を越境する個性」
◎京都展=京都国立近代美術館/2023年2月11日〜4月9日
https://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionarchive/2022/452.html
◎東京展=東京ステーションギャラリー/2023年7月1日〜8月27日
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202307_kainosho.html
◆「甲斐荘楠音の素顔 ーその知られざる素描の魅力ー」
◎京都・星野画廊/2023年3月4日〜4月1日
https://hoshinogallery.com/yokoku/index_202303.html
=====
2つの美術館を巡回した「甲斐荘楠音の全貌」展で特徴的だったのは、甲斐荘の後半生の活躍ぶりが実作で顕彰されたことだ。人生半ばにして日本画の世界を離れ、映画美術の分野で活動していたことは以前から知られていたが、具体的な内容はあまり明らかになっていなかった。
時代劇の衣裳数百点の発見で後半生の顕彰が劇的に進む
ところが、2018年に映画会社「東映」の倉庫で甲斐荘がデザインした数百点の衣裳が発見されて、状況が変化する。それらは、溝口健二監督『雨月物語』や佐々木康監督『旗本退屈男』シリーズなどの映画で使われた衣裳の実物だった。まさに第二次世界大戦後の邦画の黄金期に、甲斐荘は映画美術の最前線にいたことがわかったのだ。そこで筆者が考えさせられたのは、甲斐荘が本当に表現したかったのは何だったのか? ということだ。
2021年に東京国立近代美術館で開かれた「あやしい絵」展で大きく紹介されて以来、一般には、甲斐荘は「あやしい絵」を描く代表的な画家としての認知が広がっていたように思う。その方面で評価の対象となったのは、主に大正時代に描いた日本画の数々だ。京都国立近代美術館や広島県立美術館がそれぞれ所蔵する《横櫛》をはじめとする甲斐荘の多くの作品は、女性を艶やかに描きつつ、多かれ少なかれどこかに「陰」の部分を表していた。
性別にかかわらず、大抵の人間には陰の部分と陽の部分があるものだろう。一方、しばしば理想化の傾向を伴う肖像画を描くに当たって「陰」を表すのは画家にとって少々勇気がいるが、画家の個性の表出にもなりうる。陰と陽の両方を描くのは、描かれた人物の内面を含んだ意味でのリアリズムの表現にもつながる。
「あやしい絵」を描かせた時代の空気
「あやしい絵」を描くのは、実験的な空気に満ちていた当時の京都の日本画壇の空気の反映でもあった。甲斐荘とともに近年クローズアップされている岡本神草や秦テルヲなど、あやしさやデカダンスを表現する画家は周囲に多かった。画家たちは西洋から入ってきたリアリズムなどの表現を独自に咀嚼し、積極的に自らの表現に取り入れようとしていたのだ。
・岡本神草《口紅》(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)
http://libmuse.kcua.ac.jp/muse/data/203080001000.htm
甲斐荘はその先頭を走っていた画家である。裸婦を描いた油彩画などをその視点で見ると、甲斐荘の才気が実によくわかる。リアリズムの極度の追究から、一見グロテスクにさえ見える作品もある。しかしその実験精神をじっくり受け止めると、魅力につかまれる。いわゆる洋画(主に明治以降の日本人の油彩画の総称)でも、ここまでのリアリズムを追究した画家はなかなか見当たらない。見た目のリアルだけでなく内面を描写しようという表現主義的な側面が強い作品もある。甲斐荘は、絵筆を持って濃密な実験を繰り広げていたのだ。
・甲斐荘楠音《裸婦》(京都国立近代美術館蔵)
https://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=150363
「あやしい絵」という呼称は、近年の展覧会で流布したキャッチフレーズのようなものだ。甲斐荘は日本画に西洋の画風を貪欲に取り込む中で先端の表現を求め、画家としての矜持を強く持った結果、一部の作品であやしさをたたえるようになったと考えてはどうだろう。
甲斐荘は美貌の男性だった
一方、国画創作協会展などで発表した日本画とは別に、甲斐荘には耽美的な表現を追う側面もあったと見られる。映画の世界に入る道筋として、甲斐荘と芝居の関係を考えると、その辺りが少し見えてくる。
「甲斐荘楠音の全貌」展の図録によると、甲斐荘は幼少時から歌舞伎を好み、劇場に通っていたという。京都市立絵画専門学校に通っていた大正初期には、「観劇の記録を多数のスケッチブックに残した」とも。実際、会場に展示されていたたくさんのスケッチには、甲斐荘の芝居愛がにじみ出ていた。歌舞伎の題材である「道行」などを描いた彩色画や文楽の絵も展示されていた。そこに物語から生まれる悲哀などの感情を揺さぶる場面が描かれていることはあるが、必ずしも《横櫛》などで描いたようなあやしさが表されているわけではなかった。
加えて印象的だったのは、甲斐荘本人が演じた女形の写真の数々だ。まず、「演じる」こと自体が、甲斐荘の表現の重要な要素だったと考えていい。おそらく、俳優のように写真に撮られることも好んだのではなかろうか。甲斐荘はもともと美貌の男性であり、女装も似合っていた。今で言うLGBTQに属する人物でもあった。ナルシズムが入る余地もあったかもしれない。
星野画廊の展示を見てわかった男性美の模索
星野画廊の「甲斐荘楠音の素顔 ーその知られざる素描の魅力ー」展を見ると、さらなる発見があった。数十点に及ぶ素描類が展示されていたのだが、モチーフのほとんどが男性だったのだ。多くは裸体で、実にさまざまなポーズを取っている。何気ない日常の一コマといったもののほか、演劇の仕草を思わせるものもあれば、仏像のようなポーズをした男性も描かれている。男性の美の描写を極めようと模索した様子がうかがわれるのだ。
・星野画廊の企画展と同時に刊行された画集「甲斐荘楠音 知られざる名作ー官能と素描」
こうした経緯を考えると、甲斐荘が大正時代に描き始めた《虹のかけ橋(七妍)》(1915〜76年、和樂webに掲載された筆者と菊池麻衣子さんのトーク記事をぜひご参照ください)という屏風作品に登場する7人の太夫の顔を、晩年にすべて描き直したというエピソードにも合点がいく。描き始めた頃はあやしく、晩年は耽美的な表現を意識したのではないかと思わせるのだ。描き替えが成功したといえるかどうかには異論もあろうが、甲斐荘の求める傾向の根本はここに見えるのではないだろうか。
映画の世界に移ったのも、おそらく、そこに甲斐荘が求めるものがあったからだ。画家としての活動が盛んだった大正時代は、まだ日本では映画が盛んな状況ではなかった。しかし、第二次大戦後の邦画はまさに黄金時代を築いていた。もちろん、甲斐荘にとって映画は歌舞伎や文楽などの芝居の発展形だったはずだ。「甲斐荘楠音の全貌」展で展示されていた多くは男性の衣裳だったが、それらは現実の武士の戦いの場面ではありえない麗しさと華やかさを放っていた。そこには、できるかぎりの美を追求した甲斐荘の願望が現れていたのではないか。
《畜生塚》の筆が止まった理由
最後に一つ、《畜生塚》(1915年頃)という八曲一隻の屏風作品のことを記しておきたい。《畜生塚》は女性の裸体の群像だ。西洋人のプロポーションの女性ばかりが、嘆きや祈りを表すさまざまなポーズで、まさに「塚」を成すように描かれている。中心にはピエタ(死んだキリストの亡骸を抱えたマリアの図)を模したと思われる描写もある(ただし、亡くなったと見られる人物像は女性だ)。西洋的な陰影法も使われている。残念なことに作品は完成からは程遠く、ごく一部が白と黒で彩色されている下絵の状態で終わっている。
・甲斐荘楠音《畜生塚》(京都国立近代美術館蔵)
https://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=150360
筆者がこの絵を初めて見たのは、1987年、東京・池袋の西武アート・フォーラムでのことだった。百貨店の一角で甲斐荘の展覧会が開かれていたこと自体、今考えるとすごいことだなとも思う。ある場所でこの絵が発見されて初めての展示だったと聞いている。当時はなぜ、屏風に西洋風の裸体画の群像が描かれているのか、なぜ未完成なのか、筆者にはわからないことだらけだったが、その後ずっと、残像が脳裏にこびりついて離れなくなっていた。実によく思い出すのだ。何かしらの強烈な魅力があったということだろう。
一つ特に気に留めておきたいのは、この絵が「あやしい絵」を盛んに描いていた頃の作品だったことである。しかし、この絵の個々の女性像には、いわゆるあやしさは表現されていない。下絵の段階で筆が止まっていたからかもしれない。また、この絵に関するほかのスケッチや草稿から推し量ると、完成作で描こうとしていたのは裸体ではなく着衣の女性の群像だったと見られる。裸体で人物の核となる部分を描いた後に着物を着せることで、人物描写のリアリズムを追究するといったことが、裸体を描いた理由と考えられる。甲斐荘自身がこの絵に描かれた女性のポーズをした写真が多く残っていたことからも、力の入れようがわかった。
では、なぜ筆が止まったのか。以下は、筆者の愚考である。大きさや描画内容から推し量ると、この絵はおそらく当時の甲斐荘の集大成になるはずだった。とことんリアリズムを追究し、内面の表現も極めようとした。だが、あやしさと耽美のせめぎ合いの収拾がつかなかった。だから筆をおかざるをえなくなったのではないか。
※本来は展覧会の会期中に執筆を終えたかったのですが、遅筆から終了後の記事公開になったことをお詫びします。