第29回TARO賞の展示を過日、鑑賞してきました。面白いな、と思う部分とそうでもない部分が混在するような複雑な気分に襲われました。自分の心に正直に、勇気を持って、鑑賞した時の気持ちを吐露してみたいと思います。
【作者は変われど“不変”のTARO賞?】
私が毎年のようにTARO賞を鑑賞するようになってから、かなりの年月がたちました。毎年、充実した作品群が並びますから、わざわざ会場に足を運ぶだけの価値はもちろんあると思います。それは間違いないことではあるのです。
しかし、一方でこうも思うのです。毎年、入賞する人間が変わっていっても、作品の放つ雰囲気・印象が変わっていない気がしてきたのです。すごく嫌味な言い方をすると、ラベル(≒作者)だけ張り替えた、同じワイン(≒作品)を毎年飲んでいるような気がするのです。美術ファンの皆さんもそう思いませんか?

「FUKUSHIMA5000」
例えば、今年の最高賞「岡本太郎賞」に選ばれた、高田哲男「FUKUSHIMA5000」はどうでしょうか。東日本大震災から約15年(5440日)が経過したので、その日数と同じ枚数のイラストを描くというコンセプトです。非常に貴い仕事です。こつこつ福島の現場を訪ね、福島第一原発のたどった経過、周辺で暮らす人々の様子を追いかけた仕事は高く評価できると思います。何の文句もないです。圧倒的に「TARO賞」の名に値します。私は、高田さんの仕事にリスペクトを持ちます。「おめでとうございます」と心底から高田さんに伝えられます。これからも高田さんの活躍に期待したいと思うのです。
ところが、一方で、このTARO賞には圧倒的な既視感も漂います。2025年、つまり昨年のTARO賞は皆さんも覚えていますよね。仲村浩一「房総半島勝景奇覧/千葉海岸線砂旅行」でした。千葉県の海岸沿いを歩きながら、10歩歩くごとに砂を集めて制作した作品でした。大変な力作ですし、間違いなく労作です。誰もがこんな作品を作れるわけではありません。構想力も必要ですし、技術力も必要です。何よりも4年間も歩き続けるというパッションには頭が下がります。やはり、仲村さんの作品もTARO賞に値すると心から思うのです。
【TARO賞、毎年の共通点とは】
しかしですね、今年と去年のTARO賞にはある共通点が浮かんできますよね。
①小さな営為をしつこく愚直に積み重ねて、最終的にどーんと大きな作品として見せる②個的な記憶に立脚しながらも、日本の現在(いま)を鮮やかに照射する③決して教条的ではない社会性を作品に自然な雰囲気で溶け込ませる。巧拙よりも大事なのはあふれる情熱だ!ーーと、そんな共通点が間違いなくあると思うのです。
受験勉強の「傾向と対策」ではありませんが、私がアーティストだったら、「5年後にTARO賞を取ってやる」と決めたら、こんな対策を取るでしょうね。嫌味なこと書いて、TARO賞に関係する皆さんの気分を害したらごめんなさい。
▽まずは自分のルーツを深く内観し、探ってみる。本土に組み入れられてしまう前の琉球からヤマトに留学していたウチナーンチュである母親とヤマトンチュである父親との間に生まれたのが私。琉球には常に関心を持ってきたから、琉球をテーマにしよう。
▽琉球をテーマに据えるとしたら、泥沼化している辺野古新基地の建設問題が適切なのではないか? 社会性もあるし、自分の個的なアイデンティティーともかかわりがある問題だ。
▽取り組むのは「政治運動」ではなく、あくまでも「アート」なわけだから、あまりにも闘争的な内容にすると審査員からドン引きされるかもしれないから、ここは慎重に工夫を凝らしたいところだ。「マヨネーズ並み」とも表現される軟弱な粘土質の泥が辺野古の埋め立て工事を阻害している現状を踏まえ、どろどろの泥を制作の中心に据えてみたら面白いのでは?
▽辺野古で座り込みをしている人々や米軍の動きなどを詳細にスケッチしていく。1日1枚のノルマで、5年間(1830日)、毎日、様々なスケッチを描く。時には、沖縄の現場の様々な文物のフロッタージュも織り交ぜてみたい。辺野古周辺にまで視野を広げても面白いかもしれない。
▽美術館に飾るときは、中央にドロドロの水が流れ続ける(循環する)滝のような巨大装置を設置し、パウチしたスケッチが泥に洗われ続けるようにする。そしてパウチはしていないスケッチをその装置の周りにぐるりと隙間がないくらいびっしり並べる。
▽辺野古の現地で継続して制作したZINE(小冊子)も会場に並べて、来場者に読んでもらう。
▽作品のタイトルは、「ちむわさわさーへのこ」(辺野古のせいで気持ちが落ち着かないなー)、「辺野古むちゃむちゃ」(ねばねば辺野古)のように琉球語を織り交ぜたものにしたい。
いかがでしょうか?
こんな対策を取って、賞を取りに行こうとするアーティスト(≒私)をあなたなら責めますか?
私は責められないですね。アーティストとして評価されたい、注目されたいと思ったら、大きな賞を取るのが一番、効果的と考えてしまう若者(含む大人)を責められませんよね。問題なのは受賞者が10年後も活躍しているかどうかですが…なかなか作家として注目を集め続けるのは難しいものなんですよね。
私が書いた対策は、過去のTARO賞受賞作を頭に入れて、即興で編み出したものです。まぁ、色々なバリエーションは可能でしょう。
熊本県水俣市に伝わる「龍王物語」伝説と水俣病を関連付けた、壮大なテーマのアート作品を構想してもいいでしょうし、静岡県熱海市の伊豆山土石流災害と「赤白二龍の伝説」を重ね合わせてフォトコラージュを制作してもいいでしょう。
【「賞ありき」の問題点】
ただ、ここで問題となるのは、「賞を取りたい」という思いが先にあって、そこからテーマを構想してしまうという行為に漂う虚無感です。本来、賞だの評価だのとは関係なく、「創りたいから創る」のがアートだと思うのですが、賞を取るために戦略性を持って、様々なことを考え出すと、すべてが逆さま、あべこべになってしまうと思うのです。
高田さんや仲村さんが、先に賞ありきで作品を制作したと私は言っているわけではありません。彼らは、もちろん元から千葉や福島で作品を制作する初期衝動をお持ちだったと確信しています。ただ、すべてのアーティストが、彼らのようなしっかりした動機を持っていないケースも多々あると思うのです。そうなると、頭でひねり出したテーマ、「傾向と対策」を踏まえたテーマになる恐れがあるということです。内発的な動機か、それとも外発的な動機かを今、私は問うているわけです。
夏目漱石(1867~1916年)の講演録「現代日本の開化」では、西洋の開化が内発的で、日本の現代の開化は外発的であると定義づけた後に、こう続きます。
内発的と云うのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向うのを云い、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。
TARO賞を取るために制作テーマを探そうとするのは、まさに「外からおっかぶさった他の力」による、すなわち外発的な行為になってしまうのです。
【魅力即欠点】
最高賞のTARO賞以外でも、毎年共通している雰囲気が会場内に漂っているのは皆さんもご存じのはずです。
宗教的というか、呪術的というか、どこかおどろおどろしい感じの作品群がありますよね。

「New Western Paradise」
仏教の声明をテーマにした德本道修「New Western Paradise」は、声明の「美しい荘厳によって日本的霊性を喚起する」ことが狙いの一つとして掲げられていました。薄暗い闇は赤い光で満たされ、かなり、おっかない感じがしました。
鈴木藤成「僕と鬼の云々」の場合は、神社の写真にブルーシートの切り抜き文字を重ね合わせた絵画と山形の限界集落に打ち捨てられていたブルーシートから形作った鳥居で構成されていました。こちらも德本作品同様、おどろおどろしい雰囲気です。
まぁ、TARO賞に限らず、入選作品全般に共通しているキーワードは例年、同じようなものです。今から思いつくまま列挙してみましょう。
土俗、民俗、習俗、宗教、仏教、呪術性、身体性、生理、自然、情念、集合的無意識、演劇的、時間の堆積、土砂、闇、黒、赤、曼荼羅、びっしり、ぎっしり、みっちり、大量、巨大、ベラボー、型破り、蔓状の繁茂、素人臭さ、ギミック、ミラクル、パワフル、ワンダフル、「芸術は爆発だ」……。
まぁ、これらのワードが放つ世界観は、魅力あふれるものであるのは確か。しかし、毎年、毎年、似たようなテイストが続くと、本稿冒頭で私が指摘した通り、「ラベルだけ張り替えた、いつも同じワイン」のような感覚が漂うのです。TARO賞の魅力は、そのままTARO賞の“欠点”に直結しているのです。
賞のテイストが固定化すればするほど、辺野古のドロドロ具合を1800枚以上のスケッチで表現するような市原作品を始めとするTARO的なる応募作品が、毎年、大量に出品され、その中からとりわけベラボーな作品が賞を受賞するという繰り返しになってしまうわけです。こんなので、「めでたしめでたし」とか言って、自己満足してしまって良いのでしょうか?
【30回の節目に大変革を】
次回は節目の30回を迎えるわけですから、この際、完全に固定化してきたきらいのある「TARO賞的なるもの」をいったん全否定して、ゼロからスタートする好機かもしれませんよ。そのためにも審査するメンバーを大幅に入れ替えたり、20~30歳代の若手にしてみたり、様々な新しい取り組みをされたらよろしいかと思います。恐らくですが、泉下にいらっしゃる岡本太郎さんも「うん、どんどん新しいことに挑戦しろっ」とだけ言って、抜本的な賞の変革には賛意を示してくれるのでは?

「春の山の調べ」(部分)
閑話休題。29回展で筆者が気になった作品を紹介していきましょうか。鈴木美緒「春の山の調べ」は、富山県の立山連峰の形で色とりどりにサテンを編み込み、屏風の形として立ち上げた作品。すっきりきれいに仕上げているため、あまり「TARO臭」が漂っていない点に好感を持ちました。サテンの質感は、ベラボーでもなんでもない。肩に力が入りすぎていない普通っぽい感じが好ましかったです。

「建築のような物体X」(部分)
太田遼「建築のような物体X」は、不動産サイトに掲載された写真を元に模型を作り、深夜に実際の建物の前にちょこんとその模型を置き、写真撮影するという作品。リアルな建築物の前に置かれたフェイクの模型という対比が面白い。

「建築のような物体X」(部分)
さらに、模型の一つを超巨大化して展示会場に置いている。あまりにも巨大化しすぎて、写真はスカスカのボケボケになっている。実は現実の都市社会も内実はスカスカなのではないかと思わせる怖さも漂う。太田作品の巨大性は、TARO的なるベラボーさとは対極にあるもので、情念による巨大化というよりは、クールな論理性によって巨大化された印象があり、その点にも惹かれました。
たとえ、サイズが大きくても、太田作品のように、知的な感じにすることも可能なわけです。応募者の皆さんも、無理に「TAROっぽく」せず、自分の思う理想の造形を目指されたほうが、結果として入選するかもしれませんよ。もはや、TARO賞の関係者も「TARO賞的なるもの」に飽き飽きしている可能性だってあると思うので、自分の信念に従って、好きなように作品制作するのが一番です。
まぁ、なんだかんだ言いながらも、私はいつも「TARO賞」を鑑賞しに行っています。来年ももちろん鑑賞するつもりです。ここでしか出合えない作品が、確かにあるのは魅力です。ただ、もう少し多様性が出てきてもいいのかなと思い、本稿ではあえて苦言を呈した次第です。(2026年3月24日20時34分脱稿)

