「不在」が「存在」に変わるとき〜ロートレックとソフィ・カル@三菱一号館美術館

昨年から行く予定にしていた三菱一号館美術館再開館記念の「不在」と題された企画展に、年が明けてようやく行くことができた。サブタイトルは、「トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル」。なんとも不思議な組み合わせである。どちらもフランスの美術家とはいえ、時代も表現の形態も大きく異なる2人を同時に取り上げているからだ。しかも、ソフィ・カルは1953年生まれの現存の美術家である。これまで印象派等美術史上の画家の作品を取り上げることが多かった同館が現代の作家を取り上げたのは、初めてという。ならば、その試みがいったいどんな驚きを与えてくれるのかと、逆に期待が高まる。展示は、3階でロートレックの作品をじっくり見た後に、2階に降りてカルの作品を見る構成だった。

実はこの展覧会を見た美術関係の知人たちは概ね、この二人の作家を一つの展覧会で取り上げることに違和感を抱いていた。そうしたことを数多く聞いて逆に、意義が感じられるとひょっとしたら新しい発見があるのではないかと思い、感度を上げて鑑賞する意欲が湧いた。

ロートレックの線は人間の存在をあらわにする

展覧会が「不在」と題されていることからは、2人の作家の表現の共通点が「不在」という概念にあるのだろうと想像できる。少なくとも現代美術のテーマとしては、なかなか面白そうだ。では、近代の作家に属するロートレックには、どんな「不在」があるのだろうか。

ロートレックは、「人間だけが存在する」という言葉を残しているという。哲学者のデカルトが言った「我思う、ゆえに我あり」を意識したのだろうか? 哲学的な思索を促す言葉だ。そういえば、デカルトもフランス人だった。

しかし、展覧会のテーマは「不在」である。「存在」の逆である。

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アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ラルティザン・モデルヌ》(1896年、リトグラフ)三菱一号館美術館蔵

ロートレックが描いた多くのモチーフは、当時を生きた人間だった。えっ? それは普通なんじゃないかって? ロートレックが描いたのは、普通の肖像画とは違う。そこがポイントだ。ロートレックは当時のパリのカフェやキャバレーなどのポスターとして描いたものが多い。そこで表現されているのは、人間の生態なのではないだろうか。

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アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック『怒れる牝牛』(1896年、リトグラフ)三菱一号館美術館蔵

牝牛に追いかけられている立派な身なりの男は、いったい牛に何をしたというのだろうか? 犬や自転車、さらには警官らしき人が一緒に走っている。この1枚は、『怒れる牝牛』という月刊挿絵雑誌の雑誌の宣伝用のポスターなのだそうだ。「怒れる牝牛(LA VACHE ENRAGEE)」という言葉には、「興奮して怒った牝牛」、さらには「病気にかかって狂った牛」「食うや食わずの生活を送る」という意味があるという。この絵自体は「興奮して怒った牝牛」を描いているように見えるが、宣伝している雑誌名に多重の意味があるところから、男が逃げている理由も実は一つだけではないことが暗示されているのではないか? そんな解釈をするのも楽しい。

ロートレックは、19世紀後半のフランスに流入した日本の浮世絵の影響を受けたジャポニスムの画家として知られており、線にそれだけの力があるのもうなずける。線の肥瘦が人物の動きや表情を実に絶妙に表しているのだ。

会場で写真を撮れたのがカラフルなものが多かったため、ここに挙げた作品もカラフルなのだが、実は、ほかの作品はほとんどがモノクロームだった。だからといってつまらないということは、まったくなかった。むしろロートレックの描く線の力は、モノクロームのほうが際立っているように感じた。描かれたそれぞれの人物に、強い存在感があったのだ。ロートレックが線描に長けた画家であることを確認できたこと自体が痛快だった。

亡くなった父親の顔が携帯電話の画面に

ロートレックの作品で「存在」を大いに感じた後、ソフィ・カルの展示室に移った。カルは、正面から「不在」を表すことに取り組んでいた。亡くなった父と母の痕跡を作品にしていたのだ。

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ソフィ・カル《どなたさま》(2017年、協力:Perrotin)

父親が亡くなった後、カルは自分の携帯電話に父親の電話番号を残したままにしていた。そしてある時、その番号にうっかり電話をかけてしまう。すぐに切ったが、電話機の画面に父親の顔写真と名前が出たという。「不在」なはずなのに「存在」していたのだ。

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ソフィ・カル《目のまわりのあざ》(2020年 協力:Perrotin)   「父はすべてを計画し、葬儀では涙を流すなと私に命じていた。(中略)めざめると、目のまわりに黒いあざができていた。/涙の形になっていた。」との記述がある

個人的な話になり恐縮だが、これは筆者の極めて個人的な思いと響き合った。筆者は父を十数年前に、母を昨年亡くしているのだが、他界後のほうが両親の顔がよく心の中に出てくるのだ。生前は実際に会ったときに顔を認識するだけだったのに亡くなると顔が頻繁に脳裏に浮かぶことを、少々不思議に思っていた。カルの作品は、そんな疑問にも一つの答えを出してくれた。親は亡くなっても子の心の中に棲み続けているのだ。

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《時計》作家(ソフィ・カル)蔵   作品に並べて展示されていた。「存在」と「不在」は、時間を超えて混じり合うこともあるということか?

つまり、「不在」=「存在」ということになる。改めて「存在」とは何かということについて考える機会を与えてくれる展覧会だったことに感謝したい。

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【展覧会情報】
展覧会名:再開館記念「不在」 ―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル
会場:三菱一号館美術館(東京・丸の内)
会期:2024年11月23日(土) ー 2025年1月26日(日)
公式サイト:https://mimt.jp/ex/LS2024/

著者: (OGAWA Atsuo)

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩美術大学芸術学科教授。「芸術と経済」「音楽と美術」などの授業を担当。一般社団法人Music Dialogue理事。
日本経済新聞本紙、NIKKEI Financial、ONTOMO-mag、東洋経済、Tokyo Art Beatなど多くの媒体に記事を執筆。多摩美術大学で発行しているアート誌「Whooops!」の編集長を務めている。これまでの主な執筆記事は「パウル・クレー 色彩と線の交響楽」(日本経済新聞)、「絵になった音楽」(同)、「ヴァイオリンの神秘」(同)、「神坂雪佳の風流」(同)「画鬼、河鍋暁斎」(同)、「藤田嗣治の技法解明 乳白色の美生んだタルク」(同)、「名画に隠されたミステリー!尾形光琳の描いた風神雷神、屏風の裏でも飛んでいた!」(和楽web)など。著書に『美術の経済』(インプレス)