大大阪と阪神間に咲いたもう一つの洋画史「創立100周年記念 信濃橋洋画研究所―大阪にひとつ美術の花が咲く―」芦屋市立美術博物館 三木学評

「創立100周年記念 信濃橋洋画研究所―大阪にひとつ美術の花が咲く―」
会期:2024年6月22日〜8月25日
会場:芦屋市立美術博物館 

信濃橋洋画研究所が今年100年を迎えたことを受けた特別展「創立100周年記念 信濃橋洋画研究所―大阪にひとつ美術の花が咲く―」展が、芦屋市立美術博物館で開催されていた。

第1章「創立-講師四人と大大阪」展示風景

筆者は、明治から昭和初期にかけて大阪でつくられた近代建築のガイドブック『大大阪モダン建築』(青幻舎、2007)、戦前、クラブ化粧品で一世を風靡した中山太陽堂(現・クラブコスメチックス)とその子会社であった伝説的出版社「プラトン社」のデザインを紹介した『MOGA モダンガール』(青幻舎、2021)、さらに、1923年に百尺(約31m)の高さ規制の中で初めて建設され、多くの政財界の要人や文化人、さらには女学生が集った鉄筋コンクリート造のオフィスビル「堂島ビルヂング」の100年史を編著した経験から、信濃橋洋画研究所の活動について度々目にする機会があった。

特に小出楢重は、堂島ビルヂングの上層階、おそらく「堂島ホテル(後に堂ビルホテル)」から描いた《街景》(1925)は、堂島から中之島の都市風景を望む「大大阪」を象徴する風景でもあるので、多くの関連展覧会に出品され、書籍に掲載されてきた。近年、大阪中之島美術館に購入され、まさに大大阪時代のアイコンとなったといえる。「大大阪」とは、1925年に大阪市の市域が拡張され、人口日本一、世界で六位になったこともあり、巨大化する都市を称して付けられた。ただし、当時は、都市の拡張と人口の増加によって、大東京、大京都、大名古屋というように市域が拡張したどこの都市でも付けられていた。今でも「大大阪」が振り返られるのは、大阪がその時代に都市のアイデンティティを強く持っているからでもある。

一つのきっかけは関東大震災であることは間違いない。1923年9月1日、首都を襲った直下型地震は、文化人にも大きな影響を与えた。一時的に首都機能の代替的な役割を担い、シャープのように移転してきた企業もある。今日、日本の美学のように伝わっているものは、この時、関東在住の文化人が関西の伝統文化に触れて、発見したことも多い。その顕著な例は、谷崎潤一郎である。語学に対するコンプレックもあった谷崎は、関西移住をきっかけに上方文化を知り、『細雪』や『春琴抄』といった小説を生み出し、『陰翳礼賛』のような文化論も執筆した。初期に谷崎の関西での生活の世話をしたのは、劇作家の小山内薫である。小山内は、中山太陽堂の広報誌として出発した、プラトン社の『女性』『苦楽』の編集顧問も行っており、『痴人の愛』は、大阪朝日新聞が当局の警告で掲載ができなくなり、続きは『女性』に掲載された。ちなみに小山内は、藤田嗣治の従兄もであった。

民藝運動を主導した、柳宗悦も関東大震災後に京都に転居し、そこで関西の文化や工芸作家と知り、富本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎らと民藝運動を始める。彼らは、日本文化を単に勉強したわけではなく、再解釈・再構築したといえるが、それが「伝統」として伝わっていくことになる。良くも悪くも関東大震災がなければ、日本の文化は変わっていただろう。

信濃橋洋画研究所が入居していた日清生命ビル

信濃橋洋画研究所は、小出楢重、黒田重太郎、国枝金三、鍋井克之らが中心になって、1924年(大正13)年4月に開設された私設の洋画学校である。信濃橋というは、かつて西横堀川に架けられていた橋の一つであり、かつてその西側は信濃橋町と称されていた。信濃橋洋画研究所は、信濃橋から西に行った四つ橋筋と本町通が交わる信濃橋交差点の角に竣工したばかりの地下1階6階建ての、日清生命ビル(日清生命保険株式会社大阪支店)の4階に入居していた。信濃橋洋画研究所の設立も、関東大震災が大きく関係している。

小出は東心斎橋あたりに生まれるが、東京美術学校に進学。洋画科志望であったが、不合格であったため日本画科に編入を許された。後に洋画に転向し、1921年から1922年に渡欧する。1923年4月、小出は、同じく関西出身の黒田重太郎、国枝金三、鍋井克之らと一緒に二科会に推挙される。鍋井克之は小出と同じ東京美術学校西洋画科を卒業、黒田と国枝は関西美術院の出身であった。二科会は、1914年に保守的な文部省美術展覧会(文展、現日展)から分離した、洋画系を中心とした在野の美術団体である。

彼らはその年に開催される第10回二科展の準備を任され小出、黒田、国枝らは、東京にいた。しかし開幕初日の9月1日、関東大震災が発生しため中止となる。しかし、その間、二科展を巡回する案が持ち上がり、作品と共に貨物船で神戸に帰還。その足で大阪朝日新聞社の後援を取り付け、大々的に宣伝され大阪・京都・福岡の三都市の巡回展を成功させる。翌年渡欧していた鍋井も、被災した東京での活動を断念し、帰阪して行動を共にする。震災と二科展巡回展の成功体験は、信濃橋洋画研究所の設立につながり、洋画学校であるとともに、二科会の関西の拠点にもなる。

展覧会の構成は、プロローグ(創立前夜・1923年-第10回二科展と関東大震災)、第1章(創立-講師4人と大大阪)、第2章(洋画を学ぶということ-講師たちの修業時代の作品から)、第3章(日々の講習)、第4章(集った研究生たちの活躍)、第5章(夏季講習会)、第6章(信濃橋洋画研究所展覧会・全関西洋画展覧会)となっており、初期の講師になった4名の作品だけではなく、信濃橋洋画研究所のカリキュラムや輩出した人材を含めた状況を作品に加えて、メディアなどに掲載された豊富な資料で構成されていた。

当時、西洋画を組織として体系的に教えている場所は、東京美術学校と京都の関西美術学院くらいしか存在しなかった。大阪は美術学校がなかったので、私立ではあるが、初めての西洋画の教育機関であったといえる。本展ではどのような講師が集い、どのようなカリキュラムが組まれ、どのような人材を輩出したのか網羅し、ある種の「アートシーン」を形成していたことを明らかにしている。

近年、大阪中之島美術館で開催された「大阪の日本画」展や「決定版! 女性画家たちの大阪」展は、大阪の日本画の画壇が、学校のような公的な組織ではなく、画塾とパトロンという独自の生態系を築いていたことを明らかにした。信濃橋洋画研究所は、私設のものであったが、それよりもフランスから影響を受けたカリキュラムや発表機関などを備えた開かれた組織であったといえる。また大阪でも洋画の学習ニーズが高まっており、それに応えたものであった。設立に関しては二科会だけではなく、大阪朝日新聞社主の上野精一をはじめ関西の有力財界人も協力しており、新しいコレクターの層も広がってきていたことがうかがえる。

第2章「洋画を学ぶということー講師たちの修業時代の作品から」展示風景 黒田重太郎のデッサン

洋画を習得していくカリキュラムは、石膏デザイン、人体デッサン、油絵と進んでいき、それは現在の西洋画の授業内容と変わりはない。しかし、当時は洋画の需要はまだまだ少なく、発表機会も、画廊や画商もほとんどない。その中で、講師や研究生、夏期講習会の受講者の発表する研究所展を開催し、阪神間のコレクターの尽力によりセザンヌやゴッホ、マティス、ピカソの作家の作品も展示するなど画期的な試みをしている。研究所展は、公募形式の全関西洋画展覧会へ発展する。さらに、研究生の作品の普及と販売を目的としたヴァント・ア・レッセイ展も開催されていたという。

これらは100年前の話とはとても思えない内容で、洋画から発展した現代アートのコレクターは今でも少なく、冷戦終結、グローバリズム以後の新興コレクターに向けて、美術大学が卒業展覧会で作品を販売しているくらいである。また鍋井や小出が編集をした美術雑誌『マロニエ』も、4名の講師が表紙絵や挿絵を描き、多くの図版が掲載され、藤田嗣治らの寄稿も寄せられているという充実の内容であったという。このような、新しいアートに対しての啓蒙も未だに行われていることである。

第4章「集まった研究生たちの活躍」展示風景

研究生らは、全関西洋画展覧会だけではなく、二科展へ出品し、二科会で活躍するものも多く、さらに黒田、鍋井、田村考之介らが創立した二紀会、伊藤継郎らが所属した新制作派協会、古家新、小出卓二らが参加した行動美術協会など、さまざまな団体に分かれて積極的に活動していった。1931年には、大阪中之島に竣工した朝日ビルへ移転し、中之島洋画研究所と改称するが、戦況の悪化で1944年に閉鎖する。

第4章「集まった研究生たちの活躍」展示風景

閉鎖後も、多くの画家が、大阪市立美術館附属美術研究所や浪速短期大学、京都市立美術大学で教鞭をとり、後進を育てていくので、信濃橋洋画研究所の遺伝子はまだ生き続けているともいえる。また、大阪朝日新聞をはじめ、当時は在阪のメディアも多かったことから、メディアによる宣伝も経営や影響力にかなり功を奏していたように思える。メディアに多く掲載していたからこそ、今回のような充実したアーカイブの展示や、活動の実態を辿ることがきたといえる。

しかしながら、4名の講師をはじめ、これが世界に通用する作品かと言われると、個性の輝きはあるが、アカデミズムに取り込まれた後期印象派やフォーヴィスムの亜流といった印象で、時代的な限界を感じざるを得ない。当時、日本画の技法を転用し、伝統的な西洋画とはまったく異なる素材、アプローチでフランスにおいて大きな評価を得ていた藤田嗣治と比べれば見ている目線の高さがかなり違うように思う(ただし、黒田重太郎のように、戦後「洋画の日本画化」を別の方法で模索してく兆候も見られることは興味深い)。

そして、藤田の助言を経て、後に国際的な評価を得る具体美術協会(具体)の吉原治良は、二科会を経て具体美術協会を芦屋で発足する。吉原も大阪の生まれであるが、当時の大阪の成功した商人は、阪神間に別荘を持ち、後に大阪の生活環境の悪化に伴い、住居を移している。小出楢重も芦屋に居を構えていたし、谷崎潤一郎もそうである。本展でも、信濃橋洋画研究所だけではく、自宅アトリエで指導していた作品も飾られている。本展が、大阪を舞台とした洋画研究所でありながら、芦屋市立美術博物館で開催される所以もそこにある。芦屋市立美術博物館の敷地内には小出楢重のアトリエが復元されており、隣には、芦屋市谷崎潤一郎記念館があるのもそういうわけである。

小出楢重のアトリエ(復元)

後に吉原治良もグタイピナコテカを中之島に開館するが、その面影はほとんどない。大阪のアートシーンが継続してないように見えるのは、都心における美術・芸術大学や美術館の少なさに加えて、やはり都心に住んでいるアーティストが少なく、生活と連続性がないということが大きいだろう。国立国際美術館の移転や大阪中之島美術館の開館によって、少し状況が変ってきているが、市内に美術大学やスタジオ、アーティストの居住が増えないと、なかなか有機的にはつながってこないかもしれない。

とはいえ、当時の大阪のアートシーンの抱える状況に果敢に挑戦し、大きな種子を残したのは間違いなく、それは今日における大阪のアートシーンを考える上でも、大きなヒントになるのではないかと思えた。鍋井克之が第1回研究所展に寄せた「大阪にも一つの花が咲く」という言葉が、本展の副題では「大阪にひとつ花が咲く」と「も」が消されているが、彼らの実感としては、明らかに、東京・京都だけでじゃなく「大阪にも」という意味であっただろうし、その状況は今も変わらない。しかし、彼らがそうして花を咲かせたならば、「大阪にもふたたび」となることも不可能ではないだろう。

著者: (MIKI Manabu)

文筆家、編集者、色彩研究、美術評論、ソフトウェアプランナー他。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行っている。
共編著に『大大阪モダン建築』(2007)『フランスの色景』(2014)、『新・大阪モダン建築』(2019、すべて青幻舎)、『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020)など。展示・キュレーションに「アーティストの虹-色景」『あいちトリエンナーレ2016』(愛知県美術館、2016)、「ニュー・ファンタスマゴリア」(京都芸術センター、2017)など。ソフトウェア企画に、『Feelimage Analyzer』(ビバコンピュータ株式会社、マイクロソフト・イノベーションアワード2008、IPAソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤー2009受賞)、『PhotoMusic』(クラウド・テン株式会社)、『mupic』(株式会社ディーバ)など。

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