「美術評論のこれまでとこれから」岡﨑 乾二郎

質問1これまでの美術評論でもっとも印象的なものについてお答えください。

「調査的感性術 真実の政治における紛争とコモンズ」マシュー・フラー+エヤル・ヴァイツマン(著)中井悠(訳)水声社 

1 
理性、悟性、感性という古典的な弁別に従うならば、美術批評が基づくのはまず感性である。人間の認識能力が悟性、理性によって統整されているとするならば、感性がとらえたものも、まず悟性、理性によって濾過され、仕分けられることになる。つまり感性は悟性、理性に従属してしまう。感性を通して外部から入力されたデータが、悟性、理性の認識フレームを改新するものになることは決してない。
 逆にいえば、感性に自律した役割が求められるとすれば、悟性、理性の限界、閉塞が自覚されているゆえにである。すなわち美学は、悟性、理性による判断の限界を超える判断(悟性、理性の枠を改新させる認識)を感性の働きのなかに見出そうとする学のはずであった。その意味で感性が十全に働いたならば、その過程を記述しようと試みる(悟性によって統御されていたところの)論述はその一貫性が中断、破綻されることを必至とし、別のありようで再編成され、あらたな意味形成を起こすことに賭けられなければならない。端的にいえば、そこで対象を観察し、記述する主体の座は不安定化し、崩壊するのが必至のはずである。したがって実践的に美学の可能性を提示しようとするならば、かならず批評の形式にならざるをえない。批評とは、客観的な記述を可能にする、それが依拠していたロジック、視点、そしてそれが帰すところの主体、もろともが動揺し、崩壊する過程をそのまま刻印し、その上で別の意味形成(別の主体)が立ち上がることへ投機する営みであったのだから。
 である以上、批評は記述する視点、ロジックの中立性の破綻する過程そして、その批評を記す主体=筆者(批評家自身)の動揺、崩壊、変容を刻印し晒すものともなる。
 というわけで、近代的な美術批評の先駆として Denis Diderot(ドニ・ディドロ)や Edgar Allan Poe(エドガー・アラン・ポー)、Charles Baudelaire(シャルル・ボードレール)のテキストがあるのはいうまでもないし、Félix Fénéon(フェリックス・フェネオン)、Paul Valéry(ポール・ヴァレリー)、Walter Benjamin(ヴァルター・ベンヤミン)、あるいは小林秀雄、吉本隆明、ロラン・バルト、柄谷行人などのテキストが抹消できない批評的実践の記録として残ってきたのである。昨今Rosalind Krauss(ロザリンド・クラウス)が批評は自伝的であることを回避しないことにおいて、批評たりうると表明していることも頷ける。
 美学の核心は、認識の動揺、崩壊と再編成の過程がそのまま記録=再演された批評としてのみ示される。批評それ自体がその事件=認識のスキャンダルとならなければならない(とわたしは考える。そう心して批評を書いてきた)。
 
2 
 さて昨今、美学とは何か(あるいは芸術とは何か)という主題に触れる書物の出版が相次いでいるように思える。が残念ながら、どれも上記の意味での批評としての実践性は回避されているように思えた。(こうした美学的論述は結局のところ、どんなに屈曲した議論の展開に見えても、かならず視点の安定した分類、概説、解説に陥いる)。
 端的に、そこには批評される対象がなく(直接的な対象はあえて省かれ)、対象について語った既存の論述についての論述か、美や芸術という言葉にはりついた観念をめぐる議論(に対する議論)だけが見出される。たとえば山水画を論じているようにみえても、山水画を論じた、誰もが読んでる古典的な書物が引用されているだけで、実際の絵画に対する分析もそれによって起こった認識の変容が論じられることもない。これで西洋哲学の枠組みには収まらないなどと論じているわけだが、これでは、「わたしはカッパを見た」と書いたテキストを引用し、東洋人には西洋人には見えないカッパが見える。なぜ西洋人には見えないか、見えるとか見えないとかいっている西洋の哲学的伝統の枠組みをカッパが超えているからだ。とか述べているのと変わるまい。そこに意味形成は起こらない。


 こうした昨今出された美学や芸術をめぐる(主に哲学の限界を自覚している優秀な哲学者たちが書いた)巧緻な書物の群れに食傷ぎみになっているときに突然、閃くように新鮮な印象を与えた小さな書物が目の前に出現した。

 「調査的感性術 真実の政治における紛争とコモンズ」マシュー・フラー+エヤル・ヴァイツマン(著)中井悠(訳)水声社である。

 Aesthetics を訳者の中井悠が通常の美学と訳さず、感性術としたのは、いうまでもなく美学が実践的な過程においてしか存在しないものであると熟知するからであろう。それは固定した概念ではなく、むしろ概念をつくりかえるための実践的な道具であり、術なのだ。その有効性は実践的場面にのみ現れる。
 無数のデータを感性は捉える、それを選択し再配分しないと知識は形成されない、その濾過過程にかかわるのが感性術だとして、これが悟性と理性に従属してしまっていれば、データを都合よく編成するために使われる、単なる美学的(根拠不明な同調圧力)に装われた権力の行使のありかたにすぎない、著者は感性術的権力とこれをいう。それを読み、用いようとするときーその読者、著者に動揺=不安定が生み出されない、固定された記述は、このような権力に容易に利用される権威(感性術的権威)にしかならない。
実際のところ(以下、解題を加えれば)、この本が示唆するように、今日、Aesthetics が実践的に緊喫の課題となって表れているのはA.I.の現場(ゆえに政治の場面)である。A.I.は無限に近く拡張しつづけるデータにアクセスしえるし、そこからボトムアップで(いわゆるニューラルネットワークとして)結節点を仮設もするが、そこに意味のウエイトを与えるのは、人間世界の理性(ご都合)と悟性(しきたり)による選別と排除なのだ。ニューラルネットワークの形成は原理的に感性の働きに対応すると考えれば、A.I. は人間以上に感性と、理性と悟性の与える圧力(ウエイト)の矛盾に引き裂かれた、つまり今日もっとも感性術(エステティック)の実践が迫られている存在であるともいえよう。A.I. がこの葛藤を感情として包み、処理できるようになってしまうとき(そしてそれを意味を固定するウエイトとして扱うようになったとき)、A.I. それ自体が同調を強制する、感性術的権力=政治権力として機能しはじめるだろう。

 

質問2これからの美術評論はどのようなものになりうるかをお答えください。

質問1の回答に質問2への回答を含んで書きました。

 

 

著者: (OKAZAKI Kenjiro)

造形作家。美術批評家。武蔵野美術大学客員教授。

1955年東京生まれ。
1982年パリ・ビエンナーレ招聘以来、数多くの国際展に出品。美術作品の発表。

他、「灰塚アースワーク・プロジェクト」、「なかつくに公園」等のランドスケープデザイン、2002年「ヴェネツィア・ビエンナーレ第8回建築展」(日本館ディレクター)、2007年現代舞踊家トリシャ・ブラウンとのコラボレーションなど。

主な著書
『ルネサンス 経験の条件』( 文春学藝ライブラリー、文藝春秋 )、
『絵画の準備を』(朝日出版社)、
『芸術の設計-見る/作ることのアプリケーション』(フィルムアート社)
『れろれろくん』(小学館 2004年/絵本、文:ぱくきょんみ)、
『ぽぱーぺ ぽぴぱっぷ』(クレヨンハウス 2004年/絵本、文:谷川俊太郎)。

http://kenjirookazaki.com/