本稿は「【前編】静けさを巡る闘争」で北欧のミュージアムのリポートをしたことを受けて、「美術館における静謐さという謎の国内ルール」について論じてみようと思います。国内の美術館も北欧と同様、「VIBRANT」な雰囲気になってほしいと願うからです。
まず、人が話していることにすぐ目くじらを立てる方を対象とした思考実験をしてみましょうか。彼らが、海外のにぎやかな美術館を訪問したとして、「うるさい、うるさい、黙れ、黙れ」と監視員に訴えるでしょうか?
絶対に訴えないでしょうね。そもそも監視員もぺちゃくちゃおしゃべりしていますし、業務と何の関係もない私用スマホをちゃかちゃかいじっていたりしますから。それに「ここは日本ではない」から、「仕方ない」とあきらめるでしょう。
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現代美術館(ストックホルム)の館内掲示。常識的な禁止事項の後に、子ども連れの来館が歓迎である意味を示すアイコンが記載されている
でも、そうだとするとおかしくないですか?
同じ美術品が海外ではにぎやかな雰囲気で楽しく鑑賞されていて、日本では厳粛で重々しくて、一切の私語が許されないような雰囲気で鑑賞されているということになります。そして、神経質な、あまりに神経質すぎる日本人は、海外では「うるさすぎて美術鑑賞なんかできない」ということになりませんか?
まぁ、そんなわけはないでしょう。「うるさい、黙れ」とクレームをつける方たちは、日本だからそのような声を上げているだけです。彼らは本当に他人様の声が、鑑賞の邪魔だと思っているのでしょうか?
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国立美術館(オスロ)の館内掲示。静粛にせよ、とはどこにも書かれていない
例えば、私、市原尚士が世界中の豪華な美術品10万点を集めた「市原美術館」を建設し、「一切、私語はしない」という条件付きで入館を許す、しかも入館料はしっかり大人一人当たり5000円取ります、と言ったら読者の皆さんはどう思いますか? ずいぶん尊大な態度の美術館だと思われるのではないでしょうか?
美術館の作り手側(=この場合、市原館長)が主張したとしても合理性の感じられない「静粛にせよ」という主張はなかなか通らない。ましてや、一来場者が他の来場者に静粛さを求めるのはさらに無理筋だとは思いませんか?
美術館で「うるさい、黙れ」と怒り狂っているアナタに忠告します。高性能の耳栓か射撃や工事現場で使う防音イヤーマフを着用されたらいかがでしょうか?
または仮にうるさいなーと思ったら、その場をそっと離れ、会場内の比較的、静かな場所に移動し、そこで作品を堪能したらいかがでしょうか? しばらく、鑑賞した後、さっきアナタがいらいらした話し声の発生していた場所に戻れば、たいていの場合、その発生源だった人物はとっくにそこからいなくなっています。
【ダメなのは美術館側】
勘違いしてもらうと困るのですが、私は、いらいらして、静謐さを求めて怒鳴るクレーマーを責めているわけではありません。
責めるべき本丸は、美術館だからです。館内の音や声に対して、美術館側は必ずこんなことをもっともらしい顔つきで言います。「私たちは決して話し声そのものを否定しているわけではありません。ただ、『鑑賞の場』の空気を乱さない、適切な音量でのお話しをしていただきたいと考えているだけです。マナーやルールとして守っていただけたら来場者の皆さんが気持ちよく鑑賞できる、と言いたいだけです」。
声は否定するものではない。そう言いながら、館内の目立つ場所には「静粛にせよ」との掲示がどかんと示されている。しかも、普通の声でおしゃべりをしている人がいると監視員がすっ飛んできて「お静かに」と言ってくる。ほとんど、お客さんのいないガラガラの状態だったとしても、です。
そして、とどめの一言、決め台詞のように「不快に感じるお客様もいらっしゃいますので…」とか何とか言って、館としての当事者性を放棄してみせるのです。これは圧倒的におかしい。声を否定するのではないのなら、欧米諸国と同様、掲示から「Quiet Please」は外さねばなりません。
そして、他者の声をうるさいと猛烈に抗議する(うるさくて傍迷惑な)方がいたら、「(あなたの敵意と悪意に)脅えてしまい安心して作品を楽しめないお客様がいらっしゃいますので」と冷静に告げて、お引き取り願えばよいだけです。そのような対応をまったく取らず、放置している美術館側の罪は重いと言わざるを得ません。
【諸悪の根源は「お上意識」にあり】
「うるさい、静かにしろ」と訴える人間に正当性らしきものを与えてしまっているのは、美術館が「おしゃべりしながら鑑賞してもらって何の問題もない」と明言しないから、です。
そして、先ほどの思考実験でもお伝えした通り、静謐至上主義者が海外のにぎやかな美術館で監視員にクレームをつけないのは、そこが日本ではないからなのです。
厳しいことをこれから書きます。
わが国では、ある場の空気を乱すものを「悪」として排除する傾向が非常に強いです。そして、どのような振る舞いをすれば、その場から排除されないで済むのか、「悪」とされないで済むのか、細心の注意を払って常に計測している社会です。その場を何の問題もなくやり過ごすこと、それこそが日本人の“宗教”といっても過言ではないでしょう。
クレーマーの方たちは、「美術館様が静かにしろ、と言っているのだから従え‼」と自信満々で訴えてきます。一方で、美術館側は「私たちは話しながら楽しく鑑賞してもらってもいいと本当は思っているんですけど、声を不快に感じるお客様もいらっしゃるので」と逃げの一手をうって、結局はお通夜のように静かな美術館にしてしまうのです。
コロナ禍における実質上のマスク強制社会がいともたやすく実現してしまったのは、磯野真穂が言うところの「和をもっと極端となす」日本人の心性が作用していたわけですが、「声」をウイルスに見立てるかのようにして排除しようとするクレーマーを放任している美術館の姿勢は、常軌を逸していると思います。日本の美術館がいつまでたっても「GLOOMY」な責任は、美術館が自身の立場や意見をはっきり宣言しないからです。
なぜ、美術館は己の考えをはっきり打ち立てないのか? それは責任を取りたくないという日本社会特有の病弊が潜んでいます。病弊と今、書きましたが、これは「『権力の無謬性という神話』に権力そのものが脅えているフリ」とも言い換えられます。
権力、つまりお上の言うこと、やることには一切、間違いがあるわけはない(あってはならない)という考え方が無謬性の神話です。しかし、実際はどうでしょう? お上の言うこと、やることは間違いだらけです。不適切なことだらけです。にもかかわらず、「お上は決して間違いを犯しません」と取り繕おうとするから、あちこちに歪みが出てきてしまうのです。無謬性という概念が強烈なプレッシャーとなって「お上」の振る舞いや言葉を委縮させている。そして、あろうことか、お上に「被害者意識」めいた感情まで持たせているのです。
学校の教科書にも載っていた、文豪・森鴎外(1862~1922年)の短編小説「最後の一句」(1915年)は覚えていらっしゃいますか?
ある事件で死罪となった父を救うため、大阪西町奉行に助命の願書を出したヒロイン「いち」は自身を殺してもらっても構わないから父を許してほしいと訴えます。奉行は、(父の)身代わりを認めればすぐに殺されるが、それでもよいのか」と尋ねます。すると、いちは「よろしうございます」と答えたあとに、あの有名な一句をつけたします。
「お上の事には間違はございますまいから」
いちが放ったこの言葉は痛烈な権力(お上)批判です。実際は間違ってばかりのお上に対して、「あんなたちは、こてこての無謬性信奉主義者。だから、人の心の痛みや尊厳性なんて理解できるわけがないよね」とあてこすっているわけです、己の生命を賭して。
いちの年齢は小説の中で16歳と記されています。少女にこんな痛烈な一句を吐かせた鴎外の真意を考えると、こんなことを思いました。「小説が発表されて110年もたったけど、日本の封建制や家父長制の問題点は何一つ改善されていないなぁ」と。
お上=美術館の「静かにしましょうね」「静かにしてもらえるとうれしいな」という要請が、一部の人間には金科玉条のごとく守るべき戒律となってしまいます。
そして、少しでも声を出す人間を見つけると「お奉行様、声を出して、ありがてぇー美術作品と美術館を馬鹿にしている不届者をあっしが見つけやした。どうか、懲らしめてやっておくんなせぇ」と訴える「善良な庶民」が出てくるわけです。
こういった輩は、「バテレン(伴天連)」がうじゃうじゃいるポルトガルやらイタリアやらのにぎやかな美術館に一歩、足を踏み入れても、その話し声に一言も抗議できないのです。抗議したって、誰にも相手にされないことが分かっているから。日本限定の「謎のルール」であることはうすうす分かっているから。
お上は無条件に偉くて、従うべきものと信じ込む庶民と、無謬性の神話に脅えるフリがとってもうまいお上とは、まさにコインの表と裏の関係性、つまり表裏一体です。「美術館を静けさで満たせ」という、妥当性もなければ、実効性もないイデオロギーが今も命脈を保っている日本社会の前近代性にはあきれるばかりです。「謎の静粛ゲーム」という茶番は、もういい加減、終わりにしませんか?
【闘うべき、本当の騒音とは?】
一部の神経質すぎる来場者と美術館の方に私は、こう言いたい。「『館内における謎の静粛ゲーム』なんかより、もっと重要な闘いが館外に存在していることから意図的に目を逸らしていませんか?」と。
館外の闘い…例えばそれは「表現の不自由展 東京2022」(くにたち市民芸術小ホール)における右翼の街宣車が放つ騒音のことを指しています。「民族の裏切り者、表現の不自由展を粉砕せよ! 粉砕せよ! 粉砕せよ!」とシュプレヒコールが延々と館外の公道で繰り広げられていました。館内にいても耳をふさぎたくなるほどの大音量で口汚い罵り言葉、女性蔑視の暴言が次々と街宣車から飛び出してきていたことを今でもはっきり覚えています。静かに美術作品の鑑賞をすることは不可能です、これだけうるさいと。
このような右翼の街宣車の放つ騒音こそ、美術館や来場者が闘わなければならない相手です。来場者間同士のマナー的な微小でどうでもいいイザコザよりもはるかに大事な問題です。しかし、この問題に対して美術館は本気で闘っていますか?
残念ながら闘ってはいません。いえ、闘うどころか、己の保身と忖度感情から逃げの一手ばかりうっています。「右翼の街宣車が大挙して押しかけてくるような恐れのある美術作品は展示も公開もしないようにしよう。いや、そもそも収蔵すら行わないようにしよう」。そんな退嬰的な態度がまかり通っています。
騒音=暴力が発生するのは、確かに誰にとっても嫌な物です。しかし、街宣車の中の人との対話も碌にしないで、あらかじめ街宣車が絶対に来ないような展示をしようとするのは、街宣車以上の暴力なのではないでしょうか?
1955年生まれの著名な男性日本画家が、中部地方某県にある公立美術館との間で不愉快な体験をしています。彼が制作したある大作は、手間のかかる長い交渉を経た末に、美術館から買い上げてもらうことが九分九厘決まっていました。ところが、ある日、美術館の学芸員から「●先生、残念ながら、あの作品の買い上げの話しはなくなってしまいました」との連絡がきたそうです。
学芸員は詳細な経緯を説明してくれなかったそうですが、男性作家はこう分析しています。「作品の中に、原子爆弾のキノコ雲が大きく描かれている。その点が市当局者の忌諱に触れたのではないか? あれだけ買い上げの交渉が進んでいたのに、急に中止になった理由はそれしか考えられませんから」。
原爆のキノコ雲を被爆国である日本の芸術家が描くのは、特段変わったこととも思えません。しかし、美術館の上に位置する市側の権力者はそう考えなかった。「私が在任中に、面倒くさそうなトラブルが発生して、責任を追及されたりするのはまっぴらごめん」という保身感情から、あらかじめリスクのありそうな案件は、「芽」の段階、いやいや「種」の段階から摘んでしまおうというわけです。
何らかのトラブルが起きる前から、その芽を摘んでしまう体質は日本の隅々にまでいきわたっています。いわゆる「事なかれ主義」ってやつですね。この主義とも呼べないような、ただの保身と忖度の感情は、無謬性の神話に脅えているフリをすることによって発生する「(偽の)被害者意識」と結託して、民主主義をズタズタに破壊します。
私は何度でも言います。館内の小さな声でクレームをつけるよりも、館の外に広がる怒声・罵声や勝手な(行政側の)自己規制によって、見られたはずであろう作品を見る機会を失わされていることに対して、声も高らかに抗議しませんか、と。
【世界標準から取り残されるニッポン】
美術館を巡って、話し声が極端なまでに排除される日本がかなり特殊な社会であることを、前編から後編に至るここまで縷々、書き連ねてきました。
私が心配なのは、明治維新以降、長らく欧米列強に追い付け、追い越せでやってきたはずの日本が非常に内向き(ガラパゴス化)になってしまっているのではないか、という点です。欧米列強に限らず、東南アジア諸国、アフリカといった国を訪れ、人々の暮らしぶりや文化芸術に触れれば、日本人が学ぶべき豊かなものがたくさん存在しています。それらを謙虚に学び取り、日本がより明るく、楽しく、自由な社会になるために生かす営為が今ほど求められている時代はないと思います。
しかし、実際は海外の動向や経済の最先端の流れに疎く、国内の古色蒼然とした価値観・倫理観に支配されてしまっているのが、現状の日本ではないでしょうか。夫婦別姓や同性婚がいまだに認められていないというのが、もうすでにおかしいです。「夫婦の一体性がなくなる」など珍妙な理由で反対する国会議員などがいますが、同性であっても、男女で結婚したとしても、一体性のない夫婦はあちこちに存在していますから、論理的にはまったく意味不明です。
欧米列強とわが国の間には、文化芸術一つとってみても大きな差が存在しています。日本はありとあらゆる側面で、かなり見劣りがします。今こそ、欧米列強だけでなく他国の優れた事例に学んで、よりよい国を実現しなければならないと思います。世界標準からぽつんと取り残された日本のテレビ各社が「日本はすごい国」と外国の方に言わせる番組を多く作っている姿は哀れさを誘います。
また、国立新美術館が2025年3月から開催する展覧会「リビング・モダニティ 住まいの実験 1920s-1970s」のためにクラウドファンディングを1月31日まで行っていますが、これも国立の美術館がやるようなことではありません。
政府が展示に必要なお金を拠出しないのであれば、館を挙げてストライキを行って抗議してでも、きちんと必要なお金は出させるべきです。安易にクラウドファンディングで展示の資金を賄う姿勢には大きな疑問符が湧いてきます。
そもそも、国立の美術館・博物館は全面無償化したっていいくらいだと個人的には思います。イギリスやアメリカの複数のミュージアムで「一年中いつでも、外国人でも無料」と分かったときの衝撃はあまりにも大きかったです。
文化芸術に力を入れるためには鑑賞者のすそ野を広げるしかありません。美術館無償化については、いずれまた別の原稿で書こうと思います。
【「『お静かに!』の文化史」を読もう】
北欧旅行の直前、昨年、2024年の12月にある1冊の本と出会いました。著者は北海道大学准教授の今村信隆氏。書名は、「『お静かに!』の文化史 ミュージアムの声と沈黙をめぐって」(文学通信)です。

「お静かに!」の文化史
この本は、非常に面白かったです。作品を静かに鑑賞したい方、誰かと語り合いたい方の双方の立場を尊重しながら、各種の文献を広く調べた成果を惜しみなく披露してくれています。二つの相反する立場に優劣をつけることなく、どちらの立場にも真摯な眼差しで向き合っている筆者のバランス感覚あふれる姿勢には私は驚嘆させられました。
私は、今村氏の著書を熟読した上で、今回の北欧旅行に臨みました。そして、自身の結論として「静粛を求める鑑賞スタイルは、もはや世界標準から大きくずれているのではないか」という意見に至ったことを本稿と前編で大胆に表明してみました。
個人的な告白をすれば、私自身は「芸術鑑賞は孤独に見なきゃ嘘だよね」と今でも信じている復古主義者(?)です。そういった意味ではずいぶんGLOOMYな人間ではあります。でも、隣で話している人がいてもまったく気になりません。私の場合は、極度に集中して鑑賞行為をしていると周囲の音がまったく聞こえなくなるという特技(?)を持っているからです。
うるさい電車の中の方が集中して読書できる時があるように、私にとって、ある程度喧騒に包まれた環境の方が集中して鑑賞できることが多いのです。だから、「うるさい、静かにしろ」と美術館でクレームをつける方には「あなたに足りないのは集中力なのでは?」と言ってみたい誘惑にもかられます。まぁ、私はジェントルマンなので、他人様にそんな失礼なことは口が裂けても言いませんが(今、書いていますが)。
ちなみに今年の4月には今村さんの「お静かに!」本のきょうだいとなる「声の近代日本美術史(仮題)」が刊行されるそうです。こちらは、明治・大正期の日本に的を絞り。「お静かに!」の歴史的側面に光をあてる本だそうです。美術館における「静けさVS活気」を巡る闘争について考えようとする人間にとって、この2冊の今村本は、絶対に読まなければならないものになるでしょう。議論を実りあるものにするための叩き台として欠かせない本になるでしょう。
私は私なりに30か国の先進事例を見てきた経験を通して、「活気」に軍配を上げてしまいましたが、読者の皆さんは、今村本を熟読されて、「静けさ」こそがミュージアムにとって必須の要素である、と思うかもしれません。私はそれでいいと思います。
重要なのは、皆がもっと自分自身の本音・本心を他者に対して開示する姿勢です。自己開示なくして、文化芸術、政治外交、経済交流などすべての他国との営みはうまくいきません。サルなのか、タヌキなのか、トラなのか、ヘビなのかさっぱり分からない謎の生物「鵺(ぬえ)」のように、自身の考えを曖昧模糊なままで生きようとしても国際社会からはまったく相手にされません。
他者との衝突を恐れず、勇気を持ってあなたもご自分の意見をはっきりと表明してみませんか? それが、芸術作品を時には静かに、時には楽しく堪能するための唯一の処方箋だと私は確信しています。(2025年1月26日11時46分脱稿)