『「顕神の夢—霊性の表現者 超越的なもののおとずれ」と批評の尺度』 美術の「モダニズム」の尺度に対して「霊性」の尺度をもって再認識される表現

「顕神の夢—霊性の表現者 超越的なもののおとずれ」と批評の尺度

 『今までモダニズムの尺度により零れ落ち、十分に評価されなかった作品、また、これから批評の機会を待つ作品に光を当てる一方、すでに評価が定まった作品を、新たな、いわば「霊性の尺度」でもって測りなおすことにより、それらがもつ豊かな力を再発見、再認識する試み』

「顕神の夢-幻視の表現者」(同展カタログ「主催者」による「はじめに」)

 

 観客は、強力な企画意図によって次の五つの道筋に導かれる。
「見神者たち」
「幻視の画家たち」
「内的光を求めて」
「神仏魔を描く」
「越境者たち」

 展覧会企画者(足利市立美術館江尻潔氏、宗教学者鎌田東二氏ら)によって導かれていく道筋の各所に仕組まれた深みに入りこみ大いに魅惑される。例えば「見神体験」では、自然に神の顕れを見出し、無心に絵や詩や歌に留める。心を研ぎ澄まし、神の姿を映し出すということを説かれるままに鑑賞していく。

 

 だがさらに一つ興味深いのは、本展そのものが近代美術批評への批評的な申し入れでもあることだろう。

 冒頭の引用に照らしてみれば、その批評が顕在する中心には「尺度」があって、一つは「モダニズムの尺度」、もう一方の異なる極にある「霊性の尺度」である。
 さてその「霊性の尺度」でもって、これまでモダニズムの範疇では十分評価されなかった作品に光をあてたり、すでに評価が定まった作品も測り直す。円空から始まり、もっとも若い中園孔二までを含め、50名の作家の作品が展示される。近現代の著名な作家たちも選抜されている。
 「霊性の尺度」の文脈で自分にとって未知であったものを識る一方で、既知の作品でも不条理さに戸惑っていた作品を新たに理解したくなる。

 わかりやすいと思われる例で示せば、「幻視の画家たち」で展示されている萬鐵五郎の三作品「目のない自画像」「雲のある自画像」「木の間から見下ろした街」は、萬の表現の基本をなすフォーヴィスムや、いくつかの絵について指摘される表現主義的な画風を見るよりも、自画像では目の無い表情、本人の頭上にある「雲」、心理描写の風景を注視することになる。霊性の尺度で測り直すからである。
 萬鐵五郎は現在の岩手県花巻市の出身であり、宮沢賢治と同郷である。宮沢賢治のドローイング作品は「越境者たち」で展示されている。そこには哲学者梅原猛の説にそえば日本の霊性とも関わりを持つと言われる縄文文化が色濃い東北へのつながりを見ることができるのかもしれない。

Kumonoaru jigazou

「雲のある自画像」萬鐵五郎

 

 さて「霊性」という言葉そのものが、一般的にはなじみが少ない。「日本的霊性」を書いた鈴木大拙はその著書の冒頭で「霊性」と「精神」を区別することから始めている。精神があまりに多様に使われていることから「霊性」を明確にするためだ。

 英語の名詞spiritualは、ラテン語の spiritusに由来する用語で、霊的であること、霊魂に関するさまである。
 この展覧会で言われる「霊性」は、英語圏で使われるspiritualと、ほぼ集合論的に同様な概念に属している。

 

 また、このように見ると「霊性の尺度」というのは、まさしく日本の近代以降の美術を測りなおすものであるのが明白になってくる。
 大本教の出口なおの自動筆記による「お筆先」が展覧会場の冒頭の「見神者たち」で展示され、宗教者、画家による自動記述、自動現象の作品が続いていく宗教性も日本における霊性の解釈への一つの解答例なのかもしれない。


 モダニズムと霊性を対比するのが、この展覧会の主眼である。そして、ここで言われているモダニズムとは、おそらく日本のモダニズムであり、具体的には明治時代以降の近代美術批評ではないだろうか。つまり日本の近代のなかでの美術表現を再認識するのがこの展覧会の妙味である。
 モダニズムとスピリチュアルな美術の関係は、世界の美術史のなかでも見ることができ、モダニズム形成の要素の一つでもあると言える。夢分析でシュルレアリスムに影響を及ぼしたジークムント・フロイトあるいはカール・グスタフ・ユングらが取り上げた「無意識」はその後のニューヨーク・スクールや抽象表現主義にも見られる「オートマチズム」の核となった。また神智学、接神論と邦訳されるtheosophyと美術のつながりも、抽象絵画の形成におけるワシリー・カンディンスキーやイタリア未来派のルイジ・ルッソロのような画家にも見ることができる。

 美術のモダニズムには、さまざまなspiritual要素が絡みあっている。ただしこのような傾向をあえて取り上げることへの否定的な意見が、批評家、学芸員、美術史家に根強く存在しているのは、洋の東西を問わずにある。そういう意味では、「モダニズムの尺度により零れ落ち」ているのは、日本だけに止まらない。

 近現代美術に関する美術史や展覧会キュレーションでのこの否定傾向は、”The Spiritual Dynamic in Modern Art: Art History Reconsidered, 1800 to the Present”を著したシャーリーン・スプレトナクCharlene Spretnakが検証している。たしかにアーティストはspiritualなのだが、批評やキュレーションする側の大部分が否定的というのも、批評やキュレーションのあり方として明確に捉えるべき課題であるだろう。

 またスプレトナクも指摘しているように、美術教育のなかでも、例えばカンディンスキーが数多くのspiritualなあり方に関して多くの書物を書き、エッジの効いた表現のモンドリアンの抽象性は生涯を神智学をともにしていたことから得た昇華であることは教えられない。このようなことはむしろ忌避されている。
 「霊性」もspiritualも、批評、キュレーション、美術教育のモダニズムの尺度の外にありがちなのである。


 「顕神の夢」展は、人間の活動総体が、これまで以上に深く解析されていく統計学的あるいは人工知能技術進歩とそれに影響される文化変化の著しい時代のなかで、ますます深い洞察が必要になってくる知見の「尺度」の再考を促すものである。

 

「顕神の夢—幻視の表現者 」展覧会カタログ

「顕神の夢—幻視の表現者 」展覧会カタログ

顕神の夢 霊性の表現者 超越的なもののおとずれ

会期:2023年7月2日〜8月17日 

会場:足利市立美術館

川崎市岡本太郎美術館(神奈川県)、足利市立美術館(栃木県)、久留米市美術館(福岡県)、町立久万美術館(愛媛県)、碧南市藤井達吉現代美術館(愛知県)で巡回

 

 

著者: (OKI Keisuke)

アーティスト/クリエイティブ・コーダー/ライター、多摩美術大学卒業(1978)李禹煥ゼミ。カーネギーメロン大学SfCI研究員(97-99)。ポスト・ミニマル作品を発表する一方、ビデオギャラリーSCANの活動に関わり公募審査などを担当。今日の作家展、第一回横浜トリエンナーレ、Transmedialeなどに出展。第16回「美術手帖」芸術評論佳作入選、Leonardo Vol. 28, No. 4 (MIT Press)、インターコミュニケーション(NTT出版)などに執筆、訳書に「ジェネラティブ・アート Processingによる実践ガイド」