藤井湧泉《紅楼夢》2025年
現在開催中の「2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)」(会期:2025年4月13日‐2025年10月13日)の迎賓館で、7月10日から50日間、藤井湧泉(1964‐)の新作絵画《紅楼夢》が展示されている。
ただし、迎賓館は世界各国の国王、大統領、首相等の賓客を接遇するための施設であり通常非公開なので、実際に鑑賞できる人は極めて限られている。そのため、せめて誌上で紹介し記録に残しておきたい。
藤井湧泉は、中国名を黄稚といい、1964年に中華人民共和国江蘇省啓東市で生まれた。1984年に蘇州大学藝術学院を卒業し、1985年から北京服装学院で講師として勤務していた。しかし、1992年に来日して出会った日本人女性と結婚して以来、現在まで30年以上京都に在住して画作に励んでいる。
既に、湧泉の水墨画作品は、京都や奈良の由緒正しい名刹である、一休寺、西大寺、圓徳院、鹿苑寺(金閣寺)、相国寺、林光院、高台寺等に収蔵されている。関西で開催され、日本と中国はもちろん世界中の国家の友好と相互理解を深める場である万博の迎賓館に作品を飾る画家として、湧泉は極めて適切と言えるだろう。
本作で、湧泉が選んだ画題は『紅楼夢』である。『紅楼夢』は、『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』と並ぶ「中国四大名著」と呼ばれる。ただし、他の三著がいわば冒険小説であるのに対し、『紅楼夢』は恋愛小説の趣を持つ。この長編の中では、主人公の美少年賈宝玉とヒロインの美少女林黛玉の純愛を中心に、上流階級の華やかな生活と登場人物の繊細な内面が情感に満ちて描写されている。
舞台は、第三回で描かれる「黛玉進府」で、宝玉が上京した従妹の黛玉と初めて出会う場面である。画面には、6人の登場人物がおり、右から宝玉、黛玉、賈迎春、賈母、賈探春、賈惜春である。賈母が一族の最長老であり、他の5人は孫息子・孫娘に当たる。いずれも美男美女であるが、宝玉と黛玉だけは1画面に1人ずつ描写されており、この2人に自然に注目が集まる工夫がなされている。
宝玉は初対面の黛玉に、自分は以前あなたに会ったことがあるように感じると告げる。それに対し、黛玉は片手で顔を隠すように恥じらいつつ、やはり心の中で同じように感じている。それは、2人には前世からの縁があるからであるが、同時に恋愛の始まりを告げる心持ちでもあるだろう。来賓の長旅の疲れを癒すと共に、改めて親睦を深め合う迎賓館の装飾として、誠にふさわしい情景といえる。
本作の見どころの一つは、登場人物達の衣装である。舞台設定である清王朝中期の伝統的な服飾に即しつつ現代的な意匠が加わり、非常にノスタルジックでありながらモダンな印象も与える。ここには、北京服装学院で講師を務めた湧泉のセンスと教養がいかんなく示されており、常に古典を現代的に解釈し再構成する個性もよく表れている。
また、本作は、大画面の麗人群像という点では2019年に高台寺に奉納した《妖女赤夜行進図》の発展といえる。ただし、《妖女赤夜行進図》は背景が全面古代朱で塗られ「怖いほどの美しさ」を追求していたのに対し、本作は全面水色の背景に繊細な花鳥を線描してより格調高い和やかさを表現している。
湧泉の他の作品と同様に、本作も構図や配色は一見何気なく描かれているように見えるが、実際には全体として見たときに一部の隙もなく絶妙でどれだけ眺めても見飽きない。それは、中国と日本の画技に精通していることに加え、西洋の画技にも通暁しているからこその完璧主義である。本作は、画家としての湧泉の研ぎ澄まされた美意識と磨き抜かれた画技が旺盛に発揮された新たな国際的代表作と言えるだろう。
藤井湧泉と《紅楼夢》
(写真は全て作家提供)
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