「第52回 京の冬の旅」林光院特別公開
期間:2018年1月10日(水)-3月18日(日)
会場:相国寺林光院
〒602-0898 京都府京都市上京区相国寺門前町701
「中国の足し算の美意識と、日本の引き算の美意識を調和させて、新しい世界的な美を創造したい」と語る画家がいる。名前は、藤井湧泉(ふじい・ゆうせん)。1964年に中国の江蘇省啓東市で生まれ、現在日本の京都に拠点を置いて活動する水墨画家である。
湧泉は、中国では蘇州大学藝術学院の卒業後すぐに北京服装学院の講師に抜擢されるなど、既に20代前半から頭角を現していた。若き才能溢れる芸術家として確かな将来を約束されていたが、その美への飽くなき探求心は次第に中国大陸を超えて広く世界へと目を向けることになる。
ヨーロッパへの雄飛を経て、日本に自らの求める美意識を感じ取った湧泉は、中国での安定した生活を捨てて、1992年に28歳で来日する。そして、京都市立芸術大学大学院美術研究科で学んだ後、藤井姓の日本人女性と結婚する。
その後約20年間、湧泉は日本名藤井雅一として、日本の美意識を極めるために、京都で日本画や洋画と共に和装や洋装の意匠図案の研鑽を積んだ。現在、彼の水墨画作品は、京都の一休寺、相国寺、鹿苑寺(金閣寺)、高台寺、圓徳院や、奈良の元興寺、西大寺といった著名な仏教寺院に収蔵されている。また、2012年には京都市立芸術大学学長や国際日本文化研究センター初代所長を務めた哲学者梅原猛氏から「湧泉」の雅号を授かっている。
その湧泉が、4年以上の制作期間をかけて2017年8月に完成し、相国寺塔頭の林光院に納めた最新作の約80面の障壁画と襖絵が2018年1月から3月にかけて公開された。「第52回 京の冬の旅」による、非公開文化財特別公開の一環である。林光院は通常非公開であり、残念ながら今後の一般公開は未定なので、見逃した方のために紙上でその内容を紹介しておきたい。
◇ ◇ ◇
相国寺は、室町幕府第3代将軍の足利義満(1358-1408)により、1392年に京都に創建された禅宗の仏教寺院である。正式名称を萬年山相國承天禅寺と言い、臨済宗相国寺派の大本山である。
「相国」は、中国では国家を支えるという意味で、当時義満の位だった左大臣を指す言葉である。また、「相国寺」という寺号は、当時の中国明の開封にあった五山制度の始まりである大相国寺にもちなんでいる。
日本の禅宗寺院の格付けにおいて、相国寺は京都五山の第二位に列する名刹である。立地上、歴代天皇の宮廷である京都御所や、義満の邸宅である花の御所に隣接しており、東アジアの最先進国であった中国から、宗教はもちろん学問一般を積極的に輸入する国際的な文化受容の拠点であった。
そうした相国寺では、中国を手本とする書画の芸術振興も盛んであった。実際に、室町時代(1336‐1573)に日本の水墨画の始祖である、如拙(生没年不詳)、周文(生没年不詳)、宗湛(1413-1481)、雪舟(1420-1506)等を輩出したことで知られている。近年は、特に18世紀後半の日本を代表する画家である伊藤若冲(1716‐1800)と縁が深いことでも有名である。
若冲は、相国寺第113世住持の大典顕常(1719‐1801)から様々な支援を受け、その縁で相国寺の山外塔頭である鹿苑寺(金閣寺)に水墨画を描いたり、相国寺に代表作「動植綵絵」30幅を寄進したりしている。現在、相国寺境内にある承天閣美術館には、鹿苑寺大書院の障壁画や襖絵を始めとして若冲の絵画が数多く展示されている。
その若冲が多くを学んだのが、やはり相国寺に伝来した数少ない貴重な中国絵画であった。大典によれば、若冲は中国画を1,000枚以上模写し、さらに中国人画家を見習って写生に努めたという。淡白に流れやすい日本の絵画の歴史において、濃厚な細密描写で特異な位置を占める若冲には、濃彩で写生を重視する中国絵画が大きな影響を与えていた。日本の瀟洒淡麗な美意識を引き算とすれば、若冲はそこに中国の豪華絢爛な足し算の美意識を結び合わせて、新しい世界的な美を生み出したといえる。
興味深いことに、湧泉が日本の画家の中で最も影響を受けたのが若冲である。それは、おそらく若冲が日本の引き算の美意識に中国の足し算の美意識を融合したのと向き合うように、湧泉は中国の足し算の美意識に日本の引き算の美意識を融合して新しい世界的な美を目指しているからである。
その意味で、今回の林光院の障壁画と襖絵の特別公開は、共に中国と日本の美意識を昇華した若冲と湧泉による250年の時を超えた美の競演でもあった。そのことは、特に湧泉の林光院大書院の障壁画《野葡萄と蝶》(図1)が、すぐ傍の相国寺承天閣美術館で展示されている若冲の鹿苑寺大書院の障壁画《葡萄小禽図》(図2)と図像的に照応し合っていることによく示されている。
重要なことは、中国の足し算の美意識も、日本の引き算の美意識も、本来どちらも人間の心に備わっていることである。だからこそ、お互いの美意識への共感を通じて相互理解の道が開かれる。そして、その美的感動は、中国と日本という東洋の枠内だけに留まらず、西洋も含めた全世界的な広がりと奥行きを持つものである。
図1 藤井湧泉 《野葡萄と蝶》2017年 京都・林光院蔵
部分拡大図
図2 伊藤若冲 《葡萄小禽図》1759年 京都・相国寺蔵
今回、林光院で公開された湧泉の水墨画は、「野葡萄と蝶」の他にも、「鶴」「鳳凰」「松」「竹」「梅」「白牡丹」「黒牡丹」「蓮」「睡蓮」「龍」「虎」等の多彩な画題を描いていた。そのいずれも、雅趣に富んだ清雅な優品である。
特に、林光院の庭先の実物の「鶯宿梅」と呼応して描かれた左右4面ずつの《鶯宿梅》の襖絵(図3・図4)は、濃密さと洒脱さの絶妙な調和を示している。そこでは、中国と日本という二つの故郷を持つ湧泉だからこそ創造できた新しい普遍的な調和美が提示されている。
この「鶯宿梅」は、『大鏡』の第6巻に記された逸話で有名である。天暦年間(947‐956)、村上天皇(926‐967)が京都御所の清涼殿前の梅が枯れたので、紀貫之(866?-945)の娘である紀内侍(生没年未詳)の家にあった京都随一と言われる名梅を召し上げて移し植えようとした。すると、その枝に短冊で「勅なればいともかしこしうぐひすの宿はと問はばいかが答へむ(勅命ですから謹んで差し上げますが、鶯から自分の宿はどうなったかと尋ねられたらどう答えれば良いでしょうか)」という歌が結んであったことに感銘を受けて元の場所に戻したという由来を持つものである。
そうであれば、紀貫之が日本最初の和歌論と言われる『古今和歌集』(905年)の「仮名序」で、生命あるものは皆歌うという文脈で「花に鳴く鶯」というとき、自邸の庭に咲くこの桜をイメージしていたのではなかっただろうか。少なくとも、この桜が日本の和歌の美意識と縁深いものであることは確かである。
やまとうたは、ひとのこゝろをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。世中にある人、ことわざしげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。
いずれにしても、鶯宿梅の特徴は、芳香に優れ、36枚もの花弁を有し、蕾は真紅、花弁は淡紅から純白へと移り、白梅と紅梅が入り混じって咲くことである。そして、湧泉の描くこの左右向き合う2つの《鶯宿梅》の襖絵は、成木と老木の両方を描いており、大自然における生命美の永遠性と循環性を表現している。
なお、大典は一時林光院の住持を兼務している。また、大典と親交のあった売茶翁(1675-1763)は、一時林光院に寄寓していたことがある。そうであれば、二人と親密に交流した若冲は、三人で林光院で鶯宿梅を眺めながら語らうことがあったのではないだろうか。
図3 藤井湧泉《鶯宿梅》2017年
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図4 藤井湧泉《鶯宿梅》2017年
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「鶯宿梅の間」に隣接するのが、「牡丹の間」である。ここでは、黒牡丹と白牡丹が左右4面ずつ向かい合って襖に描かれている(図5・図6)。
牡丹は、中国北西部を原産とする花である。中国では、既に1世紀か2世紀頃には薬用に使われていたが、5世紀頃から次第に観賞花として好まれるようになる。随の煬帝や唐の玄宗皇帝に愛され、盛唐時代には「百花の王」と呼ばれたという。花言葉は、「王者の風格」や「富貴」が有名である。
図5 藤井湧泉《白牡丹》2017年 京都・林光院
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図6 藤井湧泉《黒牡丹》2017年 京都・林光院
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実は、湧泉と林光院を結ぶ機縁となったのが牡丹の絵であった。歯科医で京都大学名誉教授であり、小林古径後援会会長でもあった松井昌氏が湧泉を知り、湧泉が描いた黒牡丹の絵を旧知の梅原猛氏に紹介した。これが、梅原氏による「湧泉」の雅号の授与に結実する。さらに、相国寺管長の有馬賴底氏への推薦に繋がり、湧泉に林光院での障壁画や襖絵の制作の機会が与えられたのである。
左から、澤宗泰氏(林光院住職)、松井昌氏(歯科医・京都大学名誉教授)、梅原猛氏(哲学者)、有馬賴底氏(相国寺管長)、藤井湧泉(写真は画家提供)
湧泉は、林光院で制作に取り組む際に、林光院住職の澤宗泰氏から「三百年の歴史に耐える絵を描いてください」と求められている。実際に、若冲が相国寺で培った絵画世界は、三百年後の現代の私達の心を大いに感動させている。
京都の禅寺では、芸術に対する思いも時間の感覚も世俗の常識を超えているのである。
【初出】
秋丸知貴「黄稚・藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識」『亞洲藝術』第363期、関西華文時報、2018年4月15日。(2024年5月27日改稿)
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