セザンヌと蒸気鉄道(6)――画題から造形への影響 秋丸知貴評

図1 ポール・セザンヌ《オーヴェール・シュル・オワーズ近郊の小さな家並》1873-74年

 

ポール・セザンヌ(1839-1906)の全ての絵画の中で、蒸気鉄道の車窓風景を最も連想させるのは、《オーヴェール・シュル・オワーズ近郊の小さな家並》(1873-74年)(図1)だろう。

現に、この作品では、画面全体で稜線が目立ち筆触が横に繰り返されることで水平方向の高速運動が感じられる。また、対象は遠景から前景に近づくにつれて横向きに歪曲化し、点描化し、消え去っていくように見える。さらに、画面最下段を左右に結ぶ線が引かれることで前景が消失し、鑑賞者の足元は浮いているように感じられる。これらは、鉄道乗車中の車窓風景とよく似ている。

このことは、印象派の画家達の中で、蒸気鉄道の影響に画題のみならず造形として反応したのもセザンヌが一番早かったことを示す点で重要である。

 

図2 カミーユ・ピサロ《鉄道沿いの道、雪の効果》1873年

 

図3 カミーユ・ピサロ《ポントワーズ、パティの風景》1868年

 

図3 拡大図

 

図4 カミーユ・ピサロ《ロードシップ・レイン駅、ダリッジ》1871年

 

図5 カミーユ・ピサロ《汽車、ベッドフォード・パーク》1897年

 

基本的に、絵画では見慣れない事物の影響は、まず画題に現れ、次に造形に現れる。なぜなら、見たものをそのまま描く方が、それを内面的に消化して描くよりも易しいからである。

19世紀半ばの蒸気鉄道について言えば、爆音を響かせて異常なハイ・スピードで突進する蒸気機関車は一般には醜悪な怪物と見なされていた。そのため、印象派の画家達でも、蒸気鉄道を描き始めた当初はやや消極性が感じられる。

例えば、カミーユ・ピサロの《鉄道沿いの道、雪の効果》(1873年)(図2)では、汽車そのものは描かずに併設された電信柱と電線で暗示するという手法が取られている。また、汽車そのものを描く場合でも、ピサロの《ポントワーズ、パティの風景》(1868年)(図3)では、遠くに小さく描くと共に、正面向きではなく横向きに描かれている。

やがて、恐怖心が減少すると、ピサロの《ロードシップ・レイン駅、ダリッジ》(1871年)(図4)のように、蒸気機関車は正面向きに描かれるようになる。また、抵抗感が克服されるにつれて、《汽車、ベッドフォード・パーク》(1897年)(図5)のように、蒸気機関車は肯定的に大きく描かれるようになる。

その点で、蒸気機関車を中心主題としつつ、まだその存在を隠して噴出する蒸気で示唆する、ギュスターヴ・カイユボットの《ヨーロッパ橋》(1876年頃)(図5)やエドゥアール・マネの《蒸気鉄道》(1873年)(図6)は、先進的でありつつも過渡的な作品といえるだろう。

 

図6 ギュスターヴ・カイユボット《ヨーロッパ橋》1876年頃

 

図7 エドゥアール・マネ《蒸気鉄道》1873年

 

その後、何人かの画家達は、蒸気鉄道を外側から描くのではなく内側から描く方向に進む。つまり、走行する汽車から眺めた風景に影響された絵画を描くようになる。この影響の画題から造形への移行が早く達成されればされるほど、蒸気鉄道という新しい現実に対する心理的適応はより進んだといえる。

ここでは、その例として、セザンヌ、クロード・モネ(1840-1926)、エドガー・ドガ(1834-1917)を見てみよう。

 

図8 ボニエール駅を出発する鉄道列車
(2006年8月28日筆者撮影)

 

図9 ポール・セザンヌ《ボニエールの船着場》1866年夏

 

図10 ポール・セザンヌ《切通しとサント・ヴィクトワール山》1870年頃

 

図11 ポール・セザンヌ《ヴァルクロ街道から眺めたサント・ヴィクトワール山》1878-79年

 

まず、セザンヌは、20代後半の1866年夏に《ボニエールの船着場》(図9)を描いている。前節までに見たように、この作品では、一見しただけでは分からないけれども、画面中央に近代的な電信柱と電線により鉄道駅が暗示され、画面下側の前近代的な船着場と対比されている。つまり、この作品は印象派の画家達の中で最も早く蒸気鉄道を画題化した絵画である。

また、《切通しとサント・ヴィクトワール山》(1870年頃)(図10)では、画面中央の近代的な蒸気鉄道の切通しが、画面右側の前近代的なサント・ヴィクトワール山と対比されている。興味深いことに、この作品は、セザンヌが故郷エクスで居住した邸宅ジャ・ド・ブッファンの庭から眺めた約100メートル先のエクス=ロニャック線の切通しを描いたものである。すなわち、セザンヌは日常的にこの切通しを通過する蒸気機関車を目撃していたのである。

 

図12 エクス=マルセイユ路線の車窓風景
(2006年8月26日筆者撮影)

 

さらに、セザンヌは、開通間もないエクス=マルセイユ線を走る汽車からサント・ヴィクトワール山を眺めた後にその連作に取り組んでいる。事実、セザンヌは1878年4月14日付の幼馴染エミール・ゾラ宛書簡で次のように述べている。

蒸気鉄道でアレクシ邸の傍を通過する時、東の方角に目の眩むようなモティーフが展開する。サント・ヴィクトワール山と、ボールクイユに聳える岩山だ。僕は、「何と美しいモティーフだろう」と言った(1)。

この1878年以後に、突然セザンヌは40歳前後にして初めてそれまでほとんど描かなかったサント・ヴィクトワール山を大量に描き始める。従って、セザンヌのこの山の連作は、蒸気鉄道による視覚の変容に触発された蓋然性が高い。その最初期の一つが、《ヴァルクロ街道から眺めたサント・ヴィクトワール山》(1878-79年)(図11)である。

実際に、この作品では、《オーヴェール・シュル・オワーズ近郊の小さな家並》(図1)と同じく、遠景から近景に近づくにつれて筆触が横向きに繰り返されて水平方向の運動が感じられ、画面最下段を左右に結ぶ線により前景が消失し、鑑賞者の足元は浮遊しているように感じられる。これらは、やはり鉄道乗車視覚を感受させる(図12)。

この3つの作品から、セザンヌの日常生活には青年時代から蒸気鉄道が深く根差していたことが分かる。そして、セザンヌにおける蒸気鉄道の影響が画題から造形に移行していることも感じられる。ここにおいて、セザンヌは蒸気鉄道の近代性を完全に消化しているのである。

 

図13 クロード・モネ《田舎の列車》1870年

 

図14 クロード・モネ《サン・ラザール駅、汽車の到着》1877年

 

図15 クロード・モネ《コルサース山、ノルウェー》1895年

 

従来、印象派の中で最も蒸気鉄道に積極的なのはクロード・モネだと言われてきた。それは、鉄道駅に到着する蒸気機関車を大々的に取り上げた、1877年から翌年にかけての有名な「サン・ラザール駅」連作によるところが大きい。

まず、モネが最初に汽車を描いたのは1870年の《田舎の列車》(図13)である。この時点では、まだモネにとっても蒸気鉄道は扱いにくかったらしく、列車は遠景に小さく横向きで描かれ、しかも蒸気機関車自体は木立に隠されている。ここでも、セザンヌの《ボニエールの船着場》(図9)と同じく、背景の近代的な蒸気鉄道は手前の前近代的な自然を散策する人々と対比されている。

これに対し、モネは1877年の第3回印象派展で、パリの主要な鉄道駅であるサン・ラザール駅に到着する汽車を中心画題とする連作を発表している。特に、《サン・ラザール駅、汽車の到着》(1877年)(図14)は、前景に大胆に巨大な正面向きの蒸気機関車を描写している点で蒸気鉄道の近代性の消化に進歩が見られる。

なお、当時セザンヌの親友で、印象派の画家達全員とも親しかったエミール・ゾラ(1840-1902)は、第3回印象派展の会期中の1877年4月19日に「ある展覧会――印象派の画家達」で、このモネの「サン・ラザール駅」連作を次のように誉めている。この展覧会にはセザンヌも出品しているので、彼は当然このモネの鉄道駅連作やそれを称揚するゾラの文章をよく知っていたはずである。

クロード・モネ氏は、グループの中で最も際立った個性である。彼は今年、鉄道駅の内部を描いた素晴らしい作品を出品した。そこには、到着する汽車の轟音が聞こえ、噴き出した白煙が広大な構内に渦巻くのが見える。ここにこそ、今日の絵画がある。このとても美しい広がりを持つ、近代的な枠組の中に。我等が芸術家達は、鉄道駅の詩情を見出さねばならない。父祖達が、森や川の詩情を見出したように(2)。

さらに、モネも疾走する汽車から風景を眺めた後に風景画の連作に取り組んでいる。事実、モネは1895年2月3日付のアリス・モネ宛の手紙で次のように伝えている。

しばしば単調な道行やパリから降り続く雪に、終いには少し疲れました。しかし、最後の日は汽車からクリスチャニアよりもさらに美しい素晴らしいものを見ることができました(3)。

この時、モネが13枚描いた連作の一つが《コルサース山、ノルウェー》(1895年)(図15)である。従って、この作品には蒸気鉄道による視覚の変容が反映している蓋然性が高い。

実際に、この作品でも、セザンヌの《オーヴェール・シュル・オワーズ近郊の小さな家並》(図1)と同様に、輪郭線がブレると共に、筆触が横方向に反復されて水平方向の運動が感じられ、画面最下段に大きな横長の余白が空くことで前景が消失し、鑑賞者は宙に浮いてこの風景を眺めているように感じられる。

これらは、やはり鉄道乗車視覚を感受させる。ここにおいて、モネも蒸気鉄道の近代性を完全に消化したといえるだろう。

 

図16 エドガー・ドガ《浜辺風景》1869-70年

 

図17 エドガー・ドガ《競馬場にて、素人騎手達》1876-87年

 

図18 エドガー・ドガ《風景》1892年

 

また、セザンヌやモネと交友のあったエドガー・ドガも、蒸気機関を利用した乗物としては蒸気鉄道よりも早く実用化された蒸気船を《浜辺風景》(1869-70年)(図16)で描いている。この作品では、黒煙を吐き出して航行する2隻の蒸気船が遠景に小さく横向きに描かれている。

さらに、ドガは汽車も描いている。事実、《競馬場にて、素人騎手達》(1876-87年)(図17)では、画面左側で白煙を噴き出して疾走する汽車が遠景に小さく横向きに描写されている。ここでも、セザンヌの《ボニエールの船着場》(図9)やモネの《田舎の列車》(図13)と同じく、近代的な蒸気鉄道は手前の前近代的な乗馬と対比されている。

そして、ドガもまた疾走する汽車から眺めた風景に触発されて風景画を連作している。実際に、ドガは1892年9月に次のように証言している。

〔その風景画の連作は〕今年の夏の旅行の成果です。私は鉄道列車の扉口に立ち、不明瞭に眺めていました。それが、私に風景画を描く着想を与えたのです(4)。

この時、ドガが21枚描いた連作の一つが《風景》(1892年)(図18)である。従って、この作品には蒸気鉄道による視覚の変容が反映していることは確かである。

実際に、この作品でも、セザンヌの《オーヴェール・シュル・オワーズ近郊の小さな家並》(図1)やモネの《コルサース山、ノルウェー》(図15)と同様に、輪郭線が曖昧になると共に、筆遣いが横向きに素早く払われることで水平方向の運動が感じられ、画面最下段に大きな横長の余白が空くことで前景が消失し、鑑賞者は空中からこの風景を眺めているように感じられる。

これらは、やはり鉄道乗車視覚を感受させる。ここにおいて、ドガもまた蒸気鉄道の近代性を完全に内面化しているといえるだろう。

このように、フランスで蒸気鉄道に初めて本格的に取り組んだ印象派の画家達の中でも、セザンヌ、モネ、ドガには蒸気鉄道の影響の画題から造形への移行を見出せる。興味深いのは、彼らがいずれも造形面での影響を連作で表現していることである。おそらく、蒸気鉄道の乗車中に変容された視覚を降車後に自然風景に適用して描こうとすれば、自ずと同じ対象で何度もその感覚を確かめつつ多作することになるのだと思われる。

いずれにしても、この3人の中で、蒸気鉄道の影響の画題から造形への移行が最も早いのはセザンヌである。実際に、セザンヌが蒸気鉄道を最初に画題化したのは《ボニエールの船着場》(図9)の1866年であり、最初に造形化したのは《オーヴェール・シュル・オワーズ近郊の小さな家並》(図1)の1873年から74年(遅くとも《ヴァルクロ街道から眺めたサント・ヴィクトワール山》(図11)の1878から79年)にかけてである。これらは、どちらも「近代生活の画家」として知られるモネやドガよりも早い。

その風景画の多さから、セザンヌが自然を愛好する心性を持っていたのは間違いない。しかし、それと同時に、だからこそ彼は近代的な蒸気鉄道がもたらす様々な諸変化にも――画題上も造形上も――敏感に反応できたと推定できる。その意味で、セザンヌもまた紛れもなく「近代生活の画家」の一人なのである。

 

(1)Paul Cézanne, Correspondance, recueillie, annotée et préfacée par John Rewald, Paris, 1937; nouvelle édition révisée et augmentée, Paris, 1978, p. 165. 邦訳『セザンヌの手紙』ジョン・リウォルド編、池上忠治訳、美術公論社、1982年、122頁。

(2)Émile Zola, “Une exposition: les peintres impressionnistes” (19 avril 1877), in Notes parisiennes (1877), in Œuvres complètes, VIII, Paris: Nouveau Monde, 2003, pp. 629-630. 邦訳、エミール・ゾラ「パリ・ノート」『ゾラ・セレクション(9)美術論集』三浦篤編、三浦篤・藤原貞朗訳、藤原書店、2010年、333頁。

(3)Daniel Wildenstein, Claude Monet: biographie et catalogue raisonné, III, Lausanne-Paris: La Bibliothèque des arts, 1979, p. 279.

(4)Edgar Degas, Lettres de Degas, recueillies et annotées par Marcel Guérin, Paris, 1931; nouvelle édition, Paris, 1945, pp. 277-278.

 

著者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美術史家・美学者・キュレーター。
1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。
2013年に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。2023年に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)出版。
主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日-2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto〔虚白院 内〕、会期:2015年3月7日-2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院〔建仁寺塔頭〕、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日-2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:高台寺掌美術館、会期:2022年3月3日-2022年5月6日)、「水津達大展 蹤跡」(会場:圓徳院〔高台寺塔頭〕、会期:2025年3月14日-2025年5月6日)等。

2010年4月-2012年3月: 京都大学こころの未来研究センター連携研究員
2011年4月-2013年3月: 京都大学地域研究統合情報センター共同研究員
2011年4月-2016年3月: 京都大学こころの未来研究センター共同研究員
2016年4月-: 滋賀医科大学非常勤講師
2017年4月-2024年3月: 上智大学グリーフケア研究所非常勤講師
2020年4月-2023年3月: 上智大学グリーフケア研究所特別研究員
2021年4月-2024年3月: 京都ノートルダム女子大学非常勤講師
2022年4月-: 京都芸術大学非常勤講師

http://tomokiakimaru.web.fc2.com/