『美とアウラ――ヴァルター・ベンヤミンの美学』第3章「ヴァルター・ベンヤミンの『感覚的知覚の正常な範囲の外側』の問題について」秋丸知貴評

 

前章までに論じた「アウラ」概念及び「アウラの凋落」概念は、次のように要約できる[1]。

まず、「アウラ」は、対象が被る変化及びその時間的全蓄積である。また、主体が客体のアウラを注意(=意識の持続的集中)して知覚することを「アウラ的知覚」と定義できる。

基本的に、天然の自然環境では、主体の客体に対する知覚はアウラ的知覚である。これに対し、一九 世紀以後、「有機的自然の限界からの解放[2]」(ヴェルナー・ゾンバルト)を特徴とする各種の脱自然的な「近代技術」が主体と客体の間に介入するようになると、主体には自然な「アウラ的知覚」に代わる脱自然的な「脱アウラ的知覚」が生じ、「アウラの凋落[3]」が発生することになる。

ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品(第二稿)」(一九三五–三六年)で、この「アウラの凋落」をもたらす写真や映画に関して、「録画機械が現実から獲得することのできる多様な姿の大部分は、感覚的知覚の正常な(normalen)範囲の外側にある[4]」と言っている。

また、ベンヤミンは同稿で、「アウラの凋落」における知覚について、「物をその被いから取り出すこと、アウラを崩壊させることは、ある知覚の特徴である[5]」と述べている(ここでいう「被い」とは、「アウラ」の謂いである)。

さらに、ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」(一九三九 年)で、この「アウラの凋落」における知覚を「ショック体験」と言い換えている。「ボードレールは、近代の感覚を得るための代償を明らかにした。つまり、ショック体験におけるアウラの崩壊である[6]」。

これらのことから、ベンヤミンは、「アウラの凋落」における知覚、つまり自然な「アウラ的知覚」が十全に成立していない脱自然的な「脱アウラ的知覚」を、「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の知覚であるがゆえに「ショック体験」と見なしていると解釈できる。本章は、この「感覚的知覚の正常な範囲の外側」という観点から、改めて近代技術がもたらす「アウラの凋落」の諸相をより詳細に考察する。

1 写真・映画・蓄音機

まず、近代技術としての写真について見てみよう。外界の光を穴やレンズを通して暗箱内に映し出し、その投影像を感光剤を用いて支持体に定着させる装置を「写真機(カメラ)」、その定着された投影像を現像したものを「写真」と言う。写真は、一八三九 年にルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが開発した写真術の公開により、一九世紀後半以降急速に普及する。

写真では、被写体のアウラは凋落する。なぜなら、写真の映像は、被写体の外見を感光的に写し取ったものに過ぎないので、被写体自体の物質的要素は消失するからである。そのため、被写体(=物)は、その物質的要素を基盤に蓄積してきたアウラ(=被い)から分離された写像と化し、アウラを喪失する。つまり、写真が鑑賞者に提供するものは、ただ被写体のある時点での固定的・表層的な視覚情報だけである。

こうした写真を生み出す写真機と人間の眼球の構造は類似しているため、両者の映像も類似している。ただし、人間の視覚が網膜の捉えた光を意識の働きにより志向的に取捨選択するのに対し、写真機は光を化学反応により全て定着させる[7]。これにより、写真には人間の視覚では意識されなかった無意識的領域も映出される。

さらに、高速度撮影は、主体が被写体に本来向けている視覚上の意識の持続的集中を時間的に断ち切る。また、クローズアップ(拡大撮影)は、主体が被写体に本来向けている視覚上の意識の持続的集中を空間的に弱める。これらにより、一層写真には本来の人間の視覚では意識されなかった無意識的領域が表象される。これらは、「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の知覚といえる。

事実、ヴァルター・ベンヤミンは「写真小史」(一九三一 年)で、写真について次のように説いている。

当然、写真機に語りかける自然は、肉眼に語りかける自然と異なる。異なるのは何よりも、人間により意識を織り込まれた空間の代りに、無意識を織り込まれた空間が立ち現れることである。例えば、人の歩き方について大まかに説明することは一応誰にでもできる。しかし、「足を踏み出す」時の何分の一秒における姿勢については、誰も全く知らないに違いない。写真は、高速度撮影やクローズアップといった数々の補助手段を用いてそれを解明してくれる。こうした視覚における無意識は、写真により初めて知られる。それは、衝動における無意識が精神分析により初めて知られるのと同様である[8]。

さらに、写真映像の連続投影である映画では、被写体に対する視覚上の無意識的領域がさらに開示されうる。つまり、遅回し(スローモーション)や早回し(クイックモーション)は[9]、主体が被写体に本来向けている視覚上の意識の持続的集中を時間的に緩める。これにより、一層映画には本来の人間の視覚では意識されなかった無意識的領域が表現される。これも、「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の知覚といえる。

実際に、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品(第二稿)」で、映画について次のように論じている。

クローズアップにより空間が、スローモーションにより運動が引き伸ばされる。そして拡大撮影は、「これまでも」不明確になら見えていたものを単に明確にすることではなく、むしろ物質の全く新しい構造組成を目に見えるようにすることである。同様にスローモーションは、単に既知の諸要素を目に見えるようにするだけでなく、この既知の要素の中に全く未知の要素を発見する。これらは「速い運動が遅くなったというのではなく、奇妙に滑るような、漂うような、この世のものならぬ運動といった印象を与える」。従って、写真機に語りかける自然が肉眼に語りかける自然と異なることは明白である。異なるのは何よりも、人間により意識を織り込まれた空間の代りに、無意識を織り込まれた空間が立ち現れることである。人の歩き方について、大まかに説明することは一応誰にでもできる。しかし、足を踏み出す時の何分の一秒における姿勢については、誰も全く知らないに違いない。ライターやスプーンを使う時の動作は、私達にとって大体はお馴染みである。しかしその際、手と金属の間で実際は何が起こっているのか、ましてやそれが私達の心身状態によりどう変化するのかについては、私達はほとんど知らない。そこに写真機は、角度の上げ下げ、中断と分離、経過の引伸ばし〔スローモーション〕と圧縮〔クイックモーション〕、拡大〔アップ〕と縮小〔ロング〕等の様々な補助手段を用いて介入する。視覚における無意識は、カメラにより初めて私達に知られる。それは、衝動における無意識が精神分析により初めて私達に知られるのと同様である〔括弧内は引用者〕[10]。

こうして写真や映画が、主体が被写体に本来向けている視覚上の意識の持続的集中を欠損させると、その分主体の自然なアウラ的知覚は薄れ、脱自然的な脱アウラ的知覚が発生する。こうした写真や映画は、生来の自然な意識状態を撹乱するという意味では不自由さをもたらすが、それまで不可知だった無意識的領域を新たに意識の領域に取り込むという意味では自由を拡大することになる。

このことを、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で次のように説明している。

映画は、周囲の世界にある様々なものをクローズアップし、私達にお馴染みの品々の隠れた細部を強調し、レンズの独創的な使用により平凡な環境を精査し、そうすることで一方では私達の存在を支配している数々の必然性をより一層理解させ、他方では広大で意外な自由空間を私達に約束することになる[11]。

こうした写真や映画等の視覚的な録画機械による脱アウラ的知覚は、再生機能を持つ蓄音機等の聴覚的な録音機械によっても同様に生じる。つまり、人間の聴覚が鼓膜の捉えた音を意識の働きにより志向的に取捨選択するのに対し、録音機械は音を機械的に全て定着させる。これにより、録音機械では本来の人間の聴覚では意識されなかった無意識的領域も再生される。さらに、音量の増幅は、主体が被録音体に本来向けている聴覚上の意識の持続的集中を空間的に弱め、再生速度の増減は、主体が被録音体に本来向けている聴覚上の意識の持続的集中を時間的に緩める。これらにより、一層録音機械では本来の人間の聴覚では意識されなかった無意識的領域が表出されうる。これもまた、「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の知覚といえる[12]。

実際に、ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、録画機械や録音機械等の記録機械について次のように解説している。

写真機及びそれ以後の類似の機械を用いる諸技術は、意志的記憶の範囲を拡大する。出来事を、機械を用いて映像と音声で記録することが常に可能になる。従って、これらの諸技術は、熟練が衰微していく社会における重要な収穫となる[13]。

2 大都市群集

次に、一九世紀後半にジョルジュ・オスマンのパリ大改造等で台頭する大都市群集を見てみよう[14]。ここで注意すべきは、大都市群集は、蒸気鉄道による運輸交通の高速化・大量化を主な成立背景とする点で、本質的に近代技術の産物である問題である。つまり、大都市群集は、蒸気鉄道が広範囲から高速で大量に人々を循環させることにより成立する。そして、そうした機械的な高速性・大量性の介在により、大都市群集では「アウラの凋落」が生じる。

まず、大都市群集では誰もが足早に行き交う。そのため、基本的に歩行者は、瞬時にすれ違う通行人を一瞥するだけで、従来のように個々の通行人と濃密で人格的な相互交流を行うことはなくなる。そして、主体と客体、すなわち歩行者と通行人の関係は、刹那的で表面的になり、自然な持続性が失われ、五感性が弱まり、相互作用性が薄れるので、主体の通行人に対する注意(=意識の持続的集中)は衰える。これにはさらに、通行人の大量性による注意の散逸も加わる。こうして通行人に対する意識の持続的集中が減少すると、その分主体のアウラ的知覚は減退し、脱アウラ的知覚が発生する。その結果、主体にとって個々の通行人は、具体的固有性つまりアウラの希薄な単なる束の間の視覚印象に過ぎなくなる。これも、「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の知覚といえる。

この大都市群集による知覚の変容に関連して、ベンヤミンは「パリ――一九世紀の首都」(1935年)で、「ボードレールにおいて初めてパリが抒情詩の対象になる[15]」と語っている。そのボードレールは、『悪の華』(第二版・一八六三年)の「通りすがりの女に」で次のように詠っている。

街路は僕の周りで、耳を聾するほど喚いていた。
背の高い、細身の、喪服を纏った、悲痛で荘重な、
一人の女が通り過ぎた、優雅な片手で
花綱模様の裾を、摘んで揺らしながら。

俊敏で気高い、彼女の足は彫刻のよう。
僕、この僕は飲んだ、狂人のように引き攣りつつ、
彼女の目の中に、鉛色の空が嵐を兆すのを、
魅惑する甘さを、命を奪う喜びを。

閃光……そして夜! ――束の間の美女よ
そのまなざしは僕を不意に生き返らせたのに、
もはや永遠の中でしか、君に会えないのか?

彼方、ここから遥か遠く! 遅過ぎる! 多分決して
なぜなら、僕は君の行先を知らず、君は僕の行先を知らない、
ああ 僕は君を愛したのに、ああ 君はそれを知っていたのに[16]!

そして、ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、ボードレールの詩を次のように読解している。

ボードレールがこの事情を熟知するにつれて、アウラの凋落はますます被い隠し難く彼の抒情詩の中に刻み付けられていった。これは一つの暗号の形を取った。「悪の華」で人間のまなざしが登場する場所のほとんど全てにおいてこの暗号が見出される(ボードレールがそれを計画的に用いたのでないことは言うまでもない)。そこで言われているのは、要するに人間のまなざしへの反応を求める期待が空しい結果に終わることである[17]。

こうして大都市群集では、その脱自然的な刹那性と大量性の介入により、主体は客体から見られることなく一方的に見ることができるという異常な透明人間的自由を獲得する。そして主体は、本来の自然な意識状態による人間関係では知覚されない、無意識的領域における客体の秘められた真の相貌を窃視することになる。これも、「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の知覚といえる。

事実、ボードレールは『近代生活の画家』(一八六三年)で、大都市群集について次のように記述している。

群集が彼の領域であることは、空気が鳥の領域、水が魚の領域であるのと同様だ。〔…〕完全な遊歩者にとって、情熱的な観察者にとって、数の中に、うねりの中に、運動の中に、移ろい易いものの中に、無限なものの中に住いを定めることは、莫大な悦楽である。我が家の外に居ながら、どこでも我が家のように感じること。世界を見ながら、世界の中心に居ながら、世界から隠れたままでいること。こうしたことが、この独立した、情熱的な、偏見無き精神のささやかな喜びの幾つかであるが、これらは言葉では不器用にしか定義できない。観察者は、至る所にお忍びを楽しむ王侯である[18]。

ここにおいて、個々の通行人は全て、意識の集中が薄れた表層的な視覚印象と化し、情報価値において等価となる。やがて、大都市群集をまなざす主体には、視界に入る厖大で流動的な万華鏡的視覚印象全てと同時に向き合う特殊な知覚が成立する[19]。この具象的奥行の減退した動態的・疎外的・平面的・一望的知覚を、ヴォルフガング・シヴェルブシュは『鉄道旅行の歴史』(一九七七 年)で、「パノラマ的知覚[20]」と呼んでいる。

これに関連して、ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、大都市群集的知覚について次のように解読している。

大都市の往来の中を移動することは、個々人にとって一連のショックと軋轢を生み出す。危険な交差点では、バッテリーの衝撃のように、神経刺激の伝達が次々と体を貫く。ボードレールは、電流の貯蔵庫に飛び込むように群集に飛び込む男について語っている。すぐ後で、彼はこの男を「意識を備えた万華鏡」と呼ぶが、これはショックの経験の言い換えである[21]。

実際に、ボードレールは『近代生活の画家』(一八六三年)で、大都市群集について次のように叙述している。

こうして普遍的な生の愛好者は、電流の厖大な貯蔵庫に入るように、群集に入っていく。人はまた彼を、この群集と同じほど膨大な鏡に喩えることもできる。つまり、その運動の度ごとに、生の多様性を、生のあらゆる要素の動的な魅力を表象する、意識を備えた万華鏡に[22]。

なお、こうした大都市群集による知覚の変容は、主体自身が大都市群集の中で歩行しつつ通行人と行き交う時に最も顕著であるが、主体が大都市群集の中で停止して通行人を眺めている時や、さらに主体が大都市群集の外で停止して通行人を眺めている時にも、通行人の刹那性と大量性による注意散逸によりそれぞれ生じる。さらに、主体が通行人をガラス窓越しに眺めて視覚以外の五感が捨象される時には、注意は一層損なわれ、そうした脱アウラ的知覚はより強化されることになる。

3 蒸気鉄道

この大都市群集の場合と同様の知覚の変容は、蒸気機関を直接動力とする蒸気鉄道においてより強力に発生する。つまり、一九世紀半ば以降各地で発展する蒸気鉄道では、乗客と風景の関係が、大都市群集における歩行者と通行人の関係に対応する。そして、やはり機械的な高速性・大量性の介在により、蒸気鉄道の車窓風景では「アウラの凋落」が生じる。

まず、蒸気機関を直接的な推進動力とする蒸気鉄道では、車窓の風景は高速で過ぎ去る。そのため、基本的に乗客は、瞬間的に通過する風景を一瞥するだけで、従来のように個々の風景と充実的で体感的な相互交流を行うことはなくなる。つまり、主体と客体、すなわち乗客と風景の関係は、刹那的で書割的になり、自然な持続性が失われ、五感性が弱まり、相互作用性が薄れるので、主体の風景に対する注意(=意識の持続的集中)は衰える。これにはさらに、風景の大量性による注意の散逸も加わる。さらに、主体が風景をガラス窓越しに眺めて視覚以外の五感が捨象される時には、注意は一層損なわれる。

こうして風景に対する意識の持続的集中が減少すると、その分主体のアウラ的知覚は減退し、脱アウラ的知覚が発生する。その結果、主体にとって個々の風景は、具体的固有性つまりアウラの希薄な単なる飛散的な視覚印象に過ぎなくなる。これも、「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の知覚といえる。

ここにおいて、個々の風景は全て、意識の集中が薄れた表層的な視覚印象と化し、情報価値において等価となる。やがて、車窓風景をまなざす乗客には、視界に入る陸続たる奔流的な万華鏡的視覚印象全てと平面的に向き合うパノラマ的知覚が生じる。これも、「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の知覚といえる。

これに関連して、シヴェルブシュは『鉄道旅行の歴史』で、蒸気鉄道の車窓風景について次のように考察している。

大都市における刺激と、鉄道旅行における刺激の質の差異は、この文脈では重要ではない。決定的なことは、知覚器官が受容して消化せねばならない印象の量的な増加である[23]。

また、シヴェルブシュは同著で、車窓風景における「アウラの凋落」について次のように洞察している。

鉄道旅行の文脈で見た、パノラマ的知覚の本質的特徴を再考しよう。速力が前景の消失をもたらすにつれて、速力は乗客を、彼を直接的に包含している空間から分離する。つまり速力は、自らを「ほとんど実体なき障壁」として客体と主体の間に挿入する。こうした方法で眺められた風景は、例えば鉄道旅行の批判者であるラスキンがまだそうであったように、集中的に、アウラ的にはもはや経験されずに、消失的に、印象派的に、正にパノラマ的に経験される[24]。

ここで注目すべきは、蒸気機関と車輪線路という二つの近代技術の複合である蒸気鉄道では、脱自然的な高速性や大量性のみならず、脱自然的な規則性による脱アウラ的知覚も生じる問題である。つまり基本的に、蒸気機関は肉体の自然な身体能力を無視して一律に速度を出力し、車輪線路は身体の自然な揺動を無視して直進的に前進すると共に、地形の自然な起伏を無視して直線的に進行する。その結果、蒸気鉄道では、乗客と風景の関係には機械的な規則運動が介入し、自然な持続性が失われ、五感性が弱まり、相互作用性が薄れるので、さらに主体の風景に対する意識の持続的集中は衰える。こうして主体が脱自然的に幾何学的に運送されることにより、たとえ低速状態であっても、個々の風景の具体的固有性つまりアウラに対する主体の自然なアウラ的知覚は減退する。そしてその減退の分だけ、やはり主体には脱自然的な脱アウラ的知覚が発生する。これも、「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の知覚といえる。

こうして蒸気鉄道の車窓風景では、その脱自然的な高速性・大量性・規則性の介入により、主体は客体から身を引き離して一方的に見ることができるという異常な傍観者的自由を獲得する。そして主体は、本来の自然な意識状態における人間と風景の関係では知覚されない、無意識的領域における風景の秘められた真の相貌を垣間見ることになる。つまり、主体は、対象の形態や空間関係や色彩の本質的構造を抽象的に捉える純粋的視覚を獲得する。これも、「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の知覚といえる。

実際に、ジュール・クラルティーは『パリ人達の旅行』(一八六五年)で、蒸気鉄道的視覚について次のように描述している。

風景について言えば、蒸気鉄道は大まかな量塊しか提示しない。これは、巨匠級の芸術家こそが用いる手法である。蒸気鉄道には、細部を求めずに生き生きとした全体を求めよう[25]。

なお、この蒸気鉄道の場合と同様の視覚の変容は[26]、二〇世紀に普及する他の移動機械、例えば自動車[27]や飛行機[28]でも生じる[29]。

4 移動機械・伝達機械・記録機械

さらに、蒸気鉄道・自動車・飛行機等の移動機械は、上記の脱自然的な高速性・大量性・規則性に加え、脱自然的な接近性による「アウラの凋落」ももたらす。つまり、移動機械は、その脱自然的な高速直線運動により移動時間を短縮することで、空間的遠隔地を時間的近接地と感じさせる。そうした時空間感覚の変化の結果、主体の個々の地域に対する意識の集中は脱構築され、個々の地域の具体的固有性つまりアウラに対する自然なアウラ的知覚は減退する。そしてその減退の分だけ、やはり主体には脱自然的な脱アウラ的知覚が発生し、本来の自然な意識状態では知覚されなかった無意識的領域の遠隔地域が意識に入ってくる。これも、「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の知覚といえる。

例えば、ハインリヒ・ハイネは一八五四年の記事で、蒸気鉄道について次のように驚いている。

この恐怖は、途轍もないこと、前代未聞の事態が出現し、結果が見通せず予測が付かない時、私達が常に感じるものである。〔…〕今や、どれほどの変化が、私達の物の見方や考え方に生じねばならないだろうか! 基礎概念である時間や空間でさえ、動揺し始めている。蒸気鉄道により、空間は抹殺され、私達に残されているのは時間だけである。〔…〕今や四時間半でオルレアンに、そして同じ時間でルーアンに行ける。これらの路線が、ベルギーやドイツへ伸展し、彼の地の鉄道と連結すれば、一体どんなことになるだろうか! まるで、全ての地方の山や森が、パリに押し寄せてくるように感じられる[30]。

また、こうした脱アウラ的知覚は、一九世紀以降に発明される電信・電話・無線・ラジオ・テレヴィジョン等の伝達機械の生放送でも同様に生じる。つまり、伝達機械は、その脱自然的な高速直線通信により情報伝達時間を短縮することで、空間的遠隔地を時間的近接地と感じさせる。そうした時空間感覚の変化の結果、やはり主体の個々の地域に対する意識の集中は脱構築され、個々の地域の具体的固有性つまりアウラに対する自然なアウラ的知覚は減退する。そしてその減退の分だけ、やはり主体には脱自然的な脱アウラ的知覚が発生し、本来の自然な意識状態では知覚されなかった無意識的領域の遠隔地域が意識に入ってくる。これも、「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の知覚といえる[31]。

さらに、こうした脱アウラ的知覚は、一九世紀以降に開発される写真・映画・蓄音器・ヴィデオ等の記録機械でも同様に生じる。つまり、記録機械は、その脱自然的な情報記録能力により事象を本来の時間や空間から切り離すと共に、媒体上で別の時間や空間と接合したり、実際に別の時間や空間へ運搬したりすることを可能にする。そうした時空間感覚の変化の結果、やはり主体の個々の地域に対する意識の持続的集中は脱構築され、個々の地域の具体的固有性つまりアウラに対する自然なアウラ的知覚は減退する。そしてその減退の分だけ、やはり主体には脱自然的な脱アウラ的知覚が発生し、本来の自然な意識状態では知覚されなかった無意識的領域の遠隔地域が意識に入ってくる[32]。これも、「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の知覚といえる[33]。

こうした移動機械・伝達機械・記録機械による脱アウラ的知覚においては[34]、個々の地域は全て、意識の集中が薄れた表層的な観念記号となり、情報価値において等価となる。やがて、これらの近代技術に慣れ親しんだ主体には、世界中のあらゆる地域が同一平面上に浮遊的かつモザイク状に並置されるような観念上のパノラマ的知覚が成立する[35]。これも、「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の知覚といえる。

例えば、ステファヌ・マラルメは『最新流行』第八号(一八七四 年)で、蒸気鉄道について次のように楽しんでいる。

パリを離れ、空の澄んだ土地へ着くこと、それが彼等の夢である。そしてその夢をもう一度反芻する間もなく、出発の汽笛が一声鳴り響けば、それだけでそれらの名前が魔法の言葉のように輝き渡る。つまり、マルセイユ、トゥーロン(そして、その二つの避寒地の間の出費の少ない素敵な滞在、ラ・シオタと雄鷲岬、サン・シールとレック湾、バンドル、オリウール!)、イエール、サン・ラファエル諸島、アンティーブ、カンヌ、ニース、モナコ、マントンあるいはサン・レモ……[36]

これに関連して、シヴェルブシュは『鉄道旅行の歴史』で、「『いま・ここ』と遠さという概念は、ベンヤミンのアウラ概念にとって本質的である[37]」と話している。また、シヴェルブシュは同著で、移動機械による「アウラの凋落」について次のように指摘している。「蒸気鉄道により結合された地域、または首都に接続された地域、そして近代的輸送によりその土着性から切り離された商品は、その先祖伝来の場所、その伝承されてきた『いま・ここ』性、ベンヤミンの概念を用いれば、アウラを喪失する点で共通している[38]」。さらに、シヴェルブシュは同著で、移動機械・伝達機械・記録機械による「アウラの凋落」に関して次のように主張している。なお、ここでいう「複製技術」は「記録機械」とほぼ同義である。

ベンヤミンのいう複製技術によるアウラの凋落は、一九世紀の大衆に諸地域を「より近いもの」にしたのと同じ運動の表現である。「複製技術を採用し、あらゆる現実の一回性を克服することが大衆の傾向であるように、物を空間的にも時間的にも「より近いもの」にすることは、大衆の非常に熱烈な願望である」。観光旅行で諸地域を我がものにすることは、複製技術であらゆる唯一性を我がものにすることの前段階であり準備である。空間的遠さの経験の欠落は、オリジナルとコピーの差異を次第に均していく。映画的知覚、すなわち全く異なる諸映像を一つの統一体として編集構成する知覚において、抹殺された諸空間の新しい現実が、恐らくその最も明瞭な表現を見出す[39]。

おわりに

ここで留意すべきは、ベンヤミンが「感覚的知覚の正常な範囲の外側」という用語を用いている問題である。つまり、原文ではイタリック体で譲歩されているとはいえ、それでもなお「正常な」という形容詞を付けている以上、ベンヤミンにとって「正常」なのはあくまでもアウラ的知覚であり、脱アウラ的知覚はやはり「異常」であったことになる。このことは、表面的にはいかにマルクス主義的に技術発展を礼讃しようとも、ベンヤミン自身の深層意識では、脱アウラ的知覚をもたらす近代技術は、本質的に人間にとって同質で正常なものではなく、異質で異常なものと感受されていたことを意味していよう。

近代技術には、人間の生存上の有利のために発達してきた必然性がある。そうである以上、近代技術を全て社会から排斥しようとすることは、合理的でも現実的でもない。しかし、もし本当に人間が様々な近代技術をコントロールし、生活に役立てようとするならば、まずその異質性や異常性の認識から出発しなければ最初のボタンを掛け違ってしまうのではないだろうか? そうした問題を改めて意識させてくれる点において、本稿はベンヤミンの提出した「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の問題を再評価したい[40]。

註 本稿の引用は全て、既訳のあるものは参考にさせていただいた上で拙訳している。

[1] 第1章「ヴァルター・ベンヤミンの『アウラ』概念について」、第2章「ヴァルター・ベンヤミンの『アウラの凋落』概念について」

[2] Werner Sombart, Die Zähmung der Technik, Berlin: Buchholz & Weißwange, 1935. 邦訳、W・ゾンバルト「技術の馴致」『技術論』阿閉吉男訳、科学主義工業社、1941 年等。

[3] Walter Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit [Zweite Fassung]” (1935–36), in Gesammelte Schriften, VII (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1989, p. 354. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995 年、592 頁。(以下、本稿は全て同版を用いる。)

[4] Ibid, p. 376. 邦訳、同前、620 頁。

[5] Ibid, p. 355. 邦訳、同前、593 頁。

[6] Walter Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire” (1939), in Gesammelte Schriften, I (2), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1974; Dritte Auflage, 1990, p. 653. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995 年、480 頁。

[7] ここにおいて、写真に定着された個々の光は全て、意識の集中が薄れた表層的な視覚印象と化し、情報価値において等価となる。

[8] Walter Benjamin, “Kleine Geschichte der Photographie” (1931), in Gesammelte Schriften, II (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1977; Zweite Auflage, 1989, p. 371. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995 年、558–559 頁。

[9] これには、逆回し(リバースモーション)も加えられるだろう。

[10] Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit,” p. 376. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」619–620 頁。

[11] Ibid., pp. 375–376. 邦訳、同前、618–619 頁。

[12] なお、こうした録画機械や録音機械等の記録機械では、媒体的特性により五感性・相互作用性・一回性も失われる。つまり、写真やサイレント映画は視覚のみ、蓄音機は聴覚のみ、トーキー映画は視聴覚のみを残して主体の他の五感を捨象する。また、主体と被写体は同一の時空間上に存在していないので相互作用は生じない。さらに、客体が再生可能になると事象の一回性に対する主体の心理的緊張は薄れる。こうして、五感性・相互作用性・一回性が失われ、意識の集中が衰える分、アウラ的知覚はより衰微する。

[13] Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire,” p. 644. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」467 頁。

[14] 大都市群集による知覚の変容については、拙稿「印象派と大都市群衆」も参照。

[15] Walter Benjamin, “Paris, die Hauptstadt des XIX. Jahrhunderts” (1935), in Gesammelte Schriften, V (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1982; Dritte Auflage, 1989, p. 54. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「パリ——十九世紀の首都」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995 年、346 頁。

[16] Charles Baudelaire, “Les Fleurs du mal” (1861), in Œuvres complètes, I, Paris: Gallimard (Bibliothèque de la Pléiade), 1975, pp. 92–93. 邦訳、シャルル・ボードレール「悪の華(第二版)」福永武彦訳、『ボードレール全集(Ⅰ)』福永武彦編、人文書院、1963 年、190–191 頁。

[17] Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire,” p. 648. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」472 頁。

[18] Charles Baudelaire, “Le Peintre de la vie moderne” (1863), in Œuvres complètes, II, Paris: Gallimard (Bibliothèque de la Pléiade), 1976, pp. 691–692. 邦訳、シャルル・ボードレール「現代生活の画家」阿部良雄訳、『ボードレール全集(Ⅳ)』福永武彦編、人文書院、1964 年、302–303 頁。

[19] この大都市群集の場合と同様の知覚の変容は、本稿で論じた蒸気鉄道以外にも、19 世紀以後に登場する百貨店、博覧会、写真映像、映画等でも生じる。第2章「ヴァルター・ベンヤミンの『アウラの凋落』概念について」を参照。

[20] Wolfgang Schivelbusch, Geschichte der Eisenbahnreise: Zur Industrialisierung von Raum und Zeit im 19. Jahrhundert, München: Carl Hanser, 1977; Frankfurt am Main: Fischer Taschenbuch, 2000. 邦訳、ヴォルフガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史——19 世紀における空間と時間の工業化』加藤二郎訳、法政大学出版局、1982 年。

[21] Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire,” 630. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」449–450 頁。

[22] Baudelaire, “Le Peintre de la vie moderne,” pp. 691–692. 邦訳、ボードレール「現代生活の画家」303 頁。

[23] Schivelbusch, cit., p. 55. 邦訳、シヴェルブシュ、前掲書、75 頁。

[24] Ibid., pp. 166–167. 邦訳、同前、235–236 頁。

[25] Jules Claretie, Voyages d’un Parisien, Paris: A. Faure, 1865, p. 4.

[26] 蒸気鉄道による視覚の変容については、「セザンヌと蒸気鉄道」も参照。

[27] 自動車による視覚の変容については、「フォーヴィズムと自動車」も参照。

[28] 飛行機による視覚の変容については、「近代絵画と飛行機」も参照。

[29] ただし、自動車や飛行機では、主体が運転する場合には移動の能動性の分だけ、通過風景に対する相互作用性が高まり、意識の集中が増え、アウラ的知覚が回復する。

[30] Heinrich Heine, “Lutezia” (1854), in Heinrich Heine, XI, Berlin: Akademie-Verlag, 1974, pp. 181–182. 邦訳、ハインリヒ・ハイネ『ルテーチア』木庭宏・宮野悦義・小林宣之訳、松籟社、1999 年、282–283 頁。

[31] なお、こうした伝達機械では、媒体的特性により五感性や相互作用性も失われる。つまり基本的に、電信・電話・無線・ラジオは聴覚のみ、テレビジョンは視聴覚のみを残して主体の他の五感を捨象し、ラジオ・テレヴィジョンは一方向通信のみで相互作用は生じない。こうして、五感性や相互作用性が失われ、意識の集中が衰える分、アウラ的知覚はより衰微する。現在では、携帯電話やインターネットが伝達機械の代表であろう。

[32] さらに、記録機械が移動機械や伝達機械と併用され、時空間感覚がより改変されると、この脱アウラ的知覚は一層強化される。

[33] なお、こうした記録機械では、媒体的特性により五感性・相互作用性・一回性も失われる。つまり基本的に、写真やサイレント映画は視覚のみ、蓄音機は聴覚のみ、トーキー映画やヴィデオは視聴覚のみを残して主体の他の五感を捨象する。また、主体と被写体は同一の時空間上に存在していないので相互作用は生じない。さらに、客体が再生可能になると事象の一回性に対する主体の心理的緊張は薄れる。こうして、五感性・相互作用性・一回性が失われ、意識の集中が衰える分、アウラ的知覚はより衰微する。

[34] 移動機械・伝達機械・記録機械はいずれも、空間的遠隔地を時間的近接地と感じさせる場合は勿論、たとえ空間的近接地同士でも自然状態ではありえない異常な時間や空間の組合せをもたらす場合には、時空間感覚を改変し、脱アウラ的知覚をもたらす。

[35] 移動機械・伝達機械・記録機械による時空間感覚の変容については、「『象徴形式』としてのキュビズム」も参照。

[36] Stéphane Mallarmé, “La Dernière Mode: Gazette du monde et de la famille, Huitième livraison” (20 décembre 1874), in Œuvres complètes, II, Paris: Gallimard (Bibliothèque de la Pléiade), 2003, pp. 650–651. 邦訳、ステファヌ・マラルメ「最新流行(第八号)」『マラルメ全集(Ⅲ)』松室三郎・清水徹・渡辺守章・菅野昭正・阿部良雄編、筑摩書房、1998 年、160 頁。

[37] Schivelbusch, op. cit., p. 42. 邦訳、シヴェルブシュ、前掲書、59 頁。

[38] Ibid., p. 42. 邦訳、同前、57 頁。

[39] Ibid., p. 43. 邦訳、同前、60 頁。

[40] 例えば、原子力発電は、蒸気機関と同様に、そのエネルギー自体は天然自然に潜在しているとしても、人間にとって本来的自然ではなく、脱自然的な「近代技術」である。つまり、原子力発電は、本質的に人間にとって同質で正常なものではなく、異質で異常なものである。この認識こそ、2011 年 3 月 11 日に発生した福島第一原子力発電所事故以後、私達がエネルギー問題を考える際の立脚点とすべきではないだろうか?

 

【初出】秋丸知貴「ヴァルター・ベンヤミンの『感覚的知覚の正常な範囲の外側』の問題について」『哲学の探究』第40号、哲学若手研究者フォーラム、2013年、199‐214頁。ただし、本書再録に当たり加筆修正している。なお、初出は、2010年度から2021年度にかけて筆者が連携研究員として研究代表を務めた、京都大学こころの未来研究センター連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究成果の一部である。

 

【関連論考】

■ 秋丸知貴『近代とは何か?――抽象絵画の思想史的研究』
序論 「象徴形式」の美学
第1章 「自然」概念の変遷
第2章 「象徴形式」としての一点透視遠近法
第3章 「芸術」概念の変遷
第4章 抽象絵画における形式主義と神秘主義
第5章 自然的環境から近代技術的環境へ
第6章 抽象絵画における機械主義
第7章 スーパーフラットとヤオヨロイズム

■ 秋丸知貴『美とアウラ――ヴァルター・ベンヤミンの美学』
第1章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念について
第2章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラの凋落」概念について
第3章 ヴァルター・ベンヤミンの「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の問題について
第4章 ヴァルター・ベンヤミンの芸術美学――「自然との関係における美」と「歴史との関係における美」
第5章 ヴァルター・ベンヤミンの複製美学――「複製技術時代の芸術作品」再考

■ 秋丸知貴『近代絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに』
序論 近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究
第1章 近代絵画と近代技術
第2章 印象派と大都市群集
第3章 セザンヌと蒸気鉄道
第4章 フォーヴィズムと自動車
第5章 「象徴形式」としてのキュビズム
第6章 近代絵画と飛行機
第7章 近代絵画とガラス建築(1)――印象派を中心に
第8章 近代絵画とガラス建築(2)――キュビズムを中心に
第9章 近代絵画と近代照明(1)――フォーヴィズムを中心に
第10章 近代絵画と近代照明(2)――抽象絵画を中心に
第11章 近代絵画と写真(1)――象徴派を中心に
第12章 近代絵画と写真(2)――エドゥアール・マネ、印象派を中心に
第13章 近代絵画と写真(3)――後印象派、新印象派を中心に
第14章 近代絵画と写真(4)――フォーヴィズム、キュビズムを中心に
第15章 抽象絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに

著者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美学者・美術史家・キュレーター。1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。2013年に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日〜2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto〔虚白院 内〕、会期:2015年3月7日〜2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院〔建仁寺塔頭〕、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日~2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:掌美術館、会期:2022年3月3日~2022年5月6日)等。2023年に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)出版。

2010年4月-2012年3月: 京都大学こころの未来研究センター連携研究員
2011年4月-2013年3月: 京都大学地域研究統合情報センター共同研究員
2011年4月-2016年3月: 京都大学こころの未来研究センター共同研究員
2016年4月-: 滋賀医科大学非常勤講師
2017年4月-2024年3月: 上智大学グリーフケア研究所非常勤講師
2020年4月-2023年3月: 上智大学グリーフケア研究所特別研究員
2021年4月-2024年3月: 京都ノートルダム女子大学非常勤講師
2022年4月-: 京都芸術大学非常勤講師

【投稿予定】

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第14章 近代絵画と写真(4)――フォーヴィズム、キュビズムを中心に
第15章 抽象絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに

■ 秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道 補遺』
第1章 ポール・セザンヌの生涯と作品――19世紀後半のフランス画壇の歩みを背景に
第2章 ポール・セザンヌの中心点(1)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第3章 ポール・セザンヌの中心点(2)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第4章 ポール・セザンヌと写真――近代絵画における写真の影響の一側面

■ Tomoki Akimaru Cézanne and the Railway
Cézanne and the Railway (1): A Transformation of Visual Perception in the 19th Century
Cézanne and the Railway (2): The Earliest Railway Painting Among the French Impressionists
Cézanne and the Railway (3): His Railway Subjects in Aix-en-Provence

■ 秋丸知貴『岸田劉生と東京――近代日本絵画におけるリアリズムの凋落』
序論 日本人と写実表現
第1章 岸田吟香と近代日本洋画――洋画家岸田劉生の誕生
第2章 岸田劉生の写実回帰 ――大正期の細密描写
第3章 岸田劉生の東洋回帰――反西洋的近代化
第4章 日本における近代化の精神構造
第5章 岸田劉生と東京

■ 秋丸知貴『〈もの派〉の根源――現代日本美術における伝統的感受性』
第1章 関根伸夫《位相-大地》論――観念性から実在性へ
第2章 現代日本美術における自然観――関根伸夫の《位相-大地》(1968年)から《空相-黒》(1978年)への展開を中心に
第3章 Qui sommes-nous? ――小清水漸の1966年から1970年の芸術活動の考察
第4章 現代日本美術における土着性――小清水漸の《垂線》(1969年)から《表面から表面へ-モニュメンタリティー》(1974年)への展開を中心に
第5章 現代日本彫刻における土着性――小清水漸の《a tetrahedron-鋳鉄》(1974年)から「作業台」シリーズへの展開を中心に

■ 秋丸知貴『藤井湧泉論――知られざる現代京都の超絶水墨画家』
第1章 藤井湧泉(黄稚)――中国と日本の美的昇華
第2章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(前編)
第3章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(中編)
第4章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(後編)
第5章 藤井湧泉と京都の禅宗寺院――一休寺・相国寺・金閣寺・林光院・高台寺・圓徳院
第6章 藤井湧泉の《妖女赤夜行進図》――京都・高台寺で咲き誇る新時代の百鬼夜行図
第7章 藤井湧泉の《雲龍嘯虎襖絵》――兵庫・大蔵院に鳴り響く新時代の龍虎図(前編)
第8章 藤井湧泉の《雲龍嘯虎襖絵》――兵庫・大蔵院に鳴り響く新時代の龍虎図(後編)
第9章 藤井湧泉展――龍花春早・猫虎懶眠
第10章 藤井湧泉展――水墨雲龍・極彩猫虎
第11章 藤井湧泉展――龍虎花卉多吉祥
第12章 藤井湧泉展――ネコトラとアンパラレル・ワールド

■ 秋丸知貴『比較文化と比較芸術』
序論 比較の重要性
第1章 西洋と日本における自然観の比較
第2章 西洋と日本における宗教観の比較
第3章 西洋と日本における人間観の比較
第4章 西洋と日本における動物観の比較
第5章 西洋と日本における絵画観(画題)の比較
第6章 西洋と日本における絵画観(造形)の比較
第7章 西洋と日本における彫刻観の比較
第8章 西洋と日本における建築観の比較
第9章 西洋と日本における庭園観の比較
第10章 西洋と日本における料理観の比較
第11章 西洋と日本における文学観の比較
第12章 西洋と日本における演劇観の比較
第13章 西洋と日本における恋愛観の比較
第14章 西洋と日本における死生観の比較

■ 秋丸知貴『ケアとしての芸術』
第1章 グリーフケアとしての和歌――「辞世」を巡る考察を中心に
第2章 グリーフケアとしての芸道――オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』を手掛かりに
第3章 絵画制作におけるケアの基本構造――形式・内容・素材の観点から
第4章 絵画鑑賞におけるケアの基本構造――代弁と共感の観点から
第5章 フィンセント・ファン・ゴッホ論
第6章 エドヴァルト・ムンク論
第7章 草間彌生論
第8章 アウトサイダー・アート論

■ 秋丸知貴『芸術創造の死生学』
第1章 アンリ・エランベルジェの「創造の病い」概念について
第2章 ジークムント・フロイトの「昇華」概念について
第3章 カール・グスタフ・ユングの「個性化」概念について
第4章 エーリッヒ・ノイマンの「中心向性」概念について
第5章 エイブラハム・マズローの「至高体験」概念について
第6章 ミハイ・チクセントミハイの「フロー」概念について

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