『美とアウラ――ヴァルター・ベンヤミンの美学』第4章「ヴァルター・ベンヤミンの芸術美学――『自然との関係における美』と『歴史との関係における美』」秋丸知貴評

1 はじめに

ヴァルター・ベンヤミン (Walter Benjamin: 1892‐1940) は「複製技術時代の芸術作品」(一九三五‐三六 年成立)で、「写真による絵画の複製(1)」を始めとして、「芸術作品が技術的に複製可能な時代に衰退するもの、それは芸術作品のアウラ (Aura) である(2)」と言っている。それでは、この複製技術時代に衰退する芸術作品の「アウラ」とは一体何だろうか?

この問題については、従来様々な解釈が提出されてきた。典型的なものとして、多木浩二は 『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(二〇〇〇年)で「アウラ」を心的な現象として次のように述べている。

ベンヤミンは複製技術によって消滅する心的な現象を、包括的に「アウラ」と呼ぶことになる。ここで私は「心的な現象」といったが、ベンヤミンは「アウラ」という言葉で、事物の権威、事物に伝えられている重みを総括したのである。従来の芸術作品にそなわる、ある雰囲気である(3)。

多木は続けて、この場合の「アウラ」とは芸術作品を芸術作品として成立させている社会制度上の性質であると考えている。

多くの人はベンヤミンが多少とも曖昧にしていたこともあって「アウラ」を対象に備わる性質のように受け取っている。「アウラ」とは、芸術が芸術として存在していることの謎のようなもので、そのかぎりでは対象から発散するともいえる。しかし、アウラを感じうるかどうかは社会的な条件に依存するから、われわれが集団内で芸術に抱く信念というほうが妥当である。ここではむしろわれわれが芸術文化にたいして抱く一種の共同幻想として考えておこう(4)。

しかし、このように「アウラ」を「心的な現象」としての「集団内で芸術に抱く信念」や「芸術文化にたいして抱く一種の共同幻想」としてだけ捉える解釈は、間違いとは言えないまでも不十分である。なぜなら、ベンヤミンが他の個所で明記している「アウラ」の事例とはうまく整合しないからである。

例えば、ベンヤミンは  『ハシッシについて』(一九七二年)所収の一九二八年付の「ヴァルター・ベンヤミン:二度目のハシッシ吸引後の主症状」で、「アウラ」について次のように書いている。

ブロッホは、私の膝にそっと触ろうとした。その接触は、まだ指先が触れるずっと前から私には知覚され、私はそれを自分のアウラへの極めて不快な侵犯と感じていた(5)。

また、ベンヤミンは同書所収の 「一九三〇 年三月初旬のハシッシ」でも次のように記している。

第一に、真のアウラは、全ての物に現れる。人々が思い込んでいるように、特定の物にだけ現れるのではない。第二に、アウラは、物が行うあらゆる運動――それがその物のアウラなのだが――に伴い、完全に根底から変化する。第三に、真のアウラは、通俗的神秘主義の書物が図解したり描写したりするような、ピカピカした心霊術的な魔法の発光とは全く考えられない。むしろ、顕在的なものが真のアウラである。つまり、装飾的なもの、物や存在が包まれたように固く縫い込められた装飾模様、そこに真のアウラがある(6)。

これらのベンヤミン自身の記述から、「アウラ」は単なる「心的な現象」に留まらずに「対象に備わる性質」としても解すべきことが分かる。また、「アウラ」は単なる「集団内で芸術に抱く信念」や「芸術文化にたいして抱く一種の共同幻想」に留まらずに、「特定の物にだけ現れるのではな」く「全ての物に現れる」ものとして考えるべきことが分かる。

もちろん、多木が「多少とも曖昧にしていた」と批判するように、ベンヤミン自身が「アウラ」概念について十全に明確な定義を行っていないという問題がある。しかし、そうした制約を十分に認識した上で、本稿はベンヤミンの「ボードレールにおける幾つかの主題について」(一九三九年)における「自然との関係における美」と「歴史との関係における美」という二つの概念を手掛かりに、原文に即してできるだけ彼の「アウラ」概念とそれに基づく美学を再構成する。そして、ベンヤミンが先駆的に指摘した複製技術時代に衰退する芸術作品の「アウラ」について一つの読解を提示する。

2 アウラとは何か?

それでは、ベンヤミンの言う「アウラ」とは一体何だろうか?

「アウラ」について、ベンヤミンは「写真小史」(一九三一年)で次のように述べている。「アウラとは一体何か? 空間と時間からなる一つの奇妙な織物である。つまり、どれほど近くにあろうとも、ある遠さの一回的な現れである。安らかな夏の真昼、地平に連なる山並を、あるいは見つめている者に影を落としている木枝を、瞬間あるいは時間がそれらの現れに関与するまで、目で追うこと――これが、この山々のアウラを、この木枝のアウラを呼吸することである(7)」。

また、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」でも次のように繰り返している。「アウラとは一体何か? 空間と時間からなる一つの奇妙な織物である。つまり、どれほど近くにあろうとも、ある遠さの一回的な現れである。安らかな夏の午後、地平に連なる山並を、あるいは安らかにしている者に影を落としている木枝を、目で追うこと――これが、この山々のアウラを、この木枝のアウラを呼吸することである(8)」。

これらの記述から、「アウラ」とは、「空間」と「時間」に関わる「ある遠さの一回的な現れ」であることが分かる。また、この場合の「ある遠さ」とは、「どれほど近くにあろうとも」現れる以上、「空間」的距離ではなく「時間」的距離と解せる。つまり、まずこの「空間と時間からなる一つの奇妙な織物」という「ある遠さの一回的な現れ」としての「アウラ」は、物がその成立以来その存在する「空間」で蓄積してきた唯一無二の「時間」と解釈できる。なお、この場合の物には主体と客体の両方が含まれる。

また、「見つめている者」に「影を落としている木枝」を「目で追うこと」が「この木枝のアウラを呼吸すること」である以上、主体が客体の「アウラを呼吸する」時には、まず主体と客体が「いま・ここ」に共に存在すること、すなわち同一の時間・空間上に直接的に現存することが前提と考えられる。そして、物の「アウラを呼吸すること」が、「瞬間あるいは時間」が「それらの現れに関与する」まで「目で追うこと」である以上、主体が客体の「アウラを呼吸する」際には、同一の「空間」上で、主体が、自ら蓄積してきた「時間」の延長上で、客体を、それがこれまで蓄積してきた「時間」を背景に知覚することが条件と想像される。

それでは、こうした蓄積的「時間」としての「アウラ」の内容は具体的には一体どのようなものだろうか?

この「アウラ」の問題について、ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で次のように触れている。「アウラの経験は、人間社会によく見られる反応形式が、無生物あるいは自然と人間の関係に転用されることに基づいている(9)」。

また、ベンヤミンは「セントラルパーク」(一九三九 年)で次のように言及している。「アウラの概念を、人間同士の社会的経験が自然に投影されたものとして流用すること。つまり、まなざしが返される(10)」。

これらの描写から、「アウラ」の経験は、「人間」と「人間」の関係における「反応形式」が概念上の基本であり、さらにそれが「無生物」あるいは「自然」と「人間」の関係に転用されうることが分かる。そして、そこには「まなざし」という視覚的問題が関わっていると推測できる。

これに関連して、視覚に関わる「アウラ」について、ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で次のように書いている。「見つめられている者、あるいは見つめられていると思っている者は、まなざしを開く。ある現れのアウラを経験するとは、その現れにまなざしを開く能力を授与することである(11)」。

また、ベンヤミンは同じ文章で次のように記している。「まなざしには、自分がまなざしを送るものからまなざしを送り返されたいという期待が内在する。この期待(これは、言葉の単純な意味におけるまなざしと同様に、思考における注意という志向的まなざしにも付随しうる)が応えられる所では、まなざしには充実したアウラの経験が与えられる(12)」。

これらの説明から、ベンヤミンの「まなざし」は、意識における志向的注意そのものを指すと解せる。従って、特に視覚の場合、「まなざし」とは単に目に入ることではなく、意識を持続的に集中して見ること、つまり、見つめること、注視、観察等を意味すると解釈できる。

ベンヤミンによれば、主体が客体を「見つめる」時に客体が「まなざしを開く」ならば、主体は客体の「アウラ」を充実的に経験できる。この場合の「まなざしを開く」とは、その能力が別の個所で「まなざしを送り返す能力(13)」と換言されている以上、まず主体が客体に「まなざしを送る」際に客体が主体に「まなざしを送り返す」ことと判読できる。

ここで、客体が「見つめる者」になり、主体が「見つめられている者」になるならば、主体もまた客体に「まなざしを送り返す」ことになる。すなわち、ここでは相互の注視により相互の注視が惹起され続ける相互反応が生じることになる。言い換えれば、これは同一の時間・空間上に存在する主体と客体の間における、相互の作用により相互の反作用が喚起され続ける「相互作用」である。例えば、ベンヤミンは「運命と性格」(一九一九 年)で、主体と客体の「相互作用」について次のように記述している。「作用する人間と外的世界の間では、むしろ全てが相互作用であり、両者の作用圏は相互に行き合っている(14)」。

そして、「アウラ」とは、この「相互作用」による物の変化と解せる。また、この変化が「時間」的に蓄積された総体も「アウラ」と解釈できる。つまり、「アウラ」とは、物がその誕生以来持続的経験体として備蓄してきた固有の付加的変化全てと理解できる。そうであれば、「アウラの経験」(アウラを呼吸すること)とは、共に変化の「時間」的蓄積の総体に被われた主体と客体が、同一の時間・空間上で「相互作用」しつつ、その変化がさらに双方の変化の「時間」的蓄積の総体に更新され続ける経験と解釈できる。

こうした「アウラ」を生み出す「相互作用」は、「まなざし」等の視覚的語彙を比喩と捉えれば、相手が無生物の場合でも成立しうる。事実、ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、視覚以外の感覚がもたらす「アウラ」について次のように示唆している。「無意志的記憶に定住しつつある観察対象の周りに集まろうとする諸表象をこの対象のアウラと呼ぶならば、その観察対象にまつわるアウラは、ある使用対象に熟練として沈積する経験に正に対応する(15)」。

ここで、「ある使用対象に熟練として沈積する経験」が「アウラ」と対応するならば、当然「アウラ」を生み出す「相互作用」は視覚だけに限定されるとは考えられない。すなわち、この「相互作用」には、視覚のみならず、触覚・聴覚・嗅覚・味覚の五感全てが関係すると想定できる。

それでは、こうした「相互作用」による変化の内実は具体的には一体どのようなものだろうか?

それは、まず生物の場合には、主体が客体を見つめる時に客体が主体を見つめ返す等の意識的反応の変化である。また、生物でも無生物でも、主体が客体に接触する時に両者に生じる物質的構造の変化も考えられる。そして、主体と客体が同一の時間・空間上に存在する際に、その相互関与に応じて各々に備わる歴史的証言性もこうした変化に含めうる。実際に、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で、次の特徴を「アウラの概念(16)」にまとめている。「ある物の真正性は、その物質的存続から歴史的証言性まで、根源から伝達されうる全ての総体である(17)」。

物は、それが存在し始めた原初から、その存在する場所で、同一の時間・空間上に存在する他の物と絶えず「相互作用」を行う。そして、その「相互作用」による変化は、「時間」的蓄積としてそれぞれの物に堆積していく。もし、その主体が生物であれば、客体に対する注意の度合が高ければ高いほど、またそこで発揮される五感の度合が高ければ高いほど、相手に対する情動の密度も上昇し、相互に被る心理的・物理的変化、つまり「アウラ」もまた濃密に増加することになる。

以上のことから、「アウラ」とは、対象が被る変化及びその時間的全蓄積と読解できる。また、同一の時空間上の主体が客体のアウラを注意(=意識の持続的集中)して知覚することを「アウラ的知覚」、その際に主体と客体が相互作用により相互にアウラを更新し続ける関係を「アウラ的関係」と定義できる。

3 美とアウラ

以上の「アウラ」概念の読解を基に、ベンヤミンの美学を見ていこう。ベンヤミンは、美とアウラを密接に関係付けている。

まず、ベンヤミンは「セントラルパーク」で、「仮象の喪失とアウラの凋落は同一の現象である(18)」と言っている。これにより、「仮象」と「アウラ」はほぼ同義と分かる。

また、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で、「古代の芸術観」以来「美学理論」において「継承されてきた経験の基盤」が「アウラ」であり、「美的仮象の意義は、今や終焉に近付いているアウラ的知覚の時代において基礎付けられた」とし、そのアウラ的知覚の時代の芸術家である「ゲーテの創作には、アウラ的事実としての美的仮象がまだ完全に満ちている」と述べている(19)。このことから、「アウラ」や「仮象」は「美」と関係すると解せる。

さらに、ベンヤミンは「ゲーテの  『親和力』 」(一九二二年)で、「仮象は被いとして美に属しているので、美は被われているものにおいてのみ現れるということが美の基本原理であることが明らかになる(20)」とし、「被いも被われる対象も美ではなく、美は被いの内にある対象である(21)」と告げている。これにより、「仮象」は「被い」と換言でき、「美」自体が「仮象」なのではなく、「対象」が「仮象」としての「アウラ」に被われた状態が「美」であると解釈できる。

その上で、ベンヤミンは 『ドイツ悲劇の根源』(一九二八 年)で、自然の美について次のように語っている。「地質学者、植物学者は、美しい風景の感受性を呼び覚ますことが十分にできる。それどころか、構造を通して細部の生命を少なくとも気付くほどには把握することがなければ、美への傾向は全て夢幻に留まる。構造と細部は、結局のところ常に歴史的内実を宿している(22)」。このことから、自然の「対象」が、変化の時間的全蓄積としての「歴史的内実」、つまり「仮象」としての「アウラ」に被われている状態を、「構造を通して細部の生命を少なくとも気付くほどには把握する」アウラ的知覚で見つめた時に、その自然の「美」が感受されると理解できる。

さらに、ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、芸術の美について次のように話している。「芸術の価値として現れ(23)」る「美は、自然との関係と、歴史との関係という、二通りで定義可能である。どちらの関連においても、仮象、つまり美におけるアポリア的なものが効果を発揮するだろう(24)」。これにより、芸術の美は「自然との関係における美」と「歴史との関係における美」の二種類あり、どちらも「仮象」としての「アウラ」と関係していると推測できる。

そして、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で、「対象をその被いから取り出すこと、アウラを崩壊させることは、ある知覚の特徴である(25)」と断じている。このことから、ベンヤミンは「アウラ的知覚」とは異なる「ある知覚」が複製技術によりもたらされ、それにより美的状態として一体であった「対象」とその「被い」である「仮象」としての「アウラ」が分離されることを「アウラの凋落」と見なしていると推定できる。

4 自然との関係における美

それでは、芸術作品における「自然との関係における美」について見てみよう。この議論は、主にベンヤミンの制作美学と捉えられる。

ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、「自然との関係における美」について次のように考察している。「自然との関係における美は、 『被いの下でのみ本質的に自己自身と同一であり続ける』 ものと定義できる。万物照応は、そうした被いの下にある状態について考える際に示唆を与えてくれる。この被いを、もちろん大胆に省略した言い方だが、芸術作品における 『摸写』 と呼んでも良い。万物照応は、芸術の対象は忠実に摸写されるべきだが、それによりどこまでもアポリア的であることを見出す審判の場を打ち立てる(26)」。ここで言う「万物照応」は、「アウラ的関係」を意味すると解せる。

また、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で、「全ての芸術活動の原現象としての摸倣(27)」に言及し、「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、自然との関係における「美」を「似ている状態における経験の対象」と定義している(28)。従って、芸術作品における「自然との関係における美」は、「万物照応」としての「アウラ的関係」の「経験」に基づき、「アウラ」に被われた自然の「対象」を、主体が「芸術活動」を通じて「摸倣」的に似せた「摸写」に感じられると解釈できる。

ここで注意すべきは、ベンヤミンは「知覚について」(一九一七 年)で、「もし一人の画家がある風景の前に座り、その風景をいわゆる写生する場合、この風景自体が彼の絵画の上に現れることはない(29)」と述べている問題である。これにより、ベンヤミンは、画家が自然の「風景」を芸術作品としての「絵画」に摸写的に「写生」する場合、描かれた絵画上の風景は元の自然の風景とは別物になると考えていることが分かる。

また、ベンヤミンは「翻訳者の使命」(一九二一年)で、「現実の摸写における場合、認識にはいかなる客観性もありえず、客観性を主張する権利すらない(30)」と説いている。このことから、ベンヤミンは、対象の「摸写」には必ず主観的解釈が含まれると考えていると察せられる。

これに関連して、ベンヤミンは「物語作者」(一九三六年)で、ヴァレリーの「コローを巡って」(一九三二年)を引用しつつ、絵画について次のように論じている。「 『芸術家の観察は、ほとんど神秘的な深みに達しうる。そうした観察が向けられる対象は、その名を失う。つまり、影と光が全く特殊な体系を形作り、全く独特な問題を提示する。この問題は、いかなる学問も必須とせず、またいかなる特訓にも由来せず、専らある特定の調和から存在と価値を見出す。その調和は、自らの内でそれを理解しつつ呼び起こせるように生れ付いた人の心と目と手の間に生れるものである』。これらの言葉は、心と目と手を同じ一つの連関に入れている。それらは、相互作用しつつ一つの営みを決定する(31)」。このことから、ベンヤミンは、アウラ的知覚による「観察」に基づき画家が対象を「摸写」する時には、対象を「目」で見た主体の「心」の意識的反応の変化、つまり情動による主観的解釈という「アウラ」が、「手」を通じて絵画に現れると考えていると推察できる。

事実、ベンヤミンは 「一九三〇年三月初旬のハシッシ」で、絵画に関して次のように評している。「多分、晩年のファン・ゴッホの絵画ほど真のアウラについてその適切な概念を与えてくれるものはあるまい。そこでは、あらゆる対象と共に ――それらの絵画をこう記述しうる――アウラが描かれている(32)」。ここで、「晩年のファン・ゴッホの絵画」が客観的な対象を描いていても画家の情動による主観的解釈に満ちていることから、やはりベンヤミンは、対象を「目」で見た主体の「心」の情動による主観的解釈という「アウラ」が、「手」を通じて絵画に現れるという芸術活動上の作用連関を考えていると確かめられる(図1)。

 

図 1 フィンセント・ファン・ゴッホ《カラスのいる麦畑》1890 年

 

これらのことから、芸術作品における「自然との関係における美」を構成する「仮象」は、自然物に対する制作者の「情動による主観的解釈」という「アウラ」であり、その場合の芸術美は、摸写する自然美に加味される制作者の生に基づく主観的な個性美と読み解ける。

ここで留意すべきは、この作用連関はさらにその絵画を「手」作業で別の絵画に「摸写」した場合にも反復される問題である(なお、「手」作業による「摸写」という点では版画でも事情は同じである)。つまり、手製複製には必ず摸写者の情動による主観的解釈が混入するので元の対象と全く同一にはなりえない。もちろん、手製複製にも芸術美は認められるはずであるが、手製複製はオリジナル作品の摸造である限りは偽造品に留まらざるをえない。事実、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で手製摸写について次のように説明している。「真正なものは、手製複製に対してはその権威を完全に保持し、手製複製に偽造品という烙印を押してきたのだが、技術的複製に対してはそうはいかない(33)」。

この手製複製に対し、絵画を「技術的複製」つまり「写真」等の複製技術で複製した場合には事態は異なる。なぜなら、「写真」は化学反応により対象を客観的に現像するからである。実際に、ベンヤミンは「パリ――一九世紀の首都」(一九三五年)で、「絵画」の主観性と「写真」の客観性について次のように解説している。「新しい技術的・社会的な現実に直面する中で、絵画や版画の情報における主観的要素が疑わしく感じられて来れば来るほど、カメラレンズの意義は大きくなる(34)」。

また、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で、「写真」複製における「手」作業の消失を次のように分析している。「写真と共に、初めて手が画像の複製過程における最も重要な芸術上の責務から解放され、その責務はただ目だけに課せられることになった(35)」。

つまり、絵画では、「アウラ」に被われた自然の「対象」の美を「手」作業で「摸写」する場合には、その自然美はそれを「目」で見た画家の「心」の情動による主観的解釈が「アウラ」として付け加わりつつ絵画上に再現される。これにより、鑑賞者はその絵画に、元の対象の自然美も、画家が付加した芸術美も感じることになる。

この自然美や芸術美がそれぞれ「仮象」としての「アウラ」つまり変化の時間的全蓄積を必須の構成要素としている以上、鑑賞者がアウラ的知覚により絵画を鑑賞する際には、その絵画の美には悠久の時間的深奥が感じられることになる。この事情は、絵画をさらに「手」作業で別の絵画や版画に「摸写」した場合も同様である。

しかし、自然物を写真で複製した場合、また絵画を「写真」で複製した場合は、芸術活動上の作用連関における「手」作業が欠けるため、対象を「目」で見た主体の「心」の情動による主観的解釈という「アウラ」はその写真複製には現れない。ここにまず、「芸術作品のアウラ」は衰退する。

これらのことを、ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で次のように要約している。「以上のような形で現れてきている芸術的再現の危機は、知覚自体におけるある危機の重要な一部として論じることができる。〔…〕 芸術が美を目指し、たとえどれほど簡素であれ美を 『再現』 する限りは、芸術は美を(ファウストが美女ヘレナをそうするように)時間の深奥から呼び出す。これは、技術的複製ではもはや生じない(36)」。

5 歴史との関係における美

次に、芸術作品における「歴史との関係における美」について見てみよう。この議論は、主にベンヤミンの鑑賞美学と捉えられる。

ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、「歴史との関係における美」について次のように洞察している。「美は、その歴史的な存在態としては、以前にそれを賞賛した人々の方へ集まれという呼び声である。美に感動させられることは、より多くの人々がいるところへ行くことである 〔…〕。この定義においては、美における仮象は、賞賛者が惹かれる対象自体は当の作品の中には見出されないことを意味する。賞賛者が享受するのは、前世代がその作品において賞賛したものである(37)」。これにより、芸術作品の美を構成する「仮象」としての「アウラ」には、前節で述べた制作時における制作者の「情動による主観的解釈」の他に、制作後にその芸術作品に蓄積される「前世代の賞賛」という「歴史的証言性」もあると考えられる。

これに関連して、ベンヤミンは 『パサージュ論』 の「N 認識論に関して、進歩の理論」で、「高名で賞賛を博した芸術作品を享受することは、より多くの人々がいるところへ行くことである(38)」と記述している。

また、ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、プルーストの 『失われた時を求めて』 第七篇「見出された時」(一九二七年)の一節「彼等の意見では、史跡や絵画は、幾世紀もの間多くの賞賛者の愛と観想が織り成した柔らかいヴェールを被ってしか自らを現さないのである(39)」を引用している。

さらに、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で、「芸術愛好家が意識集中して芸術作品に接近(40)」し、「芸術作品」を「観想の対象」とし(41)、また「観照的沈潜の対象(42)」とする行為について、「芸術作品の前で意識集中する人は、芸術作品の中に自らを沈潜させる(43)」と叙述している。

そして、ベンヤミンは「一方通行路」(一九二六年)で、「繰り返し見つめられると、芸術作品は自らを高める(44)」と表現している。

これらにより、芸術作品の「歴史との関係における美」を構成する「仮象」つまり「アウラ」には、まず同一の時空間上で「接近」する鑑賞者の「意識集中」による「愛と観想」や「観照的沈潜」というアウラ的関係が織り成す、「前世代の賞賛」という「歴史的証言性」の変化の時間的全蓄積があると考えられる。

これに関連して、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で、「歴史」について次のように説明している。「どれほど完璧な複製でも、脱落するものが一つある。つまり、芸術作品の 『いま・ここ』 性 ――それが存在する場所におけるその一回的な存在態である。しかし、他ならぬこの一回的な存在態に即して、その芸術作品の歴史が作られ、その歴史に芸術作品は存続するあいだ従属してきたのである。時の経過において芸術作品の物質的構造が被る変化も、場合によっては生じる芸術作品の所有関係の変遷も、その歴史に属する(45)」。

ここで言う「所有関係の変遷」は「歴史的証言性」に対応し、「歴史」は実体的な「物質的構造が被る変化」と観念的な「歴史的証言性」の両方を含むことが分かる。そして、この「物質的構造が被る変化」と「歴史的証言性」の二つが、芸術作品の「歴史との関係における美」を構成する「仮象」つまり「アウラ」と考えられる。

これに加えて、物の「仮象上の外的歴史の詳細」について、ベンヤミンは「人形礼讃」(一九三〇年)で次のように解説している。「収集家にとっては、彼の収集物一つ一つの内に世界が現前している。それも秩序立った形で。ただし、その秩序は、ある思いがけない、それどころか俗人には理解不能な連関に従っている。しかし、次のことを想起しさえすれば良い。どの収集家にとっても、その収集物だけではなく、その収集物の過去全体もまた、どちらも重要であり、その過去には、その収集物の成立や即物的な状態に関する過去だけではなく、その収集物の仮象上の外的歴史の詳細、つまり前所有者や購入額や評価額等も含まれる。これら全てが、科学的な諸相も、それ以外の諸相も、真の収集家にとっては、彼の収集物一つ一つのどの内でも、一つの魔術的な百科事典へ、一つの世界秩序へと凝縮し、それらの概要が彼の収集物の運命である(46)」。

また、ベンヤミンは 『パサージュ論』 の「H 収集家」でも次のように反復している。「収集家にとっては、彼の収集物一つ一つの内に世界が現前しており、それも秩序立った形においてであることを知らねばならない。ただし、その秩序は、ある思いがけない、それどころか俗人には理解不能な連関に従っている。この連関は、事物の月並な配列や図示に対し、おおよそ自然の秩序に対する百科事典の秩序に相当する。しかし、次のことを想起しさえすれば良い。どの収集家にとっても、その収集物だけではなく、その収集物の過去全体もまた、どちらも重要であり、その過去には、その収集物の成立や即物的な状態に関する過去だけではなく、その収集物の仮象上の外的歴史の詳細、つまり前所有者や購入額や評価額等も含まれる。これら全てが、 『即物的な』 データも、それ以外のデータも、真の収集家にとっては、彼の収集物一つ一つのどの内でも、一つの全く魔術的な百科事典へ、一つの世界秩序へと凝縮し、それらの概要が彼の収集物の運命である(47)」。

ここで言う、物の「成立や即物的な状態」は「物質的構造が被る変化」に対応し、「前所有者や購入額や評価額」は「歴史的証言性」に対応すると解せる。また、ここで言う「科学的な諸相」や「 『即物的な』 データ」は「物質的構造が被る変化」に対応し、「それ以外の諸相」や「それ以外のデータ」は「歴史的証言性」に対応すると解釈できる。

これらのことから、芸術作品における「歴史との関係における美」を構成する「仮象」としての「アウラ」は、物の「成立や即物的な状態」等の「物質的構造が被る変化」と、「前世代の賞賛」や「所有関係の変遷」や「前所有者や購入額や評価額」等の「歴史的証言性」の両方と理解できる。そして、芸術作品が、それらの「仮象」、つまり前者の実体的な「物質的構造が被る変化」の時間的全蓄積としての「アウラ」や、後者の観念的な「歴史的証言性」の変化の時間的全蓄積としての「アウラ」に被われた状態もまた、その芸術作品の美と感受されるのだと読解できる。

これに対し、そうした芸術作品を「写真」で複製した場合には事態が変転する。つまり、写真の写像は元の対象の外観を支持体に光学的に転写した化学的現像に過ぎないので、元の対象の物質性は欠ける。従って、写像にはその原物の物質性に基づく「物質的構造が被る変化」の時間的全蓄積としての「アウラ」は欠落する。このことを、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で、「物質的構造の変化の痕跡は、化学的あるいは物理学的分析によってのみ明らかになるが、このような分析は複製には適用できない(48)」と評述している。

そして、ベンヤミンによれば、原物の物質性が欠落した写真複製においては、「物質的構造が被る変化」のみならず「歴史的証言性」の変化の時間的全蓄積としての「アウラ」も曖昧になる。なぜなら、原理上、原物の「歴史的証言性」は原物の物質性に基づいて宿るからである。このことを、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で、「ある物の真正性は、その物質的存続から歴史的証言性まで、根源から伝達されうる全ての総体である。歴史的証言性は物質的存続に基づいているから、原物の物質的存続が人間から離別する複製では、その原物の歴史的証言性も人間から離別する。つまり、その原物の歴史的証言性は揺らぎ出す。揺らぎ出すのは、歴史的証言性だけである。しかし、そのようにして揺らぎ出すもの、それはその原物の権威、その伝統的な重みである(49)」と評釈している。

すなわち、芸術作品を「写真」で複製した場合には、その元の芸術作品の物質性が欠如するため、その物質性に痕跡として残る「物質的構造の被る変化」の時間的全蓄積としての「アウラ」や、その物質性に基づく「歴史的証言性」の変化の時間的全蓄積としての「アウラ」は、その写真複製には実在しないことになる。ここでもまた、「芸術作品のアウラ」は衰退する。

6 おわりに

ベンヤミンは、「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、「技術的複製において美はいかなる居場所も有していない(50)」と注釈している。これは、本稿で見たように、写真を始めとする技術的複製においては制作面でも鑑賞面でも「芸術作品のアウラ」が衰退し、「自然との関係における美」も「歴史との関係における美」も存立の基盤を失うことを主張していると判読できる。

しかし、写真でも、単に「目」だけではなく、カメラのフレーミング、絞りやシャッタースピードによる露光の調整、シャッターチャンスの選択等の「手」作業により主体の「心」は画面に反映しうるので、自然風景等の写真はもちろん、絵画の写真複製にさえも、制作者の情動による主観的解釈という「アウラ」を構成要素とする「自然との関係における美」は成立するのではないかという疑問は残る。

また、写真でも、固定的な表層イメージという点では限定的で深みが欠けるとしても、一定程度は元の対象の自然美や芸術美が写像に再現されうるので、「技術的複製において美はいかなる居場所も有していない」という断言にも疑問の余地がある。

こうした疑問については、ベンヤミン自身がその著述において厳密な説明や概念規定を行っておらず、様々な議論の位相の違いも明晰に整理していないので、論理上完全に解決することは不可能である。しかし、重要なことは、ベンヤミンの論述方法の問題点を事細かにあげつらったり、あるいはその逆にその詩的・衒学的飛躍を盲信的に絶対化したりすることではなく、そこで提出された様々な重要な主題や価値ある着眼点を、私達が現在直面しているより高度に進展した複製技術環境を分析するための思考の最初の手掛かりとして活用することではないだろうか(51)。

本稿は、そうした観点から、非常に有益な示唆に富むにもかかわらず従来十分には注目されてこなかった、ベンヤミンの二つの美学概念である「自然との関係における美」と「歴史との関係における美」の重要性を改めて指摘したい。

 

註 

引用は全て、邦訳を参考にさせていただいた上で拙訳している。

(1)Walter Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit [Zweite Fassung] ” (1935-36), in Gesammelte Schriften, VII (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1989, S. 364. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」 『ベンヤミン・コレクション (1)』 浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995年、604頁。(本稿におけるこの著作からの引用は、全てこの第二版を用いる。)

(2)Ebd., S. 353. 邦訳、同前、590 頁。

(3)多木浩二 『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』 岩波現代文庫、2000 年、46 頁。

(4)同前、46‐47 頁。

(5)Walter Benjamin, Über Haschisch: Novellistisches, Berichte, Materialien, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1972, S. 73. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン 『陶酔論』 飯吉光夫訳、晶文社、1992年、100頁。

(6)Ebd., S. 107. 邦訳、同前、143‐144 頁。

(7)Walter Benjamin, “Kleine Geschichte der Photographie” (1931), in Gesammelte Schriften, II (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1977; Zweite Auflage, 1989, S. 378. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」 『ベンヤミン・コレクション (1)』 浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995年、570 頁。

(8)Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit”, S. 355. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」592 頁。

(9)Walter Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire” (1939), in Gesammelte Schriften, I (2), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1974; Dritte Auflage, 1990, S. 646. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」 『ベンヤミン・コレクション (1)』 浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995 年、470 頁。

(10)Walter Benjamin, “Zentralpark” (1939), in Gesammelte Schriften, I (2), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1974; Dritte Auflage, 1990, S. 670. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「セントラルパーク」 『ベンヤミン・コレクション (1)』 浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995 年、381 頁。

(11)Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire”, S. 646-647. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」470 頁。

(12)Ebd., S. 646. 邦訳、同前、470 頁。

(13)Ebd., S. 647. 邦訳、同前、471 頁。

(14)Walter Benjamin, “Schicksal und Charakter” (1919), in Gesammelte Schriften, II (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1977; Zweite Auflage, 1989, S. 173. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「運命と性格」 『ドイツ悲劇の根源(下)』 浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、1999 年、208 頁。

(15)Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire”, S. 644. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」467 頁。

(16)Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit”, S. 353. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」590 頁。

(17)Ebd., S. 353. 邦訳、同前、589 頁。

(18)Benjamin, “Zentralpark”, S. 670. 邦訳、ベンヤミン「セントラルパーク」381 頁。

(19)Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit”, S. 368. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」633 頁。

(20)Walter Benjamin, “Goethes Wahlverwandtschaften” (1922), in Gesammelte Schriften, I (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1974; Dritte Auflage, 1990, S. 194. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「ゲーテの 『親和力』 」 『ベンヤミン・コレクション (1)』 浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995 年、171 頁。

(21)Ebd., S. 195. 邦訳、同前、172 頁。

(22)Walter Benjamin, Ursprung des deutschen Trauerspiels (1928), in Gesammelte Schriften, I (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1974; Dritte Auflage, 1990, S. 358. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン 『ドイツ悲劇の根源(下)』 浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、1999年、61 頁。

(23)Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire”, S. 638. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」461 頁。

(24)Ebd., S. 638. 邦訳、同前、486 頁。

(25)Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit”, S. 355. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」593 頁。

(26)Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire”, S. 639. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」486 頁。

(27)Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit”, S. 368. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」634 頁。

(28)Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire”, S. 639. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」486 頁。

(29)Walter Benjamin, “Über die Wahrnehmung” (1917), in Gesammelte Schriften, VI, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1985; Zweite Auflage, 1986, S. 36. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「知覚について」 『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』 浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、2001 年、345 頁。

(30)Walter Benjamin, “Die Aufgabe des Übersetzers” (1921), in Gesammelte Schriften, IV (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1972; Sechstes Tausend, 1981, S. 12. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」 『ベンヤミン・コレクション (2)』 浅井健二郎編訳、三宅晶子・久保哲司・内村博信・西村龍一訳、ちくま学芸文庫、1996 年、395 頁。

(31)Walter Benjamin, “Der Erzähler” (1936), in Gesammelte Schriften, II (2), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1977; Zweite Auflage, 1989, S. 464. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「物語作者」 『ベンヤミン・コレクション (2)』 浅井健二郎編訳、三宅晶子・久保哲司・内村博信・西村龍一訳、ちくま学芸文庫、1996 年、332 頁。

(32)Benjamin, Über Haschisch, S. 107. 邦訳、ベンヤミン『陶酔論』144 頁。

(33)Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit”, S. 352. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」588頁。

(34)Walter Benjamin, “Paris, die Hauptstadt des XIX. Jahrhunderts” (1935), in Gesammelte Schriften, V (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1982; Dritte Auflage, 1989, S. 49. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「パリ――十九世紀の首都」 『ベンヤミン・コレクション (1)』 浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995 年、335 頁。

(35)Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit”, S. 351. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」587頁。

(36)Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire”, S. 645-646. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」469‐470 頁。

(37)Ebd., S. 638-639. 邦訳、同前、486 頁。

(38)Walter Benjamin, Das Passagen-Werk, in Gesammelte Schriften, V (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1982; Dritte Auflage, 1989, S. 588. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論(IV)』 今村仁司・大貫敦子・高橋順一・塚原史・三島憲一・村岡晋一・山本尤・横張誠・與謝野文子訳、岩波書店、1993年、37 頁。

(39)Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire”, S. 647. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」471 頁。

(40)Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit”, S. 380. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」624 頁。

(41)Ebd., S. 380. 邦訳、同前、624 頁。

(42)Ebd., S. 379. 邦訳、同前、622 頁。

(43)Ebd., S. 380. 邦訳、同前、624 頁。

(44)Walter Benjamin, “Einbahnstraße” (1926), in Gesammelte Schriften, IV (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1972; Sechstes Tausend, 1981, S. 108. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「一方通行路」 『ベンヤミン・コレクション (3)』 浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1997 年、61 頁。

(45)Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit”, S. 352. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」588 頁。

(46)Walter Benjamin, »Lob der Puppe« (1930), in: Gesammelte Schriften, III, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1972; Dritte Auflage, 1989, S. 216-217. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「人形礼讃」『ベンヤミン・コレクション(2)』浅井健二郎編訳、三宅晶子・久保哲司・内村博信・西村龍一訳、ちくま学芸文庫、一九九六年、七〇頁。

(47)Walter Benjamin, Das Passagen-Werk, in Gesammelte Schriften, V (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1982; Dritte Auflage, 1989, S. 274-275. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論(V)』 今村仁司・大貫敦子・高橋順一・塚原史・吉村和明・三島憲一・村岡晋一・山本尤・横張誠・與謝野文子・細見和之訳、岩波書店、1995 年、128‐129 頁。

(48)Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit”, S. 352. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」588 頁。

(49)Ebd., S. 353. 邦訳、同前、589‐590 頁。

(50)Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire”, S. 646. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」470頁。

(51)ベンヤミンが「アウラの凋落」として扱った問題を、「現存」という観点から論じているジョルジュ・フリードマンについては、拙稿「自然的環境から近代技術的環境へ」を参照。

 

【初出】秋丸知貴「ヴァルター・ベンヤミンの芸術美学――『自然との関係における美』と『歴史との関係における美』」『哲学の探求』第42号、哲学若手研究者フォーラム、2015年、43‐60頁。ただし、本書再録に当たり加筆修正している。なお、初出は、筆者が連携研究員として研究代表を務めた 2010 年度~ 2011 年度京都大学こころの未来研究センター連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究成果と連動する。

 

【関連論考】

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第1章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念について
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第15章 抽象絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに

著者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美学者・美術史家・キュレーター。1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。2013年に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日〜2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto〔虚白院 内〕、会期:2015年3月7日〜2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院〔建仁寺塔頭〕、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日~2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:掌美術館、会期:2022年3月3日~2022年5月6日)等。2023年に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)出版。

2010年4月-2012年3月: 京都大学こころの未来研究センター連携研究員
2011年4月-2013年3月: 京都大学地域研究統合情報センター共同研究員
2011年4月-2016年3月: 京都大学こころの未来研究センター共同研究員
2016年4月-: 滋賀医科大学非常勤講師
2017年4月-2024年3月: 上智大学グリーフケア研究所非常勤講師
2020年4月-2023年3月: 上智大学グリーフケア研究所特別研究員
2021年4月-2024年3月: 京都ノートルダム女子大学非常勤講師
2022年4月-: 京都芸術大学非常勤講師

【投稿予定】

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■ 秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道 補遺』
第1章 ポール・セザンヌの生涯と作品――19世紀後半のフランス画壇の歩みを背景に
第2章 ポール・セザンヌの中心点(1)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第3章 ポール・セザンヌの中心点(2)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第4章 ポール・セザンヌと写真――近代絵画における写真の影響の一側面

■ Tomoki Akimaru Cézanne and the Railway
Cézanne and the Railway (1): A Transformation of Visual Perception in the 19th Century
Cézanne and the Railway (2): The Earliest Railway Painting Among the French Impressionists
Cézanne and the Railway (3): His Railway Subjects in Aix-en-Provence

■ 秋丸知貴『岸田劉生と東京――近代日本絵画におけるリアリズムの凋落』
序論 日本人と写実表現
第1章 岸田吟香と近代日本洋画――洋画家岸田劉生の誕生
第2章 岸田劉生の写実回帰 ――大正期の細密描写
第3章 岸田劉生の東洋回帰――反西洋的近代化
第4章 日本における近代化の精神構造
第5章 岸田劉生と東京

■ 秋丸知貴『〈もの派〉の根源――現代日本美術における伝統的感受性』
第1章 関根伸夫《位相-大地》論――観念性から実在性へ
第2章 現代日本美術における自然観――関根伸夫の《位相-大地》(1968年)から《空相-黒》(1978年)への展開を中心に
第3章 Qui sommes-nous? ――小清水漸の1966年から1970年の芸術活動の考察
第4章 現代日本美術における土着性――小清水漸の《垂線》(1969年)から《表面から表面へ-モニュメンタリティー》(1974年)への展開を中心に
第5章 現代日本彫刻における土着性――小清水漸の《a tetrahedron-鋳鉄》(1974年)から「作業台」シリーズへの展開を中心に

■ 秋丸知貴『藤井湧泉論――知られざる現代京都の超絶水墨画家』
第1章 藤井湧泉(黄稚)――中国と日本の美的昇華
第2章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(前編)
第3章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(中編)
第4章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(後編)
第5章 藤井湧泉と京都の禅宗寺院――一休寺・相国寺・金閣寺・林光院・高台寺・圓徳院
第6章 藤井湧泉の《妖女赤夜行進図》――京都・高台寺で咲き誇る新時代の百鬼夜行図
第7章 藤井湧泉の《雲龍嘯虎襖絵》――兵庫・大蔵院に鳴り響く新時代の龍虎図(前編)
第8章 藤井湧泉の《雲龍嘯虎襖絵》――兵庫・大蔵院に鳴り響く新時代の龍虎図(後編)
第9章 藤井湧泉展――龍花春早・猫虎懶眠
第10章 藤井湧泉展――水墨雲龍・極彩猫虎
第11章 藤井湧泉展――龍虎花卉多吉祥
第12章 藤井湧泉展――ネコトラとアンパラレル・ワールド

■ 秋丸知貴『比較文化と比較芸術』
序論 比較の重要性
第1章 西洋と日本における自然観の比較
第2章 西洋と日本における宗教観の比較
第3章 西洋と日本における人間観の比較
第4章 西洋と日本における動物観の比較
第5章 西洋と日本における絵画観(画題)の比較
第6章 西洋と日本における絵画観(造形)の比較
第7章 西洋と日本における彫刻観の比較
第8章 西洋と日本における建築観の比較
第9章 西洋と日本における庭園観の比較
第10章 西洋と日本における料理観の比較
第11章 西洋と日本における文学観の比較
第12章 西洋と日本における演劇観の比較
第13章 西洋と日本における恋愛観の比較
第14章 西洋と日本における死生観の比較

■ 秋丸知貴『ケアとしての芸術』
第1章 グリーフケアとしての和歌――「辞世」を巡る考察を中心に
第2章 グリーフケアとしての芸道――オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』を手掛かりに
第3章 絵画制作におけるケアの基本構造――形式・内容・素材の観点から
第4章 絵画鑑賞におけるケアの基本構造――代弁と共感の観点から
第5章 フィンセント・ファン・ゴッホ論
第6章 エドヴァルト・ムンク論
第7章 草間彌生論
第8章 アウトサイダー・アート論

■ 秋丸知貴『芸術創造の死生学』
第1章 アンリ・エランベルジェの「創造の病い」概念について
第2章 ジークムント・フロイトの「昇華」概念について
第3章 カール・グスタフ・ユングの「個性化」概念について
第4章 エーリッヒ・ノイマンの「中心向性」概念について
第5章 エイブラハム・マズローの「至高体験」概念について
第6章 ミハイ・チクセントミハイの「フロー」概念について

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